悪霊

第十一部・去勢された帝国





【登場人物】
伊集院満枝…………………………北海道H市の地主の娘。川奈産業の大株主
安西小百合…………………………満枝とはI高等女学校の一年後輩。弘前に孤児院を開く
猪俣佐和子…………………………元党員。上海で工作運動に従事。活動名・胡梅梅
飯島貴代美…………………………元党中央委員。上海で工作運動に従事。活動名・馮芳芳
佳代…………………………………貧しい農家の娘。
イ・ヨヒ(李麗姫)………………元女性抗日パルチザン。満枝の協力者
ハン・エジャ(韓愛子)…………元玉ノ井の娼婦。日本での源氏名はまち子
外山澄江……………………………小百合の元同級生
篠原ヨシ……………………………伊集院家の元使用人
磯田悦子……………………………家出して小百合に救わる。孤児院職員
ソリ(素利)………………………李麗姫配下の女パルチザン
シヨン(是英)……………………李麗姫配下の女パルチザン
エギョン(愛敬)…………………李麗姫配下の女パルチザン
小沼健吾……………………………元伊集院家の小作人。左翼運動から転向して国家主義者に
宮様…………………………………陸軍少佐。天皇の次弟
石原大佐……………………………参謀本部作戦課長
磯村大尉……………………………蹶起した青年将校
香野大尉……………………………蹶起した青年将校
林原中尉……………………………蹶起した青年将校
山中大尉……………………………蹶起した青年将校
安藤大尉……………………………蹶起した青年将校
渋谷中尉……………………………宮様付きの将校
北一輝………………………………国家主義者
永田鉄山……………………………陸軍少将。陸軍省軍務局長
相沢三郎……………………………陸軍中佐
岡田啓介……………………………海軍大将、首相
松尾伝蔵……………………………岡田の義弟、私設秘書
鈴木貫太郎…………………………侍従長
鈴木たか……………………………その妻
牧野伸顕……………………………前内大臣
川島義之……………………………陸軍大臣
坂下知之……………………………皇道派の将軍
荒牧貞夫……………………………皇道派の将軍
毛沢東………………………………中華ソビエト政府主席
ケ小平………………………………支那共産党軍政治委員
【時・場所】
昭和九年(一九三四)六月〜十年七月。瑞金、モンゴル、東京、弘前、北海道、奈良





   T

 見渡すかぎりむきだしの黄土に被われた大地の地平線遙か彼方に、ぼんやりとした山脈が広がっていた。
 支那の東南、首都南京から南南西に約九百キロ、東支那海に面する大陸東岸から約四百キロ内陸に位置する江西省瑞金(ずいきん)は、「中華ソビエト(蘇維埃)共和国」という、一九三一年(昭和六)以来、この地を根拠地として周辺地域を支配している支那共産党が自称した国家の首都とされていた。四方を山に囲まれた盆地で、いまだ鉄道は通じておらず、自動車の通れる道路もなく、船を使っても四十キロ手前までしかいけない、隔絶された陸の孤島である。
「支那は広いなア」
 荒れた石ころだらけの道を、馬車の荷台で揺られながら、あぐらをかいて煙草を吹かしつつ、支那の貧しい農婦姿に身をやつした飯島貴代美(いいじま・きよみ)は、感嘆したように言った。
「進めど進めど、景色がちっとも変わンねえ」
「いっそ、すがすがしいわね」
 同じ農婦姿の猪俣佐和子(いのまた・さわこ)は、荷台の縁(へり)に背中をもたせかけ、つんだ草をかみながら頷いた。
「どこに行っても人だらけの日本とは違うわ」
 こういうところで活動していたら、考え方の幅も広がるんじゃないかしら。足の引っ張り合いに終始していた党中央委員の顔ぶれを思い出しながら、佐和子は呟いた。
「ああいう陰気で、こざかしい争いにはならないね」
 喜代美はそう答え、争いがあるのは同じだけど、と付け加えた。「そうなの?」と問い返す佐和子に、喜代美は言った。
「ロシアや支那じゃ、殺しちまうのサ」
「殺す?」
 目を丸くした佐和子に、喜代美は言った。政敵は徹底的に追いつめ、最後は命を奪うのが連中のやり方なンだ。だから権力闘争は激しいよ。なにせ負けたら死ぬしかないんだから。
「瑞金(ルイジン)!」
 馬をあやつっていた馭者が、前方を指さした。赤茶けた大地のところどころに、土壁の平家がぽつんぽつんと見え始めた。
「ファンイーフー(着替えてください)」
 馭者は、荷台の隅に置いてあるズダー袋を指した。薄青色の紅軍の制服が二着入っていた。紅軍とは、支那共産党配下の軍事組織の総称。飾り気のない軍服だが、共産主義を意味する赤い星(レッドスター)の帽章つき制帽が、少なくとも共産党が支配する地において外国人である喜代美と佐和子の身柄を保障するしるしとなるはずであった。
 がたがた揺れる荷台の上で、佐和子と貴代美は粗末な農衣を脱ぎ、腰まである詰め襟の綿入れ上衣にズボン、脚絆(きゃはん)に軍靴という、典型的な紅軍女性兵士に姿を替えた。
 一九三四年(昭和九)六月、二人は南京で、現地共産主義組織の指示に従い、日本総領事館書記生の誘拐を決行した。書記生は数日で解放したが、事件を契機として支那駐屯日本軍と、地元支那軍との間に軍事衝突が発生し、日に日に拡大しつつある。瑞金に成立した支那共産党政権から呼び出された二人は、混乱のさなかにある南京を離れ、はるばる陸路を旅してきたのである。
 ふと遠くから、銅鑼(どら)や、哨吶(スオナ)と呼ばれるチャルメラに似た楽器のにぎやかな響きが伝わってきた。しばらくすると、三角帽子を被せられた下着姿の男たちが十数人、数珠つなぎに縛られ、紅軍兵士たちにひきたてられてくるのが見えた。頬や額に殴られたあとが生々しく、生気のない顔でうつむいた彼らの周囲を、楽器を持った農民たちが囲んでいる。
「富農(フーノン)」
 馭者が説明した。この地を根拠地として三年、土豪劣紳(どごうれっしん)と呼ばれるかつての上流階級への弾圧は続いていた。革命を推進するにあたり、地主階級に過酷な税を課し、反抗すれば捕らえて極刑に処するというのは、レーニンの革命成功以来、ソ連政府が長年行ってきたことの模倣ではあったが、支那共産党は、この「弾圧」を下層人民向けのフェスティバルに昇華させていた。ある地域を共産党が押さえることを「解放」と自称するが、たとえ「解放」されても生活が楽にならず――あるいは以前より過酷になる――下層人民にとって、かつての上層階級の「弾圧」は、一種の気晴らしとして機能していたのだ。
 馬車は、富農を連行する行列と並んだ形で、瑞金市に入った。支那の主要な都市と同様、瑞金も城壁に囲まれた城郭都市である。
 城門をくぐってしばらく進むと、広場があった。古い支那の都市によく見られる宗廟に似ていた。氏族が祖先への祭祀を行う場だが、四隅に石造りの無骨なオベリスク(記念塔)が建てられ、共産主義的雰囲気をかもし出している。
 広場は、紅軍兵士の軍服を着た男女や、貧しい身なりの地元民でぎっしり埋め尽くされていた。中央には演壇が組まれ、壇上では若い女性兵士が握りしめた拳を振り回しながら演説している。馬車を降りた佐和子と貴代美は、馭者に導かれ、紅軍兵士の一団に混じった。
 やがて、連行されてきた富農たちが、演壇に上らされた。演説していた女性兵士は、彼ら一人ひとりを名指しし、罪名を読み上げた。彼らはファシストの国民政府と通じて反革命陰謀を企んでいる極悪人である……。女性兵士が声を張り上げるたびに、群衆はこれに呼応して叫び声をあげ、ありとあらゆる罵声を富農たちに浴びせた。
「悪人め、人民に謝罪しろ!」。女性兵士はそう怒鳴って、富農の襟首をつかんで額を演壇の床に押しつけた。群集はますます興奮し、さらに残酷な罰を与えるよう、女性兵士をあおった。それに応えて女性兵士は、平手打ちを浴びせたり、足首を蹴ったり、土下座させておいて後頭部を踏みつけたりした。
 すごい……。
 佐和子は、凝然と演壇上のセレモニーを見つめた。群集の罵声が脳裡に渦巻き、体中を興奮が駆け回っていた。
「やるねエ」
 傍らを見やると、貴代美は腕組みし、罪人たちを折檻する女性兵士を見ながら呟いていた。
 まだ二十歳にも届かないのではないか、女性兵士の幼い顔立ちは、彼女に逆らうこともできず辱められる年かさな罪人たちの惨めさを際立たせ、それが群集の興奮をいや増しているようであった。
「毛沢東っておっさん、よくわかってンじゃねーか」
 ふと佐和子は、演壇上の女性兵士と自分が、同じ紅軍の制服に身を包んでいるのに気づいた。佐和子は、女性兵士を見つめた。「罪人」を責め立てながら、頬を紅潮させ、唇を半ば開いたその面差しは、彼女が愉しんでいることを示していた。
 男の睾丸をさいなむとき、自分も同じ顔をしているのかしら……。
 そう思って佐和子は、周囲の群衆を見回した。佐和子や演壇上の女性兵士と同じ軍服に身を包み、憎悪でまなじりを引き裂くように見開き、喉もかれよとばかりに絶叫する女たち。彼女らもまた佐和子と同様、あの得も言われぬ陶酔に身を包ませているのだろうか。
 ふと、四方に向けて動いていた佐和子の視線が止まり、一点にそそがれた。ひときわ背が高い女性兵士が、握りしめた拳を天に突き上げて絶叫していた。その面立ちは、抜きんでて美しい。そして、絶叫しつつも彼女の眼差しは、ぞっとするほど冷静にさめていた。
 満枝(みつえ)さん――。
 佐和子の総身が硬直した。
 なぜ、こんなところに?。

「はるばる、よくぞいらしゃいました」
 案内されたのは、広場の北に聳える三階建てレンガ造りの「中華ソビエト中央政府」の一室だった。殺風景なむき出しのコンクリート壁に囲まれた狭い部屋には、粗末な木製の四角いテーブルと椅子が置かれている。椅子に並んで座った佐和子と貴代美の前に、詰め襟の中山服を着た党員らしい男が現れ、立ったまま、もうすぐ主席(ジャージュー)がお見えになります、と告げた。
「主席?」
 はい、同志毛主席(トォンヂィー・マオ・ジャージュー)です。男は短くそう答え、去っていった。
「お佐和ちゃん、どうしよう!」
 貴代美は、両手を胸の前で合わせて立ち上がり、昂奮して叫んだ。
「よりによって、毛主席だってサ! 信じられないよ!」
「う……うん」
 佐和子は座ったまま頷いた。
 彼女の脳裡には、さきほど見た「公開処刑」の残像がこびりついていた。十数人の富農たちは、女性兵士によってさんざん殴打された後、広場で銃殺刑になった。後ろ手に縛られた富農たちの後頭部に、女性兵士は次々と銃弾を撃ち込んだ。銃声が響く度、富農たちの身体は弾かれたように一瞬仰け反り、うつぶせに倒れる。その都度、群衆が歓声をあげた。
 広場を埋め尽くす群衆の熱気と昂奮、憎悪、歓喜……。だが、それ以上に、一瞬佐和子の眼に映った伊集院満枝(いじゅういん・みつえ)の姿が、網膜に焼き付いたように離れない。
 なぜ、満枝さんが――。
 佐和子が最後に満枝に会ったのは、昭和四年の秋だった。その年に故郷である北海道H市場を飛び出して上京した佐和子は、満枝と上野駅で再会し、小沼健吾のアジト(隠れ家)に導かれたのだった。
 それ以来、五年近く満枝とは会っていない。
 最後に肌を合わせたのは、満枝の婚約者だった川奈昭三の睾丸を潰して死に至らしめた昭和四年の夏。あの頃、佐和子はまだ十八歳だった。ほどなく小沼の隠れ家の学習会で貴代美と出会い、肌をかわす間柄になったのだった。
 佐和子はずっと、貴代美が好きだった。そして喜代美に頼ってきた。貴代美の後を追って非合法活動に身を投じた。貴代美が「党」を離れるのに従って佐和子も離脱した。貴代美とともに、ドイツ人リヒャルトの紹介で支那大陸での非合法活動に従事した。そして今、貴代美とともに、この大陸における共産主義運動の頂点に立つ人物に面会しようとしている。
 だが、今の佐和子の脳裡を占めるのは、貴代美と過ごしてきた甘美な思い出でも、ともになしとげてきた業績への誇りでもなく、伊集院満枝そのひとのことだった。
 私は、ほんとうは、今でもやっぱり好きなのだろうか。
 貴代美ちゃんではなく、満枝さんを……。
 心臓が早鐘を打ち、止めたくても止まらない。喉がしきりと渇く。テーブルの上に並べられた茶碗に手をのばし、一気に飲み干した。
「お佐和ちゃん、どうした?」
 大きな音を立てて茶碗をテーブルに置いた佐和子を見やり、貴代美が問うた。なんでもないわ。そう言う声が震えていた。貴代美のほうに顔を向けようとして、首が動かない。
「やっぱり、緊張してるンだね」
 貴代美に優しくそう言われ、佐和子は涙をこぼしそうになった。
 なぜ私は今になって……。
 音を立ててドアが開いた。よれよれの中山服を着て、はげあがった額の上で豊かな頭髪を左右に分けた、痩せぎすの大男が入ってきた。
「?好(ニーハオ)」
 直立した貴代美と佐和子の前に、大きな手が差し出された。

 毛沢東(マオ・ツォドン)は当時、四十歳。
 故郷の湖南省で教職を勤めるかたわら社会主義活動に携わり、一九二一年の支那共産党創立に参加、中央委員に選ばれるが、二六年から翌年にかけ湖南省で農民運動を指導する(この時、彼の名前で出されたレポートが「湖南省農民運動視察報告」である)。そのあまりに過激な手法が党内でも批判され、その後の国民政府との戦いでも失敗を繰り返し、幾度も失脚の窮地に陥るが、機を見るに敏な政治手腕と、政敵に対する容赦ない攻撃で、厳しい党内抗争を切り抜け、瑞金に中華ソビエト政権を樹立した際に、政権トップを意味する主席に就任した。
 毛の政治手腕の一つは対外発信力であった。左翼かぶれの欧米人ジャーナリストのインタビューには積極的に応えることで、昏迷する支那の救世主たりうる英雄としてのイメージを、海外諸国に植え付けることに成功していた。
「ファンイン・ファンイン・トォンヂィー・フーメイメイ(よくいらっしゃった、同志胡梅梅)」
 毛主席は、間違えることなく佐和子を活動名(コードネーム)で呼び、その手を握った。つづいて「ファンイン・トォンヂィー・ヤンファンファン(同志馮芳芳もようこそ)」と貴代美と握手した。
「両同志の、今回の活躍には、とても感謝し、感銘を受けています」
 二人に椅子を進め、自らも腰を下ろしながら、毛主席は早口に喋った。
「あなたがたのような若い日本人女性が、私たちに大きな力を貸してくださっている。支那四億の人民に代わって御礼を申し上げるとともに、あなた方に支那共産党員の資格を授与し、同志としてお迎えしたい。だからはるばる瑞金までお招きしたのです」
 喜色満面で述べ立てる毛主席に、思いがけない満枝との「再会」に動揺していた佐和子も、しだいに心落ち着いてくるのを感じた。
 紆余曲折はあったけれど、私がやってきたことは間違ってはいなかった……。
 今夜はいろいろと、あなたがたを歓待する用意を整えております、と笑顔で言った毛主席はふと、「あなたがたは、広場での批判闘争大会に参加されたそうですね」と言った。さきほどの「公開処刑」のことらしい。頷く二人に毛主席は、「いかがでしたか? 初めて目になさったのではありませんか」と問うた。
「そうですねエー」
 貴代美が、いつもの屈託のない態度で、頬に人差し指を押し当て、小首を傾げながら日本語で呟き、やがて顔をあげ流暢な中国語で言った。
「モスクワの極東労働者共産大学(クートべ)では、敵を拷問する際には、女性を使うのがよいと教わりました。毛主席のやり方は理にかなっていると思います」
「好」
 それはよかったと破顔する毛主席に、貴代美は続けた。
「ただ、私だったら、悪人どもをこらしめるのに、違った方法を使います」
「どうするのです?」
「きんたまを蹴り潰します」
 毛主席は一瞬、真顔になり、やがて天井に顔をむけて呵呵大笑した。もう一度立ち上がって右手を差し伸べ、喜代美と握手をかわしながら言った。
 同志馮芳芳(ヤン・ファンファン)、この地に革命を根付かせるためにも、ぜひあなたの知恵を借りたい。長く滞在していただきたいが、いかがですか?
 いいですよ、と笑顔で頷く貴代美に、毛主席は続けた。本当に、あなたがたをはじめ、日本女性には助けていただいています。実は今、瑞金にも、あなたがたに劣らず力を貸してくださった方が滞在しているのです。
 佐和子は、彼女の体内を流れる血が冷えていくのを覚えた。凍り付いたような彼女の面差しに気づかぬげに、毛主席は付け加えた。
「後でお引き合わせしましょう。それまでゆっくりくつろいでください」

毛主席との面談を終えた佐和子と貴代美は、かつて大学校だったらしい建物を改造したゲストハウスに案内された。教室の幾つかはそのままの形で集会場として使われているようだが、ベッドを並べ宿泊所に改造した部屋もある。
 佐和子と貴代美が案内された部屋は、天蓋に蚊帳(かや)を吊ったベッドが二つ、部屋の隅には陶製のバスタブが置いてある。大部屋に泊めるのではなく、賓客として特別扱いされているということだろう。
 バスタブに水を注いで旅塵を洗い落とし、質素な食事をとった後、さきほど「公開処刑」が行われた広場で革命劇を観覧した。軍服に身を包んだ兵士たちの歌舞が披露された後、短い芝居が行われた。悪徳地主に苦しんでいた貧農一家が共産党に救われるという筋書きである。美しい貧農の娘が、地主によって手込めにされそうになった時、紅軍兵士が乱入してきて娘を救い、地主一派をこらしめる。
 ステージの最後は、出演者全員による合唱だった。

  起来! 不願做奴隷的人們!(起て! 奴隷となることを望まぬ人びとよ!)
  把我們的血肉、築成我們新的長城!(我らが血肉で築こう新たな長城を!)
  中華民族到了最危険的時候、(中華民族に最大の危機せまる)
  毎個人被迫着発出最後的吼声。(一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ)
  起来! 起来! 起来!(起て! 起て! 起て!)
  我們万衆一心、(我々すべてが心を一つにして)
  冒着敵人的炮火、前進!(敵の砲火をついて進め!)
  冒着敵人的炮火、前進!(敵の砲火をついて進め!)
  前進! 前進! 前進!(進め! 進め! 進め!)

「義勇軍行進曲」と題する革命歌である。出演者だけでなく、観覧していた毛主席ら党幹部や一般党員も合唱に加わり、歌声は夜空に木霊(こだま)した。

「下にも置かぬ、ってのはこういうことを言うのかねエ」
 観劇を終えてゲストハウスに戻った貴代美は、紅軍の制服を脱いで下着になりながら言った。
「あたいたちがやった事って、そんなに凄いことだったのかなア」
 らくちんな仕事だったけどね、と言いながらベッドに寝そべって四肢を伸ばす貴代美に、椅子に腰をおろした佐和子は、うつむいたまま応えられなかった。
 満枝さん、いなかった……。
 広場の演壇で歌舞や革命劇が演じられているさなか、佐和子の視線はひたすら、客席をさまよっていた。一般党員のなかにも、幹部たちの席にも、満枝の姿はなかった。
 後で引き合わせる。毛主席は確かにそう言った。いつ、引き合わせられるのだろう?
 貴代美ちゃんと一緒の場所で、満枝さんに会うのはいや……。もしそうなった時、冷静さを保てる自信がない。佐和子は逃げ出したくなった。
「なあ、お佐和ちゃん」
 貴代美が声をかけてきた。打って変わった冷静な声音だった。見ると、貴代美はベッドにあぐらをかき、優しい微笑みをつくって佐和子を見つめていた。
「なンだか、さっきから様子がヘンだよ? どうかしたの?」
 慈しむように見つめてくる貴代美の眼差しに、いっそ全部白状してしまおうか、と佐和子は思った。貴代美ちゃんなら分かってくれるはず。分かってもらったほうが、楽になれるはず。
「あのね、貴代美ちゃん」
 佐和子は、背筋を伸ばして言った。
「何もかも言っちゃうわ。しばらく黙って、何も言わないで聞いてほしいの」
「わかった」
 貴代美は静かに答えた。実はね、貴代美ちゃん……。佐和子が説明を始めようとした時、部屋のドアがノックされた。
「入ってもよろしいかしら」
 佐和子の全身が硬直した。こわばった佐和子の面差しを、入れていいのかと言問(ことと)い顔で見やった貴代美は、佐和子から何の反応も返ってこないのにしばし思案した後、どうぞ、と言いながら立ち上がり、ドアを開けた。
 髪をおさげにして三つ編みに結い、赤い星のついた制帽をかぶり、紅軍制服をまとった伊集院佐和子が、そこに立っていた。
「はじめまして、同志馮芳芳(ヤン・ファンファン)」
 貴代美と握手した満枝は、椅子に座ったまま動けないでいる佐和子に歩み寄り、微笑んだ。
「お久しぶりです。同志胡梅梅(フー・メイメイ)」
 お久しぶり、の言葉に佐和子はますます身を固くした。知り合いであることを、喜代美には知られたくなかったのだ。
「あれ、知り合いなの?」
 貴代美が目を丸くして言った。満枝はうなずき、五年ぶりなんです、と付け加えた。
「ふうん、そうなンだ」
 そいつは奇遇だねエとうなずいた貴代美はそれ以上は追及せず、笑顔で、坐ってくださいな、と言いながら、空いた椅子を指差した。佐和子がびくりと身を震わせた。その椅子は、佐和子のすぐ間近に置いてあったからだ。
「お佐和ちゃん、どうしたの?」
 貴代美はいぶかしげに問いながら、佐和子の目の前にしゃがみ、手を握った。佐和子は俯いたまま、涙を流し始めたからだ。
「ねえ、ほんとうにどうしたのよ、お佐和ちゃん!」
「同志馮芳芳」
 伊集院満枝が口を挟んだ。顔を向けてきた貴代美に、懐から紙片を取り出して見せた。「盗聴されています」と書かれている。すぐさま満枝は、紙片を丸めて口に放り込んで飲み下し、立ち上がった。「食堂に参りません?」と誘う満枝に、貴代美は立ち上がったが、佐和子は動かず、泣きじゃくるばかりだった。

 広い食堂には、テーブルが十ばかり並べられ、数名の党員たちが腰をおろし、お茶を飲んだり、菓子をつまんだりしていた。
 彼らからさほど離れていない席を選び、貴代美と向かい合って座った満枝は、「ここで話すほうが安全なの」と小声で言った。貴代美は気遣わしげに、お佐和ちゃん大丈夫かナと呟いた。ここは、言葉ひとつで命を落としかねない場所よ。そういう意味のことを遠回しに、満枝は言った。
 それから満枝は、固有名詞を避けて比喩を使いながら説明した。
 毛主席が二人をここまで歓待したのは理由がある。南京で日本総領事書記生が誘拐され日支両軍が衝突する以前、中華ソビエト政府は危機的状況にあった。国民政府の猛攻の前に敗北続きで、毛主席の責任を問う声もかまびすしかった。実際、毛主席一派を置き去りして瑞金を捨て、奥地に逃げようとする動きもあった。
 だが、南京での日本軍と国民政府軍との衝突によって、国民政府は支那共産党に向けていた矛先を、日本軍に転じざるを得なかった。余裕を得た毛主席は、彼を放置して逃げようとした一派を粛清し、権力を固めることに成功した。いわば、喜代美と佐和子は、毛主席を命拾いさせた恩人なのだ。
「なるほどねエ」
 貴代美は納得顔で頷き、それから満枝を見つめて問うた。
「で、あんたは何者なのサ?」
「わたくし?」
「うン」
 貴代美は声を低めた。
「あんたの顔は新聞で見たことある」
 川奈産業の大株主。お佐和ちゃんと同じ北海道H市出身。そう声には出さず、満枝の公的身分は知っている事をほのめかして、貴代美は続けた。
「それがなんで、こんな所に?」
 大地主の令嬢であり財閥の経営者でもある満枝がなぜ、特権階級の抹殺を呼号する共産主義者の牙城で、平然と紅軍の制服を着込んで大きな顔をしているのか?
「目的は、あなたと同じよ」
「あたいと?」
「ええ」
 満枝は婉然と微笑んだ。
「あなたは、偉い人のきんたまを蹴り潰してやりたいのでしょう?」
「はア?」
 あんたも「偉い人」の一員じゃンか、と言いたげな貴代美に、満枝は続けた。
「わたくしは、大日本帝国のきんたまを蹴り潰してやりたいの」

 部屋に戻ると、薄暗い室内で佐和子はさきほどと同様、椅子に座ったまま身じろぎもしていなかった。
「戻ったよ」
 貴代美はそう言い、背中から佐和子を抱いた。
「だいたい、聞いた」
 佐和子が不意に動いた。背中を曲げて振り向き、喜代美を見つめた。その不安げな眼差しに、喜代美は微笑みを作って答えた。
「あの女と、昔、何があったのか知らないけど、あたいはお佐和ちゃんのこと、変わらずに好きだから」
 そう言って唇に接吻した。佐和子は、飛びつくように喜代美にすがりつき、両腕に力を込めて抱きしめた。

 その数日後、満州の首都・新京。
 かつて長春と呼ばれた都市に新たに建てられた迎賓館では、兄である天皇の名代として満州を公式訪問中の「宮様」を歓迎する、満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(アイシンギョロ・プーイー)主宰のパーティが華やかに開かれていた。
 主賓として、にこやかに出席者と歓談する「宮様」の傍らに、すっと伊集院満枝が寄ってきた。ふと出席者の挨拶が途切れたとき、「宮様」が満枝にささやいた。今、来たのですか? ええ行ってきました、と答えた満枝は、こう耳打ちした。
 ――赤匪(せきひ)は動きます。
 赤匪とは左翼ゲリラ、すなわち支那共産党のことである。
「そうですか」と静かに答えた「宮様」は、「満州国軍も動きます。皇帝が約束してくれました」と付け加え、やや離れた場所で外国使節と歓談している皇帝溥儀を見やった。
 満州国軍は満州族で構成されているが、装備・兵員ともに貧弱で、お飾りに過ぎない。満州国防衛にあたる主力は、日本から派遣された関東軍であり、満州国軍は事実上、関東軍の指揮下にあって、その同意なしには動くことができない。
「関東軍をどこかに引きつけておく必要がありますわね」
 満枝に耳打ちされ、「宮様」は「任せます」と答えた。
 満州国の政府高官たちがにこやかな顔で「宮様」に近寄ってきた。満枝は軽くお辞儀をして、パーティ会場を出た。

 秋、九月。
 満州国とモンゴル社会主義共和国との国境は、実質的にその背後に控える日本とソ連との国境も同然だった。国境地帯を流れるハルハ河を国境線とする日本と、それより約二十キロ東の地点を国境線とするソ連側とで、主張が食い違っている。見渡すかぎり広がる草原地帯では幾度も小競り合いが起こっていた。
 そのハルハ河沿岸にあるモンゴルの村ゴルで、事件は起こった。
 その地にはソ連軍とモンゴル軍が一個大隊ずつ駐屯していた。ゲルと呼ばれる羊毛のテントがぽつんぽつんと点在する狭間に、赤い星印の軍用テントがおびただしく並べられ、組まれた櫓(やぐら)の上では昼夜を問わず、モンゴル兵が、ハルハ河東岸の小高い大地に展開する日本軍部隊を監視している。
 その日の夜、櫓の上には四名のモンゴル軍兵士がいた。モンゴルの秋はすでに寒い。起伏に乏しい草原には寒風が吹きすさんでいる。睡魔に襲われつつもなんとか彼らの眼を開けさせているのは、粛清の恐怖だけだった。居眠りしただけで「反革命罪」の烙印を押され、処刑されかねないのだ。
 遅い……。一人の兵士がつぶやいた。そろそろ、交替の時間のはずだが。そう思ってふと櫓の下を見た兵士は眼を見開いた。櫓の真下で、数名のモンゴル軍兵士が俯せに倒れている。
 声をあげようとして、股間に重い衝撃を覚えた。激痛と嘔吐がこみあげ、兵士は睾丸を両手でかばってくずおれた。つづけさまに後頭部に衝撃が打ち込まれ、意識を失った。
 櫓の兵士はことごとく、同様の目にあい失神した。彼らの背後に、立ち襟に膝下の長い上衣からなるモンゴルの民族衣装(デール)を付けた女が四人立っていた。
「チャレッソ・チャレッソ、ソリ、シヨン、エギョン(よくやった、素利、是英、愛敬)」
 いちばん年長らしい一人の女が、十代らしい三人の少女肩を叩いて微笑んだ。
「ソリ、シヨン、エギョン(よくやった、素利、是英、愛敬)
 名前を呼ばれて嬉しげに微笑む三人に、年長の女は面差しを引き締めて促した。
「パルリ(急げ)」
 朝鮮語だった。四人の女はそれぞれ足下にうつぶせになったモンゴル兵の傍らにかがみ込み、彼らのズボンをナイフで切り裂き、股間を露出させた。手早く陰茎を切り落とし、兵士の口に詰め込んだ。喉に自らの生殖器を詰め込まれ、モンゴル兵は意識を取り戻した。両手で喉を押さえ、必死に空気を求めながら、やがて窒息して動かなくなった。
「抗日パルチザンとして戦っていた時以来よ」
 傍らの女たちに微笑みつつ、年長の女――イ・ヨヒ(李麗姫)が言った。
「久しぶりにしては、まだ腕はなまっていなかったわ」

 翌朝、夜間警備にあたっていたモンゴル兵とソ連兵、合計十数人が、睾丸を潰され、陰茎を切り取られて喉に詰め込まれた無惨な姿で発見された。死体の傍らに、軍帽が発見された。日本軍のものだった。
 次の夜、今度は満州側で国境警備にあたる日本軍の兵士十数名が、やはり同じ姿で発見され、死体の傍らにソ連軍の肩章が落ちていた。
 モンゴル側国境地帯に、ソ連軍やモンゴル軍が集結、これに呼応して満州国側も満州北東に関東軍の大部隊を派遣した。
 やがて小競り合いが起こった。両国は、互いに相手が先に攻撃を仕掛けたと非難の応酬をはじめた。国境を挟んで対峙する両軍の規模は、たちまち万単位に膨れあがった。

「お見事だったわね」
 満州国・大連。五つ星である大和ホテルの一室で、朝のシャワーを浴びたあとガウンをまとい、新聞を広げて読みながら伊集院満枝は言った。
「厳しく鍛えた甲斐があったわ」
 昨夜の抱擁の余韻が身体にまだ残っているように、浴衣姿でベッドで寝そべるイ・ヨヒ(李麗姫)が答えた。
 ゴル村のモンゴル兵とソ連兵、および対岸の日本兵を殺害したのは、ヨヒと、彼女が養成した女性パルチザンたちだった。ヨヒは、朝鮮人集落で戦闘能力の高い女たちをスカウトし、訓練を施した。彼女たちは、予想以上にみごとな成果を収めた。
「何人かは死ぬと思っていたけれど」
 女たちは一人残らず、帰還できた。
「おかげで、関東軍は満蒙国境に釘付けよ」
 満枝はベッドにあがり、ヨヒを抱きしめて接吻しながら言った。支那に駐屯する日本軍は南京に足止め状態。わたくしたちの望みどおりの状況ができあがりつつある……。
「あと、どれくらいかしら」
 ヨヒは陶然たる面差しで問うた。大日本帝国のきんたまを蹴り潰す日までは?
「長くても、あと一年以内。早ければ来年の春」
 満枝はヨヒの乳房をまさぐりながら言った。私はこれから東京に帰るわ。あなたは、しばらくここに残ってちょうだい。やってもらうことはたくさんあるわ。こちらでの工作は、すべてあなたに任せたわよ。そしてその日が近づいたら……。
「ちゃんと知らせるから、あなたは部下を連れて、日本に戻ってきてね」
 うなずくヨヒの乳房の谷間に、満枝は顔を埋めた。

   U

 昭和九年十月になった。
 東京市内、伊集院満枝の洋館の応接間のテーブルで、満枝と小沼健吾が向かい合っていた。テーブルの上には、小冊子(パンフレット)が二冊、広げられていた。
「よく出来ているわ」
 満枝は満足そうに、一冊を広げて頷いた。安価な紙に活字印刷されたパンフレットには、「帝大助教授自決の背後に、某将軍の陰謀あり」と書かれていた。先頃、「不敬」のレッテルを貼られて岡山県の山中で帝大助教授安藤澄(きよし)が自決した裏には、荒牧貞夫将軍をはじめ皇道派軍人の策謀があること、その策謀とは、クーデターを起こして現体制を顛覆せしめ、新たな君主を迎えるという大逆の企てであることが書かれていた。明確に名指しはされていないが、新たな君主が今上天皇の弟殿下である「宮様」だという事が示唆されている。
 いわゆる怪文書である。
 別の文書にはこうあった。ここ一年の「宮様」の動きが事細かに書かれていた。何かと兄である今上天皇と衝突を繰り返している事、皇道派の将官や青年将校と頻繁に会合していること、母である皇太后とともに、謎の自決を遂げた帝大助教授の怪しげな秘宝探しに力を貸していたること……。
「小沼さん、こういうお仕事も得意だったのね」
「皮肉はやめてくれ」
 小沼は、特に不機嫌なふうもなく答えた。
「三種類作っておいた。北さんも手下を動かしてくれる」
 北とは北一輝のこと。怪文書をばらまいて騒ぎを起こし、介入して対立する両者から金を巻き上げるのは、北一派の常套手段だった。
「皇道派だけじゃなく、統制派を非難する怪文書も作ってるんでしょう?」
 満枝は微笑んだ。これで、統制派は皇道派粛清に乗り出すわね……。
「陸軍はまっぷたつよ」

 統制派・皇道派という色分けは、たぶんに便宜上のものであって、それぞれの派閥に確固たる思想があるわけではない。
 日本陸軍の将校の多くは、任官すると同時に部隊直属になる。徴兵されて軍隊に入った兵士たちを通じて農村の窮状を知り、今のままでは日本は立ち行かなくなる、社会を改造せねばならん等と、酒を呑んで気焔をあげる連中が、皇道派と呼ばれた。日本社会は本来、天皇の下、万民は平等のはずなのに、貧富や階級の格差が画然として存在するのは、皇道にもとるというわけである。
 荒牧将軍ら、いわゆる皇道派と呼ばれる軍高官は、特に彼らの思想に共鳴しているというわけではなく、ただ若い者を甘やかし、酒を振る舞って彼らの長広舌を聞いてやる事で人気を得ようとする、人のよい老人に過ぎない。
 一方、皇道派のライバルとされる統制派の軍人たちには、共通の思想と目的とがあった。日本全体を軍隊と同様に厳しく統制されるナチスドイツのような社会に改造する。経済や外交も、文官ではなく軍が中心となり、強力な軍隊でもって周辺諸国を威圧し、時には軍事力で紛争を解決する。
 彼ら統制派の領袖と目されたのが、陸軍省軍務局長の永田鉄山少将だった。ちょうど五十歳になる永田は、陸軍大学校を次席で卒業した優秀な軍人であり、将来の陸軍大臣、いな総理大臣も狙える逸材とされていた。ただし人柄は冷徹で情味に乏しく、陰謀を好む癖があり、敵も多い。
「実に面白い文書です」
 永田少将は、読み終えた怪文書を食卓に置き、右手で眼鏡の位置を修正しながら言った。彼と向かい合って座っているのは、伊集院満枝だった。
 東京・九段の軍人会館の小部屋。その年の春に落成したばかりの、宿泊施設や宴会場、結婚式場、会議場、映写室などを備えた会館は、現役軍人だけでなく、在郷軍人の家族や戦死者の遺族も利用できるので、その一室で陸軍少将と、地味な和装に身を固めた満枝が会合しても、怪しまれることはなかった。
「これで、あの連中を一掃できますか?」
 微笑んで問う満枝に、永田少将は何も答えず、それにしてもわからんお方だ、と煙草に火を付けた。
「何がですの?」
「あなたが宮様をはじめ、荒牧閣下や磯村中尉ら皇道派の面々と親しくつきあっている事は知っています」
 満枝の周辺は、憲兵を使って調べている。そう言いたげに試すように一瞥してきた永田少将の眼差しを、軽く笑顔で受け流しながら、満枝は何も言わなかった。永田少将はやがて口を開いた。
「私は、あなたを信用していない」
「あら、そうですの?」
「ええ」
 永田少将は立ち上がり、満枝に背を向けて、窓の外を眺めながら言った。
「あなたは、どこにでも顔を出す。誰とでもつきあう。私の敵なのか味方なのか、よく分からない。分からないが、あなたは私の意に沿う形で、新たな状況を作っている」
 日本軍が、南京での支那軍と、満蒙国境でソ連軍と、それぞれ衝突を繰り返している状況は、自分にとっては都合がいい。兵力動員の名目で、人事異動を活発に行えるからだ。陸軍軍務局長にはその権限がある。
「磯村中尉たちを、大陸に追いやるのですか?」
 満枝の問いには答えず、永田少将は続けた。帝大助教授の自害と、それにまつわる噂は、うるさい老人たちにお引き取り願えるいい機会だ。
「私がそうすると、あなたは見ているのでしょう?」
 再び顔を向けてきた永田少将に、満枝は小首を傾げて問うた。
「あなたは、そうなさるおつもりではございませんの?」
「あんたの腹が分からんうちは、答えられない」
 永田少将は答えた。
「わたくしは……」
 ふと遠くを見る眼差しで、満枝は言った。
「面白い狂言が見られれば、それでようございますの」
 あなたがどうお動きになろうともね。そう告げて満枝は立ち上がり、挨拶をして踵を返して小部屋を出た。軍服姿の男たちや和装の女たちがたむろする広いホールを抜け、玄関を過ぎて外の通りに出、駅に向かって歩き出した。背後に、同じ間隔を保って尾行してくる気配がする。永田少将が寄越した憲兵だろう。
 ――しばらくは仕方ないわ。
 憲兵を人けのない場所に誘い込み、睾丸を潰して殺すのは簡単だが、今は手のうちを見せるわけにはいかない。
 ――命拾いしたわね。
 満枝は、一般人の服装をして、帽子を目深にかぶり尾けてくる憲兵に、声には出さず秘かにつぶやいた。

 数日後、荒牧将軍をはじめ皇道派青年将校に人気のある軍高官たちの予備役編入が発表された。事実上の解任だった。つづいて、「宮様」が参謀本部勤務から、弘前の歩兵第三十一連隊第三大隊長就任が決まった。左遷である。皇道派青年将校たちは騒然となった。
「始まったわ!」
 広げた新聞紙を前に、満枝は昂奮して「エジャ(愛子)、エジャ!」と叫んだ。寝室から飛び出してきたハン・エジャ(韓愛子)に、満枝は言った。すぐにおばあちゃまのところに行って。昂奮しているだろうからなだめてあげるの。それからおばあちゃまに、満州で「竜珠」が見つかったから、しばらく満州に飛ぶと伝えて。その間に、あなたの満州行きを手配します。向こうにいったらヨヒと合流して、年内一杯、満州にいてちょうだい。連絡は欠かさないで。いろいろ回って、工作してもらう事になるから。
「そして時期が来たら、あなたたちを呼び戻すわ。その時はいよいよ……」
「大日本帝国のきんたまを」
 エジャは口を挟んだ。
「蹴り潰すんですね!」
 そうよ! そう叫んでエジャを床に押し倒した満枝は、彼女と組み合ったまま、床のじゅうたんの上を転げ回り、互いをむさぼりあった。
 一週間後の白昼、市ヶ谷の陸軍省にある陸軍軍務局長室を、一人の陸軍中佐が訪れた。ノックもせずに入ってきた中佐を見上げ、デスクに坐っていた永田少将は、誰かね君は、呼んでおらんぞ? と一喝した。中佐は軍刀を抜き、振り上げた。とっさに立ち上がり男に背を向けて逃げようとした永田少将を、陸軍中佐は袈裟懸けに斬り下ろした。肩口から深々と斬り下げられ、俯せに倒れた永田少将の背中に、中佐は血まみれの軍刀を突き刺した。永田少将は絶命した。
「天誅だ!」
 返り血を浴びて真っ赤になった陸軍中佐は、そう叫びながら陸軍省内をさまよい歩き、逮捕された。中佐の名前は相沢三郎と言った。皇道派青年将校に共感していた彼は、その言動を疎まれ、台湾への転出が決まったばかりだった。誰かにそそのかされたわけではなく単独行動だったが、永田の同志たちは事件を奇貨として皇道派排除をさらに進めた。はねっかえりの青年将校に同情的な軍高官は予備役編入あるいは左遷された。伊集院満枝とも繋がりのあった磯村中尉や香野中尉ら皇道派青年将校は、大尉昇進と引き替えに、大陸の戦地に異動させられるという噂が広まった。
 事態は急激に動きつつあった。行動派青年青年将校と、彼らに同情的な資本家や国家主義者との接触が急激に増えたとの情報がもたらされ、警視庁や憲兵隊では警戒が高まった。

「君は当分ここにいるのですか?」
 明けて昭和十年の正月。松が取れて間もない晴れた日だった。
 麻布笄町にある安藤澄の和風邸宅の奥座敷。盆に載せた茶を運んできた佳代に、あぐらをかいて坐った三十歳の磯村大尉は、右手で眼鏡の位置を直しながら問うた。無言で頷く佳代に、磯村大尉は重ねて問うた。
「それは伊集院満枝嬢の指示ですか?」
 佳代はまた無言で頷いた。前年の春、安藤澄は、岡山県の神社境内において割腹自殺の態で発見された。死んだ安藤の親族から、邸宅を買い取ったのは伊集院満枝だった。以来、佳代は主(あるじ)のいない広い邸宅の管理人となった。主はいなかったが来客は少なくなかった。磯村ら青年将校たちが会合に使うこともあれば、伊集院満枝が見知らぬ客を連れて訪れることもある。奥座敷で何が話し合われているか、佳代は知らない。来客中、食事を運ぶ時以外は、三畳の女中部屋に入って本を読んだりして過ごす。他者とのかかわりは最小限にするのが、無意識に身に付けた佳代の生き方だった。
「君はよく本を読んでいますね」
 茶を置き、一礼して去ろうとした佳代の背中から、磯村大尉の声が投げかけられた。振り向くと、大尉は壁の書架の前に立って、そこに並べられた安藤の著作を一冊引き抜き、ページを広げていた。
「この本も読みましたか?」
 本をひっくり返して背表紙を見せた。「万邦無比の我が国体」なる題名が印刷されている。佳代の脳裡に、安藤の甲高い声がよみがえってきた。
 ――支那の排日運動は日に日に激化し、欧米は日本より支那に同情的だと分かってきた。忠良なる帝国臣民は自信を喪失し、日本人としての誇りを取り戻せる何かを求めている。
 ――だからぼくは、神国日本だの、万邦無比なるわが国体だの、そんな題名の本を書いた。支那の悪口も書いた。中身はからっぽだが、帝大の博士様のお墨付きだ、馬鹿な連中はそんな本に飛びつき、おかげでぼくは大儲けだ。
 ――ぼくは、自信を失った日本人の心の風邪を治療するお医者様なのさ……。
 俯いて首を横に振った佳代に、磯村は、読まなくていい本です、とページを閉じて書架に戻した。
「万邦無比とは、大風呂敷を広げたものだ」
 磯村は腰をおろし、茶をすすった。
「重臣、官僚、政治家、財閥ばかりじゃない。一部の特権階級が暴利をむさぼり、上級軍人や学者までもが、そのおこぼれに預かるばかりで、困窮する一般臣民を助けようともしない」
 そんな国のどこが万邦無比なんだか……。磯村は続けた。
「実は、私の同志も似たようなものでね。香野も林原も、口では貧しい国民の救済を唱えながら、その実、自分たちはみな上官の紹介で、良家の嫁をもらっている。影響力のある軍人と縁戚になれば、出世が早い」
 財閥と、どう違うというのか。ただの軍閥ではないか……。磯村は言った。
「おかげで、私だけが軍をくびになりそうです」
 くび……? わずかに首を傾げた佳代に、磯村は説明した。
 統制派の連中は、憲兵を使って磯村ら皇道派青年の身辺を探らせていた。言いがかりをつけて軍から追放することを目論んでいるのだ。だが、香野や林原は、いざとなれば軍上層部の姻戚を頼ることもできる。
「だが、私にはそんなあてがないのです」
 遠くを見つめる目差しで、磯村は言った。
「私の妻は、私が朝鮮駐在の部隊に所属しているときに知り合った、小料理屋の女中でね。没落した士族の娘なんだが、幼い弟と二人苦労しているので、私が何くれと面倒を見ている」
 そろそろ籍を入れるべく、九州の実家に頼んでいるところです。そう呟いて、磯村は目をあげ、正座してまばたきもせず視線を向けて聞き入る佳代を見やった。磯村は破顔した。
「君は聞き上手だ」
 なぜか胸の裡を喋りたくなってしまう……。そう言われて佳代は、一緒に住んだ男たちが同じ事を言っていたと思った。だが、この人は、安藤さんや大橋さんとは違う……。
 どこか、小沼さんに似ている。
 玄関で呼び鈴が鳴った。佳代は一礼して座敷を去っていった。磯村はため息をついた。
 いかんいかん。蹶起が近い事を漏らしそうになった……。
 内縁の妻を実家の戸籍に入れようとしているのは、蹶起が不成功に終わった時、彼女が路頭に迷わないようにするためなのだ。

 廊下に足音が響き、ドアが開かれた。佳代に案内されて入ってきたのは、背広姿の渋谷中尉だった。渋谷中尉は「宮様」が参謀本部から弘前に転任すると同時に、渋谷中尉も「お付き」として弘前に赴いていた。
「お久しぶりです」
 腰を折って軍隊式に礼をする渋谷中尉に、磯村は「よう」と声をかけた。渋谷は黙ったまま磯村と向かい合って座った。一度座敷を去った佳代が茶を運んで再び現れた。彼女が去っていくのを待って、磯村は問うた。
「宮様は、本当に動いていただけるのか?」
 渋谷は無言で頷いた。
「それで……」
 磯村は問うた。
「その時期は?」
「今年の……」
 渋谷中尉が重い口を開いた。
「春。おそらく二月か三月」
「何故、二月か三月なんだ?」
 渋谷中尉は答えなかった。

 同じ時。
 伊集院満枝は自宅の洋館で、エジャと麗子を前に、赤い色の海外電報を開いて見せた。
「毛主席からよ」
 支那共産党の主席から……。
 固唾を呑んで見つめる二人に、満枝は続けた。
「三月になれば、動けると」

   V

 昭和十年二月二十六日午前五時。
 前夜来の大雪が降り積もった永田町の総理大臣官邸内に、非常ベルが鳴り響いた。
「何事か!」
 日本間の寝室の布団の上に起きあがった六十七歳の内閣総理大臣、海軍大将岡田啓介が叫ぶのとほぼ同時に、襖ががらりと開けられ、三人の男たちが飛び込んできた。
「閣下、とうとう来ました!」
 義弟であり私設秘書を務める六十三歳の退役陸軍大佐・松尾伝蔵がささやくように言った。その背後に、巡査服の警官二人が控えている。
「来たか……」
 岡田総理はうめいた。皇道派青年将校に不穏な動きがあることは、総理の耳にも入っていた。穏健派の海軍高官として軍縮を推し進めてきた彼が、標的として狙われていることも。
 いよいよ蹶起したか、何人くらいだ? 冷静に問う総理に、一人の警官が答えた。
「兵隊が三百人ほど押し寄せてきました」
 そんなにか? 幕末に生まれ日清、日露戦争にも従軍した岡田総理は、短く刈り上げた後頭部を撫でながら呟いた。そんなに来られては、もうどうしようもないな。
 何をおっしゃいます、すぐ避難して下さい! 警官たちに手を引っ張られるようにして、岡田総理は寝間着のまま廊下に出た。閉められた雨戸に、四角く潜(くぐ)り戸が穿(うが)たれている。松尾秘書はそっと潜り戸をあけて外の庭をうかがい、振り向いて首を振った。庭はすでに、分厚いカーキ色の冬の軍装に身を固め背嚢を背負い銃を構えた兵隊に占拠されていた。そこかしこに警官の死体も転がり、血飛沫が雪を赤く染めている。
 松尾秘書と警官たちは、岡田総理を抱えるようにして、廊下づたいに台所に向かった。大きな銅製のボイラーのある広い台所で一息ついていると、兵隊たちの足音や「いないぞ!」「探せ!」の声が響いてくる。
 ひとまず風呂場へ。松尾秘書は声をひそめ、台所に隣接する風呂場に岡田総理を押し込めた。同時に、台所に数名の兵が入ってきた。台所に残っていた二人の警官は、反射的に拳銃を構えて撃った。一人の兵が被弾して倒れたが、たちまち他の兵に乱射され、警官たちは蜂の巣となって絶命した。
「ここで静かにしていてください」
 松尾秘書は、岡田総理にそう囁き、叫び声をあげながら風呂場から飛び出した。一瞬怯んだ兵たちの間をすり抜け、庭へ飛び出した。庭には機関銃を構えた兵たちがいた。松尾秘書は銃弾を浴びて倒れた。
「やったぞ!」
 松尾秘書の遺体を覗き込んだ下士官が叫んだ。
「岡田総理だ! 間違いない!」
 松尾秘書は、義兄である岡田総理とよく似た面貌の持ち主だった。青年将校たちの不穏な動きが伝えられてからは、頭髪や髭の刈り方まで似せ、いざとなれば影武者となって義兄を守るつもりでいたのだ。
 将校や、下士官、兵たちが庭に集まり、松尾秘書の遺体を囲んで、総理に違いない、いや違うような気がする、と言い合う中、岡田総理はそっと風呂場を出た。兵たちの声を避けるようにして暗い廊下を歩いていると、突き当たりの部屋から粗末な和服姿の女が顔を覗かせ、手招きした。そこは、女中部屋であった。
 足音を忍ばせて近寄ると、女は、岡田総理を抱きかかえるようにして、ご無事でしたか、こちらへ、と押し入れのなかに入るよう指さした。部屋の外で兵たちの声が近づいてきた。女は、岡田総理を押し入れに押し込み、自らも入って襖をしめた。近づいてきた声と足音は、やがて遠ざかっていった。
「松尾たちには気の毒だったが、今、死ぬわけにはいかん」
 岡田総理は居ずまいをただし、女に顔を向けて小声で言った。
「わしはしばらく、ここにいよう。お前たちは早く、安全なところに逃げなさい」
「わかりました」
 女が口を開いた。口調になまりがあった。
「用事すませたら、行きます」
 総理の顔色が変わった。聞き慣れた女中の声ではなかった。
「お前は……」
 誰だ、と問おうとして、岡田総理は仰向けに押し倒された。女は左手で岡田総理の口をふさぎ、右手を寝間着の股間に差し入れた。そのまま、睾丸を握り潰した。眼を見開いて激しく痙攣する老総理の喉笛に、睾丸を破裂せしめた右手を拳に握って打ち込んだ。
 岡田総理は絶命した。

 同じ頃。麹町区三番町にある侍従長公邸の寝室では、六十七歳の退役海軍大将であり、天皇の侍従長を務める鈴木貫太郎が、複数の銃弾を浴び、うつぶせに倒れていた。噴き出す血で床は血の海と化している。
 瀕死の侍従長を囲む兵たちが、こわごわ銃剣を向ける中、指揮官らしい大尉の肩章をつけた将校が、腰の軍刀を引き抜いた。その切っ先を侍従長の延髄のあたりに擬した将校の背後から、おやめください! と悲鳴があがった。
 和服姿の侍従長夫人が走り寄り、兵たちをかきわけて夫の背中におおいかぶさった。
「武士の情けです。とどめだけはやめてください!」
 懇願する夫人をしばし見つめ、将校は刀を鞘に収めた。侍従長に向かって敬礼し去ろうとする将校の背後から、夫人が問うた。あなたのお名前は?
「歩兵第三連隊、安藤大尉です」
 振り向いてそう告げ、将校は兵を率いて去っていった。夫人は立ち上がり、医者を、早く医者を、と叫んで奥へと駆け去っていった。
 入れ替わるように、寝間着姿の女中らしい女が入ってきた。すばやく侍従長の遺体に駆け寄り、心臓に耳を当て、顔をしかめた。鼓動は止まっていなかった。
 ポムジャプタ(かっこつけやがって)……。
 呟きは、朝鮮語だった。
 イルボン・クンバリイ、ポジャンダイコムハン(日本の兵隊は詰めが甘い)。
 女はそう言いながら侍従長の体を仰向けにし、喉笛を踵で踏みつけた。頸椎が砕け折れる音が響いた。

 湯河原の温泉旅館「光風荘」では、蹶起部隊と警官隊の銃撃戦が展開されていた。旅館からほど近い暗い山道を、旅館名が染め抜かれた丹前をまとう老人が、和服姿の女中に手を引かれながら歩いていた。
「君は機転が利くね」
 明治の元勲・大久保利通の次男である七十四歳の前内大臣、天皇の信任篤いことで知られる牧野伸顕(のぶあき)は、品のいい面差しに笑みを浮かべて手を引く若い女中に声をかけた。蹶起部隊の襲撃を女中の手引きで危うく旅館を脱出した。さきほど、数名の兵士と遭遇したが、女中が咄嗟に「御前様」と牧野に向かって言ったため、兵士たちは老舗旅館の隠居と勘違いし、「気をつけて行きなさい」と逃がしてくれたのである。
「名前を教えてくれんかな。後で礼をしたい」
 私の名前ですか。二十歳に届かぬ年格好の女中は、はにかんだ笑みを浮かべ、小声で言った。
 ソリ……。
「うん? なんと言った?」
 聞き慣れぬ名前に、問い返した牧野の耳元に唇を寄せ、女中はささやくように言った。
「オク・ソリ(玉素利)」
 オクソリ? 支那か朝鮮の名か?
 牧野がそう思い至った時、股間に重い衝撃を覚えた。女中が、牧野の両肩を押さえ、膝を睾丸に打ち込んだのだ。
 地面に倒れ伏し、股間を押さえて悶絶する老人を見下ろしながら、素利と名乗った女中は懐からゆっくりと短刀を取り出し、鞘を払った。

 その日、皇道派青年将校に率いられた近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、野戦重砲兵第一連隊など約二千名が、首相官邸、警視庁、各大臣官邸、新聞社、放送局を襲撃・占拠した。永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂など日本の政治・軍事の中心地は、蹶起部隊によって制圧された。この間、蹶起部隊は、首相・岡田啓介以下、多くの重臣、政府高官を暗殺した。
「やりましたか……」
 中野区桃園町の北一輝の邸には、西田税(みつぎ)をはじめ北の同志数名が集まっていた。そのなかに、小沼健吾の姿もあった。
「諸君、いよいよです」
 話を終え、受話器を置いた北は、来客たちに向かって告げた。
「未確認情報だが、岡田総理、斎藤内大臣、高橋蔵相は死亡。鈴木侍従長、渡辺教育総監の生死は不明だが、襲撃には成功したそうだ」
 やりましたな。大成功だ。来客たちが顔を見合わせて笑顔で言い合うなか、小沼健吾一人は、相好を崩さぬままだった。
「蹶起部隊の面々は、陸軍省に集まりつつある」
 北一輝は続けた。
「これで全陸軍が動けば、今度こそ昭和維新が始まるわけだ」
 昭和維新とは、軍部中心の国家改造を意味する皇道派青年将校や民間右翼の合い言葉であった。
 まだだ……。
 来客たちの笑い声や拍手が響く中、小沼は心の裡で呟いた。
 今から始まるのは、そんな生やさしいものではないんだ。

 同じ頃。
「はじまったのね!」
 寝間着のガウンを羽織った姿でテーブルにつき、真鍮製の受話器に耳を傾けながら、伊集院満枝は昂奮した面差しを押さえきれなかった。
 ――高橋蔵相、斎藤内大臣、渡辺教育総監は蹶起部隊が殺害した。岡田総理、鈴木侍従長、牧野前内大臣は危うく取り逃がすところだったのだけれど……。
 電話の向こうでは、ハン・エジャ(韓愛子)が状況を説明していた。
 ――安心して。三人とも、ヨヒの部下が息の根を止めたわ。岡田はエギョン(愛敬)が、牧野はソリ(素利)が、鈴木はシヨン(是英)が……。
「軍人さんたちに任せきりでなくて正解だったわ」
 満枝は笑い、それから問うた。
「麗姫から知らせは?」
 ――まだよ、というエジャに、満枝はさらに問うた。
「磯村さんたちは、陸相官邸に向かったの?」
 ――そろそろ着くはず。
「見張りは着けているわね」
 ――ええ。
「わかったわ。何かあったらすぐに知らせてね」
 受話器を置いて、満枝は呟いた。あとは、ヨヒと磯村大尉次第……。
 イ・ヨヒ率いる女性パルチザンが、蹶起部隊に混じって暗殺を手助けしている事を知る者は、満枝以外ごく僅かだった。
 そのわずかな一人が、磯村大尉だった。

 蹶起部隊の中心メンバーである磯村大尉、香野大尉、林原中尉の三人が、宮城(皇居)桜田門から道を隔てた陸軍大臣官邸に到着したのは午前六時前だった。レンガ造りの官邸前庭には、五台のトラックが停められ、さきほどまで荷台に乗って運ばれてきた兵士たちが、早くもバリケードを築きつつあった。
「近衛歩兵第三連隊、磯村大尉!」
 緊迫した面差しで玄関前を固める憲兵たちに歩み寄り、磯村大尉は怒鳴るように名乗った。
「国家の重大事につき、陸軍大臣にお目にかかりたい」
「駄目です」
 曹長の肩章をつけた憲兵が、震える声で答えた。
「大臣に危害を加えるというのなら、まず私たちを殺してからにしてください!」
「貴様、骨のある奴だ」
 磯村大尉は笑って憲兵曹長の肩を叩いた。香野大尉が言葉を添えた。
「大丈夫、そんな事はしない。とにかく取り次いでくれ」
 押し問答の間にも、襲撃部隊の指揮官たちが従兵を連れて次々と現れた。返り血も拭わぬまま、「やったぞ!」「やったぞ!」と」大声をあげ襲撃成功を祝しあっている。
 そこに黒塗りの自動車が一台、前庭に滑り込んできた。助手席を降りた将校がドアを開けると、皇道派の領袖・荒牧貞夫将軍が降り立った。
「とうとう、やったか?」
 挙手の礼をして歩み寄った磯村たちに、荒牧将軍は八の字髭をひねりながら問うた。
「は!」
 磯村は答えた。賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知でありますか?
「わかっとる」
 荒牧は深く頷いた。
「貴様らの気持はよぉくわかっとる!」
 陸軍大臣はどうした? 荒牧将軍の問いに、磯村は、面会を申し込んでいるが憲兵たちが取り次がないと告げた。
「わかった。わしが善処しよう」
 荒牧将軍は、思いもかけぬ事態に青ざめて玄関前に立ちつくしている憲兵たちに近寄り、一喝した。わしは荒牧である。すぐ大臣に取り次げい! 憲兵たちは顔を見合わせていたが、曹長はしぶしぶ頷き、一人の憲兵に邸内に入るよう命じた。
 やがて陸相秘書官が現れ、青ざめた面差しで「お入りください」と告げた。荒牧将軍を先頭に、磯村、香野、林原の三将校は官邸内に入っていった。

「我が神洲たる所以は、万世一神たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生成化育を遂げ、八紘一宇を完うするの国体に存す」
 林原中尉が、巻紙に墨痕淋漓と書き付けられた蹶起趣意書を読み上げるのを、五十七歳の陸軍大臣川島義之は落ち着かない面差しで聞き入っていた。
「いわゆる元老重臣軍閥官僚政党等はこの国体破壊の元兇なり」「内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し」「君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは我等の任なり」「ここに同憂同志を一にして蹶起し、奸賊を誅戮して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭し、以て神洲赤子の微衷を献ぜんとす」
「それで……」
 趣意書が読み終わるのを待って、川島陸相は問うた。
「貴公らは、わしに何をせよと言うのかね」
「申し上げます」
 香野大尉が口を開いた。
「まず、皇軍相撃つ事態は回避せねばなりません」
 蹶起部隊に対する攻撃を控えるようにということである。
「これを是非、警備司令官、近衛師団長、第一師団長に厳命いただきたい」
「他には?」
「軍中央部に巣喰う売国奴の軍人を排除していただきたい」
 香野は統制派軍高官数名の名を挙げ、そして……、と続けた。
「以上、速やかに陛下に奏上し、ご裁断を仰いでいただきたい」
 陛下にか……。川島陸相は天井を仰ぎ見て、呻くように言った。
「川島、何をためらっておる!」
 荒牧将軍が大喝した。
「貴公には、彼等青年将校の至誠がわからぬのか!」
 真っ青になった川島陸相が、何か反論しようとして言葉を探しているとき、ドアがノックされた。陸相秘書官が入ってきて、川島陸相に耳打ちした。
「なに、坂下閣下が?」
「おお、坂下か」
 眉をしかめた陸相に、荒牧将軍がすかさず口を挟んだ。
「ぜひ通せ。坂下からも貴公を説いてもらおう」
 陸相は一瞬ためらったが、秘書官に向かって頷いた。秘書官がドアを開け、お通りを、と外に向かって声をかけた。入ってきたのは坂下知之将軍、荒牧と同様、皇道派の長老格である。
「閣下」
 若い林原中尉が、坂下将軍に向かって微笑んだ。坂下将軍は、林原中尉の舅である。でっぷりと太った禿頭の坂下将軍は、青年将校たちを見回すと、幾度も頷きながら言った。
「ついに来るべきものが来たようだな」
 将軍が満面の笑みで続けた。
「わしらに任せておけ。悪いようにはせぬ」
 坂下将軍が口を閉じた瞬間、銃声とともに、その額に穴が開いた。鮮血がほとばしり、坂下将軍は仰向けに倒れた。
「貴様!」
「何をするか!」
 陸相と荒牧将軍が叫ぶと同時に、続けざまに二発、銃声が響いた。陸相と荒牧将軍は、額から血を噴き出しながら、折り重なるようにして倒れた。
「磯村大尉殿!」
 林原中尉が悲鳴をあげた。磯村大尉は、射殺したばかりの三将軍の死体を見下ろしながら、ゆっくりと拳銃を腰のホルスターに戻した。
「な、何をなさるんです! 気が違ったのですか!」
 義父の死体に抱きつくように駆け寄り、しばらく体を揺すぶっていた林原中尉が叫んだ。
「磯村、俺は何も聞いておらんぞ!」
 香野大尉も怒鳴った。
「我々は、荒牧閣下を首班とした軍部内閣を擁立するのではなかったのか!」
「軍部内閣だと?」
 磯村大尉は、落ち着き払った視線を、香野大尉や林原中尉に向けた。
「香野、林原。貴様らは、この長老たちが本当に、我々とともに維新を断行してくれるなどと、信じていたわけではあるまいな」
「何を言うんです!」
 林原中尉が叫んだ。
「現に、坂下閣下は、自分たちの気持ちは分かっておると……」
「林原中尉。貴様の舅殿を巻き添えにしてすまなかったが、これは、山中とも熟議して決めたことでな」
 磯村大尉がそう言ったとき、再びドアが開いた。大尉の肩章をつけた将校が入ってきた。
「ちょうどよいところに来た、山中大尉」
 山中と呼ばれた将校は、磯村とは士官学校の同期生、無二の親友である。山中大尉は、三将軍の死体を見やり、それから磯村を見つめ、深く頷いた。磯村大尉は問うた。
「首尾はどうだった」
「うむ」
 山中大尉は香野大尉を一瞥して言った。
「香野、気の毒だが、貴様の舅殿は俺の手で射殺した」
「なんだって!」
 香野は真っ青な顔で怒鳴った。香野の義父は陸軍中将、天皇の侍従武官長の役職にある。
「腐りきった陸軍の今日を作ったのは、皇道派も含めた軍長老方だ」
 磯村大尉は、低い声音で告げた。
「断固、抹殺する」

 同じ頃。
「やったのね!」
 伊集院満枝は、磯村大尉が陸軍大臣をはじめ三将軍を射殺した知らせをエジャから受け、昂奮を押さえきれず、受話器を抱えて立ち上がり、ぐるぐると部屋のなかを歩き始めた。陸軍大臣官邸をはじめ、主要な襲撃場所にはヨヒの配下を潜ませてある。状況は手に取るように満枝にもたらされていた。
 もっとも気を揉んでいたのは、磯村大尉だった。彼が、手はずどおりに行動するかどうか、最後まで確信が持てなかったのだ。
 だが、彼はやった。
「引き続き、連絡を欠かさないで。お願いよ」
 エジャとの会話を終えて受話器を置いた満枝は、椅子の背にもたれかかりながら、右手をガウンの割れ目に差し込んだ。
「もう、そろそろかしら……」
 指先で敏感な部分を撫でながら、一ヶ月前、同じテーブルを挟んで話し合った磯村大尉を思い出していた。
 私は……。
 磯村大尉は言った。
 尊王ではありません。
「そうなの?」
 目を丸くしてみせた満枝に、磯村大尉は続けた。
 私は、九州の貧農の生まれです。軍人になったのは、それしか身を立てる方策がなかったからなのです。
 私だけじゃない。軍には、貧しい生まれの者が多い。兵士たちもまた、ほとんどは貧しい家の生まれです。軍人のなかには、自分は貧しい生まれなのに、軍高官の娘を嫁に迎え、出世だけを望む者も少なくない。残念ながら、自分の同志たちのなかにも、そういう連中がいます。自分の義父が、統制派に排除され、出世の道を閉ざされるのが悔しくて、腹いせに蹶起を考えている者もいます。
「香野大尉や林原中尉ね」
 あなたは何でもお見通しだ。磯村大尉は苦笑いして言った。私の内妻が、朝鮮の小料理屋で娼婦をやっていた貧しい娘だということもご存じなのでしょうね。
「ええ、調べさせていただいたわ」
 満枝は言った。
「いい奥様ね。ああいう女性を妻に迎えられた方だからこそ、わたくしは磯村大尉殿を信頼申し上げているのです」
 なるほど、全部お見通しというわけだ。磯村大尉は溜息と苦笑いとを漏らしながら言った。
 では、隠しても仕方ないのでお話しします。私の望みは、維新の断行です。ただし、明治維新と同じことをやっても、同じ歴史が繰り返されるだけです。新たな特権階級が生まれ、貧しい者を搾取する。この構図は永久に変わらないでしょう。
「では、どうすれば、同じ構図を繰り返さないですむのかしら」
 簡単です。特権階級をすべて抹殺するのです。
「あなたはまるで!」
 満枝は両手をぱちんと合わせて立ち上がった。
「レーニン主義者のようなことをおっしゃる!」
 そうかもしれません。磯村大尉は言った。
 私が望んでいるのは、ロシアのような革命であって、維新ではないのかもしれない。
「では、あなたは……」
 満枝は、無意識のうちに上下の唇を下で撫でながら言った。
「ロシアが皇帝を抹殺したような、同じ事を望んでらっしゃるのかしら」

「磯村さん、話がまったく違うじゃないですか!」
 陸軍大臣官邸で、額から血を流して横たわる三将軍の死体を前に、林原中尉はわめいた。
「川島陸軍大臣閣下を通して、我々の蹶起趣意書を陛下にお伝え頂く手はずではなかったんですか? その上で、荒牧閣下を首班とし、坂下閣下ら皇道派長老を中心とする内閣を擁立し、国家改造を推し進めるのが我らの目的だったのではないのですか? 陸軍大臣閣下を暗殺して、我々の真意をどなたに託すというのですか!」
 磯村は答えず、陸軍大臣官邸から、道路と堀を挟んだ先にある宮城(皇居)の方向に目をやった。

 そうです。
 一ヶ月前、磯村大尉は伊集院満枝にこう言ったのだった。
 陛下を弑し奉ることが国家改造につながるのなら、そうすべきです。

「磯村大尉殿!」
 洋館の居間で激しく自慰に耽り身悶えしながら、伊集院満枝は声に出して叫んだ。
「あなたの望みは今、わたくしのヨヒが、実行しつつあるはずだわ!」

 満枝の脳裡では、宮城内で、イ・ヨヒが繰り広げつつある惨劇が展開されていた。その前夜、ヨヒは皇太后の寝室で添い寝していた。蹶起部隊が行動を開始した午前四時頃、まず皇太后を殺害する。その後、侍従や皇宮警察官を皆殺しにする。ヨヒならば、誰にも気づかれぬまま実行できるはずだ。まだ幼い跡継ぎの皇太子は、命は奪わぬまま麻酔を打ち睾丸を切除する……。
 やがて天皇が目を醒ます。自分以外の者すべてが息絶えたのを知り、呆然と立ちつくす三十三歳の天皇は、ゆっくりと近づいてくるヨヒに声も出せない。返り血に染まったチマ・チョゴリの裾を揺らめかせながら、ヨヒは天皇に歩み寄る。
 どうするかしら……。
 陰部をまさぐり、あえぎ声をあげて身悶えしながら、満枝は想像をめぐらせた。
 膝で蹴り潰すのかしら。
 それとも、手で握り潰すのかしら。
 踵で踏み潰すのかしら。
 踏み潰した後、やはり、男根を切除して喉に押し込むのかしら。
 ああ……!
 満枝は声に出して叫んだ。
 わたくしもその場にいたかったわ!

「通せ!」
 陸軍大臣官邸の玄関で大音声がとどろいた。警備の兵たちを押し分けるようにして入ってきたのは、参謀本部の石原大佐だった。
 かつて、満州で関東軍参謀として満州事変を演出した石原は、今は作戦課長として参謀本部に勤務している。事件勃発を知った彼は、蹶起部隊に占拠された三宅坂の参謀本部に顔を出したが、参謀総長である閑院宮も、次長の杉山元中将も、行方が分からないという。気短な石原は、上司の指示を仰がぬまま、独断で蹶起将校たちが集まっている陸軍大臣官邸に乗り込んだのだった。
 玄関から入ってすぐの広間は、蹶起将校や忙しく出入りする兵たちでごった返していた。そのなかに磯村大尉を見出した石原大佐は、軍靴を鳴らして歩み寄り、大喝した。
「何と言うことをしてくれたのだ、貴様らは!」
 石原の大声に、他の将校たちも寄ってきて、二人を囲んだ。石原は詰問した。
「陛下の軍隊を私(わたくし)しおって! 何が維新だ! 何が国家改造だ!」
「石原大佐殿は……」
 山中大尉が駆け寄ってきて石原と磯部を引き離し、問うた。
「我々の義挙を、軍隊を私したと仰るのですか?」
「当たり前だ」
 石原は怒鳴った。
「俺の関心は国防の充実だけだ。世界最終戦に向かって国力を充実せねばならぬ今、維新の国家改造のと、内輪で血を流しあって何が義挙だ!」
「石原大佐殿」
 磯村が静かに口を開いた。
「大佐殿は、我々の蹶起をどの程度、把握していらっしゃるのですか」
「岡田総理をはじめ、重臣数名を殺害したのだろう?」
「それだけですか」
 唇の端を歪めて笑う磯村に、石原大佐は声をひそめて問うた。
「なんだと……?」
「大佐殿。我々は、陸軍大臣の他、陸軍次官、東京警備司令官、そして近衛師団長をも射殺しました」
「なにィ!」
 石原大佐は、磯村を突き飛ばし、大臣室に突進した。ドアを開け、血の海のなかに横たわったままの川島陸軍大臣ら三将軍の死体を見下ろし呻いた。
「荒牧閣下や坂下閣下までも……」
「そうです」
 石原大佐の背後に歩み寄り、磯村大尉は言った。
「あなたの上官である参謀総長閣下と、参謀次長閣下も、お命をいただきました」
「貴様!」
 石原大佐は、磯村大尉の胸ぐらを掴んだ。
「参謀総長は閑院宮殿下だ。皇族方をも殺害したというのか?」
「そうです」
 磯村は続けた。
「内閣だけでなく、軍首脳は一掃されました。腐敗した特権階級は全滅し、いよいよ我等の手で国家改造が実現できるのです」
「そんな事が出来るわけがない」
 石原は呻くように言った。
「第一、股肱の重臣を殺害されて、陛下が貴様らを義軍とお認めになるとでも、思っているのか?」
「陛下……」
 磯村大尉の面差しに笑みが拡がった。
「陛下は、たった今、宮城で崩御されたと知らせがありました」
「陛下が!」
 石原大佐だけでなく、その場にいた蹶起将校全員が異口同音に叫んだ。
「陛下が……まさか!」
 石原大佐は、磯村大尉の両肩を掴んで揺すぶった。
「陛下を……陛下を暗殺したというのか、貴様は!」
「嘘だ!」
 叫んだのは山中大尉だった。
「俺は聞いておらんぞ、磯村! 陛下を暗殺などと俺は聞いておらん。そんなはずはない。磯村、貴様、気でも違ったか?」
「俺は正気だ、山中。陛下は弑殺されたもうた」
 磯村大尉は、陶然と天上を見上げて言った。
「朝鮮の女パルチザンによって……」
 石原大佐は呆然と磯村大尉を見つめた。朝鮮の女パルチザン? なぜそんな者が宮城に潜入し、天皇を弑殺したというのか。
 そういえば……。
 石原大佐の脳裡に、四年前の風景がよみがえった。あれは南満州鉄道会社が開いたパーティだった。四十二歳の中佐だった石原は、その席で二十歳を過ぎたばかりというのに川奈産業の大株主である伊集院満枝を紹介された。それからほどなく、満州の北辺、ソビエト連邦との国境に接する大興安嶺地区で、三人の大日本帝国陸軍軍人が惨殺された。いずれも睾丸を潰され、男根を切り取られて口にふくまされ窒息死だった。その残忍なやり口は朝鮮の抗日パルチザンの常套手段だった。事件の背後に伊集院満枝の存在があった事を知るのは、石原だけだった。そして石原は事件を利用して関東軍を動かし満州事変を起こしたのだった……。
 そういえば……。石原の耳にも届いていた。伊集院満枝が、皇道派青年将校たちと連絡を取り合っているらしいと。
「まさか……」
 石原大佐は、磯村大尉に問うた。
「伊集院満枝の差し金ではあるまいな?」
「申し上げます!」
 びくりと眉根を動かした磯村が答えるより早く、外からかかってきた電話を取り上げていた下士官が駆け寄ってきて、大声で告げた。
「宮様が、御到着遊ばされました!」

 その頃。
 フード付きの外套をすっぽりと頭からかぶったイ・ヨヒが、伊集院満枝の洋館に姿を現した。
「やったのね!」
 ドアを開けて出迎えた満枝は、もどかしげに手を動かし、ヨヒの外套を脱がせた。
 返り血で赤く染まったチマ・チョゴリをまとったヨヒは、満枝に抱きつき、その唇を吸った。しばらく抱擁した後、ヨヒは言った。
「とうとう、潰した」
「潰したのね」
「ああ、潰した」
 長身の満枝の胸に顔を埋め、ふくよかな乳房を頬に感じながら、ヨヒは小さく呟いた。
 マンセー(万歳)……。

   W

 蹶起の朝から数日後。
 弘前から東京に到着した「宮様」は、摂政として大政を総覧すると内外に発表した。「統治権を総攬」すると憲法で規定されている「国の元首」の地位に就くと宣言したのである。
 続いて全国に戒厳令が公布され、議会は解散し、憲法はその機能を停止。「宮様」は危機管理内閣を立ち上げて自ら首班となり、国家改造を宣言した。その多くは北一輝が著した「日本改造法案大綱」に依っていた。言論の自由や基本的人権の尊重、華族制度の廃止、普通選挙制の実施、財閥解体、皇室財産の削減といった「民主的」な条文とともに、個人の私有財産を百万円に、私有地を十万円に、私企業の資産を一千万円までに制限、余剰分は国庫に没収し、主要産業は国営化するという過激なものであった。
 さらに「宮様」は宣言した。国家改造の目途がたったら、自ら摂政の座を降りて大統領となる。四年の任期を終えたら、選挙で新たな大統領が選ばれ、日本は共和制に移行する、と。
 しかし、「宮様」の国家改造は、約一ヶ月で頓挫した。海軍大尉であるもう一人の「弟宮」を担ぐ勢力が蜂起、帝都内で市街戦が展開され、「宮様」は東京を棄てて北へと退却した。「弟宮」は自ら皇位に就くと宣言し、「宮様」と配下の軍を賊軍と認定、討伐軍を編成して北に差し向けた。
 劣勢となった「宮様」を救ったのは、突然軍事介入してきた数万の紅軍(支那共産党軍)だった。ソ連の後援を得て樺太(カラフト)経由で北海道に上陸した紅軍は、「宮様」率いる軍と合流して反攻を開始した。
 満州では満州国軍が反旗を翻して関東軍と衝突し、朝鮮半島では抗日義勇軍が一斉蜂起、京城に侵入して朝鮮総督府を制圧した。朝鮮半島に駐留する日本軍は、「宮様」派と「弟宮」派に分かれて内戦を開始した。同様の事態は日本各地でも起こった。
 大日本帝国が支配していた全域が、激しい内乱状態に陥り、国家体制は崩壊した。ソ連や支那だけでなく、欧米各国も介入を始めた。

 北海道H市。
 七月に入り、北海道は短い夏を迎えていた。そこかしこに、市内を制圧した支那共産党軍の真っ赤な旗(五星紅旗)が翻り、毛沢東、スターリン、そして「宮様」の巨大な肖像画が飾られていた。略奪の後も生々しい商店街に地元民の人影はなく、ただ、軍服を着込んだ紅軍兵士が忙しげに右往左往している。
 二階建てレンガづくりのH市庁舎は、現在は紅軍司令部となっていた。津軽海峡を挟んで本州・青森県と向かい合う位置にあるH市で、本州上陸の準備を整えつつある紅軍部隊を、事実上指揮する軍政治委員の部屋は、かつての市長室にあった。
「同志ケ小平(トォンヂィー・トンシャオピン)、入ります」
 挙手の礼をして入室してきた二人の女に対し、三十一歳軍の政治委員・ケ小平は、ゆっくりと立ち上がり、挙手の礼を返して言った。
「坐りたまえ、同志馮芳芳(ヤン・ファンファン)、同志胡梅梅(フー・メイメイ)」
 紅軍兵士姿の二人の女性は、飯島喜代美と猪俣佐和子だった。
 市長室は、前と変わらぬ内装だった。他の党幹部は、ブルジョアジーの象徴として紅軍が接収した建物の絨毯や家具を取り払い、殺風景な内装にすることが多かったが、ケ小平という人物は、そのあたりは無頓着のようだった。
 並んでソファに座った喜代美と佐和子に向かい合ったケ小平は、リビングテーブルに一枚の写真を載せた。
「この女を捜し出してほしい」
 短い口髭を生やしたケは、落ちくぼんだ小さな眼を動かさず、低い声で言った。ふだんは知的で温厚だが、緊急時にあっては徹底的な非情さを見せる事で知られる軍政治委員は、この時も穏やかな面差しながら、声音には反論を許さない威が込められていた。
「チーダオラ(了解しました)」
 すぐに答えたのは喜代美だった。佐和子は、面差しを堅くしたまま、写真に写る女性を見つめている。
 そこに写っていたのは伊集院満枝だった。

 写真のなかの満枝は、髪を三つ編みに結い、紅軍兵士の制服をまとっている。
 前年の六月、瑞金のゲストハウスで出会ったとき、満枝は同じ格好をしていた。写真はその頃に撮られたのであろう。
 二月二十六日に青年将校が蹶起した事で引き起こされた内戦の混乱のなか、伊集院満枝はいずこかに姿を消していた。東京市内にあった洋館はもぬけの殻で、大株主をつとめていた川奈産業も、その行方を掴んでいない。
「政治委員同志」
 こわばったまま沈黙する佐和子の隣で、喜代美が落ち着いて問うた。
「この女を捜し出した後、どうすればよろしいですか」
「シャー(殺せ)」
 短く答えたケ小平を、佐和子が眼を見開いて見つめた。その驚愕の面差しをケの視線からそらすように、喜代美が立ち上がり、大声で答えた。
「了解しました、政治委員同志」
「これは必要あるまい」
 ケは、写真を取り上げ、胸のポケットにしまった。君たちは瑞金で、彼女に会っているはずだからな。そう言ってケはデスクに戻った。喜代美は挙手の礼をし、佐和子を促して部屋を出た。
 肩を並べて廊下を歩きながら、喜代美も佐和子も無言だった。共産党の施設内での立ち話は、まず盗聴されていると考えなければならない。外に出るまで、私語は禁物だった。
「驚いたね」
 街路に出た喜代美は、詰めていた息を吐き出すように言った。
「瑞金で会った、あの女だろ?」
 うつむいたまま、こくりと小さく頷く佐和子に、喜代美は続けた。
「お沢ちゃん、できる?」
 佐和子がかつて、満枝とただならぬ間柄にあったことは、喜代美も察していた。
「なんなら、あたい一人でやろうか?」
 気遣わしげに覗き込んでくる喜代美の目差しに、佐和子は首を振った。
「党の命令には絶対服従する」
 佐和子は小さく、しかし声音を崩さずに言った。
「それが党員よ」
 そう言った佐和子の肩を、励ますように叩いて、喜代美は呟いた。
「それにしても、あの女、どんなヘマをやらかしたンだろ?」
 暗殺の理由を詮索する気は、喜代美にはなかった。共産党において、内部粛清は日常茶飯事だ。要するに満枝は、党中央が排除すべきターゲットになった。ならば排除されなければならない。
 ねえ、喜代美ちゃん。
 佐和子が口を開いた。
「なンだい?」
「あの女を見つけ出したら、必ず私の目の前で息の根を止めてほしいの」
「ん?」
 いぶかしげな面差しの喜代美に、佐和子は言った。
「あの女を殺す前に……」
 佐和子は「殺す」という単語をためらうことなくはっきりと声にして発した。
「聞きたい事があるから」

 五稜郭は幕末に建造され、戊辰戦争の際は榎本武揚率いる旧幕府軍の本拠地となった西洋式要塞である。星形の土塀の内側は十二万五千平米の広さがあり、その中央にはかつての奉行所の木造建築が保存されていたが、H市を制圧した紅軍によって取り壊された。
 その跡地に木製の演壇が組まれ、五星紅旗を取り付けた旗竿が林のように並べられ、風に翻っていた。
「糾弾せよ!」
「糾弾せよ!」
 後ろ手に縛られ、紙製の三角帽子をかぶらされ、それぞれの「罪状」を書き付けた板を首からぶらさげられた十人の男女が、演壇に坐らされていた。その演壇を数千人のH市住民が取り囲み、紅軍兵士が監視するなか、十人の「犯罪者」に向かって拳を振り上げ、声を揃えてののしっている。
「諸君!」
 拡声器のマイクを手にした若い紅軍女性兵士が、演壇にあがって叫んだ。住民たちは一斉に口を閉じた。
「我々は今、解放された!」
 なまりのない日本語だった。
「毛沢東同志主席の正しい指導の下、支那共産党の果敢なるたたかいによって、地主や資本家たち、国家権力の手先となって人民を搾取していた犯罪者どもは、この地から一掃された!」
 住民たちが一斉に拍手した。会場内に万雷の音が響き渡るなか、日本人女性兵士は満足そうに頷いていたが、やがて両手を高く上げた。拍手がぴたりと止んだ。
「そして我々は、人民の名のもとに犯罪者どもを裁かねばならない。」
 それから日本人女性兵士は、一人の「犯罪者」の襟首を掴んで立たせた。H市の元市長だった。「この男は、資本家や地主どもが要請するまま、貧しい住民に重税を課し、貧困から救い出す手だてもせず、贅をむさぼっていた!」
 違うか? 日本人女性兵士に詰問され、元市長は首を横に振り、弱々しく言った。私は、貧しい人達のために様々な施策を行った。たとえば……。
「嘘をつけ!」
 いきなり日本人女性兵士は、元市長の股間を膝蹴りにした。元市長はうめき声をあげ、うつぶせに倒れた。歯を食いしばって激痛に絶える元市長の顔を、軍靴の踵で踏みつけながら、日本人女性兵士は怒鳴った。
「罪を自白しろ! 人民の前で自己批判せよ!」
 やるねえ……。
 次々と「犯罪者」たちを締め上げ、股間を蹴り上げていく日本人女性兵士を見ながら、喜代美は佐和子にささやきかけた。
 あたいが瑞金で毛主席に提案したことが、ちゃんと実行されてる。
 喜代美とともに、監視の紅軍兵士たちに混じって、住民たちの批判闘争を見ていた佐和子の目差しは、いちばん端に坐らされた「犯罪者」の一人に注がれていた。
 篠原ヨシだった。
 伊集院家の高大な敷地を保有する「地主」の手先として逮捕された彼女は、怯えて面差しを引きつらせた「犯罪者」たちのなかにあって、ひとり静かに眼を伏せている。
 必ず、居場所を吐かせてやる……。
「批判闘争大会」が終わった後、佐和子は篠原ヨシを訊問する事になっていたのだ。あの忠実な使用人だった篠原ヨシが、伊集院満枝の居場所を知らぬはずがない。佐和子はそう確信していた。
 九人の「犯罪者」たちがことごとく睾丸を蹴られて悶絶するなか、日本人女性兵士は最後に残った篠原ヨシを立たせた。
「自己批判しろ!」
 激しく平手打ちを浴びせる女兵士に、ヨシはたじろぎもせず、いきなり唾を吐きかけた。
「こいつ!」
 女性兵士は、ヨシの膝を蹴って倒し、うつぶせになったその背中に幾度も踵を打ち込んだ。
 あの女(ひと)……。
「犯罪者」に罵声を浴びせる住民たちに混じっていた一人の女性が、女性兵士を見つめながらうめくようにつぶやいた。
 澄江(すみえ)さん……。
 安西小百合(あんざい・さゆり)だった。その傍らに立った小柄な四十男が、小百合を一瞥した。労働者ふうのなりをした四十男は、参謀本部の石原大佐だった。

 半月前。
 本州の北端・青森県の弘前市は、北海道を制圧した紅軍が渡海して侵攻してくるとの噂に混乱の極にあった。市長を始め市幹部や企業経営者たちは真っ先に逃げ出し、鉄道などのインフラ機能は麻痺していた。大八車に家財道具を載せ、南へと逃げる住民の長い列が続いた。
 安西小百合が園長を務める孤児院では、食糧の備蓄が底をつきかけていた。預かっている五十人の孤児たちのためにも、南に向かうべきではないかと言う職員たちの声に小百合は決断した。ひとまず協力関係にある隣県の孤児院を頼る事とし、孤児や荷物を運ぶための大八車を集めるよう指示した。職員たちが大八車探しに奔走するなか、小百合はひとり孤児院に残り、事務処理に励んだ。
 その日も小百合は、園長室で書類を整理しているところに、悦子(えつこ)が顔を出した。
「園長先生」
 十六歳になり、職員として孤児院で働く悦子は、小百合を職名で呼んだ。お客さんです。
 悦子に続いて園長室に入ってきたのは、石原大佐だった。
「安西小百合さんですね」
 鳥打ち帽に背広姿の石原は、見知らぬ来客に当惑する小百合に対して、姓名と官職を名乗った後、それから悦子に目をやった。席を外してほしいふうだったが、小百合は毅然として言った。
「彼女はわたくしの右腕です」
 ご高名は存知でおりますが、お目にかかるのは初めてです。そんな方と一対一でお話しするのはお断りします。
「わかりました」
 石原大佐は頷いた。小百合は部屋の隅のソファに石原を座らせ、悦子と並んで向かい合った。
「実は……」
 石原大佐は、小百合を見つめて言った。
「満州では、御夫君と面識がありました」
 眼を見開いた小百合に、石原は説明した。満州事変が起こる半年ほど前、川奈産業の大株主である伊集院満枝と知り合いになった。満枝がしばしば使者として関東軍司令部に勤める石原のもとに寄越したのが、川奈産業社員だった小百合の夫・増田喬だった。
「増田さんの御不幸は存じています」
 上海事変の際にはお気の毒でした。帽子を脱いで頭を下げた石原に、小百合は俯いたまま、堅い面差しで問うた。それで、何か御用でしょうか?
 石原大佐は居ずまいを正して言った。
「私は今、伊集院満枝嬢を捜している。ついてはご協力を願いたい」
 驚いて顔をあげた小百合に、石原大佐は続けた。
 あなたが、H市の女学院で伊集院嬢の後輩だったことは知っています。この孤児院建設にも伊集院嬢がずいぶん助力なさったらしいことも。
「わたくしに何をせよ、と?」
 小百合は堅い面差しで問うた。大佐は言った。噂によれば、伊集院満枝嬢は生まれ故郷のH市に渡ったらしい。土地勘があり、伊集院嬢とは顔見知りのあなたが、私と一緒にH市で捜索に協力していただければ、こんなに有難いことはない。
「わたくしは無力な女です」
 小百合は首を振って拒否した。
「何より、今は孤児たちをここから安全な場所に避難させねばなりません」
 石原大佐は諦めなかった。
「孤児たちがぶじ避難できるよう、私が力をお貸しします」
 山形県の酒田市に、私を支援してくれる東亜連盟という組織があります。在郷軍人が中心の団体で、山形県内に駐屯する陸軍部隊と協力して動いている。そこから運搬用のトラックを出してもらうよう頼んでみます。
「なぜそこまでして……」
 小百合は悦子と顔を見合わせ、ますます当惑して問うた。
「満枝さんをお捜しになりたいのですか?」
「私が思うに……」
 石原大佐は大きく息を吸い込み、俯き加減に言った。
「今の事態を引き起こしたのは、伊集院満枝です」
 嬢をつけず呼び捨てにした石原大佐を見つめ、小百合は唖然とした。今の事態を?
 満枝さんが引き起こした……?
「そう。今日の、我が帝国を四分五裂の内戦状態に陥れた発端は、私が策を練って引き起こした満州事変にある。あれがなければ今日のこの事態はなかったと思うのです。そして……」
 石原大佐は、自分に満州事変を起こすことを決意させたのは、伊集院満枝が抗日パルチザンを操って起こした日本人将校殺害事件である事を説明した。
「睾丸を潰し、陰茎を切って口に含ませ窒息死させる……」
 喉を鳴らして小さく悲鳴をあげたのは悦子だった。両手で口を押さえて眼を見開いている。
「大佐殿!」
 悦子の肩を抱きがら、小百合は石原大佐をにらみつけた。彼女は、親に虐待され家出した元孤児です。刺激的な言葉は避けてください。
「失礼した。しかしこれは重要な事なのです」
 石原大佐は素直に謝罪しつつ続けた。
「なぜならば、この手口で行われた事件はそれだけではないからです。最近まで日本中を騒がせた華族子弟殺害事件も、同じ手口でした。弘前市内でも、同様の事件が起こり柔道家子弟が殺害されたと聞いております。そして……」
 今上の……。石原大佐は呻くように言いかけ、口を閉ざした。
「陛下が?」
 小百合は息を呑んで問うた。
「そんなふうに……?」
「ともかく」
 小百合の問いには答えず、石原大佐は言った。
「抗日パルチザンによる将校殺害事件を皮切りに、次々と起こって今に至った諸々(もろもろ)の事態をつなぎ合わせていけば、伊集院満枝に突き当たるのです。そうだとしたら私は、たかが二十歳の女にそそのかされ、帝国を崩壊させた片棒を担いだことになる」
 そんな事は許せない。面差しを歪め、石原大佐は付け加えた。
「許せないとは、どういうことでしょう?」
 殺すという事ですか、とは言葉にできず、濁った口調で小百合は問うた。石原大佐は靴を閉ざしたまま、答えなかった。
「園長先生……」
 悦子が、こわごわと口を挟んだ。小百合を見つめて問うた。
「さっきからお話に出ている伊集院さんって……あの時の人?」
 二年前の正月、植樹祭のため「宮様」が弘前を訪れた際、随行した伊集院満枝が、小百合の通う学校で講演を行った事を、小百合は思い出した。石原大佐が触れた柔道家子弟殺害事件は、まさにその時に起こったのだ。彼らが睾丸を潰されて殺された事は、小百合の耳にも入っていた。
 睾丸を潰す……。
 確かに満枝さんのやり口。
 もし、石原大佐の言う事が本当だとしたら……。
 そう。事は満洲で始まったんじゃない。
 あの時。H市郊外の山のなかで小百合が目撃した事。
 伊集院満枝が、白痴の股間を蹴り上げて気絶させ、さらに石をもって睾丸を叩き潰したあの時。
 あの時からすでに始まっていた……。
 そして、私は止められたはずなのだ。
 昨年の正月、弘前市内で孤児院建設のための慈善講演会を開いたとき、満枝は小百合と、弘前市内の同じ旅館に泊まった。夜中に外出し、おそらく誰かを去勢して死に至らしめて帰ってきた満枝の股間に、葡萄酒で泥酔した小百合は、膝蹴りを浴びせた。
 膝蹴りだけじゃなく、あの時……。
 自分の手で、満枝の息の根を止めていたら。
 いいえ。せめて警察に訴え出ていたら……。
「石原大佐殿」
 小百合は静かに言った。
「わたくし、ご協力します」
 驚いて小百合を見やった悦子に、あなたは孤児たちと一緒に、酒田市に逃げて。大丈夫、私は必ず帰ってくるから、それまで孤児たちをお願いね。
 引き止める悦子を「あなたにしかできないことよ」と諭(さと)し、小百合は石原大佐に向かって言った。ただし……。
「満枝さんのお命を奪うのが目的ならば、わたくしは協力いたしません」

 話は再びH市。
 かつてI女学校だった場所は、今や政治犯収容所であった。教室に押し込められたおびただしい数の政治犯は、連日拷問を受けていた。男性の拷問を行うのは、女性兵士の役目だった。拷問室で睾丸を責めたてられるだけではなかった。女性看守たちは普段から、何かと難癖をつけて政治犯たちの股間を蹴り上げ、のたうちまわって悶絶する彼等を嘲笑った。日に一度は睾丸を蹴り上げられ、ほとんどの政治犯は性的不能に陥り、反抗する気力も失い、廃人同様になっていった。
 五稜郭で「批判闘争大会」が行われて三日後の午後。
 かつては用具置き場であった体育館に隣接する小屋は、今は拷問部屋として使われていた。小屋のなかから洩れてくる呻き声に、外に立っていた四十がらみの女性収容所長は満足そうに頷いていた。
 やがて呻き声が途絶え、小屋のドアが開いた。顔を出したのは、小柄な女性兵士だった。三日前の、「批判闘争大会」で犯罪者たちを罵り、股間を蹴り上げていた日本人女性である。
「ツォワン(終わりました)」
 挙手の礼をして報告する日本人女性に、収容所長は言った。
「特別休暇を与える」
「ありがとうございます」
 収容所長は、背後に控えていた看守たちに、拷問室の床に転がって悶える政治犯を運びだすよう命じた。激痛に苛まれ両手で股間を押さえたまま連れ去られる政治犯を見やりながら、看守長は笑顔で言った。
「あなたのおかげで大勢の犯罪者を自白に追い込めた。骨休めをしてきなさい。同志澄江(チェンジャン)」
「はい」
 チェンジャン(澄江)と呼ばれた日本人女性は笑顔で答えた。
「同志の配慮に感謝いたします」

「まさか、こんな形で帰ってこようとはね……」
 チェンジャン(澄江)と呼ばれた日本人女性兵士は、I女学院だった収容所の門を振り返った。鉄柵と鉄条網で堅牢な要塞と化した内部では、かつては大勢の女学生たちが笑いさざめいていたが、今や、政治犯たちが呻吟する地獄となっているのだ。
 女性兵士は、その事に特に感傷にふけるふうもなく、人けのない街路を歩いた。今日は特別な休暇を貰った。特別な休暇とは、かつてH市一と呼ばれた中央ホテルで過ごす権利を得られるということだ。そこは、紅軍と共同軍事行動を取っているソ連軍兵士の宿舎となっている。
 紅軍内での恋愛は固く禁じられているが、ソ連共産党から内々の要請もあり、紅軍女性兵士がソ連軍兵士と情を交わすことは黙認されていた。紅軍女性兵士が外泊することは許されていないので、その夜のうちに紅軍宿舎に帰らなくてはならないが、性的な欲求不満をはらす数少ない機会なのだ。
 久しぶりにイワンに会える……。
 女性兵士は、小さく声に出して呟き、軽く鼻歌を歌いながら足取り軽く中央ホテルへと急いだ。彼女の後を尾けてくる二つの人影に気づいたふうはなかった。

 二時間後。
 中央ホテルの玄関は、毛織りのシェレム(軍帽)をかぶり分厚いコートを羽織ったソ連兵数名が、銃剣を提げて警備していた。
「ダ・スヴィダーニァ(さようなら)」
 玄関の内側から姿を現した件の女性兵士が、兵士たちの背後から声をかけた。すっかり顔なじみになっているらしい兵士たちは笑顔を見せ、女性兵士は軽やかな足取りで街路へと出た。
 頬をいくぶん火照らせ、さきほどまでの高揚が収まりきれない面差しで、女性兵士は元来た道を歩いた。しばらく歩くと市街地を離れ、暗い夜道となった。
「動くな」
 女性兵士の面前に、不意に男が立ちはだかった。
 手に拳銃を持ち、女性兵士に向けている。女性兵士は反射的に両手を上にあげた。
「おとなしく従えば悪いようにはせん」
 鳥打ち帽を目深にかぶり、コートを羽織った男は、銃を女性兵士に擬したまま、ゆっくりと歩み寄った。銃口が彼女の腹部に接するまでに近寄った時、女性兵士が動いた。右手が素早く動き、突きつけられた拳銃を払い落とした。同時に、彼女の膝が男の股間に打ち込まれた。
 男は呻き、両手で股間を押さえてくずおれた。その無防備な後頭部に、女性兵士は右肘を打ち込んだ。男は俯せに倒れ、動かなくなった。
 女性兵士は息を整えながら、男が取り落とした拳銃を拾い上げ、しばらく失神した男を見下ろしていたが、不意に拳銃を、近くの電柱に向けた。
「誰?」
 電柱の影にひそんでいた人影が、小さく悲鳴をあげた。
「出てこい!」
 人影は、観念したように立ち上がり、両手を挙げた。そのとき、黒雲から満月が顔をのぞかせ、その光で暗い夜道が明るく照らされた。
 電柱の影から姿を現した女を凝視していた女性兵士は、眼を見開いて呟いた。
「あんたは……」
 信じられない面持ちで女性兵士は、拳銃を構えたまま、電柱に潜んでいた女――安西小百合の顔をまじまじと凝視した。
「まさか、小百合……」
「そうよ」
 安西小百合は、泣きそうな顔で頷いた。
「澄江さん」
 女性兵士――かつてI女学院で小百合と同級生だった外山澄江(とやま・すみえ)は、小百合に歩み寄ろうとした。
 その時、倒れていた男が、澄江の足首を掴んだ。反射的に澄江は、手にした拳銃を男に向け、引き金をひいた。銃声が鳴り響き、小百合は悲鳴をあげてしゃがみこんだ。
 男――石原大佐は、顔面に銃弾を撃ち込まれ絶命した。

「まさか、こんなところで再会するとはね」
 H市内には、住人が逃げ出したため無人となった民家が珍しくない。石原大佐を射殺した外山澄江は、安西小百合の頭髪を掴んで、近くの民家に引きずり込んだ。自らのベルトを外して、小百合を後ろ手に縛り上げ、床に転がして澄江は問うた。
「あんた、なんでこんな所にいるの? そもそも、あの男は誰?」
「石原大佐……」
 肩で息をしながら、小百合は答えた。
「石原?」
 しばし小首を傾げていた澄江は、何かを思い出して叫んだ。
「ひょっとして……」
 澄江は問うた。
「満州事件を起こした、元関東軍の石原参謀?」
 小百合は頷いた。
「大手柄だわ!」
 澄江は満面の笑みで叫んだ。
「支那人民から土地を奪い取り、偽満州国を建国した戦争犯罪人を、私は殺したってわけね!」
 腰を折って笑い転げるかつての級友を見やり、小百合は叫んだ。
「澄江さん! あなたなぜ、そんな格好で……」
「そりゃ、こっちの台詞よ」
 笑いをおさめて外山澄江は、小百合の傍らに膝をつき、彼女の頬を叩いた。
「女学院時代には、無口でおとなしくて目立たなかったあんたが、なんで石原参謀みたいな大物と一緒に、私を待ち伏せしていたのさ?」
「それは……」
 頬を張られて涙を流しながら、小百合はきれぎれに答えた。
「あなたなら……満枝さんの居場所を……」
「みつえ?」
 澄江は小百合を凝視して問うた。
「みつえって、まさか……」
「そうよ」
 痛みと恐怖に思うように動かぬ舌を使って、小百合は声を押し出した。
「伊集院満枝さん」

 六年前。
 H市の警察署長の娘だった外山澄江は、常に小百合たち級友を従え、我が物顔で学校内を闊歩していた。その澄江を転落させたのは、伊集院満枝だったのだ。
 H市市内で五人の男が去勢された死体となって発見された。犯人は見つからず、澄江の父は面目を失った。仲間たちのリーダー格として肩で風を切っていた澄江もまた以前の地位を失い、仲間たちは離れていった。
 殺害事件の犯人が伊集院満枝らしいと知った澄江は、登校するたびに満枝から向けられる凝視に怯えた。ついに精神に障害を来たし、学校に来なくなった。そして、父の左遷とともに樺太に去っていったのだった。
「あんた、なぜ……」
 澄江は問うた。
「伊集院満枝を捜してるわけ?」
 小百合は説明した。石原大佐から、北海道にいるらしい伊集院満枝の捜索協力を要請されたこと。大佐を支援する東亜連盟が用意した船で海を渡り、H市に潜入した小百合と石原は、地元住民に紛れて「批判闘争大会」に参加したこと。そこで偶然、外山澄江を見かけたこと……。
「石原さんは……」
 小百合は言った。
「今の、この事態を招いたのは、すべて満枝さんが企んだ事じゃないかとおっしゃっていたの」
 小百合の説明を聞きながら、澄江は人さし指で頬を撫でつつ、疑わしげな目差しを小百合に投げかけていた。小百合は続けた。
「だから帝国軍人として満枝さんを放ってはおけないと……。私も、やっぱり聞きたくて……」
「聞きたいとは?」
 澄江は声を荒げた。
「まさかあんた、石原と同じように、伊集院満枝が日本をこんなふうにしたと思ってるわけじゃないでしょうね?」
「違うわ」
 小百合は、眼に涙を溜めて、口調を荒げた。
「それだけじゃないの!」
 川奈産業の御曹司・昭三の死、直接昭三を死に至らしめた猪俣佐和子のこと、その川奈産業に夫・増田喬を入社させ、結果的に上海での死に追い込んだこと、小百合の孤児院建設に助力したのは「私が世界を壊し尽くした後」小百合に立て直してもらいたいからだと言った、弘前の旅館での言葉の真意……。聞きたいことは山のようにあった。
「私が樺太に行った後、そんな事があったんだ……」
 澄江は遠くを見る眼差しで呟いた。そして、樺太に行った後の自身の身の上を語り始めた。

 樺太は寒かったわ。何もないところだった。樺太支庁のあった豊原市は、そこそこ人が住んでいたけれど、本当に寂しい所だった。
 樺太に着いたばかりの私は、ひたすら家に引きこもっていた。何もやる気が起こらなかった。一日中ベッドに寝そべって、三度の食事と、たまのお風呂以外は、何もしなかった。父も母も、私のことは「いない者」扱いで、女中と看護婦に任せきりだったわ。
 何もしないまま一年が過ぎて、ふと思ったの。
 このままじゃいけないって。
 このまま朽ち果てたくない。元通り、外に出て動きたい。どうすれば、それが出来るのか、と。
 ある夏の夜だった。珍しく暖かい夜だった。私は寝室を抜け出し、外に出た。暗い街をふらふらしていたら、白痴が歩いてくるのに出くわしたの。
 そう。あの時、伊集院満枝が山の中できんたまを潰して殺したような白痴。
 伊集院満枝が、川奈産業の大株主として活躍していることは知っていたわ。聞こえてくるあの女の活躍ぶりと、自分自身のていたらくを比べて、惨めな思いが募るばかりだった。
 だからかしら、白痴を見ながら、ふとこんな考えが浮かんだの。
 今、あのときの伊集院満枝と同じことを、この白痴にやってのけたら、私は変われるかもしれない、と。
 私は、白痴に駆け寄り、思い切り股ぐらを蹴り上げた。膝の上で、柔らかい肉球が二つ、平らになったのが感じられたわ。
 その後、私が白痴に何をしたか、よく覚えていない。気がつくと、私の足下に血まみれの白痴が転がっていた。苦しそうに呻くばかりで何もできない白痴。それを見ているうち、自分のなかに自信がみなぎってきたの。
 私、やれる!
 私は、伊集院満枝がやったように、石ころを拾い、そいつの睾丸を叩き潰した。
 まもなく、私は家出した。豊原市をのし歩く不良集団に身を投じ、暴れ回った。男であれ女であれ、敵対する連中を血祭りにあげてやった。そして今年の三月、紅軍が侵攻して来た。私は、紅軍に参加を申し出て許された。日本兵や戦争犯罪人を大勢去勢した。私、すごく誉められたわ。同じ日本人を情け容赦なく責めさいなむ私は、毛沢東主席の思想の体現者だと……。
「そう……」
 澄江は言った。
「私はもう、警察署長のお嬢さんじゃない。数え切れないほどの男を去勢した紅軍兵士チェンジャン(澄江)。楽しかったわ。楽しかった。だけど……」
 まばたきもせず澄江の述懐に聞き入る小百合に、微笑みを見せて澄江は続けた。
「たまに思うの。私があの女、伊集院満枝と出会わなかったら……」
 澄江の微笑みが消え、眼から涙がほとばしった。
「今頃、私は違う人生を送っていたんだろうなって……」
 違う人生。
 涙を流す澄江を見つめ、小百合は思った。
 そうかもしれない。私もそうかもしれない。
 違う人生があったかもしれない。
 私だけじゃない。
 この国全体が、運命を狂わされたのかもしれない。
 あの女の……愉しみのために。
「澄江さん」
 いつしか澄江は、床に座り込み、壁に背をもたせかけ、天上を見つめて黙していた。後ろ手に縛られたまま、小百合は身を起こし、澄江ににじり寄って言った。
「満枝さんに、会いたくない?」
 澄江の眼が大きく見開かれた。
「六年前のあの頃、こんなふうになるなんて、思ってもいなかったわ。澄江さんも私も、学校を卒業したらお見合いをして、お嫁にいって、今ごろは子供も産んで、平凡だけど穏やかな生活を送っているはずだって。でも私は夫を失った。孤児院を建設したけれど、それも内戦で失う羽目になった。澄江さん、あなたは……」
「そうね」
 言葉を続けることをためらった小百合に、澄江は苦い笑みを浮かべて言った。
「私、まるで伊集院満枝と同じ事をやってる」
 人殺しよ……。そう呟いた澄江に、小百合は言った。
「どうしてこうなったのか。石原大佐がおっしゃっていたように、最初から満枝さんが仕組んでいたことなのか、澄江さん、知りたくない?」
 澄江は口を閉ざし、小百合を凝視しつつ、考え込んだ。

 翌日。
 H市内の男性政治犯収容所近く、荒れ果てて人けのない公園のベンチに、喜代美と佐和子は並んで坐っていた。
「お佐和ちゃん、元気ないなア」
 喜代美は、無言で俯いたままの佐和子の体に両手を絡ませ、その頬に唇を寄せながら問うた。
「あの、篠原ヨシって女の事が、忘れられないのかエ?」
 佐和子は面差しをゆがめた。
 その前夜、五稜郭での「批判闘争大会」が終わった後、元H市長をはじめ「犯罪者」たちは銃殺されたが、篠原ヨシだけは、女性政治犯収容所に戻され、拷問室に連行された。そこでヨシを待っていたのは、佐和子と喜代美だった。
 佐和子とヨシは六年ぶりの再会だった。ヨシは佐和子のことを覚えていたようだが、特に表情も変えなかった。
 伊集院満枝はどこにいる?
 拷問用のムチを片手に佐和子は問うた。ヨシは微笑を浮かべるのみで答えなかった。逆上した佐和子に幾度も激しくムチ打たれながら、ヨシは悲鳴ひとつあげなかった。間断ない責め苦についに意識を失ったヨシに、佐和子が冷水を浴びせると、かすかに眼をあげ、初めて口を開いた。
 ――あなたは昔、満枝お嬢様のお友達だった方ですね。
 そう言って微笑んだヨシは、もう一言だけ付け加え、再び沈黙した。
 ――お嬢様が、お世話になりました。
 唖然と立ちすくむ佐和子に、離れて拷問の様子を見守っていた喜代美が声をかけてきた。
「この女、よっぽど伊集院満枝に心酔してるンだね」
 そうじゃないか? そう問われたヨシの瞳がかすか動いた。眼に涙があふれ出て、腫れ上がった頬をつたった。その涙を見た喜代美は、佐和子に言った。
「この女、どうにもならないよ」
 喜代美は首を振って続けた。
「もう、殺すしかねエ」
 あの女のために死ぬのが、こいつの生き甲斐なんだからな。
 そうつぶやいた喜代美に、ヨシの眼は輝いた。
 翌日、ヨシは銃殺された。死に顔には笑みが浮かんでいた――。
「女ってのは、どんな拷問にも負けねエもんだ」
 喜代美は、そう言って佐和子の肩を抱いて慰めた。
「お佐和ちゃんのやり方がまずかったわけじゃない。ああいうもンだよ」
 男は、きんたまを蹴ればいいから楽なんだけどねえ、と笑った喜代美は、ふとつぶやくように感慨を漏らした。
「あの女も、よっぽど伊集院満枝に惚れてたンだね」
「やめて!」
 佐和子が叫んだ。驚いて彼女の顔を見た喜代美に、佐和子は溢れ出そうな涙や、こみ上げる嫉妬心を必死に押さえながら言った。
「そういう言い方はやめて……」
 そう言って佐和子は、いきなり喜代美に抱きつき、ベンチに押し倒した。軍服の胸をはだけ、露わになった豊かな乳房にむしゃぶりついた。
「私が好きなのは……」
 激しく顔を振って、喜代美の乳房に押しつけながら、佐和子は叫んだ。
「喜代美ちゃんだけなんだから!」
 喜代美の面差しに苦笑いが浮かんだ。佐和子の後頭部をそっと抱き、ゆっくりと手を動かして愛撫しながら、喜代美は思った。
 お佐和ちゃんも、よっぽど惚れてたンだな……。
 しばらく二人は、無人の公園で互いのからだをむさぼりあった。一時間近くも求め合い、精魂尽き果てた二人は、やがて起き上がってベンチに座り、衣服を整え、互いを見つめ合って笑った。
「私……」
 はにかんだ笑顔で、佐和子は言った。
「やっぱり、喜代美ちゃんが一番好き」
 そう言われて、喜代美は満面に笑みを浮かべ、嬉しげに佐和子の頬に接吻した。
「でも……」
 佐和子は続けた。
「伊集院満枝は、別なの」
 私の人生をあんなふうにしたのは、あの女だから。
 そして、あんなふうだった私を、こんなふうにしてくれたのは、喜代美ちゃん、あなた。
「私は聞きたいの」
 佐和子は言った。
「私をあんなふうしたのは、最初から分かってやったことなのか、と」
「だったら……」
 喜代美は両手を天に突き上げ、全身を伸ばしながら言った。
「捜し出すしかねエよな!」

 一時間後。
 女性政治犯収容所とは別の場所にある男性政治犯収容所の拷問室に、喜代美と佐和子の姿があった。彼女らの目の前に、二人の男が怯えて座っていた。一人は伊集院満枝の牧場を管理していた男で、もう一人は川奈産業の幹部だった。
「いいか、お前ら」
 貴代美はにやにや笑いながら言った。
「きんたまって潰れると、よっぽど痛エんだぞ!」

 しばらく後、二人の政治犯が股間を両手で押さえ、床に突っ伏して苦悶の嗚咽を漏らしているのを尻目に、貴代美と佐和子は拷問室を出た。
「やっぱり男は楽だなア」
 貴代美は廊下にかかった時計を見やって言った。
「ものの十分ですんだ。あっけないもンだ」
「S市ね」
 佐和子は頬を紅潮させて言った。二人によると、川奈産業では北海道庁のあるS市に満枝がいるらしいという情報を掴んでいた。社員をS市に派遣しようとした矢先、紅軍が侵攻してきたのだった。
 H市からS市には、陸路で三百キロ離れている。鉄道は運行を止めたままだ。車を手配しなければならない。
 収容所長室に入った二人は、事の次第を報告したついでに、これからS市に行くと告げた。
「それならば……」
 女性の収容所長は言った。この収容所に勤務している女性兵士が、今からS市に向かいます。トラックを使いますから、一緒に乗っていくといいでしょう。
 所長室のドアがノックされた。「入りなさい」と言われ、二人の女性兵士が入ってきた。
「こちらは、同志胡梅梅(フー・メイメイ)と同志馮芳芳()」
 所長は、入ってきた二人に、佐和子と貴代美を紹介した。S市まで同行しなさい。そう言われ、一人の兵士は「チーダオラ(了解しました)」と即答したが、もう一人は眼を見開いて、佐和子を凝視した。
 二人の女性兵士は、外山澄江と安西小百合だった。(第十一部・了)







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