悪霊

第三部・五月の紅い空



【登場人物】
伊集院満枝…………………………H市の地主の娘
猪俣佐和子…………………………満枝の元クラスメイト。東京で左翼活動に従事
安西小百合…………………………伊集院満枝の一年後輩
佳代…………………………………貧しい農家の娘
喜代美………………………………女工
小沼健吾……………………………労働運動家。伊集院家の元小作人
篠原ヨシ……………………………伊集院家の使用人
村野栄太郎…………………………党員。マルクス主義研究者
堀田弁護士…………………………満枝の法定後見人
川奈昭一郎…………………………満枝の元婚約者・昭三の父。川奈産業社長
白瀬朱鷺……………………………女相場師。料亭「扇屋」の女将
鎌田悟………………………………党員。東京支部第四地区長
増田喬………………………………小百合の兄の後輩

昭和五年(一九三〇)年三月〜五月。東京市、北海道H市



  T

 東京の春は、思ったより遅い……。
 外套の襟をたてて家路を急ぎながら、猪俣佐和子(いのまた・さわこ)は思った。
 三月に入ってから十日が経つというのに、昨日は雪さえちらついていた。
 午後六時を過ぎていた。いつものように茶封筒を抱えて印刷所に寄り、顔なじみの守衛に渡し、軽く言葉をかわして、佐和子は駅へと向かった。中央線に乗って神田に出て、山手線に乗り換え、日暮里で降りる。
 駅前の商店街で、二人ぶんのお総菜(そうざい)を買い、いそいそと向かった先は、昨年暮れ、小沼健吾に誘われて参加した「研究会」で出会った、女工の貴代美(きよみ)のアパートだった。
 初めて出会った夜から一週間後、佐和子は弥生町の下宿を引き払い、日暮里にある貴代美の部屋へ引っ越した。以来、ずっと同居生活が続いている。
 貴代美は、女工の仕事の他に、週の半ばは女給としても働いている。曜日は決まっていない。女給の仕事のない日は、佐和子より早くアパートに戻っている。アパートの建物が見えてくると、佐和子はまず、貴代美の部屋の窓を見る。あかりがともっている時は、自然と笑みが漏れてしまう。
 だが、今週に入ってからは、月曜日から木曜日まで、貴代美の帰りは遅かった。今日は金曜日。さすがに早く帰っているのではないかと期待したが、窓は暗いままだった。
 ……お店が忙しくて、手が足りないって言われてサ。ごめンよ。
 貴代美はそう謝っていた。忙しいのは春先だからだろうか……。そんなことを考えながら階段をのぼり、鍵穴に合い鍵を挿し、ドアを開けて暗い部屋に入った。あかりをつけ、米桶に残っていた冷や飯にみそ汁をかけ、買ってきたコロッケをおかずに、わびしい夕食を終えた。部屋についている小さな台所の流しに食器を置き、ベッドに腰をおろす。
 ……あんたのこと、好きになっちゃったみたいだ。
 貴代美と初めてかわした接吻が、忘れられない。貴代美の抱擁は、伊集院満枝(いじゅういん・みつえ)に比べて、荒々しい。だが、そのふくよかな胸に顔を埋めていると、満枝と抱き合っている時には感じなかった、安らいだ気持ちになれる。
 満枝と貴代美を比べている自分に気づき、佐和子は独りで顔を赤らめた。
 ……満枝さんがいけないんだわ。全然、連絡をくださらないんだもの。
 そう、口に出してつぶやいてみたが、いたたまれなさは消えなかった。
 満枝の愛撫によって目覚めた肉体の悦びは、もはや封じ込めることができなかった。昨年の十月に満枝と再会し、十二月に貴代美と出会うまで、独り、指でその箇所をまさぐり、慰めたことも一度や二度ではない。
 自分は何を求めているのだろう。愛情? それとも、淫らな行為?
 考えれば考えるほど、答えは見いだせぬまま、己の醜さだけが浮かび上がり、責め立てられているような気持ちになる。
 たかぶる気を鎮めようと、佐和子はかばんから一冊の本を取りだした。表紙に『日本に於ける資本主義発達の歴史』と題名が印刷されていた。勤めている雑誌社で借りたものだ。
 作業机に置いてあった本を、佐和子が何げなく手にとって眺めていると、編集部員の一人が声をかけてきた。
 ああ、村野栄太郎の新刊ね。
 その名を、佐和子は知らなかったが、まだ三十歳になったばかりの若手の学者だという。学生時代から社会運動に参加し、投獄されたこともある。いま、もっとも注目されている気鋭の論客の一人だよ、と編集部員は付け加えた。
 興味があるのなら、持って帰って読みたまえ。そう言われるまま、かばんに収めた。
 今年に入ってから、佐和子は二度、「研究会」に顔を出した。貴代美は、相変わらず居眠りをしたり講師をからかっているばかりだったが、生真面目な佐和子は、参加する度に自分の勉強不足を痛感していた。
 いろいろな本を読んでみよう、と考えていた矢先だったのだ。
「日本資本主義の急速なる発展を可能にしたものは、広汎にして深刻に強行せられたる農民の収奪に基づく膨大なる資本の原始的蓄積であった。この蓄積は、一方、絶対専制国家の専制的権力の行使により、租税制度、公債制度、保護政策等々をテコとして遂行せられ、他方、地主と高利貸と商人とのハレンチ極まる誅求(ちゅうきゅう)によって促進された」
「帝国主義ブルジョアジーと絶対勢力との国家機関を通してなされる農民および小市民の収奪が強烈であればあるほど、それだけ彼らの窮状は甚だしく、それだけ彼らを、地主に、高利貸に、商人に、中小産業資本家に従属せしめる」
 よく理解できない単語も多かったが、勢いのある文章に引き込まれた。帝国臣民の大部分を占める農民の貧しい状況や、彼らを酷使し搾取して肥え太る「地主、高利貸、商人」の悪辣さが、多くの数字を駆使して説かれている。
 読み進むうちに、「すでに高まりつつある国内的諸対立は、さらに急速度に先鋭化するであろう」と書かれている箇所が目に留まった。
 マルクスの『共産党宣言』には「現在、堕落し腐敗したブルジョアジーに対する、発展し組織化されたプロレタリアートのたたかいが、あらゆる社会で荒れ狂っている。それはやがて内乱となり、革命が勃発し、最終的にブルジョアジーの暴力的打倒へと到り、プロレタリアートの支配が始まるであろう」と書かれていた。
 同じようなたたかいが、日本でも起こるのだろうか。それはやがて内乱となり、革命へとつながっていくのだろうか……。
 不思議と不安はつのらなかった。むしろ、どこか心持が高揚していく。
「ただいま」
 ドアが開き、入ってきた貴代美は、そのまま佐和子と並んでベッドに腰を下ろし、勢いよく仰向けに倒れた。
「ごめんねエー、今夜も遅くなっちゃって」
「いいのよ」
 佐和子は首を振り、背を丸めて貴代美の顔を覗き込んだ。貴代美は腕を伸ばし、佐和子の肩を抱く。そのまま、接吻をかわした。貴代美の体温に、安らぎと切ないまでの悦びを覚えつつ、佐和子はふと、動きを止めた。
 お酒の匂いがしない……。
 貴代美は酒豪で、カフェに勤める夜は、たいてい、客のお相伴に預かり、赤い顔で帰ってくるのが常だった。
 佐和子の不審そうな面持ちに、貴代美はからだを起こし、ほつれた髪を撫でつけた。
「今夜は、カフェじゃなかったンだ」
「工場が忙しかったの?」
「ううん」
 貴代美はうつむき、しばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように口を開いた。
「あたい、組合に入ったンだ」
「組合……?」
「うん。さっきまで、その会合があってサ」
 この時代、労働組合じたいは非合法ではない。だが、貴代美の言う「組合」は、非合法組織である「党」との結びつきが強く、当局から厳しく監視されている団体だった。
「党」じたいは、団体としてさほど大きくはない。「党員」もせいぜい二〜三百人だ。「党」を動かしているのは、「党中央」と呼ばれる数名の幹部だが、これでは大きな活動はできない。その実働部隊となるのが、全国数万人の労働者が所属する「組合」である。末端の「党員」は、「党中央」の指令を受け、「組合」の窓口に伝える。「組合」での活動が認められ、「党員」に選ばれることもある。
 単純に言えば、「組合」に入ることは、準「党員」として、非合法活動に協力するということを意味する。
 佐和子は、そのあたりの事情に詳しいわけではない。だが、「党」が工場に派遣した「細胞」らしき男が、既存の労働組合を「資本家の御用団体」と罵倒し、自分たちの「組合」に入ってともにたたかおうと、しきりに勧誘してくることは、貴代美自身から聞いていた。
 だけど、あの「組合」って危ないからなア、イヤだって言い続けてるのに、しつこいンだよ。
 貴代美は笑ってそう言っていたはずだ。
 息を呑んで見つめる佐和子に、貴代美は真顔を崩さずに言った。
「あたいね……バカだし、研究会で教わることもよくわかんないンだけど、でもね、小沼さんにああまで熱心に誘われちゃうと断りきれなくなって……」
「小沼さん?」
 伊集院満枝が「あなたを守ってくれる人」として紹介された小沼健吾のことだった。研究会には、必ず顔を出しているが、いつも玄関で静かに座っているだけで、佐和子とも、貴代美ら女工たちとも、言葉を交わすことすら少ない。
 小沼は、貴代美の工場で働いている労働者ではないと聞いていた。ふだんはどんなことをしているのか、果たして「党員」なのかどうか、貴代美は知らないし、満枝も教えてくれなかった。
 その小沼が、熱心に貴代美を「組合」に入るよう説得したという。
 何時の間に、そんな……。
 なぜか、不快な思いがこみ上げてきた。それを察したのか、貴代美は悲しげな顔で手を振った。
「ごめん、ごめん。話さなかったのは、口止めされてたから。ほんとうは、組合に入ったことも言っちゃいけないって言われてるンだ。でも……」
 でも……? まばたきもせず見つめる佐和子に、貴代美は、眼を伏せて言った。
「おさわちゃんには、隠し事はできねエから……」
 佐和子の眼から、涙がこぼれおちた。
 ごめんなさい……別に、内緒にされていたことが嫌だというわけじゃないの。ただ、最近お帰りが遅かったから……。
 鼻をすすりながら言い募る佐和子を、貴代美は抱きしめた。暖かく、ふくよかな貴代美のからだに、佐和子は涙をおさめ、笑顔で言った。
「わたくしも、何か、お力になりたいわ?」
「お力って……あたいのために?」
「ええ」
「そりゃ、だめだよ」
 貴代美は首を振った。
「だって危ないンだよ。大地震の時、どさくさに紛れて殺された組合員だっているンだから」
 七年前の関東大震災のことである。死者十万人を数えた未曾有の震災で秩序が混乱するなか、当局が恐れたのは社会主義革命の勃発であった。数千人の朝鮮人が虐殺されたのは、彼らの背後で海外の社会主義国が糸を引いているというデマを当局が信じたことが大きかった。さらに、無政府主義者の大杉栄が憲兵隊に拘引され、殺された。
 官憲の手は労働組合にも及んだ。多くの組合活動家が保護という名目で拘置されるなか、亀戸警察署で九人の活動家が殺された。裸にして首を切り落とすという残酷なやり方であったという。
「おさわちゃんみたいなお嬢さんに、助けてもらうなんて、できないよ」
「平気だわ」
 佐和子は、貴代美の手を握りしめて言った。
「わたくし、何も知らなかったの。農民や、工場で働く労働者が、どれだけ悲惨な状況で、地主や資本家に搾取されているか、全然知らなかった。でも、今は違うわ。わたくし、研究会であなたと出会ってから、結構勉強したの。中産階級が没落して、資本家とプロレタリアートの対立が迫っている今、あなたたちとともに、たたかいたいの」
 熱弁を振るう佐和子を、貴代美はあっけにとられて見つめていた。

「あのお嬢さんが?」
 小沼健吾は、けげんな顔で「細胞」の報告を聞いた。
 日暮里から駅ひとつ離れた田端の煙草屋の前に、「細胞」は待機していた。一日に一度は、街頭で落ち合い、小沼は「党」の方針を伝え、「細胞」は工場での様子を知らせる。場所や時間は、その都度変える。これが「街頭連絡」と呼ばれる「党」の連絡方法であった。
 まず煙草を買い、近くの電信柱にもたれるようにして立っている「細胞」に、マッチを借りる。後は、短く世間話をするふうを装いながら、報告を交わしあうのだ。
「党中央」は、二ヶ月後の五月一日、すなわち、国際的に労働者が示威活動を行う日であるメーデーに向けて、ある計画を立て「組合員」を大量動員するよう指令を発していた。その計画内容を聞いた時、小沼は愕然となった。
 できるはずがない……。
 現在の「党中央」は、卒業間もない帝国大学出のインテリ青年たちで構成されている。非合法活動歴が少なく、しかも現在は当局の眼を逃れて各地を転々としているだけに、現実離れした指令が多くなった。今回の「計画」など、その最たるものというしかない。
 しかしながら、非合法活動に従事する者にとって「党中央」の指令は絶対だった。異議を唱えることは許されない。やるしかない。
 まずは、「組合員」の数を増やすことが先決だった。そのためには、工場での人望の厚い工員を引き入れねばならない。その工員を投網にして、多くの工員を引きずり込むのだ。目星をつけたうちの一人が、女工たちの姉御的存在である貴代美だった。
「細胞」が伝えてきたのは、貴代美が「組合」への加入を承諾したことだった。朗報であった。
「ただ……条件がある、と」
 その「条件」を聞いて、小沼は逡巡した。
 伊集院満枝が小沼に「託した」猪俣佐和子が、貴代美と同居していることは、小沼の耳にも入っていた。その佐和子をも「組合」に加入させろ、というのだ。
 雑誌社に勤める佐和子はインテリの部類に入る。「組合」は本来、ブルーカラー労働者によって構成されるべきで、佐和子は「組合員」としてふさわしいとは言えない。もし、非合法活動に従事するとすれば、学生が主体の「青年同盟」という別組織があるが、この組織に加わるためには、どれだけ社会主義の理論を修得しているかが問われる。一度や二度、研究会に出た程度で、あのプライドの高い小僧どもが迎え入れてくれるかどうか。
 とはいえ、迷っている暇はあるまい、と小沼は思った。まずは貴代美を「組合」に加入させ、二ヶ月足らず先に迫ったメーデーに向け、人を集めることが最優先されるべきだ。
「貴代美には、了解したと伝えてくれ。ただし……」
 小沼は「細胞」に告げた。
「そのお嬢さんに会ってから正式に決めたい。日時は追って連絡すると伝えてくれ」
 以上だ、と付け加え、煙を吐き出した。「細胞」は軽く頷き、それから二人は、いかにも世間話を終えたように、お辞儀をかわして別れた。
 さて……。
 小沼は歩き出した。次の街頭連絡の場所に行かねばならない。

 電車に乗って向かった先は、池袋駅前の喫茶店だった。会う相手は、鎌田悟という名を使っている「党員」である。東京支部第四地区長という大仰な肩書きだったが、大学を出たばかりの若造にすぎない。度重なる検挙で、数多くの古参「党員」が獄に放り込まれた。現場を知らない若造が、社会主義理論に詳しいというだけで、重要な役職につくようになっていたのだ。
 喫茶店に入ると、鎌田は、奥のほうのテーブルで新聞を読んでいた。小沼の姿を見ると、新聞を置き、眼鏡のつるに手をかけて位置を調整した。
「どうかね」
 小沼が向かい合って座るなり、訊ねてきた。「組合員」の動員状況のことである。
「はかばかしくないですね」
 小沼は、寄ってきた給仕にコーヒーを注文し、煙草に火を点けた。
「状況は改善しておらんのかね」
 鎌田は、顔を顰めて言った。小沼は答えた。
「努力はしていますが……なにぶん、二月のことがありましてね」
 二月のこととは、先月の下旬に行われた総選挙での街頭活動である。「党中央」からの指令は、投票日までの一週間、全国で一斉にビラをまけ、というものだった。これまでの選挙では、「党員」であることを隠した候補者を立ててきたが、票が集まらなかった。そこで、今回は候補者は立てず、街頭でビラをまいて、「党」の存在を宣伝することとなった。
 ビラまき隊を組織せよ、という指令が小沼にも下った。小沼は青くなった。当時、街頭でビラをまけば即座に逮捕される。ビラは、労働者が集まりそうな場所にこっそり置いておくというのがこれまでの戦術だった。それを今回は、白昼堂々やれ、というのである。
 警官に見つかったらどうするんです? と訊ねると、返ってきた答えは、「逃げろ」だった。念のため各自で武装し、身辺を整理せよ、逃走資金は用意する……。
 結果は悲惨だった。百数十名が動員され、大部分がその場で逮捕された。以後、「組合」は、「党」の方針に疑問を抱くようになっていた。
「党中央」が五月一日のメーデーで実行しようとしている「行動」には、どう見積もっても千人単位の人間が必要になる。現在、小沼が担当している地区の「組合員」を総動員しても、せいぜい百人。そのうち何人集まるか、おぼつかない。
 ほとんどの「組合員」が望んでいるのは生活の改善である。自分の生活を壊してまで、「党」の活動に身を捧げてくれる者は少ない。
 遠回しにそのことを告げると、鎌田は、鼻を鳴らして言った。
「革命のためだ。多少の犠牲はやむを得ない」
 馬鹿な……。小沼は俯いた。これだから、苦労知らずの学生は困る。家族を養わねばならない身にもなってみろ。そう大声で言えれば、どれだけ楽だろう。
「君は、先月も中央の方針に異議を唱えていたね」
 鎌田は、不機嫌そうに身を乗り出した。
「これ以上、文句を言うようだと、僕としても中央に報告しなければならなくなる。いいのかね」
 ……「中央」と言えば、おそれいってひれ伏すとでも思っていやがる。それなりに社会運動の活動歴の長い小沼であった。年下の、学歴を鼻にかける若造に、居丈高に威嚇されるのは、屈辱だった。
「まあいい。次の指令を伝える」
 鎌田は声をひそめた。
「当日の決行場所が、ほぼ決まった。君の受け持ちは、京橋だ。京橋に、百人の行動隊を待機させられるアジトを確保しておいてくれたまえ」
 そう言って、かばんから取り出した茶封筒をテーブルに置き、次の連絡場所と日時を告げて立ち上がった。
 去っていく鎌田の背を一瞥して、茶封筒の中身をあらためた。しわくちゃの紙幣が入っている。
 京橋といえば、東京駅や銀座にも近い繁華街だ。そこに、百人を待機させられる場所を確保せよという。
 これきりの金で、無茶だ……。
 小沼は溜息をつくしかなかった。

 翌日の夕暮れ前。
 荒川の河川敷で、小沼健吾は猪俣佐和子と会った。
 桜にはまだ早く、人出は少ない。ゴム長をはいて川漁をする者、石を投げて遊ぶ子どもたちが目につく程度だった。
 佐和子は、春らしい白地に花柄の和服に日傘といういでたちで、河原に腰をおろしていた。その隣に、小沼がしゃがんで煙草を吹かしている。
「単刀直入に言いますよ」
 小沼は、日差しを浴びて光る川面を見つめながら言った。
「組合への加入は、無理です」
 佐和子の面差しが歪んだ。眼を悲しげに見開き、小沼を凝視している。
「組合は、ブルウ・カラアの団体です。あなたのようなホワイト・カラアは、組合員として、まず認められないでしょう」
「あの……」
 佐和子がおずおずと口を開いた。
「正式な組合員になれなくても、結構です。ただ、わたくしは、貴代美さんのお力になれればと、それだけで……」
「組合員としてではなく、活動に参加すると言われるのでしたら……」
 小沼は、佐和子をさえぎった。
「その場合、あなたがどこで、どんな仕事をするかは、上が決めます」
「…………」
「すぐに引っ越して、見知らぬ男と同居することになるかもしれない。それでも平気ですか?」
 佐和子は、反射的に淡路町にある小沼の「家」に住んでいる、十六歳くらいの娘を思い浮かべた。佳代(かよ)というその娘は、小沼とは血のつながりはないが、妹ということになっている。男の独り暮らしは周囲の詮索を招きやすい。それを防ぐためのカモフラージュであるらしいことは、佐和子にも察しがついた。
「留守番をせよ、ということですか?」
 佐和子は俯いて言った。
「淡路町のお宅の、あの娘さんみたいに」
「言っておきますが」
 小沼は静かに釘を差した。
「あの娘は、妹です。男女の仲じゃあない」
 男女の仲、という言葉がかえって生々しかった。小沼は続けた。
「ただし、同居する相手と、そういう仲になることは、特に禁じられてはいません」
 そう言うと、小沼は佐和子の顔を覗き込んだ。佐和子は、硬い面もちで、口を噤んでいる。小沼は、佐和子から眼差しを逸らして言った。
「活動に、私情を挟むことは許されません。目的のためならば、非情に徹せねばならんのです」
 煙草を捨てて立ち上がり、返事は貴代美に言ってください、と付け加え、佐和子に背を向けた。
「あの……」
 佐和子が口を開いた。歩き出そうとしていた小沼は、足を停めて振り向いた。佐和子が、堅い面差しのまま、小沼を見上げていた。
「どうしても……その、貴代美さんと一緒に、というわけにはいかないのでしょうか?」
 言葉の端がわずかに震えていた。その瞳が揺れていた。それをどうとらえていいか分からず、小沼は佐和子を見つめた。
「わがままだとは存じております。でも、わたくし、どうしても……」
「お嬢さん」
 小沼は言った。
「あなたは、貴代美と同居なすっているんでしょう。貴代美のためにとおっしゃるのなら、今のままでも十分ですぜ。貴代美も、あなたが炊事や洗濯、掃除をしてくれているから、ずいぶん楽になったと言ってましたからね」
「それだけですか?」
「はい?」
 佐和子の声音が固く強張った。その瞳の揺れが消え、まっすぐに小沼を射抜くように見ていた。
「要するに……主婦に徹していればいい、と」
 小沼はたじろいだ。高等女子校を出た佐和子が、尋常小学校しか出ていない女工の貴代美の「主婦」をやっているというのは、確かに奇妙な図式であろう。
 佐和子はさらに言った。
「活動に参加したければ、わたくしが存じ上げないどなたかの主婦役をやれと、そうおっしゃるのですね」
「いや……」
 小沼はたじろぎつつ言った。
「それを決めるのは、あたしじゃない。あたし自身の事だって、あたしの一存じゃどうにもならないことのほうが多いんだ」
「存じません」
 佐和子は日傘を畳んで立ち上がり、小沼に詰め寄った。噛みしめた唇が小刻みに震えている。怯えや悲しみではない。そこに浮かんでいたのは怒りだった。
「よろしゅうございます。わたくしは、わたくしなりに、やり方を見つけます」
 次の瞬間、小沼は激しい痛みを股間に覚えた。佐和子の日傘の取っ手が、睾丸を直撃していた。
 小沼はしゃがみこんだ。右手でからだを支え、左手で股間を抑えた。こみあげる嘔吐と、灼けるような痛みに、身動きできなかった。
 ご面倒さまでした……。
 佐和子は頭を下げ、河原から去っていった。

 伊集院満枝といい、猪俣佐和子といい……。
 痛みが和らいだのは十数分後だった。なんとか、からだを起こして河原に座った。
 小作争議に携わっていた頃から、暴力を振るわれることには慣れている。だが、女から急所を蹴られる苦しみは、また別のものだ。内臓をかきむしられるような激痛もさることながら、やり場のない屈辱感にさいなまれ、男としての自信をへし折られたような気持ちになる。
 確かに、「党」の女性に対する扱いは、封建的な男尊女卑そのものだ。社会主義にかぶれ、「党」の活動に参加している良家の子女は少なくない。だが、「党」が彼女らに期待しているのは、実家から持ち出してくる金品と、男性「党員」の、あからさまに言えば、欲望のはけ口としての役割なのだ。
 おかしなものだな……。
 時として、小沼は思う。
 こんにちの社会で、階級差を産んでいるのは学歴の有無だ。環境恵まれ高等教育を修めた者が高い地位に就く一方、学歴のない者は下層社会に甘んじるほかはない。この点では、世間も「党」も変わらない。女性の地位の低さに関しては、世間のほうがましなのではないか。お偉方のことは知らない。貧しい長屋では、いわゆるカカア天下が少なくない。
 やっと歩けるまでに立ち直ったのは一時間後だった。痛みの残る睾丸を庇いつつ、内股で歩くのは辛かった。淡路町の家に戻った時は、すでに夜更けだった。
 格子戸を静かに開ける。いつもは、まず戸を叩いて佳代を呼び、内部に異常がないかを確認してから入るのだが、今夜は、顔を合わせるのは嫌だった。股間の痛みはなかなか引かず、がに股歩きを余儀なくされている状態だったからである。
 玄関を上がると、佳代の三畳間のふすまが開いて、明かりが漏れていた。何気なく覗くと、佳代はちゃぶ台に顔を伏せて、居眠りしている。
 佳代には、非合法活動に従事していることは知らせていない。飲み込みのよい娘で、ハウスキーパーとしてやらねばならぬこと、してはならないことは十分に心得ている。小沼が、日中何をしているのか、なぜ、時折人がやってくるのか、疑いを持つふうもないし、訊ねても来ない。無口だが、微笑を絶やさず、瞳は常に澄んでいる。
 ちゃぶ台に本が広げてあった。手にとって表紙を見ると、マルクスの『資本論』だった。貴代美に貸していたが、一行も分かンねえ、と返しに来たので、しまっておくようにと佳代に命じた本であった。
 小沼は、奇妙な不快感を覚えた。
 ……佳代は、こんなものを読むべきではない。
 なぜかは分からないが、社会主義の書物を読むことで、佳代が汚れていくような気がしたのだ。

   U

「ああ、君」
 編集部員から呼び止められ、佐和子は「はい」と返事をして、彼のデスクの傍らに立った。
「今から村野先生のお宅に行くんだが、君も来るかね?」
「え?」
「ほら、君、とても面白いと言ってたじゃないか」
 ああ……。佐和子は得心した。編集部員から借りた村野栄太郎著『日本に於ける資本主義発達の歴史』を返却したのは二日前だった。本を受け取った編集部員には、今、村野さんに原稿を依頼しているんだ、と言われ、それはとても楽しみです、と答えておいた。
「編集長から、君にもそろそろ編集の仕事を覚えさせるように、と言われていてね。もし村野さんが君のことを気に入るようだったら、担当にしてもいい」
「ほんとうですか?」
 佐和子は眼を輝かせた。
 貴代美は、「組合」の活動が忙しいらしく、早く帰ってくることは、ほぼなくなった。佐和子自身が「組合」加入を望んだが、小沼に拒絶された。沈みがちだった佐和子は、編集部員の言葉に救われる思いだった。
 村野の下宿は、神奈川県の鵠沼にある。東京駅から国鉄で鎌倉駅まで行き、さらに江ノ島電鉄に乗り換えねばならない。
「お会いする前に言っておくがね」
 二両編成の江ノ電で、ポールが架線をこする音の響きを聞きながら、編集部員は言った。
「村野さんは、おからだが弱くてね。だから暖かい鵠沼で療養されているんだ。それと、幼い頃関節炎を患い、手術で左足を切断したんだとさ」
「左足を……?」
「そう。だから、間違っても左足をじろじろ見たり、失礼な真似をしちゃいけないよ」
 駅を降り、海岸へと歩き、松林を抜けると農家があった。村野は、そこの一室に間借りしているという。
「先生、いらっしゃいますか?」
 庭先で農具の手入れをしていた老人に声をかけると、「いますよ」と離れを指さした。
 離れの戸を開けると、六畳一間だった。埃の匂いが鼻をつく。
「やあ、どうぞ」
 布団に仰臥していた男が、むくりと身を起こした。長く伸びた髪を真ん中で分け、分厚い眼鏡をかけている。着ているどてらはシワだらけで、顔色は青ざめ、肌は荒れている。
 これが村野栄太郎……。佐和子は息を呑んだ。気鋭の学者というよりも、長期療養中の病人のようだ。
 村野は、どてらの胸元を掻きあわせ、敷き布団の上に座った。掛け布団が膝を覆っている。初対面の客に、左脚がないのを見せたくないのだろう。
「村野先生、初めまして」
 編集部員は靴を脱いで部屋にあがり、ふかぶかと一礼し、外で立ったまま逡巡している佐和子に、君もおあがんなさい、と声をかけた。
 はい、と答えて頭を下げ、部屋に上がった。座布団はない。畳はささくれだっていた。
「女の編集者とは、珍しいね」
 村野は、布団の傍らの小さな文机に乗せてあった茶をすすった。か細い、生気のない声だった。
「ええ。今年から入社したんですが、よくやってくれています。村野先生のご本を読んで感激したというので、連れてきました」
「先日……」
 村野は、あごの無精ひげを撫でながら言った。
「婦人雑誌から原稿を頼まれてね」
「ははあ」
「一応、書いて送ったんだが、内容が雑誌にふさわしくないとかで、送り返されてきた。革命とか、危機といった言葉はなるたけ使わないでくれと言うんだ」
 当時の書籍や雑誌は、当局の検閲を通らないと発表できなかった。過激な言葉遣いは、伏せ字の処理を施される。「ソビエトの十月革命において資本家地主政府を倒してプロレタリア独裁を実現し」という文章は、「ソビエトの十月××において×××××××××してプロレタリア××を実現し」というふうに印刷されるのだ。
「誌面に伏せ字の入ったページを作りたくないということみたいだね」
「婦人雑誌はそうかもしれませんな。うちは大丈夫です。いくら伏せ字をしても、読者はたいてい、何を書いているか推察できるものですから」
「伏せ字になった部分も、原稿料はいただけるんだろうね」
「そりゃあ、もちろんです」
 さして面白くもない冗談に、編集部員は追従笑いで答えた。村野はふと、佐和子を一瞥し、机の引き出しから原稿用紙の束を取り出した。
「これが、その女性雑誌で拒否された原稿なんだが、君、読んでみるかね」
「え?」
 不意に声をかけられ、佐和子は当惑した。村野はその眼差しを、佐和子から床の畳へと逸らして続けた。
「若い婦人読者向けに書いたつもりだが、ひとつ、感想を聞かせてほしい」
 そっと隣の編集部員を窺った。編集部員は、いただいておきなさい、と目配せした。
「では、読ませていただきます」
 受け取るために膝を進めると、村野は俯いたまま原稿用紙を差し出した。受け取る際、村野のざらついた指が、佐和子の手に触れた。その一瞬、村野の頬がびくりと動いたような気がした。
 原稿は、二週間以内に書き上げます。電報を送るから取りに来てください。しばし雑談をした後、村野はそう言い、佐和子と編集部員は立ち上がって家を辞した。

 アパートに帰ると、いつものように貴代美は不在だった。
 冷えたご飯に朝食の残りの味噌汁をかけてかきこむ。腹は満たされたが、ひどくやるせなかった。佐和子は、村野から預かった原稿をテーブルに広げて読み始めた。
 ……資本主義体制に対する社会主義体制の優位が、今日ほど明瞭になったことはない。
 明解な論旨、畳みかけるような語り口は、鵠沼の農家の離れにいた、無精ひげの病人とは思えぬ力強さがあった。佐和子は、しだいに引き込まれていった。
 不況が続いている。街には失業者が、農村に娘の身売りと欠食児童が溢れている状況はいっこうに改善される気配を見せない。日本だけでなく、世界の資本主義諸国が経済的に苦しんでいたのだ。
 ……一方で、ソビエト同盟には一人の失業者もいないばかりか、かえって労働者の不足を訴えているほどだ。
 ……農村について見ても、ソビエト同盟においては、貧農ばかりでなく中農の決定的多数もまた共同経営に参加し、勤労農民の経済的、社会的生活水準は著しく向上した。
 当時のソビエト社会主義共和国連邦において、スターリンが集団農業化政策を押し進める過程で、反対勢力を弾圧し、百万に近い人々が処刑されていたことは、伝えられていない。村野は、資本主義国の凋落と社会主義国の発展は歴史の必然であったとし、さらに、女性の地位向上に触れる。
 そもそも、一九一七年の社会主義革命において女性の果たした役割は大きかった。勤労婦人たちは、革命戦争の際、炊事や看護などの後方活動をこなしただけでなく、第一線に立って戦った。革命後、男女差別は撤廃された。そしていまや、男子とまったく同一の政治的、社会的ならびに経済的権利を享得して社会主義建設の歴史的事業に積極的に協力し、男子と肩を並べて非常な熱意を創意とを発揮している……。
「ただいま!」
 読み終えたところで、貴代美が帰ってきた。佐和子は立ち上がり、玄関まで出迎える。貴代美は、その大柄なからだを投げ出すように佐和子に抱きついた。小柄な佐和子は、重い、重いわよ、と笑った。続いて、接吻。
「あら」
 からだを離した貴代美は、テーブルに広げられた原稿用紙に目をやり、偉いなア、またお勉強なんだ、と一枚一枚めくった。
「やっぱり、ダメだァ!」
 眠くなっちゃうよ、とふざけながら、ベッドに仰向けに寝転がる。その傍らに、佐和子はそっと腰を下ろした。
「ねエ」
 貴代美は甘えるように言った。
「今夜、したい」
 佐和子は小さくうなずいた。貴代美は嬉しげに右手を伸ばし、佐和子の頬に掌をあてた。工場の労働でひび割れ、堅くなった掌。その甲に、佐和子は自分の掌をあてがった。
「おさわちゃんの手って……」
 貴代美は言った。
「え?」
「やわらかいね」
「そう……?」
「やっぱり、育ちのいい、お嬢さんの手だ」
「嫌」
 佐和子は貴代美の手をはねのけた。驚いて身を起こす貴代美から、顔を背けた。
「お嬢さんという言われ方、きらいよ」
「ごめんよ」
 いつになく強硬な口振りと態度に、貴代美はおろおろした。
「褒めたつもりなンだけど……」
「でも嫌。なんだか、わたくしのこと……同じ仲間じゃないと言われているみたいで……」
「そんなつもりじゃなかったンだってば!」
 貴代美は、佐和子の手を掴んだ。
「ごめんね、あたい、バカだから、つい、変なこと言っちゃうの。あたい、あんたは仲間だと思ってる。大事な大事な仲間だって思ってる」
 必死で言い募る貴代美に、佐和子は、心のどこかがゆっくりと冷えていくのを感じていた。同時に、得体の知れぬ悦びがこみあげてきた。
「あたい、おさわちゃんの手が好き。やわらかくて、あったかくて、大好き。そう言いたかっただけなンだ。ほんとうだよ」
「いいのよ……」
 佐和子はようやく貴代美に顔を向け、その唇に人さし指を当てた。
「わたくしも、貴代美ちゃんが、大好き」
 佐和子の小柄なからだが、大柄な貴代美に覆い被さった。貴代美は、導かれるように仰向けになった。佐和子の手が、貴代美の裾から中へと滑り入った。あ……。ふとももから陰部へと撫であげられ、貴代美が小さく呻いた。
 ゆっくりと陰唇を押し開き、十分にしめり気を帯びるのを待って、指を沈める。貴代美は大きくのけぞり、吐息をついた。さらに敏感な部分をまさぐる。貴代美は眼を閉じ、首を左右に振り、こみあげる快楽を抑えかねるように打ち震えている。
 その姿を見下ろしながら、佐和子はふと思った。字も読めない、無教養な女工。そんな貴代美が「組合」に招き入れられ、自分はのけものにされている……。
 おさわちゃん! 貴代美はそう叫んでしがみついてきた。烈しい抱擁を受けながら、彼女に対して妬みとも蔑みともつかない感情を抱いてしまった自分自身を、佐和子は恥じた。

   V

「ちょっと、猪俣君」
 二週間が過ぎ、三月も終わりに近づく頃、新時代社に出社した佐和子を、村野の家に同行した編集部員が呼び止めた。
「村野先生から電報が届いた。明日、原稿を取りにきてほしいそうだ。すまないが君、行ってくれないか」
「わたくしがですか?」
「先生が、そうお望みなんだよ」
 編集部員は声をひそめた。君のことを気に入ったようだ。先生は売れっ子だし、またぜひ、執筆をお願いしたい。だから君、気を配って、さらに気に入られるように、励みたまえ。
 その物言いに、かすかな嫌悪感が湧いたが、「承知いたしました」と頭を下げ、翌日、佐和子は村野から預かった原稿を風呂敷に包んで江ノ電に乗った。
「やあ、どうも」
 村野栄太郎は、相変わらず農家の離れで布団に入ったまま、腹這いになって原稿を書いている最中だった。
 部屋に入ると、村野は身を起こし、文机の上に重ねてある原稿用紙の束を手渡した。拝見します、と原稿用紙に目を落とすと、君、と村野が鋭くとがめた。
 ぼくは、書き上がったばかりの原稿を目の前で読まれることには耐えられない。持ち帰って読んでから、手紙で感想を寄越しなさい、それが礼儀だ、とまくしたてた。
 あまりの激高ぶりに、ひたすら恐縮するしかなかった。身を縮め、もうしわけございませんでした、と小さな声で繰り返していると、村野は、どこか安心したかのように表情を緩め、そんなことより……と切り出した。
「先日、君に渡した原稿、読んでくれたかね」
「あ……はい」
 打って変わって柔らかな口振りに安堵しつつ、風呂敷包みを開いて原稿用紙を差し出した。
「ありがとうございました」
「どうだったね?」
 村野は、覗き込むように顔を突きだして訊ねた。
「君の率直な感想を聞かせてくれたまえ」
「ええ……そうですね……」
 まばたきもせずに見つめる村野に、佐和子は身をすくませながら必死に言葉を探した。
「あの……ソビエト同盟で男女の差別がなくなったと書いていらっしゃいますね」
「うむ」
「とてもすばらしいことだと存じます」
「そこが、いちばん感銘したのかね?」
「はい」
 深くうなずく村野に、佐和子はつい、言葉をはずませた。
「早く、日本もそうなってほしいと願う婦人読者は多いのではないでしょうか」
「君も、そう願うかね?」
「それは……わたくしも、女性ですから」
「ぼくは……」
 村野は、唇を尖らせて言った。
「婦人運動家は大嫌いだ」
 平塚らいてう、奥むめお、市川房枝といった著名な婦人運動家の名前を、村野は口にした。
「新しい女、などと持ち上げられているが、しょせんはブルジョワのお嬢様方が、男を真似て突飛なことをやらかして、世間の耳目を集めていい気になっているだけだ。とうてい、新しい時代を切り開く力にはなれんよ」
 ブルジョワのお嬢様方という言葉が、トゲのように刺さってきた。面差しを曇らせる佐和子に気づいてか気づかなくてか、村野は取りつかれたように言い募った。
「その証拠にあいつらは、社会主義とか革命という言葉を持ち出すと、すぐにおじけついて、反動的なことを言い出す。自分たちが、革命が起きたら打倒されるべきブルジョワジイの側にいるからだろう。階級的特権を捨てて、反政府活動に身を捧げる覚悟すらない。だが、君もぼくの原稿を読んだならわかるだろう? 社会主義革命の成就なくして、真の意味での女性の解放はありえないんだってことが……」
「でも、先生」
 長広舌を振るって婦人運動家批判をまくしたてる村野に、つい、佐和子は口を挟んだ。
 村野の口ぶりに、どこか女性蔑視的な雰囲気を感じたのだ。
「たとえ、階級的特権を捨てて反政府活動に身を捧げても、女には、せいぜいハウスキーパーくらいしかやらせてもらえないのでしょう?」
 村野が口をつぐんだ。
 いけない……。佐和子は悔やんだ。村野は、社会主義の研究者であって、活動家ではない。非合法活動における「女性」の役割を知っていると、軽々しく口にしてはいけないはずだ。
 だが、村野の反応は意外だった。
「女から、そんなふうに見られているとしたら、反省しなくてはいけないな……」
 村野自身が「非合法活動」、あるいは「党」の側にいるかのような口ぶりだった。
「貴重な意見だ……よく言ってくれた」
 軽く頭を下げると、失敬するよ、と腹ばいになり、枕元に広げた原稿用紙に向かった。
 佐和子は、数日後に校正刷りが出ますので郵送いたします、と告げ、立ち上がった。すると村野は、首を曲げて佐和子を見上げた。
「郵送じゃなくて、君が持ってきなさい」
 か細い声だったが、高圧的な響きがあった。佐和子は、承知いたしました、と答えるしかなかった。

「ほう、村野先生が、校正刷りを君に持って来てほしいって?」
 新時代社に戻り、編集部員に報告すると、してやったりという表情を浮かべた。
「編集長とも話したのだが、ここはひとつ、正式に村野先生の担当になってもらうよ」
 狭い編集室に詰めていた三人が、佐和子に拍手を送った。佐和子は頭を下げ、ありがとうございます、と幾度もお辞儀をした。
 雑用係ではなく、正式な編集部員として認められることになり、給料も上がった。貴代美ちゃんに報告しなくっちゃ。久しぶりに、胸をときめかせながら、家路を急いだ。回り道をして銀座の明治屋で高価な葡萄酒や舶来の食べ物を買い込んだ。
 今夜も貴代美は遅いだろう。でも仕方ない。どんなに遅くなっても、帰ってくるまでは起きて待っていよう。そして、ふたりで祝杯をあげよう。
 意外なことに、アパートの窓には灯りがついていた。今日は早かったんだ。自然と笑みがこぼれた。佐和子は、足早に階段を駆け上がった。
「ただいま!」
 明治屋の紙袋を抱えてドアを開けると、貴代美がテーブルに頬杖をつき、ぼんやりと壁を見つめていた。
「あ、おかえり」
 すぐに笑みを浮かべた貴代美の目の前に、佐和子はどんと紙袋を置き、今日はごちそうよ、葡萄酒に、チーズに、ハム。オイルサーヂンもあるわ。
「なンか、いいことでもあったのかエ?」
 眼を丸くした貴代美だったが、佐和子の説明に、両手をあげて万歳三唱した。
「よかったじゃないか!」
 長い腕を伸ばして佐和子を抱きしめ、幾度も幾度も頬に唇をあてた。
「おめでとうね。お祝いしようね」
 葡萄酒の栓が抜かれ、乱雑に広げたハムやチーズを頬張りながら、ひとしきり、たわいもないお喋りが繰り広げられた。お腹もふくれ、酔いも回り、二人は仰向けに並んでベッドに倒れた。
 そのまま、しばし静かな沈黙が続いた。
「おさわちゃん……」
 貴代美が口を開いた。
「なあに?」
 佐和子は、からだをずらして、貴代美の胸に顔を埋めた。その肩を撫でながら、貴代美は言った。
「あたい、明日から……当分、帰れない」
「忙しいのね……組合が」
 貴代美の柔らかな乳房の感触を味わいながら、佐和子は言った。
「ううん、そうじゃないンだ」
 貴代美は、重たげな口振りで言った。
「住む場所を変えろって……小沼さんに言われた」
「小沼さん?」
 佐和子は身を起こした。
「なぜ……小沼さんがそんなことをおっしゃったの?」
「ごめん」
 覗き込む佐和子の眼差しを避けるように、貴代美は顔をそむけた。
「言えないンだ……ほんとうは、引っ越さなきゃいけないことも喋っちゃいけないって、そう言われたンだ。おさわちゃんにも黙って、アパートを出ろって……」
 だからって……。追求しようとして、佐和子は口を噤んだ。
 貴代美の眼から、糸を引くように、涙がしたたりおちていた。
 今まで住んでいたアパートを出るということは、貴代美が何か重大な「任務」を背負わされたのであろうことは、察しがついた。佐和子は、「非合法活動」に従事しているわけではない。しかし、完全な部外者でもない。貴代美から引き離しておくのが得策と考えたのか。
 また、のけものにされた……。
 貴代美と別れる辛さよりも、疎外感からくる憎しみが募った。
「……それで」
 佐和子はしわがれた声で訊ねた。
「貴代美ちゃん、何時まで引っ越しているの? いずれは帰ってくるの?」
「わかンない……」
 貴代美は身を起こし、ベッドの傍らに置いてあるチリ紙をとって鼻をかんだ。
「ずっと帰れないかもしれない……」
「このアパートはどうするの?」
「おさわちゃんに任せればいいって……」
 佐和子は、ベッドから飛び降りた。バッグからブラシを取り出し、鏡の前で髪の毛を整えはじめた。
「今から出かけるの?」
 驚いて訊ねる貴代美に、佐和子は答えた。
「淡路町に行くわ」
「淡路町?」
 貴代美もベッドから降りて、佐和子のそばに駆け寄った。
「まさか……小沼さんのところ?」
「そうよ」
「行って、どうするンだよ!」
「訊くの」
「何を?」
「貴代美ちゃんに、何をさせるおつもりなのか、訊くの!」
「だめだよ!」
 貴代美は、佐和子に抱きついた。
「お願い、それだけはやめて!」
「だったら、わたくしも、貴代美ちゃんと一緒に活動できるよう、頼んでみる」
「そんな……無理だよ……それに、あたいが喋っちゃったことがばれたら、あたいが困るンだよ。ねエ、お願いだよ」
「わかったわ……」
 必死の懇願に、佐和子も折れた。
 ごめンよ……。すすり泣く貴代美を見やりながら、佐和子は心を決めた。
 わたくしは、わたくしなりに、やり方を見つけます。そう小沼に告げた言葉が脳裡に蘇ってきた。今こそ、実行に移す時だ、と。
 翌朝、目を覚ますと、貴代美の姿はなかった。

 風の強い日だった。
 鵠沼に江ノ電が開通して駅が出来たのは一年前。まだまだ寂しい駅前ではあったが、商店街らしきものが形づくられつつあった。
 駅前通りを抜け、防砂林が並ぶ海岸に出る。浜から飛来する細かな砂が、髪の毛や着物に付着し、白い粉模様となった。
 黒っぽいツーピース姿の佐和子が向かっていたのは、海岸ぞいに店を開いている小料理屋であった。村野栄太郎が、たまには御馳走しよう、と座敷を取ってくれたという。
 小料理屋の玄関に立ち、砂を払って暖簾をくぐり、出迎えた仲居に村野の名を告げると、二階に案内してくれた。階段をあがった左右に一部屋ずつ座敷がある。それぞれに小さな玄関がついていて、はきものを脱いで上がるのだ。
 着流し姿の村野はすでに席についていた。部屋の隅に松葉杖が置かれている。ま、あがんなさい、とお辞儀をする佐和子を向かいに座らせた。
 村野の目の前に、銚子と猪口が置いてある。すでに、酒杯を傾けていたらしく、顔が赤い。
「原稿料が入ったのでね。祝杯と……それに、君には幾度も遠くまで来てもらったから、そのお礼だ」
 杯洗で猪口を洗い、差し出した。両手で受け取ると、酒を注ぎ、呑め、と促す。酒席に慣れない佐和子はとまどったが、いただきます、と呑み干した。顔が火照った。
「君は、いける口かね?」
「いえ……、ほんの少し」
 貴代美のアパートに同居してお酒につきあうようになって以来、佐和子はかなり強くなっていたが、それを口にするのは憚られた。
「じゃあ、君のぶんのお銚子も頼もう。後は手酌でね」
 仲居を呼んで、酒と料理を運ばせた。刺身に酢の物、サザエの壺焼きなどが卓に並んだ。
 村野は、ぼそぼそと小さな声で喋りながら、目の前の料理には箸をつけず、ひとりで酒杯を重ねた。村野が箸をつけぬ手前、佐和子が食べるわけにもいかず、姿勢を崩さないまま、相づちを打つしかなかった。話のほとんどは、著名な「左傾」作家や評論家への悪口だった。『新時代』に掲載された論文までも批判しはじめた。
「だいたいね、彼の認識は甘い。日本の絶対主義勢力は、ヨーロッパのような大土地所有制に支えられていないから、統一された勢力になってないなんて……甘すぎる。奴ら支配階級が、明治維新以来、帝国主義的野望を果たすために、どれだけぐるになって貧農から搾取してきたか、てんで理解していないんだ。何より、絶対主義的勢力が統一されていないから、プロレタリアートとの階級闘争は、ロシアやドイツのような形では起こらないとまで抜かす……冗談じゃない……そういう物言いが、いかに敵に塩を送る行為か、まるで分かっていやしない……」
 しだいに呂律も回らなくなっていた。酒を飲み干す度に、ひどくせき込む。眼を据えて論敵を罵る様は、酒の力を借りているせいもあり、ひどく卑しげに見えた。
 校正刷りを届けることとは別の「目的」がなかったら、一刻も早く退席したかった。だが、佐和子は耐えた。最初は、酒癖の悪い男と部屋に二人きりという状況が恐ろしかったが、しだいに心が落ち着いてきた。舌鋒鋭い論客という高い評価を受けている目の前の男は、酒の力を借りねば大きなことも言えぬ焼き餅焼きの本性を現している。
 むしろ、今が好機ではないか。
「先生」
 佐和子は、お銚子をもって立ち上がり、村野の隣に座った。まるで芸者のよう……と恥じ入る隙もないほど、自然にからだが動いていた。
「わたくしも、先生のおっしゃるとおりだと存じます」
「ほお……」
 村野は薄笑いを浮かべ、顎を突き出して佐和子の酌を受けた。
「君に、分かるのかね?」
「ええ」
 佐和子は、村野のお銚子を取り上げ、自分の杯に注ぎ、呑み干した。
「なにごとも……実行の伴わぬ言論は、無意味だと存じます。大事なことは、敵勢力の分析なんかではなく、いかにたたかうべきか、です」
 村野はじっと佐和子を見つめた。佐和子は、気づかぬふりをして、さらに酒杯をあおった。
「君は……」
 村野は声をひそめた。
「ひょっとして、党員なのかね?」
「いいえ」
 佐和子ははっきりと答えた。
「前にも申し上げましたとおり、ハウスキーパーくらいしか役目を与えられないのなら、そんなもの、なりたくはございません」
「君は、分かってない」
 村野は声を荒げた。
「いいかね。こういう運動で絶対に禁物なのは、私情だ。目的の達成のためには、家族とも縁を切らねばならんし、友人を捨てる覚悟も必要だ。そして、与えられた任務は、疑うことなく黙々とこなす。そういう人間でなければ……」
「先生はやはり……」
 佐和子は口を挟んだ。
「党員でいらっしゃるのね」

 二階にある二つの座敷のうち、一つは空席だった。階下からは、ちょうど昼餉時とあって、談笑する客や、注文を受け答えする仲居の賑やかな声が聞こえてくる。
 村野は、手にした猪口を卓に置き、じっと佐和子を見つめ、やがて口を開いた。
「ぼくが党員だとしたら、どうするね、君は?」
 探るような目つきで、村野は続けた。
「警察に通報するのかね?」
「いいえ」
 まばたきもせず、佐和子は答えた。
「先生のお力で、わたくしを党に入れていただきたいのです」
「しかし君は……ハウスキーパーでは嫌だと……」
「はい。しかし、先生の推薦があれば、もっと重要な役目をいただけるのではないかと、そう期待しております」
「そんな甘いもんじゃないよ、君」
 村野は、猪口ではなく銚子からじかに酒を呑み、からだを折って噎(む)せた。咳き込みがひどい。佐和子はうろたえた。仲居を呼ぶべきか、迷った。仲居が来た時点で、密談は不可能になり、当初の目的は果たせなくなる。仕方なく背中をさすっていると、やがて村野は落ち着きを取り戻した。
「すまんね、君」
 ぽつりと言って、また銚子に手を伸ばす。佐和子は思わず、その銚子を取り上げた。
「いけません、先生」
「なに?」
 なおも伸ばそうとする手を、佐和子は掴んだ。
「大切なおからだです。無茶をなすってはいけません」
 村野は、佐和子の顔と、自分の手を掴んでいる彼女の手の甲を見比べた。はっとして手を離した。村野はなおも、佐和子を凝視し続け、やがて口を開いた。
「ぼくのからだを、気遣ってくれるのかね?」
 その眼が、潤みかけていた。おんなを見るおとこの眼差しだった。佐和子はたじろいだ。
 村野は、ゆっくりと顔を近づけてきた。酒臭い息が、佐和子の鼻孔をつんと突く。
「なあ、君……」
 思わず身をそらした佐和子に、村野はのしかかるように言った。
「さっきの話、考えてもいい……」
「……と申しますと?」
「君を重要な役目につけるよう、口添えしてもいいよ」
 唇が醜く歪んだ。その唇を動かし、村野は続けた。
「そのかわり……何というか、見返りがほしい」
「見返り?」
 すぐにも立ち上がり逃げ出したい思いを佐和子は堪えて、訊ねた。
「つまりだ」
 村野が、佐和子の手を掴んだ。
「君がもし……ぼくのところに来てくれるならば……」
 反射的にからだが動いた。
 村野は全身を強張らせ、喉の奥で小さく叫んだ。
 佐和子の右手が村野の股間に伸び、睾丸を捻り上げていた。
 しまった……!
 村野は俯せに倒れ、股間を両手で押さえ、白眼を剥き、尻を突きだしたぶざまな格好で悶絶していた。苦しげに歪んだ唇が開き、吐瀉物がほとばしった。
 おしまいだ……。
 佐和子は座敷を飛び出し、夢中で階段を駆け下りていた。
 雑誌社は馘首されるだろう。重量な役目で「党」に入りたいという願いも、潰えた。
 すべてを失ったのだ……。こぼれる涙を拭いながら、佐和子は鵠沼の海岸を、ひたすら走った。

W
 話は一時、北海道H市に戻る。
 目抜き通りから横町に入った静かな一角に、「扇屋」という料亭が店を構えていた。
 昼近く。店をあけるには、まだ間がある。
「いいね、買いだよ」
 玄関に近い六畳の部屋の、ちゃぶ台にもたれながら、女将の白瀬朱鷺(しらせ・とき)は、卓上電話機の送信機に向かって声を張り上げた。
「時期を逃しちゃいけないよ、あと、金に糸目はつけなくていいからね」
 そのまま電話を切り、灰皿に置いたシガレットを拾い上げ、ふかぶかと吸い込んだ。
 年の頃は四十路を一つ二つすぎたばかりか。ふっくらとした丸顔、小さな口元、愛嬌のある容姿だが、時に眼差しが鋭く光る。
「女将さん」
 ふすまの向こうで、仲居の声がした。
「お見えになりましたよ」
「通しておくれ」
 へい、と答えて、仲居の足音が遠ざかった。
「おじゃまいたします、先生」
 やがて、襖をあけて入ってきたのは、伊集院満枝だった。
 春らしく鮮やかな桜吹雪が描かれた派手な柄の着物に、金の刺繍(ししゅう)をあしらった黒い羽織、、厚めに塗った白粉に照り輝く口紅は、地主の令嬢ではなく、売れっ子の芸妓のようないでたちであった、
「よく来たね、ま、こっちにお座りよ」
 ちゃぶ台には、すでに座布団が一枚、満枝のために用意されてある。満枝は一礼して部屋に入り、朱鷺と向かい合って座った。
「富田産業の株ですけれど……」
 満枝は切り出した。
「あと数日のうちに暴落いたしますわ」
「そりゃ、確かなことかい?」
「わたくしが、確かでないことを申し上げたことがありまして?」
 端然と微笑んで言う満枝に、朱鷺は再び受話器を取り上げた。ああ、あたし。富田産業の株、売りだよ。うん、急いでおくれ。
「で、何やらかしたんだい?」
 電話を切って、朱鷺は訊ねた。満枝は答えた。
「今日あたり、富田産業の社長が、売春街で見つかりますわ」
「また、玉を潰したのかい?」
「ええ、そうなんですの」
「それだけかい?」
「まだあります。富田産業が軍に納めていた缶詰に、危険な薬物が混じっています」
「ほう……」
「これは、明後日くらいに発覚するでしょう」
「ふうん、どうやってそんな細工を?」
「職工を一人、買収いたしました」
「そいつも今頃、玉を潰されてどこかに埋められてるってわけか」
「はい」
 眉ひとつ動かさず答える満枝に、朱鷺は高らかに笑った。
「相変わらずやんちゃなお嬢さんだ。まあ、初めて会ったときから、とんでもないことやらかしてくれたもんね」
 ちゃぶ台に身を乗り出し、顔を覗き込むようにして朱鷺は続けた。
「いきなり、あたしの情人(いろ)を使い物にならなくしてくれたんだから」

 伊集院満枝が、料亭「扇屋」に初めて姿を現したのは、一年前の初夏であった。
 事前の約束もなく、不意に女将部屋に入ってきた時、白瀬朱鷺はちょうど、若い男と差し向かいで酒杯を重ねているところだった。
 初めまして、伊集院満枝と申します。そう告げて頭を下げた満枝に、朱鷺は、不作法なお嬢さんだね、出直しておいで、と追い払おうとした。だが満枝は涼しい顔で、いいえ、帰るわけには参りません、是非とも、弟子にしていただきたく存じます、と言い放った。
 弟子? 朱鷺は眉をしかめた。
 ええ、そのとおり。満枝は言った。
 料亭「扇屋」の女将さんではなく、その世界では名の通った女相場師である貴女様に、ぜひ、御指南を仰ぎたいのです。
 朱鷺は顔を強張らせ、男に目配せした。着流しの襟元から刺青(いれずみ)がのぞく男は立ち上がり、満枝の前に立ちはだかった。
 怪我したくないなら、ここは引き取ってくださいな。手荒な真似はしたくはねえ……。
 男の言葉はそこで途切れた。満枝の手が、男の股間にのび、素早く動いた。睾丸を一捻りされた。男は白眼を剥き、口から泡を吹いて倒れ、動かなくなった。
 何とぞ、お願いいたします。
 倒れた男に見向きもせず、深々とお辞儀する満枝を、朱鷺はあっけにとられて見つめていたが、やがて口を開いた。
 この家には、あと何人も荒くれがいる。あたしが手を叩けば、みんな集まってくるよ。そいつらみな、あんたの細腕で、玉を潰すつもりかい?
 必要とあれば。満枝は微笑で答えた。朱鷺は思わず笑った。
 いい度胸だ。ともかく、話をきこうじゃないか。

 川奈産業は、北海道に駐屯する軍との取引を柱としている。主な取引の品は缶詰だった。北の海で獲れるカニやニシンを加工し、軍の糧秣として納めるのである。
 満枝が白瀬朱鷺を初めて訪ねたのは、川奈昭三との縁談話が持ち上がってから数日後であった。女相場師として莫大な冨を築いただけでなく、裏社会にも精通している朱鷺に、満枝は言った。
 川奈産業を買収したいのです。
「だってあんた、川奈の御曹司の嫁になるんじゃなかったのかい?」
 いぶかしがる朱鷺に、満枝は答えた。
 あの男の妻になるのは願い下げです。でも、川奈産業は欲しゅうございます。ただ、わたくしは、会社の経営とか、株式のこととか、何も存じません。だからこそ、貴女様の御指南を仰ぎたいのです。
「大胆なお嬢さんだねえ」
 朱鷺は呆れつつも、出入りを許した。
 以後、週に二、三日は訪れる満枝は、朱鷺の教えを、驚くほどの速さで吸収した。
 会社を所有しているのは、その会社が発行する株を買った株主である。株を多く所有すればするほど、その会社の経営権を握ることができる。会社の最高意志決定会議である株主総会では、株の所有数に応じて議決権が与えられる。すなわち、過半数の株を握っていれば、会社は思いのままだ。
「つまり、あんたが川奈産業の株を過半数を買い占めればいいってわけさ。もっとも、そのためには、あんたの土地をどれだけ売らなきゃならないか、見当もつかないだろうけどね」
 軍との取引で利益を得ている川奈産業は安定企業だ。大きく株価が下落することはありえない。
 でも……、と満枝は訊ねた。
 川奈産業の株価が下がれば、わたくしでも、株を買うことができるわけですね。相場師の方々は、株価を上げたり下げたりするために、いろんなことをなさるんでしょう?
 株には別の側面がある。株価は、会社の業績や評判によって上下する。安い時に買い入れ、価値があがるのを待ち、再び暴落する直前に高く売りさばく。これを「売り抜け」と言う。相場師は、冷静に株式市場の動向を見定め、適切な売り買いをすることで儲けるのだ。
「そんな乱暴なことをする者もいるかもしれないけどね」
 朱鷺はとぼけた。確かに、裏社会のコネを使って、あくどい手を使うことがないではないが、口が裂けても言えることではない。
「川奈産業の株価が下がるよう協力してくれ、と言われてもお断りだよ。だいたい、あたしになんの得があると言うのさ」
 たとえば……、満枝は引き下がらなかった。川奈産業が不祥事を起こして、軍との取引を打ち切られる事態になったら、どうなります。代わりに取引をすることになる別会社の株が上がることになりますわね。
「まあ、そういうことだね」
 では、わたくしが、川奈産業の株価が下がるよう、いろいろとやってみます。先生は、川奈産業の後釜になれるような会社の株を、お買いなさいまし。
「後釜って……たとえば、どこさ?」
 富田産業ですわ。
 満枝の答えに朱鷺は驚いた。富田産業は、川奈産業と同様、缶詰製造に携わっている。出来て間もない会社だが、着実に力を付けてきた。軍との接触を試みているという噂もある。確かに、川奈産業が軍との取引をうち切られたら、後を請け負うのは富田産業であろう。
 なんて娘だい……。朱鷺は舌を巻きつつも面差しには出さず、「まあ、やってみてごらんよ」と言った。
 それから数日後、川奈産業の跡取り息子とされた川奈昭三の死体が醜業窟で発見された。新聞でも報じられ騒ぎになったが、それが直接株価に影響を与えたわけではない。この報道をきっかけに、川奈産業が経営不審に陥っていることや、軍との不透明な関係などが次々と暴露された。
 果たして、川奈産業は軍との取引を打ち切られ、後釜には富田産業が選ばれた。あらかじめ富田産業の株を買っておいた白瀬朱鷺は、多大な利益を得たのである。
 以後、満枝は朱鷺の指導の下、株の売買に手を染めた。最初は小遣い稼ぎ程度の取引だったが、満枝が、父親から受け継いだ遺産を管理する法定後見人の堀田弁護士の睾丸を一つ破裂させ、彼女が自由に財産を使えるようになってからは、多くの金をつぎ込むようになり、儲けも莫大な額にのぼった。
 儲けた利益を元手に、川奈産業の買収に着手したいと満枝が朱鷺に告げたのが、昭和五年三月である。
 川奈産業の株主は、こういう構成になっている。
 社長の川奈昭一郎が四〇パーセント。
 その一族が二〇パーセント。
 二五パーセントは、安定株主である取引銀行。
 これら合計八五パーセントの株を取得するのは容易ではない。株を手放すことは、すなわち川奈一族の支配が脅かされることを意味するからだ。持ちかけても、まず売りには出すまい。
 となると、狙い目となるのは、雑多な一般株主が所有している一五パーセントである。
「でも、一五パーセントを買ったところで、たいした権利は得られないよ。第一、川奈産業もあの調子じゃ、配当だって出ないだろうしね」
 と朱鷺は言った。すると満枝は、微笑んで言った。
「その一五パーセントに、川奈昭一郎様が所有する四〇パーセントを合わせれば、五五パーセントになりますわ」
 どうやって川奈社長の株を手に入れるつもりだい? そう訊ねようとして朱鷺はやめた。
 その若さにも似合わず、冷酷で手段を選ばぬ満枝のことだ。穏やかなやり方でないことは確かである。
 満枝は続けた。
「先生にお願いしたいのは、わたくしに代わって、その一五パーセントを買っていただきたいということです」
「それで?」
「買い終わったところで、富田産業の株が下がるようにいたします。川奈産業の株も多少は上がるでしょう。上がった時点で、わたくしがすべて買い取らせていただきますわ」
 ちゃんと、朱鷺の利益になるよう計らっている。小憎らしい娘だ……。
 朱鷺はそう思いつつ、承諾した。
 経営不振は続き、もはや紙屑同然となっていた川奈産業の株を、朱鷺が買い終えたのが四月。
 ここで、時間は元に戻る。
 富田産業の社長が死体となって醜業窟で発見され、さらに軍に納めた缶詰に不始末があったことが発覚すると、満枝が朱鷺に告げに来た時である。
 すなわち、伊集院満枝が川奈産業の株のうち、一五パーセントを所有することは、決まったも同然であった。

「扇屋」を辞した満枝が、いったん家に戻り、再び着替えて外に出たのは夕暮れ前であった。
 胸元にリボンをあしらった白いツーピースに赤いカーディガンをひっかけ、膝丈のスカートに白い靴、赤い釣り鐘帽(クローシュ)を目深にかぶり、モダンガールふうに装った満枝が向かったのは、鰻屋であった。
 当時の鰻屋は、すべて座敷である。玄関で名を告げると、さっそく通された。
「こりゃどうも、お嬢さん」
 ふすまを開けると、一人の男がすでに席に着き、鰻重を食べている最中だった。襟の汚れたシャツに縞のズボン、蝶ネクタイをつけた四十前の、見るからに卑しげな面相である。
 どうぞごゆっくり、と仲居が去るのを見計らい、満枝は男と向かい合って座った。
「紺野さん」
 目の前の鰻重には手をつけず、冷たい面差しで口を開いた。
「もうあなたとは縁を切ったと申し上げたはずですわ」
「つれない言い方は、無しでお願いしますよ」
 紺野と呼ばれた男は愛想笑いを浮かべ、もみ手をしながら言った。
「あたしが持ってきた情報のおかげで、ずいぶん儲けなすったはずでしょう?」
「それについては、十分すぎる報酬をお支払いいたしました」
 満枝は、突き放すように言った。
 紺野は、会社の金を使い込んで解雇された元新聞記者だった。酒と博打が好きな性格が災いしたが、取材の腕は確かで、それを活かして探偵業を開いた矢先、満枝に雇われたのである。
 川奈産業や富田産業、他にも満枝が投資した株の会社についての情報を、醜聞も含め数多くもたらしてくれたのは、紺野だった。
 その情報は十分に役に立った。川奈産業の株のうち一五パーセントは満枝の手に入ったも同じである。残る川奈昭一郎の持ち株四〇パーセントを手に入れるのに、紺野の力は必要ない。
 むしろ、用が済んだ今となっては遠ざけておきたい男だった。
「いや、それがね」
 小柄な紺野は、上目遣いで満枝を見た。
「あっと驚くネタが入ったんでさ」
「どういうネタです」
「気になりますか?」
 覗き込むような視線に、満枝は音をたてて舌打ちした。紺野は、写真を取り出した。洋装の女と、口ひげをはやした好男子がソファに仲良く並んでいる。
「川奈昭一郎の娘の須美子さんですよ」
 紺野は説明した。昭三の妹にあたる。一度だけ会ったことがある。東京の女学校に通っている、生意気そうな娘だった。
「で、隣にいるのが、映画俳優の脇谷時彦。まだスタアというわけじゃありませんが、二枚目としてこれから売り出そうとしているみたいですね」
「……で?」
「こいつを手に入れるのは苦労しましたぜ」
「こんなものになんの価値があるのです?」
「へへへ、最後まで聞いてくださいよ。実はこのお二人のランデブーを、後を尾けたんですがね、夜中でさ、横浜の待合茶屋にお二人で入っていかれましたぜ」
「関心はございません」
 満枝は、写真を紺野の手元に押し返した。
「そうですか……残念だなァ」
 頭をかきながら、呟いた。
「仕方ねえ、どこか別のところに売り込みますか」
「そうなさって。買ってくださる人が現れるとようございますわね」
「いや、この写真じゃねえんで」
 紺野は、笑いを収めて満枝を見た。
「湖南省農民運動視察報告……でしたっけ」
 顔色を変える満枝を尻目に、かばんから封筒を取り出し、中身を食卓に並べてみせた。
 ガリ版の原紙だった。ガリ版印刷は、パラフィンや樹脂を塗った薄葉紙に、鉄のペンで文字を書く。これを原紙という。この原紙にインクを塗り、白い紙の上に乗せて上から抑えつけると、インクが字の形ににじみ出て印刷されるわけだ。普通、原紙は印刷後に破棄される。
 満枝が、支那の革命指導者による湖南省で起こった革命運動についての報告書を手に入れ、ガリ版で印刷し、安西小百合にも見せたことはすでに述べた。満枝は、ガリ版屋の主人に通常の倍の金を渡し、原紙はすぐに捨てるよう厳命していた。
 だが、破棄したはずの原紙が、なぜか紺野の手元にある。
「それで、あなたはそれをいくらで引き取れ、と?」
 満枝の言葉に、紺野は再び顔をほころばせ、そうですな……まず、二千円ほど。普通のサラリーマンの一年半ぶんの収入にあたる。
「わかりました。ただ、今、手元にはございませんの」
「わかっておりやすって」
「明日、同じ時間に、ここに来てください。部屋はわたくしのほうでお取りしておきます」
「承知しました」
「では、わたくし、先に帰らせていただきますわ」
「せっかくの鰻重を、おあがりにならないんですか?」
「今は、そんな気分じゃございませんので」
 頭を下げて部屋を出て行く満枝を見送りながら、紺野は満枝のぶんの鰻重に手を伸ばした。

 爪楊枝をくわえた紺野が鰻屋から出てきたのは、十数分後であった。
「高慢ちきな小娘だが……しょせんはお嬢だな……」
 口に出して呟き、ほくそ笑んだ。
 満枝から受け取った多額の報酬の多くはすでに酒と博打に消え、いくらも残っていない。自分で何でもできると思いこんでいる大金持ちの我が儘娘。地道に探偵業で稼ぐには、あまりにもおいしすぎるカモだった。この先、脅せばいくらでも引き出せるだろう。
 まずは前祝いか……。
 紺野が向かったのは目抜き通りのキャバレエだった。女給相手に気炎をあげ、店を出たのは夜十時過ぎ。薄暗い横町に入り、さらに暗い路地裏を通り抜け、人けのない通りに出た。そこに一軒の家があり、二階で賭場が開かれているはずだった。
「変だな」
 家の前に立った紺野は呟いた。二階に灯りがついていない。その灯りが、賭場が開かれている合図なのだが……。
「どなたもいらっしゃいませんよ」
 背後で声がした。ぎょっとして振り向いた。
「あ……!」
 紺野は眼を見開いた。目の前に立っていたのは、伊集院満枝だった。
「一時間ほど前、警察の捜査が入ると電報を入れておきました。みなさん、お店を畳んで、どこかに行ってしまわれましてよ」
 月明かりに、薄ら笑いが浮かび上がった。まばたきもせず、澄んだ瞳がじっと紺野を射抜くように見据えている。思わず後ずさりしそうになったが、なんとか踏みとどまって笑みを作った。
「お嬢さん、冗談はいけませんよ。いったい何の真似で……」
 次の瞬間、すっと寄ってきた満枝が、睾丸を膝で蹴り上げた。
 すさまじい激痛に紺野のからだは一瞬硬直し、膝が崩れ落ち、路上に突っ伏した。続いて、後頭部に衝撃。意識が弾け飛んだ。
「馬鹿な男……」
 ハンドバッグから縄を取り出し、うつぶせに失神した紺野の両腕を背中に回して縛り上げながら、満枝は呟いた。仰向けにして、丸めた布を口に押し込み、猿ぐつわを噛ませる。
「起きなさい」
 一つ二つ、紺野の顔に平手打ちを喰わせた。紺野は呻き、わずかに瞼を上げた。身を捩ろうとして縛られていることに気づき、眼を見開く。
 満枝は、その股間に拳を振り下ろした。急所を直撃され、紺野はのけぞり、苦しげに痙攣した。悲鳴は猿ぐつわに押し潰されて呻きにしかならなかったが、激痛と嘔吐に苛まれ、眼から滝のように涙がほとばしった。
「最初からこうしておけばよかったのね」
 満足げに微笑み、さらに拳を打ち下ろす。
 芋虫のように背を丸め、地面を転げ回って悶える紺野の姿を見ながら、満枝はシガレットを取り出して火をつけ、皓々と月が輝く夜空に煙を吹き上げた。
 やがて紺野は、ぐったりと動かなくなった。激痛が続いていることは、全身の細かな震えや、猿ぐつわから漏れる喘ぎで見て取れた。
 満枝はシガレットを投げ捨て、紺野に歩み寄った。苦痛と怯えの混じった眼で見上げる紺野に、満枝は告げた。
「これから、あなたを去勢します」
 紺野の眼が見開いた。
「わかりますね……あなたの睾丸を、二つとも破裂させます」
 紺野が激しく身を捩った。声にならぬ悲鳴を漏らし、なんとか後ずさりしようともがく。満枝はその股間に踵を乗せた。
 紺野の面差しが、懇願するように歪んだ。満枝は静かに笑って言った。
「あなたが裏切ったから、そうするわけじゃないのよ……わたくしはただ、そうしたいの」
 そのまま一気に体重を乗せた。
 満枝の踵の下で、睾丸が平たく変形し、やがて肉の弾ける音とともに、陰嚢の内部に飛び散った。続けて、もう一つの睾丸に踵を乗せる。こちらもあっけなく破裂した。
 動かなくなった紺野の猿ぐつわを取り、手を縛っていた縄をほどく。白眼を剥き、凄まじい形相であった。ズボンの股間に赤い染みができ、みるみる拡がっていく。破裂した睾丸は、その勢いで陰嚢をも突き破ったようだった。
 瀕死の紺野の傍らで、満枝は両腕で己がからだを抱きしめ、地面に膝をついて俯いていた。肩が大きく上下している。
 からだの奥からこみあげてくる何かを、必死で抑えつけているようだった。
「まだよ……」
 満枝は喘いだ。
「どうしても今夜のうちに……もうひとり……」

 狭い平屋が雑然と並ぶ界隈は、盛り場とは違い、夜が早い。すでにしんと寝静まり、明かりをともしている家もない。
「印刷 承ります」と墨書した看板を掲げた、傾いた家の前に伊集院満枝は立っていた。「湖南省農民運動視察報告」を刷らせた、五十過ぎの独り者が細々と営んでいる印刷所である。
 ガラスを貼った格子戸の前に立ち、ハンドバッグからナイフを取り出した。工業用ダイヤモンドを仕込んだナイフで、音をたてぬようガラスを丸くくり抜く。さらに細引きで格子を切り、開いた穴から手を差し込み、内側の錠を外した。
 静かに格子戸を開け、狭い三和土(たたき)をあがると、謄写版印刷機や原紙の束が散らかった仕事場となっており、ふすま一つ隔てて四畳半の部屋がある。ふすまを開けると、ちゃぶ台と小さな箪笥がひとつの寒々しい部屋にせんべい布団が敷かれ。頭のはげ上がった五十男が夜着の胸をはだけて寝ていた。
 満枝はバッグからろうそくを取り出し、火を点して部屋の隅のちゃぶ台に置いた。肋骨の浮いた薄い胸板と、汚れたふんどしに覆われた盛り上がりが照らし出される。
 男の顔が、まぶしげに歪み、やがて眼を開いた。しばらく視線をさまよわせていたが、枕元に座っている満枝に気づき、あっと小さく叫んで身を起こした。
「あ、あんたは……何時の間に……?」
 うろたえる男の鼻先に、原紙の束が突きつけられた。男は目をこすりながら原紙を広げた。やがて事態に気づき、こわばった面差しで満枝を見た。
 満枝は、薄ら笑いを浮かべている。
「こ、これには……わ、わけが……」
「うかがうわ」
 満枝は答えた。
「お話しになって」
「も、申し訳ない!」
 男は布団の上で土下座した。
「じ、実は……独り娘が……病をわずらっていて……」
「あなたに、ご家族がいらしたの?」
「わ、別れた女房が……岩手にいまして……で、娘が急病で、金が要ると手紙で泣きつかれたもんで……それで、つい……」
「本当なの?」
「本当です。信じてください」
 男は顔をあげ、涙を浮かべて懇願した。
「六つの時に別れて、今はもう十七のはず……なんとかしてやりたくても金はねえし……そこに、あの男が現れて、大金を支払うからと……それでつい、魔が差しまして……」
「それが本当かどうか、確かめたいわ」
 満枝は、バッグから手帖と鉛筆を取り出して男に差し出した。
「娘さんの名前と、住んでいる所番地を書いてください」
「へ、へい……」
 男は震える手で書き付け、頭を下げて両手を伸ばし、手帖を満枝に返した。
「岩手県胆沢郡水沢町……そう、わかったわ」
 書かれた住所を一瞥してから手帖を畳んでバッグに戻し、奥底から何かを取り出した。
「本当に申し訳ございませんでした」
 男は再び、蜘蛛のように平伏した。
「二度と致しません。勘弁してください」
「嫌よ」
 冷ややかな満枝の声に、男は顔をあげた。その顔に、満枝は思いきり、右の拳を叩きつけた。拳には、ミカンほどの大きさの石が握られていた。こめかみに打ち込まれ、男は昏倒し、横倒しに倒れた。
 満枝は、気絶した男を仰向けに寝かせ、腹から顔にかけて掛布団で覆った。男の腹のあたりに腰かけ、左手で男の口のあたりを押さえつけ、右手を伸ばして股間を握った。
 布団の下で男が痙攣した。布団に覆われた口から呻きが漏れた。
「安心なさって」
 激痛に意識を取り戻し、なんとか逃れようともがく男を抑えつけ、睾丸を握る手に力をこめながら、満枝は言った。
「娘さんには、あたくしが十分な援助をさせていただくわ。心安らかに旅立ちなさい」
 やがて満枝の右の掌の内側で肉塊が弾け、破壊された性器を包むふんどしが見る見る赤く染まった。男は大きくのけぞり、そのまま動かなくなった。
 満枝は立ち上がった。全身が震えていた。眼が見開かれ、唇は悦びに引き裂かれている。
 左の手が胸乳へ、右の手がスカートの内側へと伸びた。
 沸き上がる官能を解き放ち、恍惚の時をむさぼる満枝の傍らで、去勢された哀れな肉体が、地獄の苦しみにさいなまれながら、最期の時を迎えようとしていた。

   X

 あと数日で四月は終わる。
 すなわち、五月一日のメーデーが近づいていた。
 夕刻、淡路町の「アジト」で、小沼健吾は背広に袖を通していた。そのかたわらに立っていた佳代が、小沼の掌にネクタイを乗せる。
「かなり遅くなると思うから、先に寝てなさい」
 佳代は小さく頷いた。ネクタイを締め終え、玄関に向かう。
「あ」
 小さな叫びとともに、佳代の手が小沼の肩に伸びた。久しぶりに引っ張り出した背広に付着していた糸くずを、丁寧に払った。
 佳代の掌が、そっと肩に触れる度に息が詰まった。心臓の鼓動が早まり、額に汗が出てくる。
 馬鹿な……。
 小沼は、送らなくていいよ、と肩越しに声をかけ、玄関で靴を履きながら、口の中で自分を責めた。
 大事の前だというのに、何を考えているんだ……。
 小作争議の決行の前夜など、妙に気が高ぶり性欲が昂進することがあるのは、経験で知っていた。ただ、その対象が、佳代に向けられていることに、強い自責の念が沸き上がる。
 一年前、北海道で出会った時の佳代は、貧しい家で育った娘らしく、手足は小枝のように痩せ、幼児のようなからだつきだった。
 この淡路町のアジトに住むようになってから、佳代のからだは急におとなびてきた。手の甲は丸みを帯び、頬から喉、襟足にかけて匂うような艶(つや)を帯びてきている。
 そういえば……。小沼は思った。
 メーデーで予定されている「行動」が終わった後、無事この家に帰ってこれるかどうか分からない。佳代のことは、早めに身の振り方を考えてやったほうがいいのではないか。
 誰に頼る? 「党」は当てにならない。ふと、伊集院満枝の白い顔が脳裡に浮かんだが、すぐに打ち消した。
 知り合いの蕎麦屋にでも勤めさせるか……。そんなことを考えつつ、小沼は「会合」の場所へと向かった。「会合」と言っても、幹部に会い、「党」の指令を一方的に受け取るだけである。
 場所は銀座のカフェであった。世間は不況の風に覆われていたが、盛り場は相変わらずの賑わいである。指定されたカフェに入り、女給にある名前を告げる。「党」の東京支部の幹部が偽名で個室を取って待っているはずであった。
 部屋に入ると、アルコールの匂いと煙草の煙が充満していた。白いクロスを敷いた長方形のテーブルに、三人が座っていた。ビールのグラスや高額そうな料理の皿が所狭しと並んでいる。
「掛けたまえ」
 声をかけてきたのは、鎌田悟だった。すでに顔が赤い。その隣には見知らぬ男。その向かいには、小沼に背を向けて洋装の女性が座っている。
「君も呑むだろう。ビールでいいかね?」
「……ええ」
 小沼は言葉を濁しながら、洋装の女性の隣に座った。
 出陣前の酒宴のつもりだろうか。どうせ小沼に拒否権はないのだから、街頭連絡で充分のはずだ。こんなことで、貴重な「党」の資金を無駄遣いするなんて……。
 椅子に腰をかけ、何気なく隣に座る女性を見やって、小沼は息を呑んだ。
 猪俣佐和子だった。

 つい最近、小沼に「組合」入りを拒絶された佐和子が、「党」の幹部たちと並んで席に着いている。すでにビールを呑んでいるらしく、頬がほんのりと赤い。俯き加減にテーブルに視線を落とし、小沼に顔を向けようともしない。
「彼女は」
 鎌田が説明し始めた。
「東京支部長補佐として、今回の件を手伝ってくれることになった井上君だ」
 井上というのが、「党」が佐和子に与えた変名なのだろう。どのような手段を使って入党したかは知らぬが、いきなり東京支部長補佐とは……。しかし、それならば、東京支部第四地区長の鎌田より上席に座っているはずだが。
 訝しがる小沼の心中を察してか、鎌田は眼鏡の位置を直しながら言った。
「四日前に、組織の改編があった。ぼくが東京支部長として、今回の『行動』の指揮を執る」
 東京支部長は検挙されたのだな……。小沼は思った。こうして「党」から優秀な人材が減っていき、たいした活動歴もない青二才がますますのさばることになる。
 少なくとも、前の東京支部長ならば、「会合」と称して、銀座の一流カフェで飲み食いし、貴重な党の資金を散財することはなかったはずだ。
 鎌田は、隣に座る陰気な男に目配せした。男は、足許のかばんから新聞紙に包んだものを取り出し、小沼の目の前に置いた。
「それを持っていたまえ」
 鎌田に促され、小沼は包みを手に取った。ずしりと重く、硬い手触りから、拳銃であることは明らかだった。
「護身用だ。君の受け持ちは、今回の『行動』の要めとなる。よろしく頼むよ」
 こんな拳銃一丁を渡されても、成功の可能性が高まるわけではない。第一、これを使うことがあるとすれば、「行動」が失敗に終わった時だ。そんなことより、行動隊員に支給されるはずの武器の手配はどうなっているのだ……。
 ふと、傍らに座る佐和子の眼差しを感じた。そっと見やると、佐和子はわずかに眼を伏せ、目の前に並べられた皿を見つめるばかりだった。
「集合場所は確保したかね」
 そう問われ、小沼は頷いた。
 再び、佐和子の眼差しが、左の肩のあたりに感じられた。こころなしか、乱れた息づかいすら伝わってくる。
「実はその件なんだが……」
 苦労して確保した場所を聞いてから、鎌田は言った。
「計画が変わった。君の受け持ちは、新橋だ」
 小沼の顔色が変わった。決行まであと数日。今からどうやって新たな待機場所を確保せよというのか。思わず、佐和子の顔を見た。面差しを堅くしたまま俯いている。
 鎌田は、目をそらしながら言った。
「場所は、われわれが確保しつつある。決まり次第、すぐに伝える。君は当日、行動隊員をその場所に集めてくれればいい」
「なぜ……」
 小沼は、怒りを抑て声を振り絞った。
「今になって、そんな……」
「情勢の変化だ」
 鎌田はぴしゃりと言い放った。これ以上の質問は受け付けないという意思表示だった。
「ただ、集合場所が変わっただけだ。たいしたことじゃない」
 なにを馬鹿な……。小沼は拳を握りしめた。様々な工場から寄せ集めた百人にのぼる「行動隊員」に、集合場所の変更を伝えるだけでも一苦労だ。また、少しでも「行動」を成功に近づけるため、小沼は京橋近辺の土地勘を身につけようと、任務の合間を縫ってあたりを探っていた。いざという時の逃走経路も捜し、各隊員には伝えてある。それと同じ事を今から当日までに繰り返すのは、不可能なのだ。
「まあ、呑めよ」
 鎌田はビール瓶を差し出し、小沼のグラスに注いだ。
「ご苦労だったね。好きなだけ食べていきたまえ」
 冗談ではない……。今からでも動き出さないと、間に合わない。
「いえ……」
 小沼はぶっきらぼうに立ち上がり、一礼した。
「街頭連絡がありますので、これで……」

 嘘ではなかった。
 銀座での「会合」を終えた後、小沼は幾人かの「行動隊員」や「細胞」と街頭で会う手はずになっていた。
 カフェを出て、まず向かったのは、銀座の大通りに面して建っている六階建ての服部時計店だった。屋上にそびえる巨大な時計台は、銀座のシンボルであり、待ち合わせにもよく使われる。
「あ!」
 やってきた小沼を、笑顔で出迎えたのは、貴代美だった。カフェの女給をしていた頃にあつらえた洋装である。小沼は笑顔を返し、連れだって歩き始めた。歩きながら、話をかわした。
「結局、何人だ?」
「確かなのは二十人。もう少し増えそうだけど……」
 小沼の腕にすがり、笑みを保ったまま、しかし声音は低くひそめて貴代美は答えた。
 貴代美が「組合員」として正式にオルグ(勧誘活動)を始めてから、百人近い女工が「組合」に加入した。さらに、職場での人望の厚い男性の職工も、貴代美の勧誘で数多く「組合」に入ってきた。「組合」内部での貴代美の声望はあがっていく一方だった。
 その貴代美が、女工たちとともに、メーデーでの「行動」に参加したい、と言い出したのは、三週間ばかり前だった。
 小沼は、女工たちに後方支援を頼むつもりだった。しかし貴代美たちは、あえて前線に出たい、という。女には危険すぎる、と翻意させようとしたが、貴代美は譲らなかった。
 大丈夫だよ、女だからって、あたい、生まれてこの方、喧嘩じゃ男にも負けたことないンだ。仲間には、金玉の蹴り方、ちゃんと教えとくからサ。
 苦笑する小沼に、貴代美はさらに言い募ったものだった。
 小沼さん、前にフランスの絵を見せてくれたじゃないか。
「勉強会」の時、貴代美たち女工に、ドラクロワの『一八三〇年七月二十八日』と題された絵を見せたことがあった。一八三〇年、国王に対して民衆が反乱を起こした、いわゆる七月革命を題材としている。肩や胸をあらわにした女神が、赤白青の三色旗を大きく掲げ、その後を武装した民衆が続く。
 あの絵、感激しちゃった。あたい、どうしても、仲間と一緒に戦いたい。先頭に立って、悪い連中を蹴散らしてやりたいンだ。
 小沼が承諾したのは、その絵に描かれた女神を、貴代美と入れ替えても違和感がないように思ったからだった。
 今夜は、その貴代美に決行場所の変更を知らせねばならない。
「実はな……」
 重い口調で、「党」の命令を伝えると、貴代美はあっさりと頷いた。
「わかった。どこだっていいよ、あたいたちは」
「いいのか……?」
 急な変更に動揺する者がいても不思議はないのだ。そう言うと、貴代美は微笑んだ。
「あたいは、尻込みなんかしないよ。小沼さんのためだもん」
 貴代美の澄んだ眼差しに、小沼は、胸が熱くなった。
「あたい、馬鹿だから、難しいことはわかンない。でも、小沼さんは信じられる。小沼さんの言うとおりにすれば、世の中、よくなると思う。だから、迷ったりしないよ。安心して」
「なあ……」
 小沼は歩みを止めた。
「なあに?」
「お前、今回の行動が終わったら、モスクワに行かないか?」
「モスクワ?」
 二ヵ月後にモスクワで、各国から派遣された労働者による会議が開かれる。「党」としては、これを機会に、十数人の「党員」や「組合員」で代表団を組織して秘密裏に派遣し、当局の弾圧による混乱で途絶えていたソ連との関係を復活させたいと考えている。
 代表団のメンバーは、会議が終わった後もモスクワに留まり、地元の教育機関で活動家としての訓練を受けることになっていた。小沼にも、そのメンバーとするにふさわしい労働者を推薦してほしいと要請が来ていた。
 小沼は、貴代美を推薦すると言っているのだ。
「あたいなんか、ダメだよ」
 貴代美は、心底困ったような顔になった。
「難しいことわかンないし、外国なんておっかないし……」
「大丈夫、お前ならできるさ」
「そうかなア……?
 自信なさげに俯く貴代美に、小沼は微笑んだ。
 必要なのは、お前のような人材なんだ。頭でっかちのインテリや、怖いもの知らずのお嬢さんではなく……。

 貴代美と別れた後、数度の街頭連絡をこなし、小沼は帰路に着いた。
 貴代美以外の「行動隊員」は、突然の計画変更に動揺を隠し切れないようだった。無理もないが……。重い足取りで、暗い夜道を歩きつつ「隠れ家(アジト)」へと向かっていた小沼の背後から、「あの」と呼び止める声がした。
「お久しぶりです」
 振り向くと、深々と頭を下げたのは、猪俣佐和子だった。
 驚きの余り、声もなかった。常に最悪の事態を想定して行動するのが、非合法活動に携わる者が心得ておくべき鉄則だ。もし、あの「会合」を警察がかぎつけていたら、当然、佐和子には尾行がつく。それをのこのこやって来られたら、小沼の「隠れ家」まで見つかってしまう。
 ひとまず佐和子を追い返してから、再び電車に乗り、わざと遠回りしたほうがいいかもしれない。あるいは、今夜はどこかに宿を取るか……。咄嗟にそんなことを思い巡らしつつ、小沼は訊ねた。
「何か?」
「いえ、あの……」
 佐和子はしばし俯き、逡巡していたが、やがて顔を上げ、口を開いた。
「貴代美さんのことで……ここじゃなんですから、お宅に寄らせていただいても、よろしいでしょうか」
「井上さん」
 小沼は、あえて変名で呼びかけた。静かだが厳しい声音に、佐和子は怯えたように小声で「はい」と答えた。
「それは、命令ですか?」
「え……?」
「正式に、わたしの家で会合を開けという命令があったならばご案内しますが、私事ならば、お断りします」
 佐和子は、唇をかみ締めて俯き、やがて、恨めしげな眼差しを向けた。小沼は、冷たく言い放った。
「では、これで……」
 踵(きびす)を返して駅へと向かった。
 佐和子の「聞きたいこと」は察しがつく。彼女は、貴代美の役に立ちたいと望んでいた。どういう経緯かは知らないが「党」に入ることができた。しかしながら、「党員」になったからと言って、個人の希望で所属先や一緒に行動する同志を決められるわけではない。まして、いまだ「党員」でもない一組合員のことなど、幹部に聞いても教えてくれるわけがない。そこで小沼に、貴代美が今、どこでどういう活動をしているか、聞きにきたのだろう。
 やはり、今夜はどこかに宿を取ろうと思いながら、ふと振り返ると、佐和子がうなだれたまま、とぼとぼと後を追ってくる。
 ……仕方のないお嬢さんだ。
「貴代美は……」
 小沼は足を止め、振り返らぬまま、言った。
「当日、私と行動をともにします。後は、支部長にでも聞いてください」
 そのまま、早足に歩き出した。

 当日……。
 それが何を意味するのか、知らない佐和子ではない。
 メーデーの日、貴代美は、小沼と行動をともにする。
 おそらく、「行動隊員」として。
 それが命がけの行動であることは、「党」に入って日の浅い佐和子にも理解できた。
 小沼が去った後、佐和子はしばし暗い夜道にたたずんでいた。お嬢さん、こんなところで何をしているのかね? 声をかけられ顔をあげると、警官だった。心臓が口から飛び出しそうだった。
 深い皺の刻まれた、穏やかな面だちの警官は、女性の独り歩きは危ない、まだ電車もあるし、家が遠いなら円タクでも拾って帰りなさい。駅前通りなら、拾えるはずだよ、と指差してくれた。
 丁寧にお辞儀をして駅前まで歩いて電車に乗り、日暮里へと向かった。幾日ぶりだろう……、かつて貴代美と住んでいたアパートへ帰るのは。
 部屋に入り、ベッドに腰をおろす。貴代美と抱擁した思い出がからだの芯によみがえってくる。あの屈託のない笑顔。おさわちゃん、と呼びかける声の暖かさ。
 同時に、あの時から送ってきた爛(ただ)れた日々が脳裏をかけめぐった。
 ……あの鵠沼の小料理屋の二階の座敷で、佐和子は村野栄太郎に、「党員」となるために推薦してくれるよう頼んだ。村野は、推薦がほしければ自分の家に来てくれ、と迫った。恐ろしくなった佐和子はその睾丸をひねり上げ、悶絶する村野を置き去りにして逃げたのだ。
 その翌日、佐和子は雑誌社を休んだ。翌々日、恐る恐る出社すると、村野から電報が来ていた。校正刷りに訂正を入れたから、取りに来てほしいという。
 胸騒ぎを覚えながら、村野が住んでいる鵠沼の農家を訪ねると、果たして村野は、きちんと髪を刈り、髭を剃り、こざっぱりとした着物で待っていた。
「頼む」
 離れの部屋にあがるなり、村野は体を折り曲げ、畳に額をこすりつけた。
「一生のお願いだ。笑わずに聞いてくれ」

 率直に言う。ここで一緒に暮らしてくれ。いや、誤解しないでほしい。この部屋で同居してくれなどとは言わない。近くに家を借りてくれてもいいし、もし適当な家が見つからなかったら、ここの敷地にもう一軒、離れを建ててもらってもいい。わかっていると思うが、ぼくは「党員」だ。しかも「党中央」の委員なんだ。活動資金も入ってくるし、本も売れていて印税もかなり入った。しかも実家は地主でね、いまでも結構な額の仕送りをしてくれている。お金はいくらでもあるんだ。いや、そんなことはいい。つまりだ、言いたいことはこうだ。ぼくは君を「党員」に推薦してあげる。しかも、ぼくの右腕として働いてもらうようにしてあげる。僕は今、「党」のアジ・プロ部門の責任者だ。分かるかね? アジテーションとプロパガンダの略だ。要するに、虐げられた労働者階級をわれわれの味方とするための啓蒙活動だな。さらには、全国の同志たちに「党中央」の方針を呼びかける役目でもある。分かるかね? 要するに、ぼくが発表する文書が、全国数万人の「党員」や「プロレタリア階級」を動かしているんだ。そのぼくを補佐するということは、即ち、ぼくとともに「党」を動かす立場になるということなんだよ。実に愉快じゃないか。だから、誤解しないでほしい。君に頼みたいのは、ここに来て、ぼくの研究や執筆の手助けをしてほしいということなんだ。男として君に惚れたとか、君に肉欲を感じたとか、決してそういうわけじゃない。本当だよ。お金は大丈夫だ。さっき言ったように、ぼくは大金持ちなんだから。いま雑誌社で月にいくらくらい貰っているんだ? うん、うん。わかった、倍の給料を出すよ。しかし、先日は悪かった。ついつい酔っ払って誤解を与えてしまったかもしれない。なに、怒ってなんかいやしないさ。ははは。謝らなくていいよ。あれはぼくが悪かった。君が怒って逃げ出すのも無理はない。あの後? なに、平気さ。ちょっと吐いてしまったがね。お店のほうには、料金の倍のお金を渡しておいたから、全然平気だ。まあ、確かに痛かったけどね。しかし君、ちょっと聞きたいのだが、君は、その、つまり、ああいうことをやったのは初めてなのかい? いや、いいんだ。ただ、なんというか、あれは実に痛いものだね。本当に痛かった。いや、申し訳ないなんて思わなくていい。ぼくは感謝したいくらいなんだ。何故かって? その……。笑わないで聞いてほしいんだ。ぼくは、田舎の地主の家に生まれた。自分で言うのもなんだが、勉強が好きだったし、成績も優秀だったと思う。みんな、いずれぼくが帝国大学を出て学士になり、官吏として出世するか、学者となるか、どちらかだろうと噂していた。でも駄目だった。知ってるとおり、ぼくは病弱だ。しかも隻脚だ。試験を受けても健康上の理由で不合格になってしまう。ぼくは呪った。何もかも呪った。自分をこんなからだにした病気を呪い、両親を呪い、ぼくを受け入れてくれない社会を呪い、ぼく自身を呪った。だが、何よりも呪わしかったのは、なんだと思う? ぼくは人並みのからだじゃないと気づいたのは、中学生の時だ。それまでぼくは、たとえ片足であろうとも、それ以外は人並みだと信じていたんだ。でもそうじゃなかった。その頃、ぼくは見たんだ。家の土蔵で、ぼくの兄貴が、小作人の娘と逢い引きをしていた。兄貴の逸物が硬く勃起していた。びっくりした。ぼくの逸物が、あんなに大きくなったことは一度もなかったからだ。つまり、ぼくはイムポテンツなんだ。生まれてこの方、一度も勃起したことがなかった。ぼくは絶望した。試験も不合格、こういうからだじゃ嫁も来ない。女郎を買うことだってできやしない。わかるかね? 分からないだろうな。生まれた時から、男女の楽しみを、ぼくは奪われていたんだ。手淫だってできやしないんだ。自殺したくなったができなかった。ぼくはひたすらマルクス主義の勉強に没頭した。そんなぼくに光明を与えてくれたのが、君なんだよ。君がぼくの睾丸を捻り上げた時、あれは地獄だった。痛いなんてもんじゃない。からだのなかで、棘つきの鉄球がごろごろと転がっているようで、苦しくて、吐きそうで、本当に死ぬかと思った。ところがだ……。少し痛みが治まってから気づいたんだ。ぼくの逸物は勃起していた。土蔵で見た兄貴のと同じように勃起していた。ぼくは夢中で、そいつをしごいた。そして、生まれて初めて射精したんだ……。その喜びは、とても言葉じゃ表現できやしない。暗い水の中から浮かび上がって、目の上に青空が拡がったような、そんな気分だった。だから、頼む。ここにいてくれ。お願いだ。さっきも言ったとおり、君はぼくの学問の手伝いをしてくれればいい。そして……時々、あのように、睾丸を捻ってくれればそれでいい。君を抱きたいわけじゃない。僕の逸物を勃起させてくれさえすれば、後は自分でやるから……。お願いです。ここにいてください。僕のそばにいてください。一生のお願いです。

 その二日後。佐和子は新時代社を辞め、鵠沼に引っ越した。駅前にアパートを借り、そこから村野の部屋に通った。佐和子に急所を痛めつけられ、床を転げ回って悶絶する村野の姿は醜悪だった。だがそれ以上に嫌悪したのは……そういう村野を見て、欲情を覚える自分自身だった。
 執筆の手伝いが終わると、佐和子は村野の睾丸を捻り上げる。苦しみ悶える村野を放置して、アパートに戻る。そして、自らの指で自らを慰めるのだ。その頃村野は、あの離れの汚れた布団のなかで、同じ行為をしているのだろう……。
 メーデーにおける「行動」への参加を志願したのは数日前だ。
 村野とは、睾丸を捻る以外、肉体的な接触は一切ない。だが、いずれにせよ、佐和子は「女」を武器に「党員」となり、しかも、村野の推薦により、東京支部長補佐の重職に就いた。叩きあげの活動家である小沼に軽蔑されるのも無理はない。
 メーデーでの「行動」について村野から聞いた時、佐和子は確信した。そこには必ず、貴代美がいるに違いない。貴代美に会いたい。会って、一緒にたたかいたい。「行動」を起こせば結果は二つに一つ。革命が成就するか、警察に捕まるか。捕まってもいい。捕まって殺されてもいい。この爛れた日々を終わらせることができる。ただ、その時は、貴代美と一緒にいたい。
 佐和子はベッドに突っ伏した。かつて貴代美と愛し合ったベッドの上で、シーツを握りしめ、声を押し殺してむせび泣いた。

   Y

 春の陽気のせいばかりではあるまい。
 卒業まで三ヶ月となったこの時期、女学生の間で話題の中心となるのは縁談だった。
 だれそれさん、今度の週末、お見合いですって。もうお決めになったみたいよ。嘘、うまくいってないって聞いたわよ……。
 自分もいずれ、そんなふうに語られるのだろうか。安西小百合(あんざい・さゆり)は頬杖をつき、窓の外に咲き誇る桜を見やりながらぼんやりと思った。北海道では、桜の開花は四月の下旬である。
「安西さん」
 教師に注意され、我に帰って教科書に見入った。クラスメイトの間からくすくす笑いが聞こえてくる。やはり、噂になっているのだろうか……。
 兄の健吉が、高校の後輩である増田喬という青年を家に連れてきたのは二月のことだ。北海道小樽市の商業高等学校に通っていた増田は、小百合より三歳上。三月に卒業してH市に帰ってきた。いま、就職先を捜しているという。
「なかなか勉強熱心な、いい奴だぞ」
 健吉は、増田のコップにビールを注ぎながら、小百合に聞かせるように言った。
「ラグビーも強くてな。一度こいつのタックルを受けて、吹っ飛ばされたことがある」
 背が高く、がっちりした体型の増田は、照れたように頭をかいていた。以後、小百合はたびたび、兄を交えて増田と会うようになった。父も母も、増田には好感を抱いてるようだった。
 卒業したら……。小百合は漠然と思った。この方と結婚することになるのだろうな。
 授業が終わり、小百合はしばらくクラスメイトと談笑してから校門を出た。山の緑が青空に映え、道行く人の面差しも心なしか明るげに見える。
 大通りに出て、書店に入り、刊行されたばかりの婦人雑誌をめくっていると、「おや?」と、頭上で声がした。顔を上げると、増田だった。経済雑誌を手にしている。
「あら」
 小百合の顔が自然とほころんだ。頭を下げ、丁寧にお辞儀をする。増田も会釈を返して言った。
「本をお探しですか?」
「ええ、ちょっと……でも、もういいんです」
「そうですか」
 増田はやや口ごもり、小さな声で言った。
「もしよろしかったら、少し、お話でもしませんか?」
 小百合はためらった。良家の子女が同じ年頃の男性と一緒に歩いただけで不良扱いされる時代である。まして、今はI高等女学校の制服姿だ。クラスメイトに見つかったりしたら、どんな噂をたてられるか分かったものではない。
「すみません……ちょっと急いでますので」
 言ってから少し後悔した。増田は、それは仕方がありませんね、と俯き、それから顔をあげて言った。
「そうだ、お兄さんに伝えてくださいませんか。実は就職が内定したんです」
「まあ、おめでとうございます」
 不況が続いていた。先日、家に遊びに来た時、なかなか仕事が見つからなくてね、と愚痴をこぼしていたことを思い出した。
「どちらに決まりましたの」
「川奈産業です」
 その名を聞いて、息が詰まった。
 川奈産業……。
 伊集院満枝の婚約者であり、無残な姿で死んだ川奈昭三の父親が経営する会社ではないか。
「では、ここで失敬します」
 また遊びにいきますね、と軽く頭を下げて帳場に向かう増田の大きな背中を見ながら、どこまでも付きまとう伊集院満枝の影に、小百合は暗然たる思いをかみしめていた。

「川奈産業ねえ……」
 自宅に戻り、夕食の席で増田の言葉を伝えると、健吉は小首を傾げて言った。
「あそこは経営不振でなかなか大変なんだが、よく、新人を採用したな」
「そうなの?」
 小百合は訊ねた。
「うん。後継ぎの長男が亡くなって以来、不祥事続きなんだよ。人減らしをやるんじゃないかと噂になっていた」
「軍との取引も打ち切られたという話だな」
 父親が口を挟んだ。
「なんでも、後釜に座った富田産業も、納めた缶詰に危険な薬物が混ざっていたとかで、ちかぢか取引を打ち切られるという話ですよ」
「じゃあ川奈も、軍との取引再開をにらんで、新規採用を始めたのかな」
「そうだといいんですけどね」
 父と兄の噂話を聞きながら、小百合の頭のなかは、伊集院満枝のことでいっぱいだった。
 正月に、「湖南省農民運動視察報告」のガリ版刷りを読まされて以来、満枝とは会っていない。それから三ヵ月以上すぎた今となっては、思い出すことも稀になった。
 増田喬が自分に好意を抱いていることは知っている。自分が首を縦に振れば縁談は成立し、卒業と同時に祝言を挙げることになるだろう。拒む理由はない。漠然とではあるが、そんなふうに考えていた。
 ……男は、その醜いものをもって、わたくしたち女のからだを刺し貫く。
 ……からだを刺し貫かれるだけなら、まだ我慢もするわ。心まで刺し貫かれるのは、まっぴらよ。
 増田から「川奈産業」の名前を聞いたと同時に、伊集院満枝がかつて礼拝堂で猪俣佐和子に語った言葉がよみがえった。刺し貫く。その語感に、結婚と言うものが現実にはなんであるか、生々しく突きつけられた思いだった。
 夕餉を終え、自室に戻った。明日は休日。どのように過ごそうか。何か気晴らしがしたい。図書館に行こうか。一日中、好きな本を読みふけろうか。そう思って、やめた。
 伊集院満枝と出会いそうな気がしたからだ。

 翌日。
「やることがないのなら、付き合ってよ」と言われ、安西小百合は母親の信子とともに、市内の百貨店に出かけた。卒業式に着る海老茶袴(えびちゃばかま)をこしらえるという。
 まだ二月以上も先なのよ、と渋る小百合に、信子は、こういうものは早めにしといたほうがいいのよ、ときかない。娘の身だしなみとなると母親というものは、当の娘以上に張り切るものなのか、と小百合はおかしかった。
 呉服売り場には、早くも卒業式目当ての海老茶袴が並んでいる。母娘連れも多い。目を凝らして値札を見比べる信子に、小百合は「この安いのでいいじゃない」と言ったが、それ人絹(じんけん)よ、と見向きもしない。人絹でいいわよ。だってお前、みすぼらしいのは嫌じゃないか。
 I高等女学校は富裕な家庭の娘が多い。娘に恥をかかせまいという親心が、かえって疎ましかった。活発で気の強い令嬢たちの間で、家がさして裕福でもなく、おとなしい性格の小百合は、身を縮めるようにして、しかし、仲間はずれにはならないよう、気を配って過ごしてきた。最後に背伸びなんかしなくてもいいのに……。
「あら、安西さんじゃございませんか?」
 話しかけてきたのは、二人連れの中年婦人だった。信子の知り合いらしく、たちまちおしゃべりの花が咲いた。
 小百合は、所在なげに、広い百貨店にずらりと並んだ色とりどりの着物を見やった。この先、自分は何着の服を着るのだろう。たった一度きり着るだけの海老茶袴。たった一度きり着るだけの花嫁衣裳。家庭に入ったら、慎ましく地味なものを着て、生まれてくる子どもの着るものに神経を砕いて……。自分もそんなふうになるのだろうか。
「安西さん」
 緩んだ空気を刺し貫くような、小さいが凛とした声音に、小百合は我に帰った。同時に、背筋がこわばった。
 やはり……。
 どうしても、この人とは、顔を合わせるようにできてるんだ……。
「お久しぶりね、お元気?」
 眼を上げると、そこに伊集院満枝の笑顔があった。

 渋い柿色のお召しに黒い羽織、髪を丁寧に結い上げ、漆(うるし)を塗った草履に、手には縮緬(ちりめん)のバッグ。もはや女学生の面影はなく、ひどく大人びた風情であった。
 満枝は、おしゃべりに夢中な母親たちを一瞥し、もうすぐ卒業ですものね、と懐かしげに眼を細め、そう言えば、と声をひそめた。
「増田喬さんて方、なかなかの好青年ね」
 なぜ、その名前を?
 眼を見開いた小百合に、満枝は言った。
「一度、お会いして、すぐに採用を決めました。会社を立て直せる方だと」
 会社とは川奈産業のことだろう。だが、川奈産業の新規採用を、なぜ満枝が決める立場にいるのだろうか。
「わたくし、川奈産業の大株主になりましたの」
 満枝は、戸惑う小百合に説明した。
「増田さんには、これからばりばり働いていただくわ。ぜひ、彼を支えて差し上げてね」
「あ、あの……」
 渇いた喉から、やっと声を絞り出した。
「その……増田さんは、ただ、兄の後輩で……」
 あら、お友だち?
 おしゃべりを終えた信子が歩み寄ってきて、背の高い満枝の美貌をまぶしげに見上げた。満枝はいんぎんにお辞儀をし、小百合さんの同窓の伊集院と申します、と名乗り、ふたこと、みこと、信子と言葉をかわしてから、ごきげんよう、と挨拶して去っていった。
 その翌日、学校から帰宅し、ちゃぶ台に頬杖をついて新聞をめくっていた小百合は、経済面の見出しに眼を止めた。
 二十歳の大株主。
 令嬢、川奈産業を立て直せるか?
 伊集院満枝の記事だった。
「このたび、川奈産業の大株主として若干二十歳のうら若き乙女、伊集院満枝嬢が、同社の取締役として迎えられることになった。伊集院嬢は昨夏、市内の高等女学校を卒業したばかり。同社社長・川奈昭一郎氏の令息昭三氏と婚約していたが、昭三氏の不慮の死によって解消した。その後、川奈産業は経営不振が続き、正一郎社長も過労故か長期療養中という。そこで伊集院嬢は亡父から引き継いだ莫大な遺産の一部を、同社再建のためにと同社発行の株式を大量購入、救済に乗り出したという」
 続いて、満枝の談話が載せられていた。
「昭三さんのことは、わたくしとしても大変残念でございました。わたくしでお役に立てることはないかといろいろ相談してかような仕儀となったわけです」
「なにぶん若輩者ゆえ、右も左もわかりません。社長様にも重役の方々にもこれまでどおり経営に当たっていただき、ご指導を仰ぎたく存じます」
 当たり障りのない社交辞令であることは、小百合にも飲み込めた。
「罪ぶかい女」
 満枝の言葉が蘇った。大勢の男性を去勢して殺害し、猪俣佐和子をそそのかして川奈昭三を死に至らしめ、ついに、川奈産業を手に入れた。
 その川奈産業に、増田喬は入社した……。
 もはや逃れられない。小百合は凍りついたよういに動かぬまま、新聞に印刷された伊集院満枝の文字を凝視していた。

「これでわたくしも、名士の仲間入りというわけね」
 新聞紙を丁寧に折りたたみ、かたわらに立つ篠原ヨシに手渡し、紅茶のカップを口元に運びながら、満枝は言った。
「よろしいのでしょうか」
 静かに言うヨシに、満枝はカップを皿に戻して、見上げた。
「なぜ?」
「あまり派手な、目立つようなことはなさらないほうが賢明ではないかと」
「そうね、経緯が経緯だものね」
 満枝はあっさりと認めて言った。
「川奈さまのところにも、新聞記者が訪れたらしいわ」
 ヨシは眉をひそめた。川奈昭一郎は郊外の病院に入院中だった。病気ではない。
「大丈夫よ。今回の株式譲渡の真相を漏らせば、川奈産業はおしまいよ。そこまでお頭の悪い方じゃないわ」
 満枝は立ち上がり、硬い面差しのヨシの肩を抱いた。
「川奈さまには、もうしばらく、社長の椅子に座っていただくつもりよ」
 満枝の胸元に顔をうずめるヨシの頭を撫でながら、満枝は冷たく笑った。
「さぞかし、針の莚(むしろ)でしょうね。自分を不具にした大株主の下で社長職をなさるというのも」

 川奈昭一郎と堀田弁護士が連れ立って伊集院家の洋館を訪ねたのは、一週間ほど前だった。
 部屋に通されるなり、突っ伏して額を床にこすりつけ、援助を請う昭一郎を、満枝はしばらく黙って見つめていたが、やがて口を開いた。
「お助けいたしますわ」
 眼を輝かせて顔をあげた昭一郎に、満枝は鞭を振り下ろすように言い放った。
「ただし、条件が二つございます」
「条件とは……?」
「あなたが所有する川奈産業の株を、すべて譲渡していただきたいのです」
 返事に詰まって堀田弁護士を見やる昭一郎に、満枝は追い討ちをかけた。
「ただで、とは申しません。相応の額で買い取らせていただきます。当座は、そのお金でしのいでくださいまし」
 すっかり痩せさらばえた堀田弁護士は、同意を促す眼差しを昭一郎に送った。
「ご心配なさらずに。経営は引き続き、川奈さまにやっていただきます。わたくしは、川奈産業をお助けしたいのです。乗っ取ろうなんてみじんも思っておりませんわ」
 乗っ取る。その言葉に、昭一郎はますます面差しを募らせ、再度、堀田弁護士を見やった。堀田は俯き、口を噤んでいる。
「それで……もうひとつの条件とは?」
 怯えて問う昭一郎の背後に、音もなく立ったのは、篠原ヨシだった。
 満枝は言った。
 川奈さま、覚えてらして? あなたが、わたくしの父と、そこにいらっしゃる堀田のおじさまと、三人でもてあそんだ小作人の娘を。そう、そこにいるヨシですわ。あなたがたがなさったことは、ヨシだけでなく、わたくしたち女性に対する辱めです。その罪をあがなっていただけないうちは、わたくしとしても、援助をさせていただくわけにはまいりませんの。
 否定なすっても無駄よ。堀田のおじさまは、すでに罪をお認めになり、潔く罰をお受けになりました。いま、堀田のおじさまは、睾丸をひとつしか持ってらっしゃらないの。もうひとつは、このヨシの手で破裂させました。大丈夫よ、堀田のおじさまも、三月ばかり静養されて、このとおり、元気でいらっしゃるわ。ちょっとお痩せになったようだし、昔のような威勢のよさはなくなりましたけれど、従順でおとなしい、いい方になられたわ……。
 昭一郎は恐怖に怯え、堀田はあの時の地獄の苦しみが蘇ったか、髪の毛をかきむしっていた。
 満枝は静かに歩み寄り、床に正座したまま見上げる昭一郎のネクタイを掴み、「お立ちになって」と命じた。歯の根があわぬほど震えながら立ち上がった昭一郎の股間を膝で蹴り上げた。
 昭一郎は悲鳴をあげ、両手で股間を抑えて膝をついた。激痛にうめき、そのまま俯せに倒れた。
 床に這いつくばって悶絶する老人を見下ろし、満枝はヨシに目配せをした……。
 一時間後、真っ赤に染まった絨毯にうつぶせになり、破壊された性器を両手で抑えて痙攣する昭一郎の傍らで、堀田弁護士は膝をつかんで啜(すす)り泣いていた。
 少し離れて伊集院満枝は、泣きじゃくる篠原ヨシを抱いて、赤子のようにあやしていた。
「ねえ、ヨシ」
 満枝は言った。
「五月になったら、満州へ行きたいわ」
「満州へ?」
 訝しげに顔をあげたヨシに、満枝は微笑んだ。
「ええ……そこで何かが起こりそうな気がするの」
 満州――現在でいう中国東北部に満枝が姿を現すのは一ヵ月後のことである。その前に、昭和五年五月一日に東京で起こった出来事について語らねばならない。

   Z

 新橋から銀座、京橋を経て日本橋へと伸びていく、二年前に完成したばかりの昭和通りぞいに、新築のホテルが建っている。御影石の階段をあがると、玄関を入ってすぐ、その日に開かれる宴会の一覧が黒塗りの木札に白く墨書され、麗々しく並んでいた。
「朱雀の間 代々木産業ご一行様」
 相変わらず、つまらぬ浪費を……。一張羅の背広を着た小沼健吾は、舌打ちをしながら、二階へとあがった。二百平方メートルの宴会場に入ると、白いクロスをかぶせた洋式の円テーブルが二十ほど並べなれ、それぞれを六つの椅子が囲んでいる。そして、壁際に二十人の女たちが、きまり悪そうに固まっていた。
 貴代美と、彼女がオルグした女工たちである。
 精一杯お洒落はしているものの、貴代美を除き、場慣れしていないのは明らかだった。
 ……当たり前だ。
 小沼は思った。
 ……だいたい、ホテルの宴会場なんて、さかんに給仕が出入りするし、人目につきやすい。怪しまれて警察に通報されたらおしまいだ。
「君たちだけか?」
 小沼が問うと、貴代美はうなずいた。腕時計を見ると、すでに十二時半。
 午前十時から芝公園で、式典が開かれる。五十団体、一万数千人の労働者がつどっているはずだ。十二時過ぎまでは演説会が行われ、その後、デモ行進が行われる。芝公園から築地を経て新橋へ。その後は昭和通りを御徒町を経て上野公園まで続いて、午後三時ごろに解散となる手はずだった。
 もうデモ行進は芝公園を出発しているだろう。そろそろ、このホテルが面している昭和通りに着くころだ。
 他の連中はどうしたんだ……。間に合わないぞ。
 小沼は歯噛みしたが、心配そうにこちらを見ている女工たちの眼差しに気づき、笑顔を作った。
「とにかく、座りなさい」
「うン」
 貴代美はうなずき、女工たちを促して席に着かせた。給仕が寄ってきて、お食事をお出ししますか? と問う。女工たちが座る一角をのぞいてがらんとした宴会場を見渡し、そうしてくれ、と言った。
 やがてスープが運ばれてきた。コースの西洋料理らしく、皿の左右にナイフやフォークが揃えられている。戸惑う女工たちを見やって、貴代美はスープ皿を手で持ち上げ、そのまま口につけて飲み干した。
「あちっ!」
 貴代美はどんと皿をテーブルに置き、慌ててコップの水を飲み干す。女工たちはどっと笑い、それからにぎやかにおしゃべりしながら、スープに息をかけて冷ましたり、皿に口をつけて呑んだりし始めた。
 小沼は、心の中で貴代美に感謝した。彼女の機転で、女工たちを落ち着かせることができた。後は、幾人同志が集まってくるか……。
 党中央が指令した「行動」とは、武装蜂起だった。
 デモ行進が行われるコースの数ヶ所に武装した「行動隊員」を潜ませ、時機を見て乱入し、蜂起を呼びかける。反対する者はその場で殺害してもいい。デモ隊の賛同を得られれば、彼らを引き連れて、宮城や帝国議会に突入し、革命政権を樹立するというのである。
 成功の望みが薄いことは、小沼は当初から感じていたことだった。今、デモを行っている労働団体を、「党」は、堕落した御用組合だと罵ってきた。彼らになんの根回しもせず、不意打ち的に蜂起を呼びかけたところで、ついてくるとは到底思えない。
 それに……。
 小沼は、窓から昭和通りを見下ろした。サーベルを吊った警官が、蟻の這い出る隙間もないほど、通りを挟んで整列している。デモ行進そのものは合法だが、スローガンに法に触れる表現があったり、ちょっとでも不穏当な動きを見せればすかさず検挙しようと待ち構えているのだ。
 そんなところに百人で突入しても、たちまち取り押さえられてしまう可能性が高い。ましてや、本当に百人集まるかどうか……。現に、今来ているのは貴代美ら二十人の女工たちだけなのだ。
 さらなる懸念は、武器だった。銃、ナイフ、竹槍、ハンマー、さらにはダイナマイトやガソリンがすでに運び込まれている手はずだったが、どこにも見当たらない。支給された拳銃は隠し持っていたが、まさか一丁の拳銃で暴動を惹き起こせるはずなどないではないか。
 宴会室のドアが開いた。三人の「組合員」が入ってきて、小沼の座っていたテーブルに着いた。
「だめだ」
 座るなり、一人が沈痛な面持ちで言った。
「君たちだけか?」
 そう問うと、三人はうなずいた。彼らが集めた仲間たちは、急な場所の変更に戸惑い、結局参加を取りやめたという。小沼の懸念は的中した。武装蜂起に参加するのは、小沼ら四人と、貴代美が集めた二十人の女工たち、たった二十四人だけなのだ。
「どうする……?」
 一人が硬い面差しで訊ねた。
 これだけの人数で、武装蜂起などできるはずがない。だが、誰も中止しようとは言わなかった。「党中央」の指令は絶対である。現場の判断で中止を決めれば、臆病者とそしられ、命令違反で懲罰を受けることになるだろう。
「こうしよう……」
 小沼は決断を下した。離れた席についていた貴代美を呼び寄せ、同じテーブルに座らせた。給仕が全員部屋にいないことを確かめ、声をひそめた。
「拳銃を持っているのは何人だ?」
 一人が手を上げた。小沼はうなずき、拳銃を携行していない二人に言った。
「では、君たちは、ガソリンやダイナマイトが運ばれてきたら、それを持って歌舞伎座あたりに行き、ダイナマイトを爆発させ、火事を起こしてくれ。デモ隊にも見えるよう、派手に頼むぞ」
 それから拳銃を持っている男に顔を向けた。
「同じ時刻に、ぼくと君はデモ隊に接近し、空に向けて発砲する」
 続いて、強張った面持ちの貴代美を見やった。
「デモ隊の注意がこちらを向いたら、君たち女工は、武装蜂起が始まった、革命軍が宮城に突入していると大声で叫んでくれ。デモ隊が混乱したら、全員、とにかく宮城に向かって走るんだ」
「ちょっと待ってくれ」
 一人の男が訊ねた。
「デモ隊に、合流を呼びかけるんじゃないのか?」
「これだけの人数で、そんなことをしても、誰もついてきやしない。警官に取り押さえられて終わりだ」
 まず、混乱状況を作るんだ。恐慌状態になれば、群集心理が働く。わけもわからず、われわれについてくる者も現れるだろう。その可能性に賭けるしかない。
「わかった」
 貴代美は立ち上がった。
「あたい、みんなに説明してくる」
 席を立った貴代美の背を見送りながら、一人が言った。
「しかし、ダイナマイトやガソリン、武器はどうしたんだ」
 窓の外で、歌声が響いてきた。

  聞け万国の労働者
  とどろき渡るメーデーの
  示威者に起こる足取りと
  未来を告ぐる鬨(とき)の声

 小沼らは立ち上がり、窓に駆け寄った。デモ行進が近づいてくる。広い昭和通りをびっしりと埋め尽くし、大声で労働歌を歌いながら。

  汝の部署を抛棄せよ
  汝の価値に目醒むべし
  全一日の休業は
  社会の虚偽をうつものぞ

「どうするんだ?」
 一人が泣き出しそうな顔で小沼に詰め寄った。
「武器もないまま突っ込むのか? 通り過ぎてしまったらお仕舞いだぞ!」
「落ち着け!」
 小沼は小声で叱責した。
「武器になりそうなものを探せ。燭台でも、包丁でもかまわん。万一、武器が間に合わなかった事態に備えるんだ」
 ドアが開いた。一同の眼がそこに注がれた。
 猪俣佐和子が立っていた。

 おさわちゃん……。
 貴代美は眼を見開き、その名を口にしようとして、押し黙った。
 たとえ同志の間であっても、本名を声にするのは慎まねばならない。まして、貴代美は佐和子が入党したことを知らない。なぜ、佐和子がこの場にいるのか、見当もつかなかった。
 佐和子の眼も見開かれていた。眼差しは貴代美に注がれ、一瞬揺れた。だが、佐和子はすぐに視線を逸らし、小沼に歩み寄った。
「レポ(連絡)に来ました」
 小沼は小さくうなずいた。佐和子は続けた。
「武器の用意が整ったそうです」
 小沼らは一瞬顔を輝かせたが、すぐに不審げな面差しに変わった。
 佐和子は、手ぶらだったからだ。
「……その武器はどこに?」
「官憲の眼が厳しく、分けて隠してあります。すぐに取りにいってください」
 小沼らは顔を見合わせた。
 デモ隊はすでに、ホテルの真下を行進しているのだ。

  永き搾取に悩みたる
  無産の民よ決起せよ
  今や二十四時間の
  階級戦は来りたり

「で……」
 小沼は肩で息をしながら訊ねた。
「どこにあるんです」
「ガソリンは代々木に、竹槍は馬橋(まばし)のアジトにあります」
「冗談じゃない!」
 小沼は怒鳴った。
「今から代々木や馬橋に取りにいったとして、ここに戻ってくるまでにどれくらいかかると思っているんですか?」
 佐和子は顔を引きつらせた。小沼は続けた。
「運よく車を手に入れられたとしても、一時間はかかります。その間に、デモ隊は通り過ぎてしまう!」
 小沼は続けた。
「実行不可能です。行動隊長として、そんな指令は受け取るわけにはいきません!」
 佐和子は青ざめて唇を震わせていたが、やがて眼をすえて、小沼をにらみつけた。
「あなたは……党の指令を無視するのですか?」
「できないことは、できないと言ってるんです」
 小沼は静かに答えた。佐和子は拳を握り締め、なおも言った。
「では、あなたが指令を無視したことを、党中央に報告します」
「ああ、どうぞ。これから、ここにいる行動隊員で協議します。その結果、突入と決まれば、すぐにこの場で突入します。中止と決まれば、すぐに解散します」
 小沼は踵を返して、中央のテーブル近くに立ち、全員を呼び集めた。二十三人が小沼を囲んで円を作り、その外側に佐和子はぽつんと取り残された。小沼は静かに言った。
「みんな、聞いただろう。ガソリンもダイナマイトも武器はここには来ない。もし行動を起こすとなると、徒手空拳であのデモ隊と警官隊の中に飛び込むことになるだろう。まず成功の見込みはない。それでもなお、行動を起こすべきだと思っている者がいたら、手を挙げてくれ」
 二十三人が互いに目を合わせた。誰独り、手を挙げようとはしない。とはいえ、積極的に行動中止の意志を現す者もいなかった。

  起て労働者奮い起て
  奪い去られし生産を
  正義の手もて取り返せ
  奴らの力なにものぞ

 今や昭和通りを真っ黒に埋め尽くしたデモ隊の歌声が、重く雲のたちこめた空を突き破るばかりに響いていた。広い宴会室の中央に集まった二十三人は彫像のように動かない。
「あなたたちは、それでもいいの?」
 輪の外にいた佐和子が口を開いた。
「貧しいまま、地主や資本家に搾取され、階級の奴隷として生涯を送る……それを覆す機会が訪れたというのに、何もせずに撤退するというの?」
「あんたは黙っていてくれ」
 小沼が遮った。
「黙らないわ!」
 佐和子は叫び、貴代美に駆け寄った。戸惑う貴代美の胸ぐらを掴むばかりに詰め寄った。
「お願い……わたくしも一緒に行動するわ。たとえ武器がなくとも、素手でも、立派にたたかってみせる……見て……外にはあれだけの同志がいるのよ。今は対立していても、同じ労働者階級、苦しみを共にする同志たちよ。心を込めて訴えれば、必ずわたくしたちについてきてくれるはずよ……だから、諦めないで」
 じっと貴代美を見つめる佐和子の眼が、しだいに潤みを帯び、涙が雫となってこぼれ落ちた。
「わたくし、検挙なんて怖くないわ。どんなひどい拷問にあっても耐えてみせる……いずれまた、あなた方と一緒にたたかう日のために、見事に生き抜いて見せるわ。もし殺されたとしてもかまわない。あなた方が解放され、輝かしい未来を迎えるための捨て石となれるなら……」
「おさわちゃん……」
 貴代美が静かに、佐和子の耳にだけ響くように言った。佐和子は口を噤んだ。
 そう呼ばれるのを待っていたように。
 貴代美は眼差しを伏せた。しばらく俯き加減に唇を噛みしめていたが、やがて顔をあげ、小さく呟いた。
「ごめん……」
 呆然と眼を見開く佐和子に背を向け、貴代美は大声で言った。
「あたいは、小沼さんに従う。このまま解散すべきだと思う」
「何を言ってるの!」
 悲鳴のような佐和子の叫びに眼もくれず、貴代美は続けた。
「機会は今日だけじゃない。あたいたちのたたかいは、これからも続くんだ。成功の見込みもないのに闇雲に突っ込んでいくより、ここは引き揚げて、次の機会を待つべきだと思う……」
 貴代美の眼にうっすらと涙が浮かんだ。
「あたいだって悔しい……ここまで来て、何もせずに帰るのは、死ぬほど悔しい……でも、あたいを信じてついてきてくれたみんなが、無駄に警察に捕まっちゃうのは、もっと嫌なんだ」
 佐和子は、女工たちを見廻しながら続けた。涙がこぼれ落ち、頬をつたった。
「みんな、勘弁して……。ここは悔しいけど、小沼さんの言うとおり、静かに引き揚げようよ」
 女工たちのすすり泣きが響いた。男の組合員たちもうなだれている。
 小沼が口を開いた。
「では、いったん解散ということで決まりだな」
 それから、矢継ぎ早に指示を出した。二人一組となって静かにホテルを出ること。それぞれ別々の帰り道を取ること。明日の街頭連絡の場所や時間……。
 女工たちは、小沼の指示どおり、二人一組となって次々に宴会室を出た。みな、貴代美と抱擁をかわしてドアに向かっていった。貴代美の胸で泣き崩れる女工もいた。
 女工たちがすべて出ていったのを確かめて、貴代美は佐和子の前に立った。
 佐和子は、拳を握りしめ、硬い面差しで唇を噛みしめていた。顔に血の気がなく、大理石のように白かった。
「おさわちゃん、あたい……」
 小さく呼びかけられ、佐和子は貴代美を見やった。佐和子の眼は、瞳が動いていなかった。その冷たい眼差しに貴代美は言葉を失った。軽く頭を下げて、外へと消えた。
 ドアが音をたてて閉まった時、佐和子の膝が崩れた。床に座り込み、そのまま動かなかった。

  我らが歩武の先頭に
  掲げられたる赤旗を
  守れメーデー労働者
  守れメーデー労働者

 小沼は窓から外を見やった。
 デモ隊の最後尾が見えてきた。その後ろを自転車に乗った警官が追っている。
「井上さん」
 座り込んだ佐和子に声をかけた。佐和子は身じろぎもしなかった。
「ここの支払いは、すんでるのでしょうね?」
 佐和子は答えなかった。小沼は軽く舌打ちして組合員たちを見やり、金は持っているか? と訊ねた。四人の持ち金をかき集め、小沼は続けた。
「ホテル側には、集まりが悪いので宴会は中止にすると説明します。代金は、我々が立て替えておきますので、後でちゃんと支給してくださいよ」
 小沼たちが宴会室から去り、独り取り残された佐和子は、よろよろと立ち上がった。立ち上がりざまに椅子につまづいてよろけ、テーブルにつかまった。
 強張っていた面差しが緩み、涙がとめどなく溢れだしていた。嗚咽が漏れた。佐和子はテーブルを離れ、ドアに向かって歩き、またもよろけ、壁際の窓に肩を打ち付け、床にくずおれた。顔をあげ、がらんとなった広い宴会室に独り、当たり憚らず号泣した。
 貴代美ちゃん……。
 紅く泣き腫らした眼に、五月とは思えぬ重苦しく曇った空が映っていた。

 メーデーでの武装蜂起は不発に終わった。
 新橋のホテルから淡路町の隠れ家に戻った小沼は、佳代を連れて姿を消した。
 その一ヶ月後、シベリアからモスクワへ向かう汽車に揺られる数人組の日本人乗客のなかに、貴代美の姿があった。
 猪俣佐和子は、武装蜂起の失敗の責任を問われて格下げとなり、鵠沼に引きこもって、村野の助手に専念した。
 その年の秋から冬にかけ、各地に潜伏していた「党中央」の幹部たちはことごとく逮捕され、「党」は壊滅状態となった。
 同じ頃、北海道H市では、増田喬と安西小百合の結婚式が、しめやかに行われていた。(第三部・了)



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