悪霊

第六部・貧民窟の聖女(マリア)



【登場人物】
伊集院満枝…………………………北海道H市の地主の娘。川奈産業の大株主
安西小百合…………………………満枝とはI高等女学校の一年後輩。夫を上海で亡くす。
猪俣佐和子…………………………党員。党の名前は井上。伊集院満枝の元クラスメイト
佳代…………………………………貧しい農家の娘。党のハウスキーパー
金沢文子……………………………安藤の養女
海老沼千恵子………………………家出した資産家の娘。佐和子の配下となる
篠原ヨシ……………………………伊集院家の使用人
小沼健吾……………………………元伊集院家の小作人。
安西健吉……………………………小百合の兄
安西信子……………………………小百合の母
増田喬………………………………小百合の夫。川奈産業社員。上海で事故死
磯田アヤノ…………………………小百合の叔母。華道の師範
磯田幸吉……………………………小百合の叔母の夫。高等小学校教師
磯田悦子……………………………東京に家出して小百合に救われ、磯田夫妻の養女になる
老人…………………………………右翼の大物
黒木…………………………………小沼と同じ国家主義団体のメンバー
大橋多喜蔵…………………………プロレタリア作家。党員。佳代と同居する。
三沢…………………………………党中央委員。特高警察のスパイ
手塚…………………………………「党」の戦闘的技術団メンバー。佐和子の直属の上司
安藤浄海……………………………元左翼の弁護士貧民街の僧
パク・ジョンイル(朴正烈)……朝鮮人青年
曽根…………………………………党員
【時・場所】
昭和七年(一九三二)五月〜八月。北海道H市、青森県弘前市、東京市、熱海



   T

 この人と……。
 広い畳敷きの部屋の真ん中に、ぽつんと置かれた骨壺を見ながら、小百合(さゆり)はつぶやいた。
 一緒に過ごしたのは、結局幾日だったのかしら……。
 仏壇を前に、黒い衣服を着けた男女が九人、座っていた。
 小百合の夫であった増田喬の両親とその弟妹。小百合の両親と兄。そして、喬の遺骨を運んできた川奈産業大連支店に勤める中年男と青年。
「息子があんな不始末をしでかしで、ご迷惑をおかけしたというのに、わざわざお手間を取らせまして……」
 喬の父、すなわち小百合の義父は、わずかに声音を振るわせつつ、畳に手をついて、川奈産業の二人に頭を下げた。
「まことに、かたじけなく存じます」
「いやいや……」
 眼鏡をかけた中年男は、手で制しつつ言った。
「増田君は社業のさなかに不慮の最期を遂げられたんですから、このくらいは当然のことです」
 その言葉に、義父母と義弟は、それぞれの仕草で恐縮している態を示した。
 昭和七年一月、支那軍と日本軍との間に起こった大規模な軍事衝突――上海事変の直前に水死した増田喬の遺骨が、北海道H市にある彼の実家に運ばれてきたのは、三月に入ってからだった。新聞は連日、清朝最後の皇帝であった溥儀を首班とする独立国家・満州国の建国の模様を伝えている。新しく首都となり名を新京と改めた旧・長春、大連、奉天、旅順などの大都市では盛大な記念式典が目白押しであった。
 各国の利権が錯綜する上海で騒ぎを起こし、欧米の耳目をそこに引きつけておいた上で、満州での新国家建設を押し進めようという関東軍のもくろみが当たった形となった。
 そのさなかにあって、泥酔した挙げ句に川に落ちて溺死した一青年のことを伝える新聞はひとつもなかった。
 さ、さ、こちらへ。
 義父が、川奈産業の社員たちを別室に招く声をぼんやりと聞いていた小百合は、隣に座っていた実母に袖を引かれ、慌てて立ち上がった。
 これから、社員たちを酒食でもてなさねばならない。安西、増田両家の女たちは、台所に用意してある酒肴を運ぶ役目だった。
「小百合……」
 実母の信子が、箱膳に刺身の載った皿を並べていた小百合にそっとささやいた。
「無理をしなくてもいいんだよ。ここは、お母さんがやっとくから」
 小百合は気遣わしげな面差しの母を見つめた。夫の「無言の帰国」はさぞ辛かろう、ぼんやりして粗相があってはお客様に失礼だから休んでいていいよ、という意味のようだった。その母の肩越しに、硬い面差しで七輪の前に俯き、お燗をしている義母の姿が眼に写った。さらにその後ろでは、喬の妹がこちらに背を向けて菜を刻んでいる。
「いいの、大丈夫」
 自ら発した声が、まるで他人のもののように耳の中で響いた。
 皿を並べ終え、箱膳を長手盆に載せて持ち上げ、台所から座敷に向かった。襖(ふすま)を開けようとすると、すでに酒が回った男たちの声が響いてきた。
「いやいや、上海はいまだ戦火のただ中、支那官憲に遺骨の引き渡しを交渉するのは、ずいぶん骨が折れましたよ」
 川奈産業の中年社員の声だった。
「軍の方面や、親日的な支那人にかけあって、やっと引き取ることができたような始末で。こうしてご遺族のもとにお持ちすることができて、一安心です」
 小百合の脳裏に、伊集院満枝(いじゅういん・みつえ)の白い顔が浮かび上がった。
 夫から送られてきた手紙によれば、大陸における川奈産業の成功は、伊集院満枝が自力で築き上げた人脈あってのことらしい。おそらく、夫の遺骨を回収できたのも、満枝の尽力であって、眼鏡をかけた中年社員らは彼女の指示に従って動いたにすぎないのだろう。
 そう思うと、わき上がってきたのは、感謝の念ではなかった。
 恐怖と憎悪だった。
 満枝さんが、夫を満州に呼ばなければ、こんなことにはならなかったのだ。襖にかけた手が細かく震え始めた。
 上海はいまだ戦火のただ中にあり、その知らせは新聞で逐一伝わってくる。大規模な戦争であることは、小百合にも理解できた。そんな地で死んだ夫の遺骨を日本に持ち帰るのは大変だっただろう。それを、満枝はやりとげた。そのことが小百合には腹立たしかった。
 なぜ満枝は、そこまで私に関わろうとするのだろう。
わざわざ、支那の革命家の文書を読ませたり、夫となる人を自らが経営に参加している会社に採用したり、満州に呼び寄せたり……。挙げ句の果てに夫は異国で死んだ。
 まるで自分の人生を満枝に弄ばれているよう……。
 酒を酌み交わす男たちの前に箱膳を並べ、お悔やみを述べる川奈産業社員たちに頭を下げ、台所に戻った小百合の耳に、義母と義妹のささやき声が入ってきた。
「まったく何を考えているんだか」
「涙ひとつ見せないしねえ」
 小百合はうろたえた。その通りだった。夫の訃報に接してから、小百合は一度も泣いていない。
 最初、夫の訃報に接して小百合はつぶやいた。そういえば、喬さんはどんな顔立ちだったっけ……。小百合が増田喬と結婚したのは一昨年の十一月。喬が満州に旅立ったのは昨年の三月。ともに過ごしたのは四ヶ月にすぎない。それから一年、小百合は夫と離れたままだった。遺骨を見れば夫の顔を思い出すかもしれないと思ったが、大柄だった生前の喬とくらべて、骨壺はあまりに小さかった。
 数日後、小百合は実家に帰った。
「お帰り」
 父と兄は出社していて、独り家にいた母・信子が出迎えてくれた。
「荷物が届いているわよ」
 その前日、小百合は、夫と短い新婚生活を送ったH市内のアパートを引き払った。家財道具は処分したり、増田の家に送ったが、一部は小百合のものとして実家に運んでもらったのである。
 その日の夜、小百合は久しぶりに父母や兄と夕食をとった。
「それで、お前は今後、どうするんだね」
 食事の最中、父が問うた。とっさに返事もできない小百合を気遣うように、父は続けた。
「まあ、当分はうちでのんびりするがいい。ゆっくり考えるんだな」
 夜が更け、小百合は懐かしい三畳の自室で寝た。すでに母が布団を敷いてくれていた。その布団が、夫と初夜を迎えた時に使ったものだと気づいた。暖かく、力強い抱擁がからだの裡でよみがえってきた。悲しみが一気に噴き上がってきた。小百合は、声をあげて泣いた。あたりはばかることなく泣き、泣き声に気づいて入ってきた母に抱きしめられながら、子どものように泣き続けた。

 夫の遺骨を迎えてから二ヶ月が過ぎたある日の午後。
 小百合は、青森県弘前に住む叔母の磯田アヤノの家の縁側に座って、届いたばかりの夕刊を広げていた。
 停戦なる。
 一面に大きく見出しが出ていた。日本と支那、両国の軍民合わせて四万の死傷者を出した上海事変が終結したのである。
 小百合は新聞を畳んでマガジンラックにおさめ、庭を見やった。緑に萌える生け垣の向こうに五月晴れの青空が広がっている。
 ここがいちばん、落ち着くなあ……。
 小百合は大きく伸びをして、つぶやいた。
 葬儀が終わった後、小百合は増田の戸籍から離れて元の安西姓に戻った。葬儀のさなか、義母が弔問客に、あの嫁のせいですよ、と訴える声を聞いてしまったからである。
 喬はね、あの嫁に何度も、満州に来いって言っていたそうですよ。それなのに、一度も行こうとはせず、青森の親戚の家で遊んでたんですから。せめて嫁がついてやっていれば、酔っぱらって川に落ちたなんてみっともない死に方をせずにすんだはずなんですよ……。
 小百合はいたたまれなくなった。確かに義母の言うとおりだ。私がついていれば、あんなことには……。小百合は、増田家から除籍したいと申し出た。義父母はとくに引き留めず、小百合は安西(あんざい)姓に戻った。実家に帰り、暗く沈みこんだまま一ヶ月がすぎた時、一通の手紙が届いた。差出人を見ると、「磯田悦子」(いそだ・えつこ)とある。
 悦っちゃん……?
 急いで封を切ると、こんなことが書かれていた。
 小百合姉さん、お元気ですか?
 このあいだ、わたしは磯田さんの家の子どもになりました。幸吉さんとアヤノさんが、お父さんに話をつけてくれて、わたしは磯田さんの養子になることができたんです。今、わたしは磯田さんのおうちから、小学校に通ってます。もう、昔の悦子じゃありません。いっしょうけんめい勉強しています。成績があがったら、高等女学校に入れてくれると、磯田のお父さんお母さんがおっしゃってくださいました。わたしは、いっしょうけんめい勉強して、高等女学校を出て、小百合姉さんみたいな女のひとになりたいです。いちど、遊びに来てください。
 たどたどしい字で書かれた便箋を読みながら、涙がこみあげてきた。
 よかった……。
 浅草の与太者から受けた性行為と暴力に深く傷つき、小百合を含め誰とも口をきこうとしなかった悦子が、今では毎日学校に通い、熱心に勉強しているという。
 悦子に会いたくなった。小百合は、連絡船に乗って青森に行き、電車で弘前に向かった。駅では、磯田夫妻に連れられた悦子が出迎えてくれた。
 小百合姉ちゃん!
 ホームに降り立った小百合に、悦子は満面の笑みで手を振り、駆け寄ってきた。髪の毛をきちんと三つ編みにし、こざっぱりとした洋服を着た悦子には、かつての不良少女時代の面影はなかった。
 最初は数日過ごすだけの予定だったが、悦子は、小百合が北海道に帰ることを嫌がった。磯田夫妻も、何時までもここにいていいのよ、と言ってくれた。つい、ずるずると今日まで厄介になったのである。
 でも……。
 端午の節句も近く、青空には鯉のぼりが泳いでいた。磯田夫妻は仕事で出かけ、悦子はそろそろ学校から戻ってくる時間だった。
 何時までも厄介にはなっていられない。
 一昨日、実家から手紙が来た。小百合の境遇を哀れみ、縁談を申し入れてきたひとがいる旨が書かれていた。当時、夫を亡くした女が生きていける場は少ない。再婚が最良の道とされていたが、小百合はそんな気にはなれなかった。いまだに夜、布団に入ると夫の夢を見る。夫の抱擁を思い浮かべながら自慰に耽ることも少なくない。夫以外の誰かに抱かれるなど、思いもよらなかった。
 もし興味があるんだったら……。師範の免状を持つアヤノから、華道の修業を勧められたこともある。師範の免許があれば、弟子をとって生計を立てることもできるから、と言われたが、生来、手先の不器用な小百合には、現実味が感じられなかった。
「ただいま」
 物思いに沈んでいた小百合の耳に、玄関から悦子の声が飛び込んできた。廊下を走って居間に入ってくる。お帰り、と立ち上がると、紺色のセーラー服にランドセルを背負った悦子は、お客さんだよ、と言った。
「お客様?」
「うん」
 悦子は白い歯を見せて笑いながら言った。
「女のひとよ」
 来た……。
 胸騒ぎがこみ上げてきた。膝が細かく震え始めた。
 何時かは来る。そんな予感はしていた。夫の葬儀のために北海道に帰って以来、いつ彼女が現れるか、落ち着かない日々だった。だが、まさか弘前に現れるとは思ってもいなかった。なぜ、ここが分かったのだろう? 逃げ場がなくなった……。
「小百合姉ちゃん」
 まばたきもせず虚空に眼差しをさまよわせる小百合に、悦子が首を傾げて問うた。
「お客さん、どうするの?」
 お座敷に……お座布団とお茶を用意して差し上げて。しわがれ声でそう返すのがやっとだった。
 視界が真っ白になりそうなのをこらえて、玄関に出た。
 地味な黒っぽい和装の女性が立っていた。伊集院満枝ではなかった。
 年は三十をすぎたくらいか。整った、しかし、どこか険のある面差しをしていた。小百合を見るなり深々と頭を下げて言った。
「伊集院満枝の使用人、篠原と申します」

 かつて伊集院家の小作人だった少女時代、伊集院太吉や友人たちに犯され、その後、満枝の助力を得て復讐を果たした篠原ヨシは、今では、川奈産業の仕事で忙しい満枝にかわって伊集院家の土地を取り仕切る役目についていたが、むろん、小百合がそのことを知る由もない。
「本来ならば、お嬢様自らお伺いせねばならぬのでしょうけれど……」
 座敷に通された篠原ヨシは、眼を伏せて静かに言った。
「大陸での仕事に追われ、葬儀にも列席できず、まことに非礼であったと申しておりました」
「はい……」
「これは」
 ヨシは手にしていた風呂敷包から袱紗(ふくさ)に包んだ薄いものを取り出し、小百合の前に置いた。
「お嬢様の志です。ぜひ、お受け取りいただきたく持参いたしました」
 袱紗を広げると、出てきたのは小切手だった。振出人は伊集院満枝個人。金額を書き込むべきところは空欄だった。好きなだけお金を引き出してくれ、ということらしい。
 からだじゅうを満たしていた不安と怯えは消え、代わって怒りがこみあげてきた。怒りというよりも、いらだちであった。
 わたくしのことは放っておいて……。そう叫びたかった。
「失礼ながら……」
 顔をあげ、いぶかしげな面差しのヨシに小切手を押し戻し、重ねて言った。
「いただくわけにはまいりません」
「しかし……」
 口を開いたヨシを小百合は手をあげてさえぎった。
「わたくしは、もはや増田の家とも川奈産業とも関わりはございません。姓も安西に戻しました」
「ですからこれは、お嬢様の気持ちです」
 ヨシは言った。
「お嬢様は、とても悔やんでおられるのです。増田様を満州にお連れしなければ、あなた様を悲しませることはなかったのに、と……」
 沈痛なヨシの面差しから、それが嘘ではないであろうことはうかがえた。うかがえはしても、そのことで凍った心が溶かされるわけではない。黙したままの小百合に、ヨシは言葉を重ねた。
「会社からの退職金、慶弔金等は、すべて増田さんの家に譲り、あなたご自身は何も受け取らなかったと伺いました」
「…………」
「もちろん、お金で解決できることではないと存じております。しかしながら、あなた様の今後の生活になんとかお役に立ちたいと願うお嬢様の気持ちも、どうぞ、お汲みくださいまし」
 畳に手をついて頭を下げるヨシに、小百合は言った。
「ここで受け取らなくては、あなたの顔が立たなくなりますわね」
 わかりました、と小百合は小切手を懐に収めた。
「ただし、お金をいただくか、それとも破り捨てるかは、わたくしが決めます。それで、よろしいですね」
 篠原ヨシは何か言いたげに小百合を見つめていたが、やがて、よろしゅうございますと一礼し、去っていった。

 その日の夜。
 小百合は、悦子と同じ四畳半の部屋で寝ることになっている。布団を並べて敷いた後も、悦子は机に向かって勉強を続けていた。
「ごせいが出るわね」
 寝衣に着替えた小百合が、髪をおろしてクシですきながら声をかけると、こくりと頷くのみで鉛筆を動かし続ける。微笑して布団に入り、地元の図書館で借りてきた雑誌を開けた。
 読みかけの箇所に挟んだ付箋を抜いてページをめくると、ある女流左翼作家のソ連訪問記だった。モスクワの孤児院を訪問した様子が描かれている。
 ……ソビエト連邦には「子供の家」というのがあって、十八になって一人前の働き手になるまで世話をしてくれます。今から十四年前、ソビエト連邦が革命をやった時、沢山の労働者・農民の闘士が赤色戦線でたおれ、孤児がウンとできました。そういう孤児を、ソビエト連邦では立派な働き手として育てるために多くの費用をかけて国家で「子供の家」を組織したのです。「子供の家」にもいろんな種類ができて、日本でいう不良少年のような浮浪児を教育する「子供の家」と孤児の「子供の家」とは別になっているのです。
 以下、訪れた「子どもの家」を賛美する文章が続いた後、ひるがえって日本の現状が批判される。
 ……日本のブルジョアの子は、学校の行きかえりにさえ自動車にのり、好きな犬までそばへつけてヌクヌクと育っているのに、プロレタリアや農民の子はどうです。親があったって、親は搾られ、ろくな飯さえ食えずにいる。
 ……まして、孤児院とでもなったらそこにいる子どもは、子供達のかせぎで孤児院経営者の一家を食わしている有様です。孤児院ですがと、押し売りに来る子供の声と恰好は、ブルジョア家族制度の悪のかたまりです。
 ……日本人は、親子の情にあついのが世界の誇りだとブルジョアは云いますが、それは金のある親と子の間でだけ通用する。いくら可哀想と思い血の涙をこぼしても、金を出さなければ医者のよべないブルジョア社会で、一文なしならどうしましょう。親の貧乏なのはその子の不仕合わせ。両親を失ったのは不運ときめて、冷ややかなものです。
 小百合は、黙々と勉強を続ける悦子の背中を見やった。悦子は幸い、子どものいない磯田夫婦の養子となることができた。だが、浅草には数多くの悦子のような子どもたちが、悪い大人たちの犠牲になっているのだ。
 ふと、悦子のからだが前のめりに崩れた。
「悦っちゃん?」
 声をかけたが返事がない。布団からはい出してのぞき込むと、悦子は鉛筆を握りしめたまま、机にほっぺたを押しつけて寝息をたてていた。
 時計を見た。夜十時を過ぎている。晩ご飯が終わるとすぐ、悦子は机に向かった。どうしても高等女学校に入るのだと張り切っている。
 よかったね、悦っちゃん……。
 小百合は微笑み、悦子の肩をそっと揺すぶった。悦子は薄く眼を開けると、そのまま自分の布団に潜り込み、再び寝息をたてはじめた。
 雑誌を閉じて電気を消し、小百合も布団に入った。

 助けて!
 小さな悲鳴に、小百合は跳ね起きた。傍らを見ると、悦子は布団を抱きしめ、細かく震えている。どうしたの? そっと呼びかけると、悦子は布団を蹴飛ばして、小百合に抱きついてきた。
「怖い……」
 小百合の肩に顔をおしつけ、夢中でしがみついてくる悦子に、小百合は困惑しつつ、その耳元で問うた。
「いやな夢でも見たの?」
 悦子は小さく頷いた。
「大丈夫よ……お姉ちゃんがついてるから、安心してお休みなさい」
 悦子は激しく首を振り、言った。
「寝たくない」
「どうして?」
「寝ると……あいつが出てくるから」
「え……?」
「あいつが、あたしを殴る……あいつが、嫌なことを……」
 その言葉に、小百合は胸を締め付けられた。明るく振る舞っていた悦子だが、やはり五郎から受けた仕打ちを忘れられたわけではないのだ。
「大丈夫よ」
 小百合はきつく悦子を抱きしめた。
「悦っちゃんはもう大丈夫。悪い奴は……」
 もういないんだから、と口にしようとして止めた。与太者の五郎が死体で発見されたことは、小百合も新聞で読んで知っていた。死因は明確に書かれていなかったが、おそらく、猪俣佐和子(いのまた・さわこ)に睾丸を踏み潰されたのが致命傷だったのだろう。小百合はそれを目撃し、誰にも明かしていない。すぐ傍にいた悦子とも、そのことを語り合ったことはない。
「知ってる……」
 悦子が顔をあげた。肩で息をしていたが、窓から漏れる月明かりにあおく照らし出されたその面差しは、落ち着きを取り戻していた。
「あの女のひとが、あいつのきんたまを踏み潰したんでしょう?」
 やはり見ていたのか……。小百合は何も言えず、悦子を見つめるばかりだった。悦子は眼を伏せて言った。
「もう大丈夫……分かってるんだけど、時々、あいつと一緒にいた時のことを思い出しちゃって、すごく怖くなって……もう大丈夫だってことは分かってるのに……学校でも、授業中にちょっとしたことで思い出しちゃって、叫びたくなっちゃって……忘れたくても、だめなの……」
 悦子は再び、小百合の肩に顔を押しつけた。
「小百合姉ちゃん」
「なあに?」
「あたしから、離れないでね」
「…………」
「ずっとここにいて……お願い」

   U

 同じ頃。正確には昭和七年五月十五日の夕刻。
 東京、帝国ホテルのロビイは、腕章をつけた新聞記者や、大きなフラッシュをつけたカメラを構える写真技師の群でごった返していた。
 その喧噪を、ラウンジでコーヒーをすすりながら見つめるひとりの男の姿があった。地味ながら背広にネクタイをしめ、髪をポマードで固め、鼻に下に髭をたくわえている。
「いったい、なんの騒ぎだ……」
 顔をしかめてつぶやくその傍らに、すっと人影が立った。
「チャアリイ・チャップリンよ」
 顔を上げた男の眼差しの先に、白い洋装の伊集院満枝がいた。満枝はにっこりと微笑み、向かい合ってソファに腰をおろした。
「お久しぶりね、小沼さん」
 小沼――すなわち、かつて伊集院家の小作人で、その後、労働運動の活動家に転じた小沼健吾である。
 不発に終わった昭和五年五月のメーデーでの武装蜂起以後、姿を消していた小沼が、プチ・ブルジョアかと見まがう姿で、伊集院満枝と会っている理由は、おいおい語る。
「チャップリンというと、アメリカの?」
「ええ」
 寄ってきた給仕にソーダ水を注文しながら、満枝は頷いた。
 ハリウッドの喜劇王チャップリンが来日したのは前日の五月十四日。今、両国の国技館での相撲見物に出かけているが、ホテルに戻ってきたところをつかまえて談話を取ろうと、記者たちは手ぐすねひいて待っているのである。
「お約束のもの、お持ちしたわ」
 満枝はバッグから白い風呂敷に包んだ四角いものを取り出し、小沼に差し出した。小沼は中身も改めず、自分の鞄に突っ込む。
「しかし……」
 小沼は言った。
「あんたも、妙なひとだ」
「なぜ?」
 小首を傾げる満枝に、小沼は言った。
「労働運動をしていた俺が、党を裏切って転向した後も、こうやって資金援助をしてくれる」
「わたくしは党を援助していたつもりはないわ」
 満枝は、笑みを浮かべて言った。
「あなたのお役に立ちたいだけよ」
「あんたのお父さんが俺にやった仕打ちへの、罪滅ぼしってわけか?」
「そうじゃないの」
 満枝は身を乗り出し、小沼の耳元でささやくように言った。
「わたくしは、あなたが何かしでかしてくれそうで……わくわくしてるだけ」
 小沼はしばし満枝を凝視し、相変わらずだな、とつぶやいた。
 ロビイでの記者たちのざわめきが、不意に大きくなった。口々に何かわめき、走り出す者もいる。その喧噪をかきわけ、隣のテーブルに辿り着いた初老の紳士が、先に来て座っていた妻らしき女性に言った。「総理がやられたらしいよ」
「なんだって!」
 小沼が立ち上がり、老紳士に詰め寄った。
「総理が……本当ですか?」
 老紳士は困惑しつつ応えた。
「ええ、ロビイの新聞記者が言っておりましたよ。軍人が首相官邸に押し入って拳銃をぶっぱなしたとか。いやはや、物騒な世の中ですな」
 老紳士に一礼し、腰をおろした小沼の耳元に口を寄せ、満枝はささやいた。
「あなたたちも、今回の一件に加わるはずだったのね」
 顔をあげてにらみつける小沼に、満枝は静かに続けた。
「それなのに、何も知らされないまま軍人に出し抜かれた……そうなの?」
「あんたは……」
 小沼は口を開き、しわがれた声で言った。
「俺たちのことには口は出さない、と言っていたはずだ」
「軍人は、民間人なんか信用しないものよ。わたくしは、満州でさんざん思い知らされたわ」
 平然と言う満枝から、小沼は唇を歪めて眼を逸らした。
「政治家の二人や三人暗殺しても、世の中は変わらないわよ」
 満枝は、バッグを手に立ち上がり、腰をかがめて小沼に耳打ちした。
「あのお金は、もっと大きなことに使ってちょうだい」
 踵を返し、満枝は去った。

 その一時間後。
 大磯にある屋敷の質素な一室で、小沼健吾は同じ年格好の男と並び、「敬天愛人」と墨書された掛け軸を背に着流しの兵児帯(へこおび)をしめて坐る老人の前にかしこまっていた。
「犬養は助かりそうもないらしいな」
 茶をすすりながらつぶやく老人に、小沼は問うた。
「犯人は、軍人だけですか?」
 老人は、うなずき「海軍だけのようだ」と答え、中尉・少尉クラスの青年将校が数名、後は海軍兵学校の生徒、と付け加えた。
「それだけの人数で……」
 小沼と並んでいた男が、歯噛みして呻いた。
「何ができるというんだ。犬養一人暗殺したところで世の中が変わるわけじゃないってことは、浜口の一件で分かり切ってるじゃないか」
 同じ事を伊集院満枝も口にした……。小沼は、隣に座る黒木を見やって心のなかでつぶやいた。
 血なまぐさい時代であった。
 前年八月、総理大臣の浜口雄幸が東京駅で右翼青年にピストルで撃たれて命を落として以来、今年に入って井上準之助元蔵相、団琢磨三井財閥理事長が、立て続けにテロの凶弾に倒れた。
 そして今日、昭和七年五月十五日、犬養毅総理が、官邸に押し入った青年将校たちの銃弾を浴びた。一味は、内大臣・牧野伸顕邸や警視庁も襲撃したが、いずれもさしたる成果はあげられずに終わっている。
「頭山や大川も、今日やるとは知らなかったらしいぞ」
 老人は言った。頭山満、大川周明。ともに民間右翼の大物である。
「困ったものだ……軍人は民間人を信用しようとせん」
 老人のつぶやきに小沼はまたも、同じ事を伊集院満枝が口にしていたと思い出していた。
「国家改造のためには、広汎なる大衆を巻き込まねばならぬことが分かっておらんのだよ」
 垂れ下がった白い眉毛に半ば隠された老人の眼差しが、小沼に向けられた。
「そのあたりは、軍人も、共産主義者も、変わるところはないらしいな」
 小沼は黙して答えなかった。
 そう……。
 二年前の五月。小沼は「党」の指令で武装蜂起を実行すべく同志をかき集めた。だが、青臭いインテリで構成される「党中央」の、高圧的で朝令暮改な姿勢のために挫折した。その後、ほとんどの党幹部が検挙されたため、小沼と「党中央」の連絡は途絶えた。
 三沢を中心として新しく組織された「党」は、小沼と連絡を取ろうとはしなかった。絶望した小沼は、転向したかつての仲間に誘われるまま、右翼団体の一員となったのである。
 前年九月に勃発した満州事変に呼応して、国家改造を目指す動きが始まっていた。急進的な青年将校と民間右翼が集まって練られた計画は、壮大なものであった。まず右翼が組織した民間人が帝都各地で暴動を起こし、その混乱に乗じて軍隊が帝国議会を包囲、内閣総辞職と議会解散を突きつける。さらに戒厳令を公布して憲法を停止し、最終的には軍部独裁政権を樹立する……。
 帝国議会では、政友会、民政党の二大政党が醜悪な争いを繰り広げていた。未曾有の不況にあえぐ大衆の苦しみをよそに、政党政治家は財閥と結託し、買収、収賄は日常茶飯事であった。外にあっては、支那の抗日の動きは已まず、宿敵ソビエト連邦はスターリンの指導のもと着々と計画経済の実をあげつつある。この国難を乗り切るには、外にあっては満州建国、内においては議会政治の廃止、軍主導の国家改造しかない……。それが、謀議に参画した軍人や右翼の共通認識であった。
 満州建国は達成した。支那の抗日運動やソ連の脅威はこれで抑えられるであろう。だが、肝心の国家改造はどうか。計画は練られては流産し、軍人と民間右翼の齟齬が生まれ、挙げ句の果てに、軍人が暴走した。しかもやったことはテロルにすぎない。犬養総理が仮に命を落としたとしても、すぐさま次の後継首班が指名され、今と代わらぬ政治が繰り返されるだけのことだ。
「おっしゃるとおりです」
 小沼は口を開き、老人の前に膝を進めた。
「大規模な大衆動員なくして、革命の成功はありえません。われわれは、軍の兵力に頼るのではなく、大衆の組織に力を尽くすべきです」
 今まで数々の蜂起計画が流れたのは、軍人たちが新たに樹立される軍部独裁政権の首班に、宇垣一成や荒木貞夫ら大将クラスの軍首脳を担ごうとしたからだ。担がれた軍首脳の反応は様々であったが、結局、土壇場になって逃げ腰になった彼らから中止命令が出される。この繰り返しであった。
「国家改造を唱える青年将校たちは、なぜ自ら首班となって国家改造にあたろうとしないのか。なぜ、青年将校の間に一人のレーニンも生まれることがないのか。私はそれを遺憾に思います」
「では……」
 老人は眼を細めて口を開いた。
「あんたが、そのレーニンになる覚悟はないのかね?」
 鹿児島生まれ。二十歳を前にして、西郷隆盛が決起した西南戦争に参加した経歴を持ち、以後、明治大正昭和の三代にわたって民間右翼に隠然たる影響を及ぼし続けてきた齢八十の老人の笑みと短い言葉が、鋭く小沼の胸を射抜いた。
「無理であろうな、君が自らレーニンとなり、陛下を弑殺(しいさつ)し奉るなど……。あるいは、君が参加しておった党の連中ならば、それをやれたかね?」
 小沼はたじろぎ、何も答えることはできなかった。

「ご老体、とんでもないことを口にする」
 老人の家を出て、駅へと向かいながら黒木は言った。黒木は、小沼と同じ国家主義団体に属する仲間である。
「陛下を弑殺……われわれには、思いも及ばないよ」
「覚悟……か」
 小沼は、老人の言葉を脳裡で反芻しつつつぶやいた。
「たしかに、党にもそこまで覚悟を決めていた奴は、一人もいなかった」
「なにか喰って帰ろうぜ」
 黒木に促され、二人は駅前の蕎麦屋に入った。向かい合って座り、注文を終えた後、小沼は鞄から白い布包みを取り出し、黒木の目の前に置いた。
「こいつを預かっていてくれ」
「例の、地主のお嬢さんからの寄付かい?」
「まあな」
 そっと布包みを開けて中身を確かめてから再び包み直し、自分の鞄に入れながら黒木は溜息をついた。
「すごい額だな……」
「いつものことさ」
 小沼は不快げに言った。
「党にいたころから、かなり援助してもらっていた」
「しかしね、君」
 黒木はいたずらっぽい笑みを浮かべながら身を乗り出した。
「いくら自分の父親が、小作人だったころの君にひどいことをしたからと言って、これだけの金をぽんと出してくれるってのは、どう考えてもおかしいぜ」
「じゃあ、他にどんな理由があるんだ?」
「たとえば……君に惚れているとか」
 馬鹿を言うな。そう言い返しつつ、小沼は、かつて満枝を陵辱する淫夢に耽っていたことを思い出し、顔が熱くなるのを覚えた。

 翌朝。
 帝国ホテルのスイートルーム。朝の光に眼を醒ました伊集院満枝は、昨夜着ていたフリル付きの黄色いワンピース一枚で、うつぶせにベッドで寝ていることに気づいた。
 あのまま、寝てしまったのか……。
 のろのろとからだを起こし、ベッドの上に座る。下半身につけていたはずの下着は、床に放り出されていた。
 そうだった。昨夜はホテルに戻ってから、服を脱ぎもしないで自慰に耽り、そのまま寝入ってしまったのだった……。
 苦笑いを浮かべ、両手を伸ばして欠伸をひとつ。眼を閉じると、あの男の顔が浮かんできた。恐怖と苦痛にひきつった顔が。
 昨夜、ホテルのロビイで小沼健吾と会い、用意した金を渡した後、満枝はモダンガールの装いで銀座に向かった。服部時計店の前で人待ち顔で立っていると、声をかけてきた紳士がいた。ダブルの背広に身を固めた、四十がらみの温厚そうな男性である。
 誰か待っているのかな? ええ、もう一時間も待っているんだけど……もう帰ろうかな。どうかね、よかったらお付き合いしてくれないかね。わあ、よかった、お腹ぺこぺこだったの。
 そんなたわいない会話をかわしながらタクシイを呼び、向かった先は麻布の洋館だった。妻と別れたばかりの独り暮らしでね。そう言いながら紅茶をいれる男の背後に忍び寄り、睾丸を蹴り上げた。呻いて倒れた男の頭部を蹴って失神させた。
 男が、レストランやカフェではなく、自宅に誘ってくれたのがもっけの幸いだった。人目を気にすることなく、じっくりと楽しめるのだから。
 満枝は男の両手を背中に回して縛り上げ、猿ぐつわをかませた。その上で柱に縛り付け、ナイフでズボンを引き裂き、すでに腫れ上がった男の睾丸を指で弾いた。男は激痛に呻き、眼を覚ました。
「これから、あなたを去勢するわ」
 愕然と眼を見開く男を冷笑しつつ、満枝は言い渡した。
「痛いでしょうけれど、我慢してね。わたくしなんかを誘ったのが運の尽き。諦めなさい」
 言いつつ、膝で蹴り上げる。男は激しくのけぞり、身を左右に揺すった。つぶった眼から涙がしたたり落ちる。そんな男の顔を見つめつつ、再び膝蹴り。男は号泣し、身を震わせて悶えた。
 手で陰嚢を掴んでみた。内出血を起こしているらしく、睾丸はほどよく膨張している。
「今から、これをあなたの睾丸に突き刺すわ」
 満枝はハンドバッグから竹串を二本取り出し、男の鼻先に突きつけた。鋭い切っ先を見て、男の顔は風に吹かれるこんにゃくのように震えた。
「抗日パルチザンが、捕虜を拷問する時に使う方法だそうよ……どのくらい痛いものなのか、女のわたくしには分からないけれど、一度やってみたかったの」
 男は、絶望の涙を流しつつ、猿ぐつわに覆われた口の奥で、最後の懇願を試みたが、耳を貸す満枝ではなかった。
 竹串が、男の睾丸を一個指し貫いた時、男の全身は電気を浴びたように激しく痙攣し、そのまま失神した。もうひとつの睾丸にも竹串を刺すと、失神したまま、からだだけが反応する。
 最後に、もう一度膝蹴りを喰わせると、すでに串に貫かれて決壊寸前だった睾丸は破裂した。陰嚢は見る見るうちに瓜のように膨張し、串によって開けられた穴から、大量の血と精液が噴き出し、満枝の脚を濡らした。満枝はそのままタクシイを拾ってホテルに戻り、部屋に入るなり下着を脱ぎ捨て、ベッドで己が陰部を弄びはじめたのだった……。
 スカートの裾に、男の返り血らしい染みがついていた。これはもう捨ててしまおう。満枝はワンピースを脱ぎ捨て、くずかごに放り込んだ。浴室に入ってシャワーを浴び、白いガウンをまとって部屋に戻ってきた満枝は、ドアの下に差し込まれた手紙や電報の束を確認しはじめた。北海道の本社から、満州から、上海から、指示を求める電報が毎日のように届けられる。その一つ一つに丁寧に目を通し、メモを取る満枝の面差しは、すでに実業家のそれであった。
 ふと、一通の電報に満枝は息を呑んだ。差出人は、篠原ヨシだった。
 アンザイサンヨリデンポウ メンカイモトム シジヲマツ
 安西小百合が面会を求めている……?
 満枝は電報を置き、眉をひそめ、額に手を置いて考えをめぐらせた。篠原ヨシに持たせた小切手を、小百合が受け取りを拒絶し、説得されてもなお「破り捨てるかもしれない」と言ったことは、すでに聞いていた。当然だろう……。沈痛な気持とともに、満枝はそう思った。やはり、小百合は自分のことを憎み、恐れている。そのことが、満枝にはひどく悲しかった。
 その小百合が、自ら面会したいと言ってきた。どういうこと?
 心臓が早鐘を打ち、胸が苦しくなっていくのをどうすることもできなかった。思うまま罵倒するつもりなのだろうか。
 どうしよう……。
 満枝は椅子から立ち上がり、わが身を両腕で覆うようにして部屋じゅうを歩き回った。

 その二日後の夜。
 伊集院満枝は、久しぶりに北海道H市の自宅の居間で食事をとっていた。
「これは、牧場でとれたものなのね」
 ヨシが手ずから焼いたビーフステーキにナイフを入れ、口に運びながら満枝は問うた。
「やわらかくて、とても美味しいわ」
「ありがとうございます」
 ヨシは微笑んで頭を下げた。
 満枝が父親から受け継いだ莫大な農地は、篠原ヨシが管理している。小作人の待遇を改善したため。収益は若干減ったが、土地を増やして新たに牧畜をはじめるなど、新たな試みが実を結びつつあった。
「お嬢様も、ご機嫌ですわね」
 静かに問うヨシに、満枝は唇を結んで首をかしげた。
「そうかしら?」
「お出かけになる前は、とても緊張していらしたご様子でしたのに……何か、よいことがおありでしたの?」
 満枝はナイフとフォークを置き、背筋を伸ばしてから口を開いた。
「小百合さんに会ったの」
「そういえば、今日でございましたわね」
 その日の昼過ぎ、H市に着いた満枝は、ホテルのレストランで小百合と会った。その後、自宅に帰ってきたのだ。満枝は言った。
「小百合さん、ヨシに届けてもらった小切手を持ってきていたわ」
 ヨシは口をつぐんだ。あの時の小百合は、本当に小切手を破り捨てかねない剣幕だった。それをわざわざ満枝に会うために北海道まで持ってきたのは、なぜなのか、理由をはかりかねた。
「それでね……ヨシ」
 満枝は微笑んで眼を細めた。
「小百合さんってとても律儀なひとなの。まず最初に、ヨシに大変失礼な態度をとって申し訳なかった、謝っていたと伝えてくださいって頭を下げるのよ」
「…………」
「それからね、お志は有難くお受けしたい。ついては、大金が要りようになったので、この数字を書いて銀行に持っていきたいのだが、よろしいか、と」
「大金……ですか?」
「そうなの。いくらだと思う?」
「さあ……」
「驚かないでね……二十万円よ」
 ヨシは腰を浮かした。現在で言えば一億円に相当する額だ。満枝の資産からすれば、一部でしかないが、夫の死に対する見舞金にしては破格といっていい。あの、真面目でおとなしそうな女性が、満枝に面と向かってそんな多額の金を要求するだろうか。
「それで……お嬢様はなんと?」
「驚いたけれど、仕方ないわ。好きなだけ金額を書いていいって言ったのは、わたくしのほうだもの」
「そうですか……」
 ヨシは眼を伏せた。満枝の個人資産から出す以上、ヨシが口を出すことではない。
「それで、そのお金、何に遣うのか聞いてみたの。小百合さんはどう答えたと思う?」
「さあ……」
「小百合さん、そのお金を元手に孤児のための寄宿舎つき学校を建てたいんですって!」
 満枝の声がうわずっていた。
「あの無口でおとなしい小百合さんが、そんなことを思いつくなんて、わたくし感動したわ。まず孤児院についていろいろ勉強したり、全国の孤児院を見てまわったり、外国の施設を見学したりした上で、土地を買って理想的な孤児院を作りたいのですって」
 興奮のあまり立ち上がって喋り続ける満枝を、ヨシはあっけにとられて見つめた。
「一番嬉しかったのは、孤児院を運営するためには、相当なお金が要るらしいから、今後とも、寄付をお願いしたいって言われたことよ!」
 満枝は天井に顔を向けて叫んだ。
「あの小百合さんが、私を怖がっていた小百合さんがそんなことを……奇跡だわ!」

 その頃。
 安西小百合は、実家の自室で本を開いていた。数日前、図書館で借りてきた児童問題の研究書である。ところどころノートを取っていると、「入っていいか?」と声がした。兄の健吉である。
 小百合は本とノートを閉じ、座っていた座布団を裏返して、目の前に置いた。地元の会社に勤める兄は、小百合の五歳上。亡き夫・喬の高校の先輩であった。
 入ってきた健吉は、差し出された座布団の上であぐらをかき、口を開いた。
「お前、孤児院を作るんだって?」
 小百合が父と母に打ち明けたのは、夕食の席でだった。兄はその日、残業のため帰りが遅かった。夕食後、小百合が自室で本を読んでいる間に帰ってきた兄は、父母からその話を聞かされたのだろう。思いとどまるよう説得してくれ、と言われたに違いない。
 小百合は黙ったまま、深く頷いた。
「そうか……お父さんもお母さんも、反対なすったろう」
 再び無言で頷く小百合に、健吉は溜息をついた。
「それでもやると言うのかい?」
 小百合はまっすぐに健吉を見つめて頷いた。
「また、突飛なことを思いついたものだが……だいたい、孤児院ってどうやって開くものだか、お前、知っているのかね?」
「これから勉強するわ」
「おいおい、頼りない話だなあ」
「お兄さま」
 あらためて居ずまいをただし、小百合は言った。
「喬さんは、とてもよい夫でした。よい方をご紹介くだすって感謝してます」
 健吉は眼を伏せた。学校の先輩だった増田喬を小百合に紹介したのは健吉だった。尊敬する先輩の死は、彼にとっても深い悲しみであった。
「だから、わたくし、喬さん以外の方に嫁ぐつもりはないの。いとしい方に先立たれる悲しみは、もう味わいたくないから」
「え……?」
 再婚すれば、その相手の男が必ず死ぬと決めつけたような口振りに、健吉は眼を丸くした。その理由を訊ねようとする前に、小百合は静かに続けた。
「お金は、伊集院さまが援助してくださることになったわ」
「伊集院満枝さんかい?」
「ええ。わたくしが孤児院を開きたい、そのためにうんと勉強したいと申し出たら、快く」
 増田喬は、伊集院満枝の命によって赴いた上海で亡くなった。満枝が、その責任を感じて援助を引き受けたのならば、つじつまはあう。
「伊集院さんが後ろ盾ならば、そう心配することもあるまいが……」
 健吉はつぶやいた。普段はおとなしいが言い出したら退かない、頑固な妹の気質をよく心得ていた。

 兄が去った後、小百合は再び文机に向かった。
 小百合が孤児院を開こうと決意したのは、悦子が背負った心の傷の深さを知った時だった。悦子と同じ境遇にいる子どもたちを救いたい。実現できたら、ぜひ悦子にも手伝ってもらおう。
 図書館へ行き、孤児院について書かれた本を借りて読んでみた。多額のお金が必要だとわかった時、篠原ヨシが持ってきた小切手のことが頭に浮かんだ。
 小百合は覚悟を決めた。
 伊集院満枝は、これからも自分の人生に関わってこようとするに違いない。それがなぜかは分からない。小百合は、満枝が山中で白痴を去勢したのを見た。I高等女学院のチャペルで猪俣佐和子をそそのかして許婚者を去勢させたのを立ち聞きした。そのことを満枝は知っている。それが、満枝が小百合につきまとう理由なのかどうかは知らない。
 いずれにせよ、小百合がどんなに逃げようと、満枝は追ってくる。ならば、もう逃げるのはよそう。いっそ、あの莫大な財産から必要なお金を引き出して、自分の夢を果たそう。
 そう決めたとたん、長い間心の底に沈んでいた重石(おもし)が取れたように感じた。
 もう怖がらない……。
 小百合は、本をめくりながら、声に出してそうつぶやいた。
 そんなにわたくしに関わっていたいのなら、せいぜい利用させていただくわ。

   V

「日本国民よ!
 刻下の祖国日本を直視せよ、政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや。
 政権党利に盲いたる政党と、これに結托して民衆の膏血(こうけつ)をしぼる財閥と、さらにこれを擁護して圧政日に長ずる官憲と、軟弱外交と、堕落せる教育と、腐敗せる軍部と、悪化せる思想と、塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と……
 日本は今やかくの如き錯綜せる堕落の淵に死なんとしている。革新の時機! 今にして立たずんば日本は滅亡せんのみ。
 国民よ! 武器を執(と)って立て、今や邦家救済の道は唯一つ、直接行動以外に何者もない」

 なんだかそっくり……。
 ガリ版を切る手を休め、朝刊を手にした佳代(かよ)は、口のなかでつぶやいた。
 すぐる五月十五日、犬養毅首相を暗殺した海軍軍人たちがばら撒いた檄文が、新聞に掲載された。その文言が、佳代が「党」の命令で作っているビラの文句によく似ているのだ。
 檄文はさらに続く。

 「国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
 横暴極まる官憲を膺懲(ようちょう)せよ!
 奸賊、特権階級を抹殺せよ!
 農民よ、労働者よ、全国民よ祖国日本を守れ!
 まず破壊だ!
 すべての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ!」

 プロレタリア作家の大橋多喜蔵と、目黒にある二階建ての家で暮らすようになって二年近く。佳代は、ひたすら「党」の命ずるままにガリ版を切り続けた。
 この時も佳代は、多喜蔵が連絡員(レポ)から受け取ってきた新しい「党」の綱領を、鉄筆で原紙に刻んでいたのである。
 新しい綱領には、「諸悪の根源は天皇制である」「天皇制をフンサイせぬかぎり、勝利は訪れない」といった言葉が並んでいた。思想問題に詳しくない佳代ではあったが、五・一五事件の海軍士官と、「党」の考え方の違いは、天皇を打倒するかどうか、それだけではないかと思われる。
 しかし彼女が、その思いを口にすることはないだろう。ただ、命ぜられたことをやっていればいい。どうせ自分の意見など、誰も聞き入れてはくれまい。
 新聞を畳んで、再びガリ版に向かった時、玄関の戸が小さく叩かれた。
「俺だ」
 大橋多喜蔵だった。格子戸を開けて出迎えると、佳代の部屋を見やり、不機嫌そうに問うた。
「ガリ版は仕上がったか?」
 いえ、まだ……と答えると、それはよかった、と懐から茶封筒を取り出し、吐き出すように言った。
「綱領が書き直された。これで新しくガリ版を切ってくれ。古い原紙は焼き捨てるように」
 ここのところ、大橋は機嫌が悪い。その理由は、幾度も綱領が訂正になり、そのつど、佳代が新しくガリ版を切り直さなければならないためではない。
「党」から支給される金がとどこおっているからだ。
 それまで、連絡員を通じて多額の金が渡されてきた。それがなぜ、このところ滞りがちになったのかは分からない。食費を切り詰めざるを得なくなったが、根が裕福な商家育ちの大橋は粗食に耐えられる体質ではないらしい。何かと佳代に当り散らすようになった。
「その……」
 佳代はおずおずと言った。
「なんだ?」
「もう、原紙を買うお金がありません……」
「なに?」
「本当に、もうないんです」
「馬鹿な!」
 大橋は大声をあげた。
「印刷は大事な任務だ! たとえ食事を減らしても、これだけは遅らせちゃいかんのだ。一体、何にお金を遣ってしまったんだ?」
 佳代は唇をかんでうつむいた。ここのところ、佳代の食事は朝夕二度だけ、それも一膳に減らしている。一方の大橋は、副食が粗末になったぶん、やたらとお代わりをするようになった。酒量も増え、寝ている佳代を夜中にたたき起こして買いにいかせたこともある。
「もういい!」
 大橋は足音も荒々しく、階段をあがって自室に入った。佳代は独り俯いて立ち尽くしていた。
 その翌朝。
 佳代が朝食を整えて、二階にある大橋の部屋の襖を開けると、饐(す)えたにおいが鼻をついた。どうやら昨夜も、遅くまで独り酒を呑んでいたらしい。
 部屋に入ると、大橋ははだけた胸を手でかきむしりながら、布団の上にあぐらをかいている。朝食の膳を置いて出て行こうとすると、「おい」と呼び止められた。
「働きに出ないか」
 正座した佳代に、大橋は眼をそらしたまま言った。返事をしないまま見つめる佳代に、大橋は続けた。
「いま、多くの女性同志が、カフェで女給をやって、党のために働いている」
 女給……。東京に来てからずっとハウスキーパーとしてアジトに住み、外に出るのは近所に買い物するだけの佳代には、見当もつかない世界であった。
「君は昔、親の借金の肩代わりに、女郎に売られそうになったんだってな」
 無言の佳代に、大橋は初めて眼を向けて言った。
「別に女郎になれって言うわけじゃない」
 佳代の胸のなかに、大きな石のようなものが出来て、膨れ上がっていった。息をすることさえ苦しかった。
 暗い顔で俯く佳代に、大橋は叫んだ。
「なんだ、その顔は! 俺のために犠牲にされると言いたいのか!」
 大橋は、佳代の肩を掴んで揺すぶった。
「俺はな、自分の全てを犠牲にしているんだ! 幾百万の労働者や貧農に比べれば俺の苦しみなどものの数ではないから、身も心も、このたたかいに捧げてるんだ! 俺には、もはや個人の生活などない! それがお前には分からんのか!」

 夏が過ぎ、風の爽やかさが秋の訪れを告げるようになった、ある日の夜。
 上野にある鰻屋(うなぎや)の座敷で、白い洋装に身を包んだ十八歳の海老沼千恵子(えびぬま・ちえこ)は身を固くして正座し、やがて現れる男を待っていた。すでに食卓には鰻重と吸い物が二つ置いてあるが、衝立で仕切られた向こうに布団が敷きのべられ、枕が二つ並んでいる。鰻屋は当時、男女の逢い引きに使われることが多かった、鰻で精をつけておいて情事を楽しむという趣向である。
 この物語に初めて登場した海老沼千恵子については、やがて明らかになる。
 襖が開き、仲居に案内されて男が入ってきた。三十路近くだろうか、結喜絣(ゆうきつむぎ)の着流しにちぢみの夏羽織、白足袋をきちんとつけた、育ちのよさげな青年である。
「待たせちゃったね」
 男は赤い唇をほころばせ、千恵子の傍らに腰をおろし、その手を握った。
「固くならなくてもいいんだよ。まずは鰻をおあがり」
 千恵子の手をとったまま食卓に就かせ、向かい合って座って吸い物椀を持ち上げる。蓋を取って眼を閉じ、「いい香りだ」と甲高い声でつぶやく青年を、千恵子は上目遣いに窺い、震える手で自らも椀を手にした。
 男のうわずったお喋りに相づちを打つうちに、やがて食事は終わった。男は立ち上がって千恵子の隣に座し、その肩を抱く。
 いいんだね。そう問う男に、千恵子は小さく頷いた。男は立ち上がり、千恵子を衝立の向こうに導き、布団の上に仰向けに寝かせ、覆い被さった。その背後で、静かに襖が開いたのも気づかずに。
 不意に、薄暗い室内に閃光がまたたき、続いてバシャッと濡れたタオルを叩きつけるような音が響いた。
 男が身を起こして振り返ると、洋装の女が写真機を構えて立っている。
「誰だ!」
 男はそう叫び、立ち上がろうとして身を固くした。男の下で仰向けに横たわっていた千恵子の膝が突き上げられ、男の股間に食い込んでいた。男は眼を見開き、嘔吐しそうな面持ちで突っ伏した。
 千恵子は、重くのしかかる男のからだの下から這い出し、写真機を持つ女に飛びつき、胸に顔を埋めた。
「よくやったわ」
 写真機を構えた女――猪俣佐和子は、千恵子の肩を優しく撫で、ぶざまに両手で股間を覆い、尻を持ち上げたかたちで悶絶する男を見やりながら言った。
「大成功よ」
「わ、わたくし……」
 千恵子は嗚咽を交えながら声をしぼりだした。
「怖くて……とても怖くて」
「そうでしょうね……でも、ほんとうに素晴らしいわ」
 佐和子は写真機を畳の上に置き、涙に濡れる千恵子の顔を覗き込むようにして言った。
「思ったとおりよ……あなたならできるはずだって、わたくし、信じていたもの」
 千恵子は陶然とした面差しで佐和子を見つめ、半ば開けた唇をかすかに綻ばせた。その唇に、佐和子の唇が重ねられた。
「き、貴様ら……」
 急所を蹴り上げられ動けずにいた男が、ようやく上半身を起こし、抱擁しあう女たちを睨んで呻いた。
「なんの真似だ……」
「助けに来たのよ」
 佐和子は冷ややかな笑みを浮かべ、男の傍らに座った。
「わたくしの妹分が、いやらしい男に迫られて、てごめにされそうだと聞いたものですから」
「てごめだと……?」
 男は苦しげに言った。
「馬鹿な……俺は、紳士的に彼女を口説いたんだ。そして彼女も了解してくれたから……」
「お黙り」
 佐和子の平手打ちが男の頬で炸裂した。男は恐怖に眼を見開いた。
「そんなことはどうでもいいわ。とにかく、妹分はあなたによって精神的苦痛を味わったのですからね。応分の賠償はしていただきますわよ」
「そんな無茶苦茶な……」
「あら、そう?」
 佐和子は立ち上がった。
「あなたと話し合っていても、らちがあきそうもないわね。こうなったら、奥様と直談判させていただきますわ」
 畳の上に置いた写真機を取り上げ、佐和子は言った。
「この写真を持参してね」
 男の顔色が、怒りから哀願へと変わった。
「ま、待ってくれ」
 男はわめいた。
「そ、それだけは……」
「奥様は、どのようにお思いになるかしら」
 佐和子は冷たく笑って言った。
「あなた、婿養子なんだそうですね。いずれは義理のご両親からお店を受け継ぐはずだったのに、事もあろうに純潔な乙女を鰻屋で手込めにしようとしたことが知れたら……」
「よ、よせ」
 男は立ち上がろうとして、睾丸の激痛にうずくまりつつも、身悶えして言った。
「勘弁してくれ……いったいいくら払えばいいんだ」
「そうねえ……二千円もいただこうかしら」
「二千円!」
 男は蒼白になった。現在でいえば一千万円に近い。
「そ、そんな金はとても……」
「びた一文、負けられませんよ!」
 言うなり佐和子は、足をあげて男の顎を蹴り上げ、仰向けに倒れた男の股間を踵で踏みつけた。男はのけぞり、激しく痙攣した。
「明後日までに二千円……もし、持ってこなかったら、あんたの金玉、二つとも潰してあげるからね。覚悟なさい!」
 その一時間後。
 大森にある佐和子のアパートの洋式ベッドの上で、一糸まとわぬ姿の猪俣佐和子と海老沼千恵子が激しく抱擁しあっていた。
「佐和子さま……」
 巧みな愛撫を受け、あえぎながら千恵子が問うた。
「わたくし……決して卑劣なことをしてたわけじゃありませんよね」
「そうよ」
 指先で千恵子の陰部をゆっくりと撫でつつ、佐和子は答えた。
「これは……すべて革命のためなの。プロレタリアートを解放するための、立派な革命的行為なのよ」
 千恵子は嬉しげに、佐和子の乳房の谷間に顔を埋めた。

 三日後。
 京橋にある小さなビルヂングの階段を上ってゆく猪俣佐和子の姿があった。会計事務所の看板を掲げた部屋のドアを叩くと、顔を出したのは、きちんと背広を着て眼鏡をかけた三十代半ばくらいの男だった。
「やあ、いらっしゃい」
 狭い事務所に入ると、壁の書棚にはぎっしりと書類の束が詰め込まれ、デスクが二つ並んでいる。その奥に、小さなソファが置いてあった。
「手塚さん、例のもの、お持ちしましたわ」
 佐和子はソファに腰をおろし、向かい合って座った手塚と呼ばれる男の前に、四角く膨らんだ茶封筒を置いた。
「失敬」
 手塚はそう言って茶封筒をのぞき、眼を丸くした。佐和子は涼しげに言った。
「二千円入っています」
「大戦果じゃないか」
 手塚は感嘆し、封筒から札束を抜いて手早く数えて傍らの金庫に納めつつ言った。
「三沢さんから聞いたんだが、どうやら我が班がいちばん成績優秀らしい。あんたのおかげだって、報告しておいたよ」
「ありがとうございます」
 佐和子は頭を下げた。
 モスクワからの送金が途絶え、それまで資金をカンパしていた学者や作家たちが一斉検挙を受けたため、「党」は極端な資金難となり、末端の党員たちはたちまち困窮状態に陥った。
 資金難を乗り切るため、「党」は、タクシーやビリヤード場経営などの事業に乗り出したが、うまくいかない。そこで中央委員の三沢は「戦闘的技術団」という新たなセクションを設けた。
「戦闘的技術団」は四つの班に分かれ、それぞれに班長がいた。手塚が班長を勤める第四班は主に女性党員で構成され、色仕掛けで男を誘惑し、それをネタにして大金を強要する、いわゆる美人局(つつもたせ)に従事していた。
 他の班も、恐喝、猥褻物の販売などの違法行為を行っていた。もっとも、完全な縦割り組織で秘密主義を貫く「党」にあっては、第四班に属する佐和子も、班長の手塚も、具体的に他の班が何をやっているかを知らない。
 知っているのは、「戦闘的技術団」の指揮をとる三沢一人であった。
 犯罪行為以外の資金源として大きかったのは、良家の令嬢を勧誘(オルグ)して入党させることだった。その際、必ず大金を持ち出させて家出させるのである。これもまた、「戦闘的技術団」の役目のひとつだった。
 海老沼千恵子もそのようにして入党した一人である。佐和子は、そういう令嬢たちの「教育係」も兼ねていた。自らの浅草での経験をもとに、カフェで働かせ、男のあしらい方を学ばせる。見込みのありそうな令嬢には、男性の撃退法――すなわち睾丸を攻める技術を教えた上で、美人局をやらせるのだ。
「それはそうと、君」
 手塚が笑みを収めて言った。
「もう一人、面倒を見てほしい女性党員がいる」
「どういう女性ですか?」
「党歴は一年だったか二年だったか。これまである同志のハウスキーパーをやっていたんだが、党のためにカフェの女給をやりたいと申し出たらしくてね。そこでまず、どこか店を斡旋してほしいんだ」
 商家の婿養子を恐喝した鰻屋もそうだったが、「党」に協力的な飲食店は少なくなかった。店主が左傾思想にかぶれている店もあれば、店主の弱みを握って協力させている場合もある。そのなかから、党員の外貌や性格を考慮して店を選ぶのもまた、佐和子の役目だった。
「もし、見込みがあるようだったら、君の配下にしてもいい。そのあたりの判断は任せる」
「分かりましたわ」
 佐和子は頷いた。任せる。そう言われることが、無上の喜びだった。

 その三日後。
 猪俣佐和子は独り、例の鰻屋の座敷に座っていた。
 失敬な連中ね……。
 佐和子は腕時計に眼をやりながらつぶやいた。女給になりたいと申し出た女性党員は、同居中の男性党員とともに十二時には現れるはずだった。しかし一時近くなっても一向に姿を見せない。
 襖が開いて女将が入ってきた。
「まだお見えじゃないんですか?」
 四十前の女将は若い男性党員を愛人にしていた。その縁で佐和子の仕事に協力している。美人局の場を提供するだけでなく、長年水商売をしていた経験から、女性党員の目利きも頼んでいる。
「ええ、そうなのよ」
 佐和子は舌打ちして言った。党内の序列でいえば、佐和子のほうが数段上なのだ。それなのに、一時間近くも待たせるとは何事だろう。
 ふと外で、客を迎える仲居たちの声や、慌ただしげな足音が響き、やがて襖ががらりと開けられた。
 現れたのは三十半ばの、痩せてロイド眼鏡をかけ、袖の擦り切れた背広姿の男だった。その背後に、小柄な少女の姿があった。髪を三つ編みにし、すり切れて寸法の合わなくなった粗末な和服から、すねが半ば覗いている。
「遅くなって申し訳ありません」
 男は腰をかがめて部屋に入り、しきりと手をついて謝った。それから背後の少女に、さあ、お前もお入り、と声をかける。少女は顔をそむけたまま凍ったように突っ立っている。早くしないか。男が声を荒げると、俯いたままゆっくりと入ってきた。
 その少女を見て、佐和子は眼を見開いた。
 確か、小沼健吾の家にいたハウスキーパー……。名前は、佳代と言ったっけ。
 それだけならば、さほど驚愕には値しない。ある党員のハウスキーパーだった女性が、さまざまな理由で、別の党員のハウスキーパーを務めることは珍しくはない。
 佐和子を驚かせたのは、佳代の頬がくっきりと赤い腫れが痛々しく刻まれていることだった。明らかに、誰かに殴られた痕だ。殴ったのが、目の前で卑屈に背を丸めているロイド眼鏡の男であることもまた、明らかだった。そして、女給になりたいという申し出が、佳代の意思でないことも。
 さらに見れば、襟元からアザが覗いていた。暴力を振るわれたのは一度や二度ではないらしい。
「お座りなさい」
 佐和子は面差しを繕って佳代に声をかけた。
「ここの鰻重はとてもおいしいのよ」
 佳代は俯いたまま動こうともしない。佐和子は女将を見やり、さっそくお運びして、と声をかけた。女将が座敷を出たのを確かめてから、佐和子はロイド眼鏡の男に向かって言った。
「大橋多喜蔵さんでしたわね」
「はい」
「あなたはもう結構です。このままお帰りなさい」
 蛙のように畳に手をついたままの姿勢で、大橋は眼を見開き硬直した。
「あなたに御用はありません」
 うろたえる大橋に、佐和子は冷たく言い放った。そうですか……。大橋は俯いて不満げにつぶやいて立ち上がり、「家で待ってるからな」と佳代に声をかけて去ろうとしたが、佐和子の「お待ちなさい」の声に立ち止まった。
 佐和子は座ったまま、大橋を見上げていった。
「彼女は、もうあなたの家には戻りません」
 再び愕然とする大橋に、佐和子は言った。
「後で連絡員をよこしますので、彼女の持ち物すべて渡してください」
「し、しかし……」
 大橋は佐和子の向かいに正座して詰め寄った。
「それじゃあ私が困るのです」
「何が困るんですか?」
 佐和子は大橋を見据えて言った。
「まさか、彼女が女給として稼ぐお金を、全部自分の懐に入れてしまおうという算段だったわけではないでしょうね?」
 図星だった。党員となり、地下に潜って以来、大橋は党からの援助に頼りっぱなしでろくに小説も書かないでいた。佳代がいなくなってしまったら、現在の乏しい党からの援助では生活していくこともできない。
 言い返せずに俯く大橋に、佐和子は追い討ちをかけた。
「あなたも党員ならば、ご自身で汗を流すことを考えるべきですわ」
 大橋はむっとして佐和子を睨みつけ、しばらく唇を噛んでいたが、やがて立ち上がり、口を開いた。
「あんた、最初からこのつもりだったのか?」
「最初から?」
「はなっから、俺のハウスキーパーを横取りして働かせ、自分の実入りにするつもりだったんじゃないのか?」
「おっしゃっている意味が分かりません」
「冗談じゃない……中央委員でもないあんたが、なぜ、勝手に党員の配置換えをやるんだ。越権行為じゃないか!」
 握り締めた拳を振るわせる大滝に、佐和子は静かに立ち上がり、すっと近寄った。
「彼女の処遇は、党からわたくしに一任されております」
 佐和子がそう言うと同時に、大滝は総身を強張らせた。佐和子の右手が、大橋の股間に伸びていた。ズボン越しに睾丸を掴まれ、反射的に身動きができなくなったのだ。さらに佐和子は、大橋の耳元に唇を寄せてささやいた。
「これ以上、反抗的な態度を取るようでしたら、二つとも潰しますわよ」
 大橋の顔が恐怖で引きつった。佐和子は続けた。
「ふざけて言っているのではありませんよ。この手で使えなくした睾丸は、十個や二十個じゃないのですから」
 ガラスのように硬く鋭い物言いに、大橋の全身が細かく震え始めた。嘘ではなかった。戦闘的技術団に配属されて以来、佐和子は、美人局をはじめ危ない橋をたくさん渡ってきた。その過程で少なくない数の男を去勢してきたのだ。
「このまま静かに、お引き取り願えますわね」
 言うと同時に、佐和子は親指の爪を睾丸に食い込ませた。からだを貫く鋭い痛みに、大橋は喉の奥で悲鳴をあげ、幾度も首を縦に振った。
 大橋の股間から手を離し、佐和子は、棒立ちで成り行きを見守っていた佳代に歩み寄り、その手をとって座らせた。
「大丈夫よ。もうこれからは、誰からも叩かれずにすむわ」
 佳代は、口をつぐんだまま、畳に視線を落としている。佐和子は、痛々しげに佳代の固い面差しを見つめていたが、ふと、右手で痛む股間を押さえ、左手で壁にすがって辛うじて立っている大橋に眼をやり、叫んだ。
「いつまでそこにいるんです。早々に立ち去りなさい!」
 大橋は歩き出そうとしたが、苦痛のあまり足が動かない。いらだった佐和子は、大橋の背後に歩み寄り、股間を蹴り上げた。両手で股間を押さえてつんのめった大橋の尻を蹴って、廊下に追い出し、女将を呼んだ。
「この男をつまみ出して!」

「ほう、それで大橋君はなんて言ってるんです?」
 こんなに足腰の軽い「中央委員」には初めてお目にかかった……。ソファに座って足を組み、煙草をふかしながら喋る三沢に、手塚はふと思った。
 銀行に勤めた経験もあり、三十歳をすぎてから「党員」となった手塚にとって、若い幹部たちの世間離れした横柄な態度は、神経にさわるものがあった。大学を出たての「中央委員」たちと会談する時は、格下である手塚が出向くのが常であったが、三沢は用事があれば自ら出向いてくる。この日も、会計事務所の看板を掲げる手塚のアジトまで、自ら足を運んでやってきた。言葉遣いも、年上である手塚には丁寧である。
「大橋君は、それどころじゃないようです」
 手塚は言った。
「まだ血尿が止まらず、床に伏せったままだとか。当分、仕事は出来ないそうですからね」
「なるほど、大変な目にあったわけだ」
 興味深そうに三沢は頷いた。
「女給として稼がせようとしたハウスキーパーは取られ、挙げ句の果てに大事な所を潰されかけた。踏んだり蹴ったりですな」
「しかし、アジ・プロ部からは正式に抗議されたんですよ」
 手塚は真顔で言った。アジ・プロ部とは、思想宣伝を担当するセクションであり、大橋のような作家や学者出身の党員が所属している。三沢と同格の中央委員が直轄している、党でも重要な部署だ。
「井上君を査問にかけろと言っている者もいるらしい」
 井上とは、言うまでもなく猪俣佐和子の変名である。顔をしかめて手塚は続けた。
「正直、彼女のやり方は強引だし、男として許し難くもある……でも、井上君はわが第四班の稼ぎ頭ですからね」
「まあ、いざとなったら男の股ぐらを蹴り上げて倒すくらいの女性のほうが頼りになります」
 三沢は、笑みを保ったまま言った。
「アジ・プロのほうは、僕がなだめておきましょう。だいたい大橋君は、入党以来、ろくに小説も書かず、働きが悪かったようだ。代わりのハウスキーパーをあてがうかわりに、ちゃんと執筆活動をやるよう、叱咤しておきます。それよりも……」
 三沢は声を低めた。
「そろそろ、例の計画に取りかかってほしいのですがね」
 手塚は背筋を伸ばした。三沢は、鞄から新聞紙に包んだものを取り出し、テーブルに置いた。重い金属の響きがかすかに聞こえた。
「とりあえず一挺、用意しました。一挺で足りなければ、言ってください」
 喉仏を鳴らして唾を呑み込み、新聞紙にくるまった拳銃を見つめていた手塚は、ゆっくりとうなずいた。三沢は微笑み、では、これで失敬、と立ち上がった。

 磨けば光るとは、このことか……。
 美容院から恥ずかしそうに出てきた佳代の姿に、佐和子は思わず見とれた。
 佐和子が、強引なかたちで佳代を大橋多喜蔵のもとから引き抜いてから三日後の日曜日。佐和子は佳代を銀座に連れ出した。三越百貨店で鮮やかな花柄の銘仙をあつらえ、さらに美容院に向かい、三つ編みにしていた髪をほどいてパーマネントを当てさせた。
 佳代は、もともと色白で、眼が大きく、唇は小さいがふっくらとしている。かつての貧しい身なりや、ろくに櫛も当てられていない髪で隠されていた美しさが、艶やかな衣装と理容によって輝くばかりに現れ出たのだ。
「きれいよ、佳代ちゃん」
 そう声をかけ、肩をぽんと叩く。佳代は俯き、恥じらったような笑みを浮かべた。鰻屋から連れ出して以来、初めて見せた笑顔だった。
 本当に無口な娘ね……。
 いま、佐和子は佳代を自分のアパートに住まわせている。戦闘的技術団に参加して以来、外での活動の多くなった佐和子にかわって、掃除や炊事などいっさいをてきぱきやってくれるのだが、何を話しかけても「はい」か「いいえ」だけで、ちょっと複雑な問いを投げかけると、小首を傾げて黙ってしまう。
 馬鹿なのかしら。そう疑ったこともあったが、昨日、大橋の家から佳代の荷物が届けれられると、粗末な衣装や下着やガリ版刷りの機械とともに、社会主義の理論書が二冊ほど混じっていた。ところどころ鉛筆で線まで入っている。ちゃんとお勉強しているのね、と言ってみたが、やはり恥じらって俯くばかりだった。褒められることに慣れていないようだった。
 このままでは夜の商売に出すどころか、戦闘的技術団のメンバーとして役には立たない。身なりを変えれば、少しは心を開いてくれるかもしれない。そう願って銀座に連れ出したのだった。
「お腹が減ったわね」
 服部時計店の時計台が十二時近くを指していた。
「資生堂で、おいしいものを食べましょう」
 資生堂パーラーの創業は明治三十五年だが、今の建物は昭和三年に新築された。店に入ると左右に階段があり、吹き抜けの天井にはシャンデリアが下がっている。階段をあがると、オーケストラボックスまでついている二階席。
 すでに店は満員に近かった。給仕に案内されて席に座り、名物のカリーライスを注文する。
 物珍しげにきょろきょろと見回していた佳代は、運ばれてきた銀の器に入ったルーと、白い皿に盛ったご飯に、途方に暮れた表情を浮かべた。
「初めて?」
 と問うと、こくりと頷く。箸を使わない料理は食べたことがないようだ。スプーンの持ち方から指導してやると、ルーをかけたご飯をひとくち、口に含んで妙な顔をしている。
「これよりも贅沢なものを、毎日のように食べている人もいるのよ」
 佐和子は声を潜めて言った。佳代は、小鳥のように眼をぱちくりさせて、佐和子を見つめる。佐和子は続けた。
「わたくしたちがやっているのは、贅沢にうつつを抜かし、人民の貧苦を顧みないブルジョワ連中からお金をいただいて、やがて来るたたかいの日に備えることなの」
 瞬きもせず無言のままの佳代の手を、佐和子は握った。
「わたくしの仕事を手伝っていただける?」
 佳代は眼を逸らし、小首を傾げた。戸惑っているようにも見え、佐和子の言葉の意味を呑み込めず考えているようでもあり、たんにいつもの癖のようでもあった。佐和子は微笑み、やわらかな声音で言った。
「まあ、いいわ。何をやっていただくかは、おいおい説明するわね」
 カリーライスを口に運ぶ佐和子に、ちらりと視線を戻した佳代は、別のことを考えていた。
「党」の資金繰りが苦しく、多くの党員が貧しさにあえいでいることは、佳代も耳にしていた。それなのに何故、このひとは、敵であるはずの「ブルジョワ連中」と同じ、高い料理を楽しんでいるのだろう……。

 食事を終え、通りに出た。昼休みとあって、通りはサラリイマンや、会社勤めの女性タイピスト、豪奢なお召しで身を飾る毎日が休日の奥様たちで溢れている。
「天下の民衆が苦しんでるというのに、不正に懐を肥やし、ぬくぬくと贅沢三昧とは、それでもあんた、大日本帝国の臣民かい!」
 不意の金切り声に、通りを歩くひとびとの眼が、そちらに向けられた。
 見れば、銀座でもっとも有名な宝石店の店先で、若い娘が、蝶ネクタイに髭をはやした支配人らしい男を相手に怒鳴っていた。
 背丈は四尺三寸(一四〇センチ)ほどか。小柄だが、よく響く大声の持ち主だった。髪を三つ編みのおさげにして、皺だらけの白いブラウスに、短い黒のスカート。まるで小学生のような出で立ちだったが、色黒で、眉毛の太いくっきりした顔立ちは、二十歳くらいだろうか。手にした太いステッキを振り回して支配人を威嚇する彼女の周りには、同じような貧しい身なりの少女たちが三人、寄り添うように立っている。
 君、あんまり、騒ぐと警察を呼ぶよ、と支配人は苦笑しながら宥めるように言う。その爪先に、ステッキの底を打ち込み、悲鳴をあげてしゃがみこむ支配人に、娘は居丈高に言った。
「あたいを誰だと思ってるんだい。金沢文子(かなざわ・ふみこ)だよ!」
 苦悶の面差しで眼に涙を浮かべて文子を見上げていた支配人の顔色が変わった。ちょ、ちょっとお待ちを……。震える唇でそう言いつつ、店内に消えた。数分して戻ってくると、今日はこれでお引き取りを、と打って変わった態度で封筒を差し出す。
 娘は封筒の中身をのぞきこみ、地面に叩きつけた。
「ちょっと、あんた! あたいを侮辱する気かい。アカのリャクかなんかと間違えてるんじゃないだろうね!」
 リャクとは「略奪」の意である。もともとは無政府主義者や社会主義者が、ブルジョアが庶民から搾取した金を「略奪」するという口実のもとに、雑誌広告料などの名目で金を強要することを指す。
 娘は、三人の少女を両脇に抱え、なおも言い募った。
「あたいたちは、かわいそうな孤児の救済のために、日々活動している天下の侠者だよ。この娘たちを見な。特権階級の金の亡者どもの犠牲者さ。この娘たちがちゃんとした教育を受けられるよう、篤志を願いにきたというのに、なにさ、五円や十円の金で追い返そうなんて不届き千万。金玉蹴り潰してやるから、覚悟しな!」
 その言葉に、見物していたサラリイマンたちはあっけにとられ、奥様方は顔をしかめつつも忍び笑いを抑えられず、支配人は思わず、両手で股間を隠しかけ、慌てて威厳をただす。
 と、とりあえず中へ。腰を低くして懇願する支配人を押しのけ、金沢文子と名乗る娘はふんぞりかえって店の中に入った。支配人はおろおろと後を追った。
 見物の輪が解けていくなか、佳代は眼を丸くし、半ば唇を開けて見入っていた。
「佳代ちゃん」
 汚いものを見るような眼つきで眺めていた佐和子が、佳代の袖を引いて歩き出した。佳代は弾かれたように後に続く。
 佳代ちゃん……?
 その言葉に、立ち止まって騒ぎを見ていた男が、行き交う人波のなかへ歩み去る佳代の背中に眼をやった。
 小沼健吾であった。
 高価そうな銘仙に絹の羽織を着たその女が、かつて小沼のハウスキーパーをしていた佳代であるはずがない。しかし……。「佳代ちゃん」、そう言った女の声には聞き覚えがある。
「峰岸」
 小沼は、並んで立っていた若い男に声をかけた。同じ国家主義団体に所属する青年である。
「あの二人を追ってくれ」
 いぶかしげにな表情の峰岸に、小沼は言った。
「住んでいる家を突き止めてくれればいい」
「どっちのですか?」
 二人の女は、同じような背格好をしていた。後ろ姿だけでは、どちらが佳代か、分からない。
「どちらでもいい、気づかれるな」
 首を傾げつつ、峰岸は女たちの後を追った。小沼は、宝石店を見つめたまま立ち続けた。
 三十分後。金沢文子は支配人に見送られ、ほくほく顔で店から出てきた。道端にしゃがみこんで待っていた三人の少女が駆け寄ってくる。
「待たせたね」
 文子は、ぶあつく膨らんだ封筒を左手でかざし、右手で少女たち一人ひとりの頭を撫でながら言った。
「大漁だよ。お汁粉でも食いにいくかい?」
 少女たちが歓声をあげ、文子は、ぺこぺこと頭を下げる支配人に手を振って歩き出した。小沼はその後を追って走り出し、ちょっと、と声をかけた。
「なんだい?」
 文子は足をとめ、不審そうに長身の小沼を見上げた。
「金沢文子さんだね。安藤さんのところの」
「そうだけど……?」
「安藤さんに会いたいんだ。案内してくれないかね」
 無言で、頭から足の爪先まで、値踏みするように小沼を見つめていた文子は、不意に手を伸ばし、小沼の股間をつかんだ。強くひねりあげられ、激痛に小沼の全身は硬直した。
「誰だよ、あんた」
 じわじわと睾丸に加えられる圧迫に、返事どころか息をすることもできなかった。それを察した文子が、いくぶん手の力をやわらげる。やっと息を吐き出した小沼は、しわがれ声で言った。
「あ……怪しい者じゃない」
「怪しくねえやつが、なんで安藤なんかに会いたいのさ!」
 低い声で問われ、小沼の唇の端に思わず苦笑した。確かに、俺は「怪しいやつ」だ。
「……そうだな」
 声を振り絞り、小沼は言った。
「俺は怪しいやつだ。だから、安藤さんに会いたい……」
 文子は笑い出した。
「勝手についてくるのはかまわないけどサ……」
 小沼の股間から手を離して、こう付け加えた。
「生きて帰れるかどうかは、保証の限りじゃないよ」

   W

 市ヶ谷台と呼ばれる丘の上に、白いコンクリート造り、中央の尖塔の左右に翼のように張り出した四階建ての建物が聳えていた。新築された陸軍参謀本部である。
 その丘の麓には、軒の低い崩れそうな平屋がびっしりと立ち並ぶ中、迷路のように入り組んだ細い路地が縦横に走る、広大なスラム街が広がっていた。
 そこに一歩足を踏み入れれば、人間が醸し出すあらゆる悪臭に満ちた世界だった。昼なお暗く、やせこけた男女が生気のない面持ちで、ぼんやりと軒下に坐っている。薄汚れた浴衣やシャツ、地下足袋姿の貧民街の男たちにくらべ、安物ではあってもきちんとした背広姿の小沼は明らかに異質で、男たちの警戒に満ちた眼差しが突き刺さってきた。
「あたいから離れるんじゃないよ」
 金沢文子は、串に刺したアメ玉を舐めながら、唄うように言った。軽やかに路地を進んでいく文子の後ろ姿を眺めながら、小沼は、声をかける者こそいないが、貧民街の男女が文子には一目置いていることを感じていた。
 やがて路地の突き当たり、低い塀に囲まれた小さな古寺に着いた。境内に入るなり、文子は庭から本堂にあがる階段を踏みながら、「お客さんだよ」と奥に向かって叫び、小沼に向かって、あがんな、というように手招きした。天井の低い板の間の奥に、粗末な祭壇が設けられ、塗りの剥げてところどころ漆喰が露わになった仏像が鎮座している。
「客だと?」
 奥から、汚いどてらを羽織った、いがぐり頭の巨漢が現れた。
「はじめまして」
 小沼は、板の間に両手をついて頭をさげた。
「ふうん、あんた右翼か」
 差し出された名刺を一瞥して、安藤は言った。顔をあげると、笑みを浮かべているが、瞳に警戒心が浮かんでいる。
 安藤浄海は、五十歳になる弁護士である。大正デモクラシーの時代から、社会主義者や労働組合を支援してきた。貧しい者の味方として賞賛される一方、奇行が目立ち、「名声がほしいだけの目立ちたがり屋」として毛嫌いする人も多い。数年前に「余生は貧民救済に捧げる」と言って出家し、貧民窟にある荒れ寺の住職になり、貧民窟の孤児を引き取って育てはじめ、そのことを本に著してちょっとした評判になっていた。
「憂国の士が、わしみたいな主義者に何の用かね」
「たとえ主義主張が違えども、私も安藤先生も、今の国家を何とかせねばならぬという点で一致していると思います」
 身じろぎもせず、まっすぐ相手の顔を見つめて言う小沼に、安藤は笑みをおさめた。
「国家改造か……あんたも、北一輝の信者かね」
 当時四十九歳の一輝こと北輝次郎は、国家主義者の大立て者で、軍人にも信奉者が多かったが、著書『日本改造法案大綱』で私有財産の制限や、主要産業の国有化を論じ、「隠れ社会主義者ではないか」という噂も流れていた。
「北先生には、以前、お目にかかりました」
「ほう」
「ですが、残念ながら、行動をともにするに足る人物ではありません」
「なぜかね」
「彼は理論家で、実践家ではない」
「北一輝って、それこそリャクの親玉なんだろ?」
 部屋の隅に座って飴玉をなめていた文子が口を挟んだ。北一輝は、腕自慢のあらくれ者を側に置き、労働争議に介入したり、資産家や企業を恐喝して大金を巻き上げるなど、荒っぽい所行から「魔王」と呼ばれていた。
「文子、おまえの大先輩だな」
 からかうように言う安藤に、文子は頬をふくらませた。
「一緒にしないでよ。あたいはこの寺のみなしごを助けるためにやってるんだ。北ってやつは、そうやって稼いだ金で酒を呑んだり贅沢三昧してるって聞いたよ」
「そのとおりです」
 小沼は、文子を見やって言った。
「国家改造を唱えながら、彼は何もしない。ただ、資本家階級に寄生しているだけの男です」
「それで……」
 安藤は言った。
「あんたはわしに、なんの用事かね」
「今日は、ご挨拶に来ただけです」
「ふむ」
「今、社会主義者であれ、国家主義者であれ、社会改造を試みる者にいちばん欠けているのは、大衆動員です。犬養総理を暗殺して、社会は変わったか。何も変わりません。大衆が動かなかったからです」
「大衆は、犬養を暗殺した連中の助命を嘆願しておるじゃないか」
「大衆は、あの軍人たちに続いて決起するわけではありません。単に憂国の情に同情しただけです。私が大衆に求めるのは同情ではなく、ともに立ち上がってたたかうことです」
「まるで君は、革命家のような事を言うね」
 安藤は笑った。小沼は笑わず、膝を進めた。
「そうです。大衆を動かすため、私は人民の海に身を投じて学びたい。今後、安藤先生のもとに通ってご高説を拝聴しつつ、貧しい民の心を学びたいのです」
 言いつつ小沼は、持参した鞄を開いて茶封筒を取り出し、安藤の膝元に差し出した。これは、寄付させていただきます。貧民救済にお使いください。そう言って頭を下げた小沼を、笑みを浮かべて見つめつつ、安藤は茶封筒を拾い上げ、中身を確かめて目尻をさげた。
 今日はこれにて失礼させていただきます。そう言う小沼に、安藤は「文子ちゃん、お送りしてあげなさい」と声をかけた。

 寺を出て、昼なお薄暗い路地を、短いスカートから伸びる丈夫そうな両脚を動かして、金沢文子は歩いた。その背中を見つめながら、小沼は後に従った。
「ねえ、あんた」
 路地を出て、貧民窟と繁華街を隔てる橋を渡って大通りに出たとき、不意に脚を止めて文子は振り向いた。
「ほんとうに、貧乏人が暴動を起こして、今の政府を倒せると考えてるのかい?」
 声をひそめる文子に、小沼はうなずいた。文子は肩をすくめた。
「だったら、あの和尚のとこに通っても、無駄だよ」
「無駄?」
「あいつはね、社会を変えようなんて、これっぽちも思ってないよ。むしろ、あたいたち貧乏人がいてくれたほうが、都合がいいくらいに思ってるのさ」
「なぜ?」
「あいつ、ああ見えて結構もうけてるんだぜ。書いた本が売れるらしくてさ、演説会やラジオ放送に引っ張りだこ。たんまり謝礼をせしめてるらしい。そのくせ、あいつ、寺の雨漏りひとつ直さない」
 口をとがらせて文子は続けた。よく見れば、広い秀でた額に、よく動く目差し。言葉遣いは荒っぽいが、なかなか賢そうな娘だと小沼は思った。
「そもそも、あの寺でみなしごたちを集めて育ててたのは、あたいなんだ。そこにあいつが入ってきて、まるで自分が孤児院を開いたみたいに言いふらしてる。いんちきな野郎だよ」
 でもね……。文子は相好をくずし、くっくっと喉を鳴らして笑った。
「あいつのおかげで、あたいもリャクがやりやすくなってるのは確かだよ。ああいううるさ型の弁護士がついてるおかげで、素直に金を出すところが増えたからサ」
 リャクを行っていたことを自ら認めたことに気づき、文子は肩をすくめて舌を出した。
「だから、もうここに来るのはよしな。時間の無駄だよ」
「いや、また来る」
 小沼は言った。いぶかしげな顔の文子に、こう続けた。
「安藤さんをあてにする気は最初から、ない。ただ、貧民窟に住んで、貧民と同じものを食べ、同じ暮らしをし、そのなかで同志を募りたいと思うだけだ」
「本気かい?」
 文子はあきれ顔でため息をついた。まあ、勝手にしな。そう言い捨てて、小沼に背を向けて橋を渡り、貧民窟の路地へと向かった。

 翌日、再び貧民窟の寺に現れた小沼に、金沢文子はまたも呆れてため息をつき、安藤浄海は破顔大笑した。小沼は、前日の背広姿から、破れたズボンに地下足袋、シャツの上にぼろぼろの袢纏(はんてん)をひっかけ、首に手ぬぐいをまいた労働者姿だったからだ。
 安藤は、出版社に行ってくると言って袈裟をまとい、文子に「面倒みてやりなさい」と言い残して出かけていった。文子は、「まさか来るとは思わなかったよ」と言いながら、子供たちを連れてリャクに出かけていった。
 一人寺に残った小沼は、漆喰の剥げた仏像が鎮座する仏間に座ったまま、しばし空を見上げた。伊集院満枝の父・太吉が経営していた農場で小作人をしていた頃を思い出していた。太吉の援助を受けて中等学校にまで通いながら、そこで出会った左傾教師の影響で労働運動に飛び込んだ。太吉が亡くなったことを聞き、農場に戻ってきた小沼は、小作人たちの窮状を知り、彼らを組織して小作争議を起こした。結果は、伊集院家が雇ったやくざ者に暴行され、小作人たちはわずかな待遇改善で折り合った。
 小沼にとっては挫折であったが、なぜか十五歳の伊集院満枝は、「あなたは、立派だったわ」と称えてくれた。以後、小沼は社会主義運動に身を投じ、今は国家主義運動に従事しているが、常に満枝のサポートを得ている。
 つい数日前……。
 小沼は、銀座のカフェで満枝と会った。いつものように多額の支援金を受け取った後、ふと小沼は漏らした。軍人には頼らない。もう一度、貧しい人々のなかに入り、彼らを組織したい、と。
 そんな小沼に満枝は、「これをお読みになったら」と、薄い冊子を手渡した。五十枚ほどのワラ半紙を閉じた冊子の表紙には、「湖南省農民運動視察報告」というタイトルが、ガリ版刷りで黒々と記され、その傍らに「一九二七年三月」と五年前の日付があった。満枝は説明した。支那の革命家が秘密出版した本よ。上海で手に入れた方がいて教えてくださったので、わたくしがお金を出して五十部ばかり印刷したの……。
 アジトに帰った小沼は、さっそく冊子を開いた。裏表紙に「毛子任」とあるのは、この報告書をを書いた者の名だろうか。それが支那共産党を率いる毛沢東の筆名であることを、小沼が知る由もない。
 それは、中国南部にある湖南省での農民運動の報告書だった。報告者たちは、そこで二百万の農民と、一千万人の市民の動員に成功した、とある。この数字はどこまで信用できるのだろうか……。首をひねりつつ読み進めると、その先には恐るべき光景が描かれていた。
 農民たちは、四ヶ月にわたって暴動を起こした。地主や資産家の家を襲撃し、主立った者は銃殺した。死を免れた者も、三角帽子をかぶせられ、縄で縛られ、大勢の農民の罵声を浴びながら、町じゅうを引きずり回された。この制裁を加えられた者は、廃人同然になったという。制裁を受けなかった者は、いつ自分が同じ目にあうか不安にさいなまれる日々を送る。
 ……革命とは、客を饗応することでも、文章を書くことでも、絵を描くことでも、刺繍をすることでもない。左様な、上品で、優雅で、穏健で、慎ましいものではない。革命は暴動である。一つの階級が、他の階級を打倒する激烈な行動なのだ。
 かつて、伊集院満枝に同じ冊子を送られた安西小百合が、その激烈な言葉に眩惑(めまい)を覚えたように、小沼もまた、全身の血が入れ替わったような思いだった。
 この「農民」や「大衆」は、まっとうな労働者や農業従事者ではあるまい。小沼はそう推測した。食い詰めた飢民や、都市の極貧層に違いない。かつて小沼が組織した争議の小作人たちは、それでも最低限の生活は保証されていた。だから、わずかな待遇改善に満足した。そんな望みすらない貧民を動員せねば、革命は成功しない……。
「ただいま」
 境内で声がして、小沼は物思いから現実に引き戻された。少女たちを引き連れた金沢文子がリャクから帰ってきた。仏間にあがった文子は、小沼をしばし見つめていたが、やがて口を開いた。
「あれからずっと、ここに一人でいたの?」
 小沼が寺に来たのは朝九時頃だったが、空を見上げれば、すでに日が高かった。何時間、夢想にふけっていたのだろう。
「そうだな……ずっと、ここにいた」
 さよならと手を振り、戦利品をもってそれぞれの家に帰っていく少女たちを見送りながら、文子は言った。
「まさか、あたいを待っていたんじゃないだろうね」
 小沼はしばし考え、それから顔をあげて文子を見て、たぶんそうだ、と答えた。文子は笑い出した。
「昼飯、まだだったら、おごってやるよ」
 ついてきな、と言って文子は、仏間を出た。

 連れて行かれた先は、貧民窟から小さな小川ひとつ隔てた町だった。崖に沿ってじめじめと湿気がひどく、えも言えぬ臭気が漂い、軒の低い小さな荒れ果てた平屋がぎっしりとひしめき合っている。
「ムンジャ、ヤアー!」
 一軒の家から、胸のところで帯を結んだ見馴れぬ服の女が出てきて、文子を見るなり、笑顔で声をかけてきた。文子は、小沼には理解できぬ言葉で応え、しばらく会話をかわした。
「ここいらじゃ、あたいはムンジャって呼ばれてるのさ」
 女が去った後、文子は小沼を振り返っていった。
「文子を、朝鮮語ではムンジャって言うんだよ」
 ここは朝鮮人の部落なのか……。小沼はあたりを見回した。薄汚れた白い服、白い袴に、よれよれの黒い帽子をかぶった白髭の老人がゆっくりとした足取りで一軒の家から出てきて、玄関先で腰をおろして煙草を吹かし始めた。
「あのじいさん、元ヤンバンだよ」
「ヤンバン?」
 文子は声を潜め、耳元でささやいた。
「両班(ヤンバン)というのは、朝鮮の偉い人。地主みたいなものかな。昔は豪勢に暮らしていたらしいけれど、日本からやってきた商人にだまされて土地を取り上げられ、食い詰めて、こんなところまで流れ着いてきたらしい」
 それから、煙草を吹かす老人に目をやって言った。
「いま吸っているの、阿片だからね」
「阿片?」
「しっ」
 大声を出しそうになった小沼を、唇に指を当てて制し、文子は言った。
「朝鮮じゃ阿片がそこらじゅうで手に入るらしいよ」
「そうなのか……」
 小沼はそっと老人を見た。黒く汚れ、シワだらけの顔に、陶酔が浮かび上がっていた。文子は続けた。
「阿片をはやらせたのは、総督府の方針だと信じている朝鮮人は多い。朝鮮人を阿片漬けにして、抵抗させないようにする日本人の陰謀だってね。だから……」
 文子はにやりと笑った。
「あんた、日本人だとわかったら、殺されるよ」
 思わず背後に目をやった小沼の肩をたたき、文子は哄笑して歩き出した。
「大丈夫、あたいは日本人だけど、ムンジャって呼ばれてる。仲間だと思われてるんだ。あたいと一緒なら、あんたも大丈夫だよ」
 文子が向かった先は、小川のほとりの小さな河原だった。鶏の羽が散乱するなか、ランニングシャツにニッカポッカの青年が、さかんに煙を吹き出す七輪に鍋をおいて何か煮ていた。
「ジョンヨル!」
 文子に声をかけられ、青年は振り向いた。その容貌に、小沼はたじろいだ。青年の右の額から顎にかけて、一筋の線が醜く走り、右の眼はうつろな洞窟のようだった。顎の真下の右の胸にも、深い傷跡が走っている。
「ちょうど、食べ頃だね」
 平然と七輪に近寄り、鍋の蓋をあけて文子は満足げにつぶやいた。その背後からのぞくと、真っ赤な汁に得体の知れない肉塊のようなものが浮かんでいる。
 文子が、ジョンヨルと呼ばれた青年に朝鮮語で何か言った。ジョンヨルはうなずくと、ひしゃくで鍋の中身をすくって、七輪の傍らに置いた丼に入れ、木の箸とともに小沼に差し出した。
「食べな」
 にやにやして見つめる文子の視線を感じつつ、小沼は、おそるおそる、肉塊を箸でつまんで口に入れた。唐辛子らしい刺激の強いにおいを我慢して咀嚼(そしゃく)した。筋ばった肉塊は妙な粘りけがあり、飲み込んだ後も、歯に脂のようなものが残った。
 それ、なんだと思う? 首を傾げる小沼に、文子言った。
「あいつさっき打ち殺した、野良犬の肉だよ」
 青年の足下に、はいだばかりらしい薄茶色に黒ブチの毛皮を見つけた。毛皮には、血まみれの犬の頭がついていた。

 ようやくの思いで丼の中身を食べ終えたが、口のなかは唐辛子で焼けるように痛かった。文子が、ジョンヨルに何か言った。ジョンヨルは足下に置いてあった一升瓶を傾け、欠けた茶碗に液体を注ぎ、小沼に差し出した。
「朝鮮のどぶろくさ。飲んでみて」
 白濁した液体に口をつけると、甘酸っぱい。ひりひりする口中をすすぐように飲み干した。マッコリ……。人ごこちついて顔をあげた小沼に、ジョンヨルはそう言って微笑んだ。見回すと、河原には数人の朝鮮人男女が集まり、金を払ってジョンヨルから犬のスープを受け取って食べている。
「あいつは、パク・ジョンイル(朴正烈)といってね、元は京城でいいところのボンボンだったらしいんだよ」
 自分も犬肉を食べながら、文子は説明した。
「さっきの阿片じいさんと同様、日本の商人に土地をだましとられて、家は貧乏になっちゃった。それでもがんばって勉強して、日本の学校に通った。ところが大地震の時に自警団に斬りつけられて、あんなひどい傷を顔に負った」
 九年前の大正十二年、関東大震災で帝都が灰燼に帰したとき、未曾有の天災に、官も民も理性を失った。朝鮮人が火をつけ、井戸に毒を投げ込んでまわっている。そんな流言飛語を信じた人々は、日本刀や、どこからか出回った小銃などを手に自警団を結成し、数千の朝鮮人を血祭りにあげた。
「それ以来、あいつは何もかもやる気を失い、ついに落ちぶれて犬殺しをやってる。かわいそうだから、あいつと寝てあげたんだよ」
 寝てあげた……。その言葉に、驚いた視線を向けてきた小沼を見やり、文子は言った。
「あたい、かわいそうな男を見ると、寝てあげたくなる性質(たち)なんだ。このあたりの朝鮮人の若い衆をずいぶん面倒みてやった。だから、あたいは日本人だけど、この町で歓迎されているのさ」
 チャルモゴッスムニダ(ごちそうさん)。文子は笑顔で朴に声をかけて立ち上がり、「マシッソヨ(おいしかったよ)」と言葉を添えて歩き出した。七輪の炭をいじくっていた朴は、顔の傷をひきつらせて笑い、手を挙げて見送った。
「あんた、貧民窟に住んで、貧民と同じものを食べ、同じ暮らしをし、仲間を集めたいって言ってたね」
 狭い路地で、すれ違う朝鮮人たちと笑顔をかわしながら、文子は言った。
「あたいは、犬の肉も食べるし、ニンニクくさい朝鮮人の息も平気。大勢の朝鮮人と寝てあげた。だから仲間にしてくれてる」
 ふと足をとめ、文子は小沼を見つめて言った。
「あんたに、それができるかい?」
 まばたきもせずに見つめる文子の眼差しを静かに見返して、小沼は頷いた。

 翌日、貧民窟の寺を訪れると、安藤は留守で、文子がひとり、小沼の訪れを待っていたかのように、仏間に膝を抱えて座っていた。
 来たね。そう微笑む文子の面差しが、ひどく大人びて見えた。小沼は、背に負ったずた袋から「湖南省農民運動視察報告」を取り出し、文子に渡した。
 なに、これ? ページをめくりながら言った。支那のアカの話?
 そうだ。小沼は答えた。
 途中まで読んで、文子は顔をあげた。その頬が紅潮していた。
 すさまじい話だね。ほんとうに、支那でこんな事が起こったの?
 そうだ。
 ふうん。
 冊子に目を落とし、全部を読み終えて再び顔をあげたとき、文子の瞳はまっすぐに小沼の瞳に向けられた。かすかに潤みを帯びた瞳が揺れていた。
「あんた、ここに書いているのと同じ事を、日本でもやりたいってわけ?」
 小沼は無言で頷いた。
「この貧民窟の連中と一緒に、威張ってる連中を、ここに書いてあるように、痛めつけるつもりかい?」
 小沼は、そうだ、と小声で答え、できることなら、あの朝鮮部落の連中も一緒にだ。
「おもしろそうだね」
 文子は冊子を床において、小沼のほうに膝を進めた。
「あたいもやってみたいな。威張ってる連中を並べてびんたを食わせてやるんだ」
 そう言って俯き、肩を振るわせて笑いながら、文子は続けた。
「それから、きんたまを蹴り上げやるの」
 自分の言葉に自分で笑い、文子は言った。
「なんで銀座のでかい店が、あたいみたいな小娘に脅されて、お金を出すか、知ってる?」
 安藤さんがついているからじゃないのか? そう問うと、それもあるけど、それだけじゃない、と文子は言った。
「最初は当然、門前払いばかりだった。あんまりあたいらを馬鹿にした奴がいたから、腹が立って、後をつけた。でかい家に住んでた。玄関に入ろうとしたところを、後ろから駆け寄って、きんたま蹴り上げてやったんだ」
 地面にうずくまったそいつを、何度も足蹴にし、「また馬鹿にしたら、きんたま潰すからな」と言い残して逃げた。その後、何人かを同じ目に合わせた。どう噂が広がったのか、やがて商店主や支配人たちは文子の名を聞くだけで、おとなしく金を出すようになったという。
 まあ、潰すってのは、ただの脅しだけどね、と文子は言った。
「そこまでやるほど、あたいは残忍じゃないから。でも……」
 文子は喉を鳴らして不敵に笑いながら言った。
「もし、特権階級であるというだけで、きんたまを蹴り潰さかねないと分かったら、怖くて怖くて、夜も眠れなくなるだろうね……」
 ふと、小沼は数年前に聞いた、ある言葉を脳裏に蘇らせた。
 ……あたいたち労働者が団結して、悪い金持ちのきんたま蹴り潰してやンないと、世の中よくならナイってことです!
 今はモスクワの極東労働者共産大学(クートヴェ)で学んでいるはずの、元女工の喜代美(きよみ)が、小沼のアジト(隠れ家)で開かれた勉強会で、そう発言してまわりを笑わせていた。
 そうだ。世の中を変えるとは、権力者のきんたまを潰し、再起不能にした上で、新しい世界を築くことだ。むやみにたたかっても、強大な権力を打ち倒すのは容易ではない。敵の急所を見極め、効果的な攻撃を加えること。そのためには……。
「ねえ……」
 文子の声に我に帰った。いつの間にか文子は、小沼の頬に息がかかるほど、にじり寄っていた。文子の右腕が伸び、小沼の首にからみついた。
「あんた、本当に、ここに書かれているような場面が見たくて、この寺に通ってきてるわけ?」
 小沼は頷いた。
「あんたも、かわいそうな男だね」
 文子の唇が、小沼の口を覆った。柔らかな文子の舌が、口腔に侵入し、激しくうごめくのを感じながら、どこかで聞いた言葉だ……と小沼は思った。
 小柄な文子の体が小沼に覆い被さり、小沼は、その重みを受け止めるように床に仰向けになった。息をあらげて小沼の顔や首を嘗め回しながら、文子はブラウスを脱ぎ捨てた。驚くほど豊かな乳房があらわになった。小沼は、その乳首にしゃぶりついた。柔らかな乳房に顔を埋める小沼の後頭部を愛撫しながら、文子は言った。
「勘違いしないで……あたいは、誰とでも寝る女だよ」
 あたいは、誰のものでもない。当然、あんたの女にはならない。あたいはみんなのもの。かわいそうな男たちみんなのもの。それでいいなら……。
「いろいろ、面白いこと、やろうぜ」
 乳房の谷間から顔をあげた小沼の視線の先に、優しく微笑む文子の顔があった。その微笑みに小沼は、胸の裡を覆っていた雲がはれていくような思いを覚えていた。

 事を終え、再びブラウスとスカートを身に着けた文子に、小沼は言った。あんたのことを聞いて、いいか?
「いいよ」
 気軽に答える文子に、小沼は問うた。いつから、ここにいるんだ?
「三年前のことだけどさ……」
 文子は身の上を語りだした。早くに父親をなくし、おでん屋の女給をしている母親と二人暮らしだったが、文子が十二歳のとき、母親が新しい男を引っ張り込んだ。酒癖の悪い人夫だった。昼間から、文子に買い物を命じて外に出し、母親と情事にふけった。さらに、乳房がふくらみ始めた文子にも、いやらしい目差しを向けてくるようになった。母親がおでん屋に勤めにでている時、人夫は文子を押し倒した。文子は夢中で相手の股間を蹴り上げ、逃げた。逃げた先が、昨日、小沼を連れていった朝鮮人部落だった。
「そこであたいは、さっきの朴に拾われたのさ。朴はあたいに何も求めず、食わしてくれた。だからあたいは、お礼に朴と寝てあげたわけ」
 一度覚えた男女の交わりは、文子の性(しょう)に合った。大勢の朝鮮人と寝た。その一人から、リャクのやり方を教わった。自分で稼げるようになった文子は、橋一つ隔てたこの廃寺に上がり込み、みなしごたちの面倒を見るようになったのだ……。
 三年前? ふと小沼は気づいた。十二歳で家出したのが、三年前だというのか?
「そうだよ」
 じゃあ、おまえの年齢は……。
「うん」
 文子は豊かに実った乳房を突き出すように胸を張り、乱れた髪を手櫛(てぐし)で梳きながら、こともなげに答えた。
「十五だよ」

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 ベビー・ブローニングは、正式にはFNポケット・モデルM1906と呼ばれる拳銃である。
 一九〇六年、ベルギーのファブリック・ナショナル(FN)社に雇われたアメリカ人銃器設計者ジョン・ブローニングが開発した。二五口径で、銃身の長さは五四ミリ。銃弾六発を込められる。
 一発撃つごとに、銃身の上部のスライドを後ろに引き、発射時に銃身の内部に溜まった燃焼ガスの圧力を利用して、空薬莢を噴出させる。同時にグリップ部分の銃倉から新しい弾丸が銃身に送り込まれる仕組みだ。
 畳の上に二挺、鈍い銀色の銃身を光らせるベビー・ブローニングが並べられ、四つの視線が注がれていた。
「一人一挺ずつ、お持ちください」
 部屋の隅に座っていた、地味な背広姿の男が言った。拳銃に注がれていた四つの視線が、男に向けられた。男は傍らに置いたカバンから、紙袋を二つ取り出した。
「六十発入っています」
 男は、二人の女――猪俣佐和子と海老沼千恵子の前に、銃弾の入った紙袋を置いた。ごとりと重く金属音が響いた。銃弾のようだった。思わず息を呑む二人の女たちに、男は抑えた声音で言った。
「あと二日、ここに滞在する間に、使い方を覚えてください」
 昼食がすんだら、玄関までおいでください。そう言い残して、男は部屋を出た。
「佐和子さま」
 海老沼千恵子が、不安そうに膝を進め、佐和子に身を寄せた。その眼差しが、拳銃と銃弾入りの紙袋に、交互に注がれている。
「本当に、これを……?」
 佐和子は無言で、拳銃を手にした。約二〇〇グラムと軽量で、背広のポケットに入るサイズなので、女性にも扱いやすそうだった。
 波の音が、障子ごしに響いてきた。佐和子と千恵子が、早朝東京駅を汽車で出発し、熱海の高級旅館に着いたのは、正午前だった。部屋に通されると、二人分の昼食の膳が並べられていた。箸をつけようとすると、男が部屋に入ってきた。曽根という「党員」は、二人に拳銃と銃弾を渡した。昼食が終わったら、二人は人けのない場所に移動し、曽根から拳銃の使い方の指導を受ける手はずになっていたのだ。
 佐和子が、戦闘的技術団の班長である手塚から呼び出され、京橋のビルヂングを訪ねたのは、二日前であった。明後日、あなたが一番信頼する部下を連れて、熱海に行ってください。なるべく着飾って、いいところの令嬢が避暑にやってきたかのように見せかけて。その旅館に、曽根という党員が待っていますから、指示に従ってください。
 熱海で、何をするのですか? そう訊ねると、武器の使い方を習ってもらいます、と手塚は声を潜めた。武器をどう使うかは、まだ言えません。だがいずれ、大きな仕事をやってもらうことになります。
 武器を使った大きな仕事。そう言われて佐和子の胸は躍った。男をたらしこみ、美人局(つつもたせ)で大きな成果をあげてきた。それが認められ、より大きな仕事を任されるのだ……。
 熱海行きの連れには、海老沼千恵子を選んだ。うぶで臆病な千恵子だったが、幾度か美人局をこなすうち、すっかり自信をつけていた。最近では、佐和子の助けなしでも、男を「料理」することができるようになった。股間を蹴り上げ、さんざん足蹴にしておいて、陰嚢を踏みつけ、潰す、と脅す口調さえ、どこか楽しげだった。
 そんな千恵子だったが、本物の拳銃を見せられ、それを使って「仕事」をするのだと言われ、佐和子にオルグ(勧誘)された頃の気弱さな彼女に戻ってしまっていた。まずは、お昼にしましょう。佐和子はそう言って、拳銃と銃弾を自分たちのカバンにしまい、膳に向かったが、千恵子は食べ物が喉を通らないらしく、すぐに箸を置いてため息をついた。
 無理もない……。佐和子自身、千恵子の手前、平静を装ってはいたが、こみあげてくる不安を押さえかね、腕を取った手の震えが、すまし汁の表面にさざ波を作っていた。
「ねえ、佐和子さま」
 海老沼千恵子が、沈黙に耐えられないように、小さく叫んだ。
「私たち、これで……人を撃つんですか?」
 佐和子は無言で頷いた。
「そんな……、佐和子さま、撃てるんですか?」
 佐和子は声を押し殺し、怯える胸の裡から言葉を絞り出した。
「撃つわ」
 千恵子の肩を抱き寄せ、その頬に自分の頬を押しつけ、佐和子は言った。
「できるはずよ……あたしたちなら」(第六部・了)





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