悪霊

第八部・菊と李花の紋章(エンブレム)



【登場人物】
伊集院満枝…………………………北海道H市の地主の娘。川奈産業の大株主
猪俣佐和子…………………………党での名前は井上
安西小百合…………………………満枝とはI高等女学校の一年後輩。孤児院建設に奔走する
佳代…………………………………貧しい農家の娘。
飯島貴代美…………………………元女工。モスクワ留学から帰国し党中央委員になる
イ・ヨヒ(李麗姫)………………元女性抗日パルチザン。満枝の協力者
ハン・エジャ(韓愛子)…………元玉ノ井の娼婦。源氏名はまち子
金沢文子……………………………貧民窟に暮らす少女
小沼健吾……………………………元伊集院家の小作人。左翼運動から転向して国家主義者に。
磯田アヤノ…………………………小百合の叔母。華道の師範
磯田幸吉……………………………小百合の叔母の夫。高等小学校教師
磯田悦子……………………………東京に家出して小百合に救われ、磯田夫妻の養女になる
宮様…………………………………陸軍大尉。参謀本部作戦課付。後、弘前歩兵第三十一連隊
村野栄太郎…………………………左翼の学者。党中央委員長になる
岩本…………………………………大学出身の党中央委員。文芸評論家
赤間…………………………………大学出身の党中央委員
畑野達男……………………………労働者出身の党中央委員
清水…………………………………労働者出身の党中央委員
小泉俊吉……………………………農民出身の党中央委員
安藤浄海……………………………貧民街の僧
安藤澄………………………………東京帝国大学国史科助教授。安藤浄海の息子
パク・ジョンイル(朴正烈)……朝鮮人青年
渋谷少尉……………………………宮様付きの将校
磯村中尉……………………………皇道派青年将校
香野中尉……………………………皇道派青年将校
林原少尉……………………………皇道派青年将校
【時・場所】
昭和八年(一九三三)一月〜六月。弘前市、東京。

   T

 昭和八年。正月の松もとれて十余日がすぎた。
 宮様がおいでになる……。
 弘前の磯田家は、そわそわと落ち着かなかった。
「しかも、うちの学校にお立ち寄りになり、昼餐(ちゅうさん)をとられた後、植樹されるというんだよ」
 夕食の席、当主である小学校教師の幸吉は、有り難いのか有り難くないのか、よく分からないまま、興奮の態だった。
「今日も、朝から大掃除。間違いがあってはならないと、校長先生自らご検分だ。いや、こんなにおおごとだとは思ってもみなかった」
 陸軍大尉であり、参謀本部作戦課に所属する天皇の弟宮が、青森県に来て、各地の連隊を視察されるという。その道々、学校や観光名所、寺社名跡に立ち寄り、地元の人々の饗応を受ける。それもまた、尊い血筋の宮様の大切なお仕事であった。
「叔父さまが、そんなふうに慌てふためいてらっしゃると、おかしいわ」
 安西小百合(あんざい・さゆり)が笑った。
「もっと、進歩的な方かと思っていましたのに」
「しょせん、宮仕えですよ」
 幸吉は笑い、それに対して妻であり、小百合にとって母方の叔母にあたるアヤノも「モーニングを新調しろ、なんて言うのよ。貸衣装で十分なのに」とからかった。十四歳になった悦子(えつこ)は「反動的ね」と笑った。どこでそんな言葉を覚えたの、と訊ねると「あたし、本読んでるもん」と澄まし顔を見せた。
 孤児院建設を目指し、日本全国の施設を見学していた安西小百合は、昭和七年から八年にかけての年末年始を、弘前の磯田アヤノの家で過ごした。松が明けた後も、弘前にとどまった。地元の高等学校に孤児院研究を専攻する学者が奉職しており、小百合は磯田幸吉を通して、授業の聴講を許された。そのかたわら、地元の有力者との交流を広げた。最初の孤児院は、頼れる親戚である磯田夫妻がいる弘前の地に建てるのが、小百合の目標だった。高等女学校に進み、すでに二年生になった悦子は、卒業したら小百合姉ちゃんの孤児院で働くんだと張り切っている。
「おお、そうだ」
 幸吉が言った。
「植樹祭なんだが、小百合さん、あんたも出席するよう、校長から言いつかった」
「え?」
 小百合は驚いた。まだ二十歳、いまだ職につかず他家に寄宿している未亡人の彼女が、なんの資格があって宮様の植樹祭に出席するのか。
「小百合さんが弘前の高校で、孤児院設立のために授業を聴講している事が宮様のお耳に入ってね、ぜひ、会いたいとおっしゃられているそうだ」
「ありがたいことじゃないの」
 アヤノがうれしそうに目を細めた。
 宮様が応援していただいているとなれば、孤児院をつくるにあたっても、いろいろとやりやすくなると思うわ。ぜひ、出席なさい。
 磯田家の人々と違い、小百合は素直に喜ぶ気にはなれなかった。なぜ、自分のことが宮様の耳に入ったのか。考えられることは、一つしかない。
 半月後。
 植樹祭当日、幸吉が勤めている高等小学校の校庭に集まった来賓や生徒が深々と頭を下げるなか、校門をくぐって入場してきた宮様を、小百合は上目遣いに見て、やはり……と唇を噛んだ。
 警察官や軍人に先導され、案内役の弘前市長と並んで歩む陸軍の制服姿の宮様の後ろに、黒い和装の伊集院満枝(いじゅういん・みつえ)がいた。

 朝十時。前日まで教員と生徒が総出で雪かきを終えた校庭の隅に、大きな穴が掘られ、その傍らに植樹する松が菰(こも)に包まれて置いてあった。校庭には生徒全員が並ばされ、磯田幸吉ら教員が傍らに付き添っている。安西小百合は、張られた天幕の下に、弘前市関係者、弘前連隊将校、地元産業界の重鎮といった来賓に混じって緊張の面差しで立っていた。
 伊集院満枝が、どのような資格で、来賓ではなく、「宮様御一行」の一員として来校したのか。満枝が満州滞在中に多くの陸軍軍人と親交を深めていたことや、小百合が弘前に孤児院を作ろうとしていることを知ってか知らずしてか、弘前市内の病院や養老員などの施設に多額の寄付をしていることなど、小百合が知る由もない。
 深々と頭を下げた小百合のすぐそばで、「宮様」が足を止めた。
「殿下」
 声の主は伊集院満枝だった。
「その女性が、さきほどお話しした安西小百合さんです」
「そうか」
 甲高い声だった。小百合は総身がこわばるのを覚えた。会場のすべての人々の視線が集まっているように感じられた。
「小百合さん」
 満枝が言った。
「お顔をおあげになって」
 はい……。かぼそく答えて顔をあげると、カーキ色の軍帽、軍服に身を固め、眼鏡をかけた「宮様」が、小百合の顔をのぞき込んでいた。ご真影に見る陛下そっくりの面立ちだが、髭をたくわえてはいない。「宮様」の背後に伊集院満枝が伏し目がちで立っている。「宮様」が口を開き、独特の抑揚のある声音で問うた。
「孤児院を作ろうと、勉強していると聞いたが」
 ラジオで聴いた歌舞伎のお殿様のような喋り方だ。秘かにそう感じつつ、小百合は身を縮めるようにして、はい、と頭を下げた。
「よいことです。恵まれない、哀れな子供たちのために、励むように」
 そう言って「宮様」は踵を返し、去っていった。顔をあげると、伊集院満枝が宮様について歩きながら、ちらりとこちらを振りかえり、笑顔を浮かべた。心から嬉しそうだったのが、かえって小百合の胸の裡にさざ波を立たせた。

 その日の夜、磯田家では、植樹祭の出席者に配られた紅白饅頭や赤飯の弁当が広げられた。
「いやいや、驚いたねえ」
 緊張から解放されたせいか、幸吉はいつにもまして饒舌だった。
「殿下が、小百合さんにお声をおかけになった時には、心臓がどきどきしたよ。何か失礼があっては大変だからね。」
「どんな方だったの、宮様って?」
 悦子に問われ、え、よく見えなかった……と小百合は口ごもった。実際、眼鏡をかけているくらいしか、覚えていない。
 そんなことより、伊集院満枝の存在が、心の奥底で引っかかっていた。一年前、小百合の夫・増田喬は満枝が大株主である川奈産業の社用で赴いた上海で変死した。その際、満枝は小百合に、白紙の小切手を見舞金として渡そうとした。小百合は最初拒否したが、孤児院建設に役立てれば、と二十万円を受け取った。その一部を割いて全国の孤児施設を見学したり、高校で授業を聴講するためのお金にあてたのだ。
 その後、満枝に会うことも、連絡を取り合うこともなく、お金も一切もらっていない。一年ぶりに再会した満枝は、ますます美貌に磨きが限り、洗練された雰囲気をかもし出していた。社会的な立場からくる自信だろうか。皇族の傍らにいても、まったく動ずることなく堂々と振舞っている。特に、羨ましさや妬みは覚えなかった。孤児院建設のためなら、彼女の並はずれた財力を利用してやると決意した小百合だったが、会うたびに出世魚のように女っぷりとご威光を増していく伊集院満枝の妖しい輝きに、目が眩みそうになる思いを避けることはできない。
 磯田家の賑やかな会話に相槌をうちながら、小百合の面差しは冴えなかった。言葉少なくなった小百合に気づいたのは、悦子だけだった。

 同じ頃。
 弘前市内の老舗旅館、本館から中庭を貫く渡り廊下の先に「離れ」と呼ばれる別館が建っていた。こぢんまりとした平屋建てだが瀟洒な檜造りで、特別なお客だけが泊まることができる。
 その「離れ」を二名の兵士が寝ずの番で警護していた。「離れ」に泊まっているのは「宮様」だった。弘前に駐屯する歩兵第三十一連隊の宿舎に泊まる予定だったが、たっての所望で、人目のつかない場所で一夜を過ごすこととなったのだ。
 中庭に足音が響いた。兵士が眼をやると、少尉の肩章をつけた将校が二人、歩いてきた。いずれも地元の連隊所属ではなく、「宮様」付きとして東京の参謀本部から派遣されてきたエリートたちである。
「ご苦労」
 しゃちほこばって挙手の礼をする兵士たちに、将校の一人が言った。
「今夜は、我らが警護する。宿舎に帰って休んでよろしい」
 兵士たちは顔を見合わせていたが、やがて「は!」と再び挙手の礼をして、去っていった。兵たちが消えるのを確かめて、将校の一人が合図し、暗闇から人陰が現れた。
 旅館の仲居のような地味な和装の、伊集院満枝だった。
 どうぞ、というふうに、将校が手を離れのほうに向けた。満枝はにっこりと微笑んでお辞儀をし、離れに向かって歩いた。
「すごい美形だな」
 伊集院満枝が、離れの濡れ縁にあがり、正座してなかに声を掛け、襖を丁寧にあけて入っていくのを見届け、将校の一人が溜息混じりに同僚に向かって言った。
「殿下がお気に召すのも分かる。俺たちもお相伴(しょうばん)にあずかれると、なおよいのだがな」
 陽気な面立ちの将校は、小さな声で喋った。「皇族」の夜のお相手をしたがる女性は多い。「皇族」によっては、侍従やご学友、おつきの将校とともに、そういう女性のお相手をお務めになると聞いている。
「殿下が、そういうお方だとよいが、そうれなければ、我らは一晩、寝ずの番だ」
 二人の将校は、特に殿下の身辺のお世話をするよう、言い含められてついてきている。「宮様」が、公式の予定にない、女性が絡む「御用」ができたとき、その警護を一般の兵に任せるわけにはいかない。だから、将校であるにも関わらず、寒い夜中に「離れ」の外に立っていなければならないのだ。
「貴公」
 陽気な将校のお喋りを黙って聞いていたもう一人の将校が、はじめて口を開いた。
「静かにせい」
 堅苦しい面差しから発せられた、威圧感のある声音に、陽気な将校は口を閉じ、やがて呟くように言った。
「渋谷少尉、貴公は堅苦しすぎる」
 渋谷と呼ばれた将校は、何も答えず、背筋を伸ばして立っていた。

「よく来てくれました」
 離れの内部、八畳敷きの畳の間で、陸軍大尉の「宮様」は軍服を着けたまま、正座して伊集院満枝を迎え入れた。満枝は三つ指をついて深々と、額が畳につくまでお辞儀した。
「わざわざ来ていただいたのは、他でもない」
 眼鏡をかけた「宮様」は、姿勢を崩すことも、面差しを動かすこともなく、唇だけを動かして言った。
「昼間、植樹祭の折、あなたが言った言葉の意味を、深く知りたいからだ」
 頭を下げたまま動かない満枝に、「宮様」は言った。
「このままだと、帝国は滅びる。あなたはそう言った」
 満枝の肩がわずかに動いた。植樹祭が終わり、別れ際に「宮様」の耳元でそうささやいた。旅館の離れに密かに呼ばれたのも、満枝の思い通りだった。思わず唇がほころび、それを見逃さなかった「宮様」は、やや語調を強めた。
「満州や朝鮮を見てきたあなたが、なぜそう思ったのか、述べよ」
「はい」
 初めて言葉を発して、満枝は頭をあげた。笑みを浮かべ、まっすぐに「宮様」を見た。大日本帝国の皇族として、いかなる時にも感情を表に出さぬよう育てられてきた「宮様」の能面のような面差しを見つめつつ、満枝は言った。
「満州でも朝鮮でも、日本に対する反感は日に日に、つのっております」
 その不満は、満州事変以来の関東軍の軍事行動によって、ますます膨れあがっている。そういう満枝に、「宮様」は問うた。
「では、支那人や朝鮮人が、反抗してくるというのか」
「いいえ」
 満枝は笑顔で首を振った。
「反抗しても、日本の支配をくつがえすだけの力は、彼らにはありません」
「では、なぜ……」
 はじめて、「宮様」の面差しがかすかに動いた。
「あなたは、帝国が滅びると、そう断言するのか」
 満枝は、唇を大きく広げて笑い、そして言った。
「このままだと、帝国は世界を敵に回すからです」
 いぶかしがる「宮様」に満枝は言った。
「日本人が、支那人や朝鮮人を支配する方法が問題です」
「過酷だと言うのか」
「違います」
 満枝は、静かに言った。
「手ぬるいのです」
 言うなり、満枝の膝が動いた。瞬時にして、距離を置いて両手を床についていた満枝は、「宮様」の間近に迫っていた。右手が、「宮様」の喉をつかんでいた。左手は、軍服の股間をつかんでいた。左右の手に力が込められ、その痛みにうめいたとたん、満枝は全身を前に倒した。「宮様」は、仰向けに倒れた。仰向けに倒れた「宮様」の喉笛と陰嚢は、満枝の掌中にあった。
「お静かに」
 恐怖に眼を見開いた「宮様」を見下ろし、満枝は微笑んだ。
「お声を出したら、潰しますわよ」
 そう言い、左手をわずかに動かした。わずかに動いた指に睾丸をひねられ、「宮様」の口から小さなうめきが漏れた。

 よろしいですか……。伊集院満枝は言った。
 人民を支配する時、持ちうる手段は二つです。仁政で敬服させるか。それとも恐怖で押さえつけるか。
 大日本帝国の植民地支配はいずれでもありません。そう言って満枝は、いきなり宮様の頬を平手打ちにした。宮様の眼が大きく見開かれた。能面のような面差しが崩れ、怒気が浮かんだ。
「日本が、朝鮮人や支那人にやっているのは、これです」
 殿下、いま、わたくしにお怒りですわよね。満枝は微笑んで言った。当然です。誰だって頬を叩かれたら怒ります。
「では、これなら、如何ですか」
 いきなり、満枝は「宮様」の睾丸をひねりあげた。悲鳴が発せられる前に、満枝の唇が「宮様」の唇を塞いだ。睾丸をつかんだ手を緩め、唇を離した。「宮様」は息荒くあえぎ、眼から涙がしたたり落ちている。もう一度、言います。声を出したら潰します。そう言って満枝は再び、指に力を込めた。
「やめよ」
 弱々しい声が「宮様」の口から漏れた。満枝が唇を歪めて笑った。「宮様」は、眼から涙をしたたらせ、嘆願するような面差しで満枝を見つめている。
 満枝は静かに言った。
「これが、恐怖です」
 西欧人のやり口は、こうです。彼らは、支配する国の民を、人だとは思っていない。家畜と同じだと思っている。だから家畜を扱うように扱う。
「ご存じですか、殿下」
 満枝は言った。
「種馬以外のオスは去勢する。これが、家畜を飼う時の鉄則です」
 日本人は口では、支那人も朝鮮人もロシア人もモンゴル人も、同じ同胞だと唱える。五族協和。その言葉は美しい。だが実情は違う。あからさまな苛政を行っているわけではないが、朝鮮でも満州でも、同じ職種なら日本人のほうが多額の報酬を得る。日本人以外は入れないホテルや料理店も多い。そうした「差別」という平手打ちを浴びせておいて、口では美辞麗句を並べれば、かえって相手は恨みをため込むだけです。
 支那人はやがて立ち上がるでしょう。軍事力で日本に勝てなくても、彼らは欧米諸国に、日本の横暴を宣伝します。誇り高い日本人はそれに耐えられず、必ず、支那を懲らしめよという声が高まる。なぜなら日本人は、彼らの頬を平手打ちしたと思っていないからです。仁政を施し、文明の光を当ててあげたのに、なんて恩知らずな連中だと憤るはず。民衆の怒りの声に乗じて、軍人は政府の命令を無視して大陸で好き勝手に動くでしょう。ますます日本の評判は落ちる。そして世界を敵に回す……。
 満枝は、「宮様」の後頭部に腕を回し、引き寄せた。「宮様」の顔を、自分の胸にそっと押しつけた。「宮様」は、満枝のなされるがままだった。
「まず去勢して、しかる後に、抱きしめる……それが、支配の要諦だというのに」
 呆然と、半ば陶然とした面差しで、「宮様」は満枝の胸に顔を埋めていた。

 その十数分後。「離れ」から現れた伊集院満枝は、衣服にも髪の毛にも乱れを見せず、警護に立つ二人の将校に婉然たる微笑みを向け、お辞儀をして去った。
 将校二人は、しばし満枝の背を見送り、一人が呟いた。ずいぶん早かったな。生真面目な渋谷少尉は、僚友の背中をどやしつけ、離れにあがって部屋の襖の前に座った。
 殿下。声をかけると、何か、と室内から静かな返事がなかから聞こえてきた。もうお寝みになられますか? そう問うと、うむ、と肯(うべな)う。特に変わった様子もない。渋谷少尉は、失礼します、と声をかけて去った。
 部屋のなかでは、「宮様」が布団の上に正座し、呆然と壁を見つめていた。

 その一時間後。
 大通りから離れた細い路地を、羽織袴姿の四十男と、同じいでたちの若者が肩を並べ、ほろ酔い加減で歩いていた。ともに肩幅が広く、頭を角刈りにして、歩き方に武道の心得があるとうかがえた。
「しかし君、やはり宮様というのは、お偉いものだね。歩いてらっしゃる御姿の神々しさ。かたじけなさに涙がこぼれたよ」
 四十がらみの柔道家が言った。
「近頃は、例のギャング事件じゃないが、左傾学生の思い上がりは目に余る。ここは一つ、思想善導のために、われわれ武道家もがんばらねばならん」
 二人は、地元道場で柔道を教える師範だった。政府は、学生の左傾対策として、武道の振興をうたっている。今回の植樹祭にも招かれ、その後、学校内の道場で模範演技も披露された。二人にとっては、晴れの舞台だった。
「宮様は、日本精神をこの弘前で広めていくための、よい機会をお与えくださったんです」
 鼻が潰れ、頬があばただらけの弟子は、袖で涙を拭いた。
「先生、ぼくはやりますよ。今日の出来事を、明日の柔道界の発展につなげるため、びしびし弟子どもを鍛えて、大和魂をたたき込んでいきます」
「うむ。この頃の子供は、少したるんどるからな。軍隊式で、ぜひ頼むよ」
 そう言って柔道家は、ちょっと失敬、と立ち止まり、壁に向かって立ち、袴の帯を緩めた。弟子は、柔道家に背を向け、通りを見張った。
 ふと、路地の角から一人の女が現れたのに気づいた。紺色のセーラー服を着た、背の高い美少女である。弟子は当惑して、背後を振り返った。柔道家は、心地よさそうに小水を垂れ流している。君、別の道を通り給え。そう眼で伝えたつもりが、美少女は足早に寄ってきて、あっという間に弟子の前に立った。
「ぐっ!」
 弟子はうめいた。美少女の膝が、若者の袴の股間に食い込んでいた。弟子は両手で股間を押さえてうずくまり、吐瀉物をはき出した。
「どうしたい」
 用足しを終えて振り返った柔道家は、いつの間にか現れた美少女の傍らで、愛弟子が両手で股間を押さえて悶絶するのを眼にし仰天した。
「吉田くん、大丈夫か?」
 弟子に駆け寄り、背中をさすったりしてから、顔をあげて美少女を見た。
「いったい、どうした。何があったんだ?」
 そう言って柔道家は、薄暗い街灯に照らされた少女の面差しに、見覚えがあるのに気づいた。
「あ……あんたは……!」
 言ったとたん、柔道家の鼻柱に、美少女の靴の踵が打ち込まれた。鼻柱を折られ、柔道家は仰向けに倒れた。血が噴き出す鼻を押さえて立ち上がり、な、何をするか……とうめいた。
「武術家のくせに、女一人に、なんて無様なの」
 美少女は鼻で笑った。
「き、貴様……」
 柔道家は顔を赤くして、まなじりを怒らせて突進してきた。美少女の胸ぐらをつかんで投げ飛ばそうとした瞬間、股間に痛撃を覚え、動きが止まった。睾丸を膝蹴りにされ、両手で股間を押さえてうずくまった。
「さっき、あなたの弟子に同じ事をしたばかりだというのに、分からなかったの?」
 美少女は、柔道家の髪の毛を掴んで顔をあげさせた。涙と鼻血で汚れた顔に平手打ちをくわせ、静かに笑った。
「なぜ……」
 柔道家はうめいた。
「こんなことを……あんたは、さっき宮様と……」
 美少女――言うまでもなく伊集院満枝だった。今朝方、「宮様」の背後にうやうやしくかしずいていた満枝が、なぜ今、女学生のような格好でここにいて、見ず知らずの自分たちの睾丸を蹴り上げ、鼻柱を蹴り潰し、激痛と屈辱を味わわせているのか。その不条理に考えをめぐらす暇は与えられなかった。満枝は柔道家を仰向けに倒し、股間に踵を打ち込んだ。睾丸が砕かれ、陰嚢が割け、袴が赤く血に染まった。柔道家は一瞬海老反りに反り返り、眼を剥いたまま、動かなくなった。
 小さく悲鳴があがった。武道に精通しているはずの師匠が、セーラー服の美少女によって去勢されるのを見た弟子は、恐怖に眼を見開き、歯をかちかち言わせながら震えている。満枝は唇を歪めて笑い、ゆっくりと弟子に歩み寄った。

 翌日の夕方。
 弘前市内で柔道家の師弟が、前夜、無惨に殺害されたとの記事が地元の新聞に載った。記事は遠回しに、二人が睾丸を潰されて死んだことを伝えていた。
 新聞を持つ手が細かく震えて止まらなかった。紙面から目を離すことも、身じろぎすることもできなかった。安西小百合には、犯人が誰か、分かっていた。

 その日の夜。
「ねえ、お姉ちゃん」
磯田家の二階の四畳半の小部屋、壁ぎわにしつらえられた文机に向かって勉強していた悦子が、声をかけてきた。向かい側の壁に背をもたせかけて本を読んでいた小百合は、顔をあげて、なあに、と答えた。
 悦子は、体を小百合のほうに向けて、座布団の上に正座した。
「小百合姉ちゃんに、お金をくれた伊集院さんっていう女の人のことなんだけど……」
 満枝のことだ。どきりと心臓が鳴った。悦子もいる席で、磯田夫妻に伊集院満枝から多額の援助をしてもらったと喋ったことがあった。悦子はそれを覚えていたのだろう。
 悦子は言った。
「伊集院さんって、いいひと?」
 小百合は即答できなかった。やや黙した後、ええ、いい人よ、なぜ、そんなことを聞くの? と悦子に訊ね返した。
 悦子は答えた。
「今日、伊集院さんという女の人が学校に来たの。教室で満州の珍しいお話をしてくれたわ。終わった後、ちょっとおしゃべりしたら、小百合姉ちゃんのこと知っていたから、びっくりしちゃって……。ひょっとして、あの伊集院さんなのかなあって」
 悦子の通う高等女学校では、時折、地元の名士や官吏を招いて、生徒向けの講演会を行っていた。満枝が、どういう経緯で講師に選ばれたのかはわからないが、二十歳そこそこで川奈産業の大株主となり、満州で事業に成功した満枝は、女学生にとっての憧れの的だろう。
 頭では理解できたが、満枝が悦子と出会ったことに、不安を抑えることができなかった。
「伊集院さんは……」
 語尾が震えるのをとめられぬまま、小百合は無理に笑みを作って言った。
「何かおっしゃってた?」
「小百合姉ちゃんは成績優秀なしっかり者だから、いろいろ教わるといいわよって言ってた」
「それだけ?」
「うん」
「そう……」
 小百合は口をつぐんだ。
 北海道H市にいたころの小百合にとって伊集院満枝は、大勢の男性を去勢した殺人者だった。猪俣佐和子(いのまた・さわこ)をそそのかして婚約者だった川奈昭一郎を死に追いやった。昨夜もおそらく、縁もゆかりもない柔道家二人を殺害した。
 その満枝は、なぜか昔から小百合に目を掛けていた。支那の革命家が書いた危険文書を読ませたこともあった。夫の増田喬を川奈産業に入社させ、今は孤児院建設を目指す小百合の支援者でもある。なぜ、伊集院満枝が自分の人生に関わろうとしているかは分からぬまま、奇妙な縁が続いているのだ。
「ねえ、小百合姉ちゃん」
「なに?」
「小百合姉ちゃんは、伊集院さんの話になると、口が重くなるんだねえ」
 胸を突かれたようだった。しばらく息がつまった。見ると、悦子は心配そうな眼差しを向けていた。
「悦っちゃんはどう思った?」
 小百合は訊ねてみた。
「伊集院さんのこと」
「そうだねえ……」
 悦子は考えをめぐらしていたが、やがて口を開いた。
「あの人に似てるね」
「あの人って?」
「東京で、あたしを助けてくれた人」
 それが、猪俣佐和子のことだと気づくのに、やや時間がかかった。そして佐和子が、悦子の目の前で、不良少年の睾丸を潰したことに。

   U

 江戸川沿いの堤防は、寒い冬の風にさらされていた。
「風邪ひいちゃうよオ」
 毛皮のコートの襟(えり)をたて、寒そうに肩をすくめながら、貴代美(きよみ)は大股で歩いた。
「中央委員会なんて言うから、旅館でも借り切ってやるのかと思ったら、委員長のおうちに集まってでやるもんなンだねえ」
「仕方ないです」
 並んで歩いていた小柄な男が答えた。三十がらみの鳥打ち帽をかぶった労働者風の男で、背丈は大柄な貴代美より低い。
「村野さんは具合が悪くて、この季節、外を出歩けませんから」
「ねえ、清水くん」
 貴代美が言った。清水と呼ばれた小男は、年下なのにぞんざいな口ぶりの貴代美に、特に気にしたふうもなく、なんです? と答えた。
「あたいは中央委員会に出るのは初めてだから、最初に知っておきたいんだけどサ」
 貴代美は小首を傾げて言った。
「あたいたちの党の目的って、何?」
 清水は噴き出し、それから声を低めて、社会主義革命ですよ、と言った。
「そうなのかなア」
 貴代美は、顎に指をあて、空を見上げた。
「モスクワから帰ってきてこのかた、ずっと裏切り者だのスパイだのの尋問ばっかりやってるんだよ。なぜ、金持ちとか政治家とか、悪い奴じゃなくて、同じ党の仲間のきんたまばっかり踏みつけてるのかなアって」
 きんたまという言葉に肩をすくめながら、清水は説明した。前中央委員である三沢が、実は特高警察が送り込んだスパイだったこと。三沢の扇動により、党は大きな過ち――美人局(つつもたせ)などの破廉恥な行為で金を稼いだ挙げ句、銀行強盗までやらかしたこと。その後三沢は逐電し、党は当局の大弾圧を受けて壊滅状態になったこと……。
「だから、みんな疑心暗鬼なんです。誰がスパイか分かったもんじゃない、と」
「それじゃ、あたいだってスパイと疑われるかもしれないねエ」
 清水の足が止まった。そんなばかな……、と呟いたが、面差しが引きつっていた。

 かつて、鵠沼の海岸に近い農家の離れに間借りしていた村野栄太郎は、今では党が用意した東京市内の江戸川べりに建つ一軒家に住んでいる。枳殻(からたち)の生け垣に囲まれた三間ばかりの平屋であった。
「よく来てくれましたね」
 貴代美と清水を玄関まで松葉杖で出迎えたのは、村野栄太郎自身だった。まだ三十代半ばだというのにシワが深く刻まれ、肌の色が悪く顔のシミが目立つ。幼時に関節炎を患って左脚がない。ハウスキーパーの女性と、夫婦と称して二人で住んでいるはずだが、なぜ、彼女が出迎えないのだろうかと、清水はいぶかった。一方の貴代美は、はじめましてエと遠慮のない大声で、にっこり笑って頭を下げた。
 奥の六畳間に通された。火鉢が置いてあるだけの、殺風景な畳の間に、男が二人、待っていた。岩本と赤間という三十前の青年で、大学で村野の講義を聴講していた事もあるインテリたちだ。ことに岩本は、学生時代に総合雑誌の懸賞論文で第一等をとり、本も何冊か著している。
 部屋に入ってきた貴代美と清水が挨拶すると、岩本と赤間は、無言で一瞥したきりだった。
「おぎょうぎ悪いンだなア」
 コートを畳んで座りながら、貴代美は言った。岩本と赤間が、目を剥いて貴代美をにらんだ。貴代美は平然と続けた。
「親のしつけが悪いのかもしれねエけど、人に挨拶されたら、ちゃんとお返事するもンだぞ」
「村野さん!」
 松葉杖を置き、やっと座った村野に、岩本が叫んだ。
「だからぼくは、この人たちを委員にするのは反対だったんです!」
「あれ、あんたさア」
 貴代美が、岩本の顔をのぞき込みながら言った。
「どこかで見た顔だと思ったら、小沼さんとこの研究会に来た学生さんじゃないか!」
 四年前。貴代美がまだ正式の党員ではなく、女工として働いていた時のことだ。小沼健吾は、労働者や女工をさかんにオルグし、自らの「隠れ家(アジト)」で社会主義思想を学ばせる勉強会を開いていた。
 ある夜、貴代美ら数名の女工を招き、マルクスとエンゲルスの共著「共産党宣言」の研究会が開かれた。貴代美は講義の最中ずっと居眠りし、講師に注意されて目を覚ました彼女は、あたいたち労働者が団結して悪い金持ちのきんたま蹴り潰してやンないと世の中よくならナイってことです! と突拍子もなく叫んだ。女工たちは笑いさざめき、講師は怒って会を途中で打ち切って出て行った。
 そのときの講師が、今、中央委員に昇格した岩本だったのだ。
「もちろん、君のことは忘れていない」
 岩本は額に青筋をたてて言った。
「女工ふぜいに、あれだけ侮辱されたのは、初めてだ」
「そういや、おさわちゃんに会ったのも、その夜だったンだ」
 いきりたつ岩本に構わず、貴代美は懐かしげに天井を見上げた。
「おさわちゃん、元気かなア」
「君、ぼくのことを馬鹿にしているのか?」
「馬鹿にしちゃいないけどさア」
 貴代美は真顔になり、向き直って岩本を見た。
「さっきから聞いてりゃ、女工女工って、その貧しい女工を助けて平等な社会を作るのが、あたいら党員の仕事じゃないのかよ!」
 返す言葉が見つからないまま、怒りに震える岩本を、村野や赤間が必死になだめ、清水は、言い過ぎだよ、とおろおろするばかりだった。そこに、案内も請わず、人が入ってきた。
「遅くなりました」
 低く落ち着いた声音に、おお、畑野くんか、と村野が救われたように言った。畑野と呼ばれた男は、頭を丸刈りにして、がっしりした体躯の巨漢だった。入り口に座って丁寧に頭を下げる。岩本と赤間は、顔を顰めて口をつぐんだ。
 昨年秋から冬にかけ、当局は党の大弾圧を行い、主立った幹部は根こそぎ検挙された。数千人を数えた党は壊滅状態になった。
 その党を建て直したのは、三十五歳の畑野達男だった。有能な幹部であったが、学歴がなかったため中央委員にはなれず、それが幸いして警察の捜査網を逃れることができた畑野は、ちりぢりになった党員の再結集に尽力した。ようやく百人ばかりをかき集めることができ、「党」は「再建」されたものと見なされた。
 そういう畑野の動きに反発したのは、岩本や赤間らインテリ党員たちだった。彼らは恩師である村野栄太郎を押し立てて、学歴エリートを中心とした中央委員の結成を唱えた。苦労して再建した党組織のてっぺんに、たいした努力もしていない学士様がのっかろうというのか。労働者出身の党員たちは憤激した。結局、村野を委員長に、インテリ組から赤間と岩本の二人、労働者出身グループからは畑野と清水、そしてモスクワ留学から帰国したばかりの貴代美が、委員に選ばれ、久しぶりに中央委員会が開かれることとなったのだ。
「今日の議題は?」
 不穏な雰囲気のなか、最初に口を開いたのは畑野だった。村野が、とりあえず中央委員の承認を……と言いかけて、岩本がさえぎった。
「委員が五人、委員長と合わせて六名というのは、おかしいです」
 委員の数は、委員長を含めて奇数であるべきだ。多数決をとって、半数に別れた時に、委員長が採決を下す。そのためには、もう一名、委員を選ぶべきだ、と。
「それは、誰かいい候補がいるのですか?」
 村野に問われ、岩本が告げた名に、畑野と清水が顔を見合わせた。
「小泉俊吉くんです」
 小泉は、農民出身の党員だった。木訥で正直そうな風貌と、命ぜられたことはなんの疑問も抱かず実行する従順さに、いつの間にかインテリ党員の信頼をも得ていた。
「小泉くんか、なるほどね」
 村野はうなずき、学者や労働者だけでなく、農民出身者も委員に入れることが、より広い党員の声を反映させるためにも必要かもしれない。どうかね?
 委員たちを見回した村野に、最初に「異議はありません」と言ったのは、畑野だった。貴代美は、その人知らないけど畑野さんがいいって言うのならいいンじゃない? と言い、清水も特に反論しなかった。
「では、小泉君もまじえて、後日、正式な委員会を開き、新たな党方針を定めるということで、よろしいですか?」
 岩本が言った。清水が反論した。
「それはおかしい」
 今日は、正式の中央委員会というから、官憲の目をくぐり抜けてここまで来た。それを、別の中央委員を任命するだけで終わるというのは、人を馬鹿にした話ではないか。
「もちろん、これで終わるわけじゃない。ぜひ、議論したいことがある」
 岩本は腕組みをして言った。
「ぜひ、お聞かせいただきたいのだが、昨年の秋、当局の大弾圧が行われてから、今日まで、党員の査問が、四件開かれた。そして、四人の党員が除名になった」
 畑野と清水の面差しが変わった。岩本は続けた。
「査問は、中央委員が査問委員長に任命されて、初めて開くことができる」
 昨秋、スパイだった三沢を除く中央委員が根こそぎ検挙されて以来、今日まで、正式の中央委員は不在だった。党の活動は、すべて中央委員が定める方針にのっとり、中央委員の指令で行われるべきであった。
 だが畑野や清水らが、ちりぢりになった党員たちをかき集めてわかったのは、労働者出身党員たちの、インテリ党員に対する根強い不信感だった。生活を捨てて党に奉仕してきたのに、運動ははかばかしく展開せず、たださえ苦しい生活はますます窮している。世間知らずのインテリ幹部たちが、三沢のようないかがわしい男に騙されたせいだ、という不満は、いつしか、インテリ幹部たちのなかに警察の手先となって贅沢三昧している奴がいる、という噂となった。疑いをかけられたインテリ幹部を査問せよという声が高まった。
 そこに帰国してきたのが、貴代美だった。モスクワで秘密警察仕込みの拷問術を身につけた貴代美の手にかかると、どんなに頑固な党員も落ちるしかなかった。拷問術とは、満座の前で睾丸を踏みつけるというやり方である。男たちは悶絶し、許しを請い、尋問者の言うがままに「白状」した。労働者出身の党員たちの間では、インテリ党員を簡単に屈服させる貴代美の評判はうなぎのぼりだった。彼女が中央委員に任命されたのは、そうした評判を無視できなかったからだ。
 そして、岩本らインテリ党員が、もっとも目のかたきにしたのも、貴代美だった。大学出の党員たちが、女工あがりの若い娘に急所を踏みつけられ、苦痛と侮辱を与えられた挙げ句、スパイの嫌疑を「白状」し、除名処分になったのだ。選ばれた逸材と自負する彼らにとって、あってはならない事態だった。
「小堀、古川、篠崎、山根」
 岩本は、除名処分となった四人の名前を挙げながら、鋭い目つきで委員たちを見回した。
「この四君の処分は、取り消されるべきだ。そして、改めて四君の査問を行い、もし彼らが無実なら党に復帰させ、勝手に査問を行った者の責任を問うべきだ」
「そりゃ、無理じゃないかなア」
 貴代美が口を開いた。
「あいつら、戻ってこれないと思うよ」
「なんだと?」
「どういうことだ」
 岩本が腰を浮かせ、赤間が声を荒げた。
「あたいが、きんたま踏みつけてやったからサ」
 貴代美は笑顔で言った。唖然とする岩本や赤間に、貴代美は続けた。
「女にきんたま蹴られた男は、蹴った女の顔をまともに見られなくなるからね」
 実際、貴代美の尋問を受けた男たちのその後は、「まともに顔を見られなくなる」という程度ではすまなかった。彼らは気力を失い、活動から脱落していった。見る影もなく老け込み、廃人同然になった者もいる。
 貴代美はさらに言った。
「女に大事なところを蹴られるって、そうとうこたえるンだって、モスクワで教わったよ」
 モスクワという言葉に、委員たちは口をつぐむしかなかった。党員たちにとって、モスクワは絶対だった。
「あいつら呼び戻すンだったら、あたいが辞めるしかないと思うなア」
「それは、できません。なぜなら飯島くんは……」
 貴代美を本名で指しながら、畑野が言った。
「クートヴェ(極東労働者共産大学)の教授であるワルワーラ・イワーノヴナ女史から、成績優秀者として推薦状をもらっています」
 モスクワの信頼を得て帰国した貴代美を党中央から外すことは、社会主義の祖国ソ連邦を侮辱することになると言いたげだった。
「この件については……」
 この間のやりとりの間、心なしか頬を紅潮させて貴代美を見つめていた村野が口をはさんだ。
「小泉くんの意見も聞いた上で、あらためて協議しましょう」
 その後、事務的な件について簡単な打ち合わせをして、委員会は散会となった。大勢で家を出れば目立つ。一人ずつ村野の家を出た。最後に残ったのは貴代美だった。
「飯島くん」
 そろそろ出ます、と立ち上がった貴代美に、村野が声をかけた。
「君はほんとうに、あんなことを……」
「あんなことって?」
「つまりだ、尋問の際の男性の急所を……」
「ああ、きんたま踏んで脅すってこと。それが、どうかしたンですか?」
 村野はうなずき、うなずいたまま黙りこくった。顔が紅潮している。へんなの。そんな面差しで貴代美は頭を下げ、部屋を出た。生け垣の格子戸を開け、左右に注意を払いながら、通りに出た。通りの角の電信柱の影から、ひょこりと人の頭が飛び出した。
「あ!」
 貴代美が小さく叫んだ時、電信柱の影から顔をのぞかせた女もまた、眼を見開いた。ひらりと踵を返し、貴代美に背を向けて歩き出した。
「ちょっと!」
 貴代美は急いで後を追った。
「おさわちゃん!」

 その名を呼ばれ、足を止めた猪俣佐和子は、ゆっくりと貴代美を振り返った。面差しに、緊張と怯えが浮かんでいる。その様子に気づいてか、貴代美は佐和子に駆け寄り、満面の笑顔で、佐和子を抱きしめた。大柄な貴代美に抱きしめられた小柄な佐和子は、身をこわばらせていたままだった。
「おさわちゃん、相変わらずきれいだ」
 ひとしきりの抱擁を終え、貴代美は佐和子の両手を握りしめて言った。
「いい家の奥さんみたい」
 和服に地味な海老茶色の羽織といういでたちの佐和子は、平均的な家庭の主婦のようだった。
「お久しぶりね」
 やっと佐和子は口を開いた。その声に貴代美はますます嬉しげに笑った。
「ねエ、カッフェーでもいかない? つもる話もあるしサ」
 佐和子は、村野の家のほうを見やった。その視線に気づき、貴代美は訊ねた。
「おさわちゃんも、村野さんを訪ねてきたの?」
「いえ、そうじゃなくて……」
 佐和子は口ごもった。貴代美はしばし佐和子を見つめていたが、不意に、面差しを弾けさせた。
「ひょっとして、おさわちゃん。村野さんと結婚したの?」
 声を低めて問う貴代美に、佐和子は激しく首を振り、顔をそむけて呟いた。違うわ……。
「そっか。ごめんね」
 そう言った貴代美の声から力が失せた。佐和子が顔をあげると、貴代美は大柄な体を縮めるようにして、うつむいている。どうしたの? しょげかえった貴代美の姿に、佐和子はうろたえた。
 だって……。貴代美は子どもがすねるような面差しで言った。おさわちゃん、あたいと会っても、あまり嬉しそうじゃないから。
 佐和子はしばらく、貴代美を見つめていたが、やがて口を開いた。三十分くらいなら、いいわ。
 貴代美は顔をあげ、佐和子の腕にしがみついた。うん、いこ。そう言って貴代美は、佐和子の腕を引っ張り、大股に歩き出した。

 昭和五年の、武装蜂起が不発に終わったメーデー以来の再会だった。
 あの時……。佐和子は、党の東京支部の幹部であり、武器を手配する立場だった。貴代美は、小沼健吾の求めに応じ、女工仲間を集めて決起場所に来た。だが、佐和子たち幹部の不手際で武器の到着が遅れた。それでも、党中央はスケジュールどおりの決行を命じた。佐和子は、その命令を伝えに決起場所として用意された京橋のホテルに向かった。党中央を代表してやってきた佐和子に対し、決起を指揮する立場にあった小沼健吾は怒気を含んで反対し、形の上では「党の命令を無視して」決起を中止した。
 そのとき貴代美は、佐和子が持ってきた「党」の指令には従わず、小沼の支持に従って集めた女工たちを解散させた。そのとき佐和子が味わった悔しさは、胸の奥にわだかまって消えていない。
 それから二年。佐和子は中央委員の三沢に見いだされ、戦闘的技術団で大きな功績を挙げた。だが、それは当局のスパイであった三沢のてのひらの上で躍らされただけだった。銀行襲撃に失敗し、愛する部下だった海老沼千恵子(えびぬま・ちえこ)は警官ともみ合った挙げ句に死んだ。それを見ていた佐和子は、臆病にも現場から逃げ出した。逃げに逃げて、かつて通っていた鵠沼の村野栄太郎の家に転がり込んだ。佐和子が知っている党員の家は、そこしかなかった。
 佐和子は、村野のハウスキーパーとなった。あれだけ嫌だった、村野の求めに応じて彼の股間を蹴ったり踏みつける、ただれた日々に戻るしかなかったのだ。
 その村野が、党の中央委員長に選ばれ、中央委員会が開かれる事になった。中央委員の一人に貴代美が選ばれた事を知った佐和子は、買い物があるので、と言って家を出た。二年間のモスクワ留学から帰国し、中央委員に出世した貴代美と再会することは、自分のみじめな境遇を改めて思い知らされるようで、避けたかったのだ。
 だが、久しぶりに貴代美に抱擁され、毛皮のコート越しに感じられた、柔らかな彼女の肉体に、懐かしい感覚が呼び覚まされた。
 やっぱりわたしは、この女(ひと)が好き……。
 カフェのテーブルに向かい合って座り、佐和子は檸檬(レモン)入りの紅茶を、貴代美は餡蜜(あんみつ)を喫しながら、互いの近況を報告し合った。
「そっか。おさわちゃんも苦労したんだねエ」
 周囲の耳を気にして、なるべく固有名詞など具体的な事柄を避けながら説明する佐和子に、貴代美はしみじみと幾度もうなずいた。
「あたいなんか、外国でのんきに勉強していたからね。申し訳ないよ」
「そんなことないわ」
 佐和子は言った。
「貴代美ちゃんとまた会うことができて、なんだか元気が出てきた。二年前のことも許してもらったし……」
「そんなこと」
 貴代美は首を振って言った。
「あの時から、気にしちゃいなかったンだ。なんだか、おさわちゃんを裏切ったみたいで、あたいこそ、申し訳なく思ってたンだよ」
 佐和子は俯いた。涙があふれ出て止まらなかった。慌てた貴代美が差し出すハンカチで眼尻をぬぐいながら、佐和子は言った。
 また、一緒に、やろうね……。
「うん」
 貴代美はうなずき、佐和子の手を握った。
「また、一緒にね」

   V

 昭和八年も春をすぎ、やがて梅雨を迎えようとしていた。
「しかしまあ……庇(ひさし)を貸して母屋(おもや)を取られるとは、このことだ」
 市ヶ谷下の貧民窟の荒れ寺の仏間のそこかしこに、おびただしい数の書物が積まれ、二人の人夫が庭に置いた大八車にせっせと積み込んでいた。彼らの作業を眺めながら、安藤浄海はぶつぶつ呟いた。
「こうして荷物をまとめて出て行こうとしているのに、誰も引き留めようとはしない。今まで仲良く暮らしてきた日々はなんだったのか。嗚呼(ああ)、苦渋の決断の果てに国連会議を退席した時の松岡全権も、同じ気持ちだったに違いない」
 この五月末、関東軍と支那軍との間で協定が結ばれ、二年前の九月にはじまった満州事変は、一応の終結を見た。だが、その三ヶ月前の二月、国際連盟はほぼ満場一致で日本軍の満州撤退勧告を採決、欧米各国の予想を上回る非難に対し、日本側は連盟脱退で応えた。全権松岡洋右は「欧米各国は、日本を十字架にかけようと欲している」と演説をぶち、国連総会の場から立ち去ったのだった。
「なぁに言ってやがら」
 仏間の隅っこに座り、曲げた膝を抱えて文子が言った。
「もともと、この寺に住んでたのは、あたいたちだ。あんたが勝手に転がり込んで来て、勝手に出て行くって言ってるだけじゃないか。あんたに庇を貸してもらった覚えはないよ」
「まあ確かに、そうなんだが」
 頭の汗をぬぐいながら、安藤は気弱に言った。
「得体のしれない男を連れ込んで、昼間からいちゃいちゃされたんじゃ、わしがいる場所がない。おまえらだって、わしがいないほうが、安心してお楽しみに耽ることができるはずだぜ」
「ばぁか!」
 文子は積まれた本を一冊取り上げ、いきなり投げつけた。本の角が安藤の股間に命中し、安藤はうめいてうずくまった。
「大丈夫ですかい、旦那?」
 人夫の一人が心配げに声をかけた。
「心配ない……大丈夫だ……」
 安藤は左手で痛む股間を押さえ、顔を真っ赤にして、見るな、というふうに右手で人夫に手を振った。人夫たちは顔を見合わせ、苦笑しながら作業を続けた。
「なにも、最後のお別れに、こんなことをしなくても……」
 目に涙を溜めて、安藤は抗議した。文子は肩をすくめて立ち上がり、鼻を鳴らして言った。
「嘘つくからさ」
「嘘なんか、いつ、ついた?」
「あたいが小沼さんと昼間からやってるから出てくなんて、嘘に決まってら」
「何を言う、わしは……」
 皆まで言わさず、文子は安藤の背後に回り、その尻を蹴った。尻を蹴られた振動が睾丸に達し、安藤はまたもうめいて、床に腹這いに倒れた。
「あたい、知ってるんだよ。あんた、あたいが小沼さんとやってるのを、のぞいて見てただろ?」
 安藤は言い返さなかった。激痛のあまり、口をきくこともできなかったのだ。両手で股間を押さえ、ぎゅっと目をつむって痛みをこらえるしかなかった。
 文子は容赦なく、うつぶせになった安藤の尻を踵で踏んだ。安藤は悲鳴をあげた。
「のぞきながら、変なことしてやがったくせに……」
 床を悶絶する安藤のかたわらに膝をつき、耳元に口を寄せて、文子は言った。
「例の本のこと……」
 安藤の瞼が開いた。文子は続けた。
「ばらしたら、おっさんのきんたま、二つとも潰しにいくからね」
 安藤は目を見開いたまま、言わない、とうめくように言った。文子は続けた。
「たまを潰すのは、あたいの趣味じゃないけど、口外されて困るのは小沼さんだ」
 あの人のためなら、あたいはやるよ。そう脅されて安藤は、うつぶせのまま必死に頭を動かし、うなずいた。
 文子は立ち上がって庭に出た。呆然と作業の手を止めて少女の乱暴狼藉を見つめていた人夫たちに、早く済ませて、あの親爺ごと運んでっておくれ、と言い残し、どこかへ出かけていった。

 文子が向かった先は、川一つ向こうの朝鮮人部落だった。犬や鶏の毛が散らばる河原に建てられた掘っ立て小屋の傍らで、湯気のたつ鍋を載せた七輪を囲むように、二人の男が座っている。
 小沼健吾と、朝鮮人のパク・ジョンイル(朴正烈)だった。
「やあ」
 右手をあげて近寄ってきた金沢文子を、二人の男は見上げ、笑みを浮かべた。文子は鍋の蓋をあけて、今日はなあに? と訊ねた。パクが「ククコギ(鶏肉)」と答えると、文子は、豪勢だね、と笑った。
「安藤のおっさん、行っちゃったよ」
 文子が小沼に言い、大丈夫、絶対に喋らないよう脅しといたから、と付け加え、右目をつぶってみせた。小沼は、きんたまか? と呟くように問うた。文子はうなずいた。小沼は苦笑した。
「あれは、こたえる」
「小沼さん、身をもって経験したもんね」
 文子は、小沼にぴったりと身を寄せ、手を伸ばしてその股間を撫でた。
「あたいが、治してあげたんだから、感謝してよ」
 小沼は、文子を抱きしめて接吻し、河原に押し倒した。やめてよ、見られてるじゃないか。そう笑いながら、抵抗するそぶりは見せず、豊かな乳房に顔を埋める小沼の頭を抱いた。パク正烈は、鉄箸で鍋をかきまぜながら、笑って二人の痴態を眺めている。
 前年の九月から十月にかけ、小沼は十数日にわたって監禁され、猪俣佐和子と海老沼千恵子による責め苦を味わった。一日に一度は睾丸を痛めつけられたのだ。ギャング事件が起こる直前、踏み込んできた警察によって救出され、病院で治療を受けた。だが傷が癒えてた後も、どんな刺激を与えても小沼の陽物はぴくりとも動かなかった。そのときに味わった絶望は忘れられない。小沼は自殺を考えたが、死ぬ気力さえ湧いてこなかった。退院し、街をさまよううちにたどり着いたのが、文子の荒れ寺だった。
 数日、小沼は子供のように文子にすがりついて過ごした。文子は何も訊かず、優しく抱きしめてくれた。ある朝、下腹部に快楽を覚え、小沼は目覚めた。まだ開けやらぬ薄暗がりのなかで、文子の唇は、小沼の陽物をくわえていた。温かな文子の口中で舌が巧みにうごめき、これまで味わったことのない快感が、体内を駆け回った。小沼は、文子の口の中で果てた。
 それからというもの、小沼はひたすら文子の肉体を求めた。一日に一度は、体を交えた。パク正烈と三人で楽しむこともしばしばだった。若い文子は、獣のように猛り狂う小沼を、しっかりと受け止めた。性欲の回復は、気力の回復をもたらした。
 年が開けた頃から、小沼は、勉強会を始めた。月に二度、仏間に集まって、例の「湖南省農民運動視察報告」を読み、意見を交換する。最初は、小沼と文子、そしてパクの三人だけだったが、次第に参加者が増え、今では十数人を数えるようになった。
 勉強会のことは、安藤には秘密にしていた。だが昨日、安藤は、文子が仏間に置き忘れた「湖南省農民運動視察報告」を見つけた。一読して、その過激な内容に安藤は震え上がった。そんな文書をなぜ文子が持っているのか、思案した安藤は、小沼が渡したに違いないと判断した。
 ――あの男、思ったより危険な奴ではないのか?
 国家主義団体の一員でありながら、支那の革命家が書いた危険な文書を持っている得体の知れない男。反体制を標榜しつつ、危険な綱渡りは極力避けてきた安藤は、ここは逃げるが勝ち、と踏んだ。
 そして文子は敏感に、安藤が「湖南省農民運動視察報告」を見てしまったことに気づいた。ページを開けっぱなしにして放置していた冊子が、閉じられていたからだ。結局、安藤は口実をつくって寺を去ることになり、文子は口止めのため、安藤の睾丸を踏みつけて脅したのだ。
「いっけね!」
 不意に何かを思い出したように、小沼にのしかかられていた文子が叫んだ。
「そろそろ、お客さんが来る時分だよ。忘れてた」
 ちょいとお預け、と言いつつ、小沼の下から這いだした文子は、はだけられたシャツのボタンを留め、スカートの裾の皺をのばした。
「お客さん?」
 パクに問われ、文子は答えた。
「うん。上野の朝鮮部落で知り合ったんだ」
 勉強会を始めてから、文子はしきりと、他の地域の貧民窟や朝鮮部落に赴くようになった。信頼できる人物を勉強会に誘い、同志を増やしていこうというのである。
「お寺のほうに来ることになってるから、待ってなきゃならないの。ごめんね」
 安藤のやつ、もう出てった頃だよな……。そう呟きながら、文子は歩き出した。

 寺に戻ると、仏間から安藤浄海のうめき声が響いてきた。
「まだ、いたの?」
 戻ってきた文子は呆れた顔で仏間にあがった。安藤はうつぶせに伏せ、両手で股間を押さえたまま、ぎゅっと目をつむり、歯を食いしばっている。
 最前まで積まれていた書物はきれいに片づけられ、人夫たちもいなくなっていた。そのかわり、薄汚れた着物に手ぬぐいをほっかぶりにし、まるで行商のような姿の伊集院満枝が、安藤の傍らに座っている。
 来るたびに、芸者のなりをしたり、行商に扮したり、よほど変装の好きなお嬢さんだ。呆れる文子に「お久しぶり」と微笑み、満枝は安藤に眼をやって問うた。
「あなたが、やったの?」
「うん」
 こいつも運んでいけって言ったのに、あいつらしょうがねえな、と呟いて文子は、人夫たちが作業していたあたりに目をやった。
「違うわ。わたくしが頼んだの。この人を置いていくように」
「どうして?」
 満枝は唇の端をわずかにあげ、眼を細めていたずらっぽく笑った。笑顔が意味するところを覚って、文子は肩をすくめた。
「こいつをおもちゃにするのは構わないけどさ。それにしても、なんであんた、なんの関係もない男を去勢したがるのかねえ」
 満枝は笑顔で答えた。
「こんなおもちゃにしがいのある男は、放っておけないのよ」
「おもちゃにしがいがある男って?」
 首を傾げる文子に、満枝は言った。
「あなたは、かわいそうだと思った男とは寝てあげることにしてると、そう、おっしゃっていたわね」
「言ったけど、それが?」
「わたくしは、えらそうな男性を見ると、去勢したくなるの」
 文子はしばし安藤を見つめた。えらそうな男。反体制を標榜しつつ、政府(おかみ)に逆らうことは実のところ何もしておらず、そのくせ貧しい者の庇護者然として振る舞って飯のタネにしていた安藤は、確かにえらそうな男かもしれない。
 文子は問うた。
「どうしてもやるのかい?」
「だめかしら?」
「やな奴だけど……」
 いぶかしげに問い返す満枝に、文子は膝を抱えて座り、口をとがらせた。
「悪人ではないからねえ」
「悪い奴じゃなくて、やな奴を全部やっつけるのが、革命よ」
 満枝はさらりと言った。
「寝る男を選ぶように、倒す相手を選んで倒せばいいの。善悪や正邪は関係ないわ」
 そんなもんか……。美しい面立ちで、平然とむごいことを言ってのける満枝の言い分を聞いていると、なんとなく納得させられてしまう。
「ま、いいけどさ」
 文子は言った。
「こっちにとばっちりが来ないよう、頼むよ」
「ま……待て!」
 今まで身じろぎすることもできず苦悶していた安藤が、不意に身を起こした。
「お、おまえたち……さっきから何の話をしてるんだ……? 去勢するだと?」
「この人、そうしたいんだってさ」
 文子が顎でさした先でにこにこ顔の満枝を凝視し、安藤は問うた。
「誰だ、この女は?」
「男のきんたまを潰すのが大好きなひとだよ」
 否定せず微笑む満枝に、安藤は狼狽し、必死に立ち上がった。背中を丸め、左手で股間を押さえ、今にも嘔吐しそうな顔で、よろよろと仏間を出ていこうとする。
「おっさん、大丈夫?」
 そう声をかけられ、こんな所一秒でもいられるか、と言い捨て、安藤は去っていった。
「あれ、行っちゃったよ?」
 座ったまま安藤を見送る満枝に、文子は問うた。追わないの?
 満枝は答えた。
「別に、今じゃなくてもいいわ」
「後でやるのかよ」
 文子は呆れて笑い出した。
「ほんとにあんた、好きだねえ。いったい、これまで幾つ潰したの?」
「数えたこともないわ。あなたはどうなの?」
「うーん……蹴った奴は何人もいるけど、潰れたかどうかなんて、確かめたことないから、わかんないや」
「それじゃあ……」
 満枝は、文子に顔を寄せて言った。
「わたくしと一緒に、やってみる?」
「やめとく」
 文子は素っ気なく首を振り、満枝の顔を押し戻して立ち上がった。ふと庭に目をやって「あ!」と叫んで破顔した。
「よく来たね」
 そう言いながら、裸足で庭に出た。庭には、粗末な和服姿の若い女が立っていた。髪の毛を無造作に後ろに束ね、瓜実顔(うりざねがお)だが、眼が細く、唇は薄い。整っているが翳(かげ)りのある面差し。文子は彼女の腕をつかんで言った。
「あがりなよ、まち子さん」

 家出した弘前の少女・悦子の行方を捜して安西小百合が東京に出てきたのは、二年前の昭和六年の秋。浅草でさまよっていた悦子は、言葉巧みに近づいてきた与太者の五郎に籠絡され、監禁された。家出娘を食い物にする悪党の五郎が、ただ一人、心を開いて接していたのが、玉ノ井の私娼・まち子だった。
 まち子は、明治四十三(一九一〇)年、日本に併合されたばかりの朝鮮半島で生まれた。本名はハン・エジャ(韓愛子)。失政を繰り返す朝鮮王朝に失望していた両班(ヤンバン)の父親は、日清・日露の戦役を通じて朝鮮半島支配を強めていく日本に、協力的な態度をとった。娘に「エジャ」という日本風の名前をつけた父親だったが、日韓併合で進出してきた日本の資本家にだまされ、土地を奪われた。没落した父親は、日本に活路を求め、玄界灘を渡った。
 大正十二年、まち子が十三歳のとき、関東大震災が起こった。朝鮮人が井戸に毒を投げ込み、放火してまわっている。流言飛語を信じた日本人たちが結成した自警団によって、まち子の両親は殺害された。
 身寄りをなくしたエジャは、娼婦として満州をはじめ各地を転々とした。玉ノ井の私娼窟に流れ着いた頃、いずれ身請けしてやると通い続けていたのが、五郎だった。その五郎が殺されたことを新聞で読んだエジャは、玉ノ井を足抜けした。足抜けしても行くあてなどない。上野の朝鮮人部落にまぎれこみ、身を売って口に糊(のり)してきた彼女は、文子から聞いた支那の革命運動に、目を輝かせた。もっとその話を聞きたい。そうせがむエジャを、文子は勉強会に誘ったのだった。
 ちょうど日が落ちかかった時間であった。仏間にあがり、文子がエジャのことを満枝に説明している間に、小沼健吾とパク・ジョンイルが、さきほど河原で煮ていた鍋をさげてやってきた。
 仏間に置いた鍋を囲んで、鶏肉をつつきながら談笑するうち、一人、また一人と集まってきた。勉強会の開始時間は特に決めていない。ある程度そろったところで始めるのだ。やがて十五人になり、鍋がからになった時、小沼が「はじめようか」と言った。

 ――湖南省における農民運動は、去年一月から六月までの極秘活動の時期を経て、七月から九月にかけて公然たるものとなり、それまでその地を支配していた軍閥の領袖を追放した。……十月から本年一月までが、革命の時期である。農民協会の会員は二百万人に達し、農民協会が動員できる大衆は一千万人となった。……農民は、農民協会の指導の下、ついに決起した。四ヶ月にわたり、前代未聞の農村大革命が勃発したのである。
 ――組織化された農民が最初にやったことは、土豪劣紳の威光を地に落とせしめることであった。……土豪劣紳のうち、ことさら富裕な者は、銃殺に処された。……農民協会の命令に背いた土豪劣紳の家に、農民たちは大挙して押し寄せた。家を踏み荒らし、夫人や令嬢の寝台に土足であがって寝転んだ。四日間にわたって食事を出させ、百数十頭の豚を潰させた。
 ――各地で盛んに行われているのは、三角の帽子を冠らせ、村じゅうを引き回すことである。その帽子には、土豪何某、劣紳何某と記されている。前後を大勢の人に取り巻かれ、彼は縄で縛られて歩かされる。農民たちは銅鑼(どら)を鳴らし、幟(のぼり)を立て、大勢の見物を呼び集め、「思い知ったか!」と罵詈雑言を浴びせながら、縄で縛られた土豪や劣紳にあらゆる制裁を加える。……一度でも、このような制裁を受けた者は、廃人同然となり、二度と立ち上がれなくなるまでうちのめされる。……農民協会は、この制裁を巧妙に使っている。彼らは捕らえた土豪に、この制裁を受けさせると宣告する。そうしておいて、実際にはやらない。土豪は、いつ、あの制裁を受けることになるか分からず、日夜苦悶と不安のの日々を過ごすのだ。
 ――何もかもが常軌を逸していた。村は恐怖に包まれた……。
 やがて夜も更け、天井から吊された裸電球の薄暗い灯りの下で、淡々と読み進む小沼の顔を、まち子が瞬きもせずに凝視しているのに、満枝は気づいた。気づいて、薄い笑いがその面差しに浮かんだ。
「革命とは、客を饗応することでも、文章を書くことでも、絵を描くことでも、刺繍(ししゅう)をすることでもない。左様(さよう)な、上品で、優雅で、穏健で、慎ましいものではない。革命は暴動である。一つの階級が、他の階級を打倒する激烈な行動なのだ」
 そこまで読んで、小沼は冊子を閉じ、質問か意見はありますか? と問うた。
「はい」
 手を挙げたのは、三度目の参会になる、鋳掛(いか)け屋を営む青年だった。
「本当に支那で、そんなことがあったんですか?」
「ありました。今でも同様の革命は続いていて、支那大陸各地に広がっています」
「では、その……湖南省だけじゃなく、他の土地でもそんなことが起こってるんですね」
「そうです」
 小沼は断言した。部屋の隅で聞いていた満枝は、うつむいてかすかに笑った。毛沢東が湖南省で始めた「農村土地革命」は、支那共産党中央部の批判を浴びて中止に追い込まれ、毛自身も実権を失い失脚状態だったのだ。日本には伝わっていなかったが、満枝は大陸につくった情報網から、そのことを知っていた。知っていて、誰にも言わなかった。
「はい」
 続いて手をあげたのは、朝鮮人部落に住む日雇いの労務者だった。
「その……日本でも朝鮮でも、農民の暴動は起こっています。なぜ支那では成功し、朝鮮や日本ではうまくいかなかったのでしょうか」
「そうですね」
 小沼は腕組みし、やや考えてから言った。
「農民暴動だけではありません。昨年五月の犬養総理暗殺の時も、軍人と民間人が一体となって国家改造を目指す計画だったのが、結局、一部軍人が犬養一人を暗殺して終わり、体制はびくりとも揺らがなかった。私はそのことについて、ある人物にこう言われたことがあります」
 そこで言葉を切り、参会者を見回してから、口を開いた。
「軍人たちの国家改造運動は、反乱を起こした者自らが政府を倒し、新たな革命政府を作ろうとはしていない。自分たちが動けば、軍首脳は立ち上がり、陛下にもご賛同いただけるはずだと、いわば他力本願。誰一人、ロシアのレーニンたらんとする者が出てこない。それはなぜか……」
「その後は、わたくしが申し上げますわ」
 伊集院満枝が口を開いた。参会者の視線が一斉に彼女に注がれた。満枝は立ち上がり、小沼の傍らに座った。
「ロシアや支那で革命が成功したのは、皇帝がすでにいなかったからです」
 参会者が一斉に息を呑んだ。満枝は続けた。
「ロシアでレーニンの一党が蜂起して社会主義政権を樹立したのは、ニコライ二世がケレンスキーの臨時政府によって退位させられ、ロマノフ王朝の命脈が絶ちきられた後でした。支那でも、共産党が大きな勢力を得ることができたのは、袁世凱(えんせいがい)によって清朝が断絶させられていたことが大きかったのです。数百年、数千年にわたって民心の礎となってきた皇帝が滅びた後、民は誰を仰いで行動すればよいか分からず迷っていた。そこでもっとも果断に、無慈悲に動いた者が、革命を成し遂げたのです。すなわち……」
 口調が次第に熱を帯び、参会者は瞬きもせず満枝を凝視した。
「ロシアでは数十万の富農(クラーク)をはじめ特権階級が処刑され、あるいは強制収容所に送り込まれました。支那で起こっていることは、今、小沼さんがお読みになったとおり。それが可能になったのは、民が仰ぎ見る皇帝がもはや存在しなかったからなのです」
「では……」
 手を挙げたのは、ハン・エジャだった。満枝の眼がぱっと輝いた。エジャは立ち上がり、眼を伏せたまま、低い声音で言った。
「天皇がいなくなれば……日本も、そこに書いてあるような世の中になるんですか?」
 参会者たちの面差しはますますこわばった。暗い眼差しで見つめてきたエジャに対して、満枝は静かに答えた。
「むしろ、そうならないかぎり、ここに書かれているような世の中にすることはできません」
 それから、参会者の一人に目をやり、立っていただけませんか? と声をかけた。声をかけられた青年を手招きして呼び寄せ、向かい合って立ちながら、満枝は言った。
「われわれは、無力です。一方、国家は軍隊も警察も持っている。強大な敵にまともに立ち向かっては勝ち目はありません。わたくしたち女性が、男性とまともに戦うことができないように。でも……」
 満枝は口を閉ざし、青年をのぞき込むように見つめた。青年は赤面し、思わず目をそらした。すかさず満枝は素早く動き、ぴったりと青年に身を寄せた。
「あ……!」
 青年がうめいた。満枝の手が、青年の股間を掴んでいた。満枝は、再びエジャを見やって言った。
「相手の懐に飛び込んで、ひねり潰すことは、弱い女にもできますわ」
 ひねり潰すという言葉に青年の面差しが恐怖に青ざめ、参会者たちはざわめいた。満枝は手を離した。青年は、腰を抜かして座り込んだ。
 震えが止まらず、歯をかちかち言わせて動けない青年を見やり、エジャは口を開いた。
「いつ、それをやるのですか?」
「さあ……」
 満枝は微笑んだ。
「一年後か二年後か……いずれにしても皆さん、その時が来るまでは自重なさってくださいね」

 その夜更け。
「なあ……」
 勉強会の参会者が帰った後、がらんとした仏間にあぐらをかいて座り込み、仏像を見上げながら文子が言った。
「小沼さんはどう思う?」
「何についてだ?」
 パク正烈と向かい合って座り、マッコリ(朝鮮どぶろく)を呑んでいた小沼が問うた。
「伊集院満枝が言ってたことさ」
「うむ」
「本気で天皇の懐に飛び込んで、きんたまをひねり潰すつもりなのかな、あの女」
「多分な」
 小沼はどぶろくをあおり、掌で唇をぬぐって言った。
 二十歳をすぎたばかりの若さにもかかわらず、北海道の大地主として、川奈産業の大株主として、満州や支那、朝鮮を股にかけて活動する伊集院満枝ならば、やってのけるかもな……。そう思ったが口には出さなかった。
「たいした女だね」
 文子は、小沼に身を寄せ、笑みを浮かべて耳元でささやいた。
「惚れてるんだろ、ほんとうは?」
 小沼は答えず、文子を床に押し倒した。

 同じ頃。
 幌で座席を覆った一台の自動車が、麻布の高級住宅街の一角にある洋館の前に止まった。ドアが開き、なかから二人の女が、一人の男を抱えるようにして出てきて、洋館のなかに引きずり込んだ。ドアが閉められ、あたりを再び静寂が包んだ。

「や、やめろ!」
 洋館の一室に悲鳴がとどろいていた。天井から日本のロープが吊り下げられ、その先端が、両手をあげて万歳する姿勢をとらされた安藤浄海の左右の手首を縛っていた。
 彼の目の前に二人の女が立っていた。伊集院満枝とハン・エジャである。
「いったい、なんのつもりだ。わしが誰だか知っていて、こんなことを……」
「もちろん、よく存じておりますわ」
 満枝が微笑んで言った。
「貧者のために戦う自由の闘士を装いつつ、元検事時代の人脈を生かし、影で司法と取り引きし、裏金を貯め込んでいる売名家なんですってね」
「黙れ、女!」
 安藤は居丈高に怒鳴った。
「貴様の言うとおり、わしは元検事だ。裁判所の判事にも、警視庁の幹部にも、知り合いが多いんだ。こんなことをしてただですむと思うな。牢屋にぶち込まれたくなければ、さっさと縄をほどくんだ!」
 わめきつづける安藤は、不意に悲鳴をあげた。満枝が、安藤の股間を掴んでねじりあげたのだ。
「申し訳ありませんけど」
 満枝は冷たく言った。
「今、わたくしが申し上げたあなたの評判は、大審院院長さんから、直接うかがったことですわ」
「なに……牧野さんが?」
「あら、今の院長さんは和仁さまですわよ。牧野さまはとうの昔に退官なさいました」
 司法の最高責任者の名前を出されて、安藤は口をつぐんだ。満枝は続けた。
「お二方とも、ある場所でお知り合いになって、懇意にしていただいています」
「貴様、いったい誰だ?」
 安藤は面差しを青くして問うた。
「なぜ、あんな荒れ寺に……」
「文子さんや、朝鮮部落の方々とも懇意にしていただいておりますから」
 満枝は、暗い面差しで安藤を見つめるエジャに眼をやって言った。
「この方も、朝鮮で生まれた方ですのよ」
「朝鮮で?」
「ええ、関東大震災のとき、自警団にご両親の命を奪われた、かわいそうな方ですの」
 それを聞いて、安藤の面差しに血の気が戻った。
「なあ、あんた」
 安藤は救いを求めるように、エジャに顔を向けて言った。
「わしは、関東大震災の時の朝鮮人虐殺について、おおいに政府を批判する本を書いた。家族を失った朝鮮人たちに施しもした。わしは、あんたたちの味方なんだ。頼むから、わしを解放するよう、この人に言ってやってくれ」
「そうね」
 満枝は、口をつぐんだままのエジャに向って言った。
「あなたが決めればいいわ。この人を解放するか、それとも……」
 唇の端を歪めて冷たい笑みを浮かべ、満枝は言った。
「わたくしたちで、おもちゃにするか」
 満枝の笑みに、再び色を失った安藤が何か叫ぼうとした時、エジャの手が、彼の股間に伸びた。ズボンの上から二つの睾丸を掴み、強く握りしめた。
 安藤は絶叫した。
「これで、いいのかしら」
 満枝を見やって、エジャは問うた。暗くかげっていたエジャの面差しに、青白い光が差していた。満枝はうなずいた。エジャは、ぜいぜいと息荒く苦痛に耐える安藤を見つめて言った。
「この人は、私たちの味方なんかじゃないわ」
 何か言おうとして、再び安藤は絶叫した。エジャは、掴んだ股間に指を強く食い込ませていた。
「むしろ、私たちのことを見下している」
「そう、お思いになる?」
「ええ」
 エジャは続けた。
「私を買った男たちは、私が朝鮮人だと知ると、この男と同じような顔で、同情するようなことを言ったわ。そのくせ、私を見下したように扱った。そうじゃなかったのは……」
 いったん言葉を切り、俯いてエジャは呟いた。五郎だけだった……。
「五郎はね」
 再び顔をあげ、苦悶する安藤を喜色に溢れた見つめつつ、エジャは言った。
「何者かにきんたまを潰されて、死んだの」
「まあ、そうなの!」
「五郎の死に目に、私は会えなかった。死んだ顔を見ることもできなかった。だから私は……」
 さらに腕に力をこめて、エジャは言った。
「きんたまを潰されて、男がどんな顔をするか、どんなふうに死んでいくのか、見たい!」
「わたくしも、一緒よ!」
 満枝は叫び、ひとつ私にちょうだい、とエジャにせがんだ。エジャと満枝は左右に並び、それぞれ安藤の睾丸を一個ずつ掴んで圧迫した。安藤は白眼を剥き、もはや叫ぶ気力もなく、天井を見上げるように顎をあげ、激しく総身を震わせるばかりだった。
「地主だったわたくしの父親は、小作人の娘に去勢されて亡くなった」
 感極まった面差しで、満枝は言った。
「だからわたくしは、女に去勢される時の男が見たくて、こんなことを続けてきたのよ」
「あなたは、すごいわ」
 エジャの頬が紅潮し、肩が荒く上下していた。
「女の力で、男をこんなに苦しめられるなんて……あなたはいったい、何人の男のきんたまを潰してきたの?」
「数えきれないほどよ!」
「私にもできるかしら?」
「できるわ!」
 満枝は、睾丸を掴んでいないほうの手を、エジャの首に回し、頭を抱き寄せ、その唇を吸った。同時に、二人の女の掌のなかで、安藤の睾丸が二つとも破裂した。

 二時間後。
「もう、終わったの?」
 ドアを開けて入ってきた女――元抗日パルチザンのイ・ヨヒ(李麗姫)は、全裸で床にうつぶせになった安藤浄海を見下ろしながら言った。満枝と出会って二年、ヨヒの口調からは朝鮮なまりが消え、なめらかな日本語になっている。
「ごめんなさいね、ヨヒ。あなたのぶんを残してあげられなかったわ」
 白いシルクのガウンをまとった満枝がヨヒに歩み寄り、頬に接吻して言った。ベッドの上では、エジャが身づくろいしている。頬を赤くし、当然とした面差しのエジャを一瞥してヨヒが問うた。
「あの娘が、そうなの?」
 満枝はうなずいて言った。
「そうよ、あなたと同じ朝鮮で生まれたハン・エジャさんは、今日はじめて男性を去勢なさったの」
 ベッド上で恥ずかしそうに顔をそむけるエジャを見つめながら、ヨヒは続けて問うた。
「やれそう?」
「ええ。きっと頼もしい仲間になれるわ。鍛えてあげてちょうだい」
 ヨヒは、満枝から身を離し、安藤の身を仰向けにした。苦しげな面差しのまま息絶えた安藤の口に、男性の生殖器が突き刺さっていた。安藤の股間は血にまみれ、そこには何もなかった。

   W

 市谷刑務所は、正式名称は東京監獄である。市谷富久町に設置されたので、市谷刑務所と呼び習わされている。明治三十七年(一九〇四)に建てられ、敷地面積は約六万平方キロメートル。高さ五メートル、長さ七百メートルの赤煉瓦の塀に囲まれたなかに、千人前後の囚人が収容されていた。
 囚人の大半は、起訴されてはいるが刑が確定していない未決囚である。未決囚たちは定期的に霞ヶ関の東京地方裁判所に通い、審問を受ける。刑が確定すれば、刑期の長さや性別によって各地の刑務所に振り分けられるのだ。
 梅雨のはじめの湿気の多い日だった。木造二階建ての刑務所庁舎内にある刑務所長室に、詰め襟の制服を着た女性看守に付き添われ、黒っぽい地味な和服を着た小柄な少女が椅子を与えられ、小さな風呂敷包みを胸に抱えたまま、机を挟んで刑務所長と向き合い、俯き加減に座っていた。
 佳代(かよ)だった。
 前年秋、猪俣佐和子らが銀行ギャング事件を起こした日、佳代は佐和子のハウスキーパーとして、監禁された小沼健吾とともにアジトにいて、踏み込んできた警官隊に検挙された。特高警察による過酷な拷問にも、佳代は口を割らなかった。警官ともみ合って発砲し、自らの身体に弾丸を撃ち込んで命を落とした海老沼千恵子をのぞいて実行犯二名は逮捕され、それぞれ起訴されて裁判に回されるなか、佳代は結局不起訴処分となった。
 そのことを告げた後、刑務所長は説明した。幸い、有名な弁護士さんがあんたの身元引受人になってくれた。もう、アカの仲間なんかになるんじゃないぞ。しっかり更正しなさい。
 ひとくさり説教した後、所長は女性看守に顔を向けて問うた。そろそろ、身元引受人が来る頃だが、きみ、ちょっと見てきてくれないか。いつもの安藤先生だから。女性看守は「ああ、あの……」と軽侮が混じった苦笑いを浮かべた。そのとき、所長室の外で、「安藤先生がお見えです」と獄吏の声がした。お通しなさい、と所長が答えた。
 ドアが開き、現れたのは小柄だが細面、年格好は三十歳前くらい、背広にネクタイをしめた青年だった。所長と女性看守は顔を見合わせ、所長がいぶかしげに問うた。安藤先生ですか?
「はい、安藤です」
 そう言い、青年は青白い面差しを少しも動かさず、ポケットから名刺を取り出した。「東京帝国大学国史科助教授 安藤澄」と印刷されている。
「安藤……」
 名刺を読み上げようとして詰まった所長に、青年は冷ややかに言った。
「きよし、です。あんどう・きよしと訓(よ)みます」
「あの、安藤先生の身内の方ですか?」
「安藤先生とは、浄海のことですか?」
 青年の目尻に、冷ややかな色が浮かんだ。
「安藤浄海は、私の父親です」
 刑務所長はいぶかしげに問うた。
「今日、浄海先生がおいでにならなかったのは、何か、ご都合がお悪かったのですか?」
「存じません」
 青年は肩をすくめた。
「父はここ十日ほど、行方がわからないのです」
 驚く所長を制するように手を挙げ、青年は冷静に続けた。
「ご心配なく。よくあることです。気ままな風来坊なのでね」
「はあ……」
「数日前、父に宛てて電報が来ました。父が身元を引き受けた女囚の釈放が決まったから刑務所まで来て引き取るようにと書いてある。しかし父は出かけたまま帰ってこず、連絡もとれない。だから、私が来たわけです」
「なるほど」
「父はアカの身元引受人になるのが趣味でしたからな。引き受けておいて、実際はなんの面倒も見ないことが多かったようだし、そもそも私にはなんの関わり合いのないこと。ただ、アカの女がどんなご面相なのか、拝んでおくのも一興と思ったわけです」
 無表情のまま立て板に水でまくしたてる青年に、所長はあっけにとられた。俯いていた佳代も、顔をあげて安藤青年を見た。
「ほう、山出しの娘さんか。なかなか、可愛い顔をしている」
 安藤青年は、はじめてにやりと笑い、真顔に戻って所長を促した。
「私は忙しい。論文を書かねばならぬのでね。さっさと手続きをすませてください」

 佳代を伴って市谷刑務所を出た安藤青年は、タクシーを拾って乗り込んだ。
「さて」
 後部座席に並んで座った安藤青年は、真正面を向いたまま言った。
「これで私の役目は終わった。君はこれから、どうするのかね?」
 佳代は無言で首を傾げた。傾げたまま、車窓に映る街並みを見つめるばかりだった。いつまでたっても返事がないのに苛立った青年は、声を荒げた。
「答えたまえ。どうしたいんだ?」
 青年は佳代を見やった。佳代も、青年のほうに顔を向けた。眼差しが悲しげにゆがんでいた。行くあてなど、どこにもないのだ。
 安藤はややたじろいだが、ひとつ咳(せき)をして問うた。
「ご両親は?」
 佳代は首を振った。
「では、親戚は?」
 佳代は首を振った。
「友達とか、とにかく頼れる人はいないのか?」
 佳代は首を振るばかりだった。青年は溜息をついた。身寄りがないのか……。佳代は俯き、唇を噛みしめた。
 ひとりぼっち。
 東京に連れてきてくれた小沼の行方は分からない。以前ハウスキーパーを勤めた大橋多喜蔵は、すでに逮捕されたと聞いた。猪俣佐和子は……たとえ、行方を知っていたとしても、頼る気になれなかった。
「あのう」
 前の座席でハンドルを握っていた運転手が、後ろに首を向けた。
「旦那、どこにいけばいいんで?」
 タクシーはまだ、出発していなかった。安藤はしばし考え、とりあえず、学士会館にやってくれ。タクシーは走り出した。

 神田三崎町にそびえるレンガ造り四階建ての学士会館は、帝国大学出身者の親睦と交流を目的として結成された学士会会員のための社交場である。四階に百人も座れそうな大食堂があった。開いてはいたが、まだ昼前とあって客は少ない。
 佳代を促して席についた安藤青年は、寄ってきたウェイターにオムライスを注文した。君はどうするね? 問われた佳代は、メニューを見つめて首を傾げている。オムライス二つだ。短気な安藤青年はそう告げ、ウェイターはキッチンに去っていった。
 やがて運ばれてきたオムライスを、安藤はまたたく間に平らげた。佳代は、犬がエサにむしゃぶりつくようにスプーンを忙しく動かす安藤を見つめていたが、やがてスプーンをオムライスに入れ、口に運んだ。佐和子の洋館でハウスキーパーを勤めている間に、洋食にもだいぶ慣れていた。
「しかし、君は無口だな」
 オムライスを食べ終え、運ばれてきたコーヒーを口に運びながら、安藤は言った。佳代はスプーンを皿に置いて顔をあげた。
「君を引き受けるにあたって、警視庁の知り合いに聞いたのだが、君は特高の拷問にもいっさい口を割らなかったそうだな」
 佳代は首を傾げるばかりだった。安藤は続けた。
「ぼくはアカは大嫌いだが、固い信念の持ち主は尊敬する。感心なことだと思ったが、ひょっとして、君が口を割らなかったのは、その無口のせいではないのか?」
 佳代は、眉をかすかにひそめ、当惑した面差しになった。あの拷問を受けている時、自分は何を思っていたのだろう。思い出そうとしても、思い出せない。
 おそらく、何も考えていなかったのだ。男性に抱かれている時と同じように、何も考えず、何も感じなかった。
 佳代は、そうすることができた。そうすることで、耐えてきたのだ。
「おや、これは珍しい」
 どやどやと五人の男性が食堂に入ってきた。眼鏡をかけ、仕立てのよさそうな背広を着込んでいた。髪の毛をオールバックにした五十がらみの男を中心に、年下の男が四人取り巻くようにしている。
「安藤助教授ではありませんか」
 取り巻きのなかでいちばん若い、安藤と同年配の男が寄ってきた。
「これは思わぬ女性連れ。この学士会館を逢い引きに使うとは、隅に置けませんなあ」
 安藤は答えず、見向きさえしなかった。男は続けた。
「安藤助教授の最新作、ええと『万邦無比なるわが国体』でしたか。本屋で拝見しましたよ。最近は、ああいうものが売れるらしいですな」
「ほう、鈴木くん、どういうものが売れているのかね」
 やや年かさの男が問うた。鈴木と呼ばれた男は答えた。
「国体とか、国粋、神国という言葉をタイトルに使う本が増えてます。『世界が仰ぎ見る神国日本』『日本は世界を征服せん』というのもあります。あとは外国の悪口ですな。『暴戻支那が滅びる日』『米国恐るるにたらず』『赤露の内幕を暴く』なんていうのもある」
「おやおや、恐れ入った題名だねえ」
「本日、日本橋の丸善に行きましたら、そのような本に並んで、安藤助教授の御本が売られていたのですよ」
「お気に召したのなら……」
 顔を背けたまま、安藤が口を開いた。
「版元に言いつけて、研究室まで届けさせますよ、鈴木助手」
 同年配ながらワンランク下の肩書きで呼ばれ、鈴木は一瞬顔を曇らせたが、すぐに笑みをつくって言った。
「あいや、結構。題名を見れば、中身を読まずとも分かります」
 男たちはどっと笑った。
「そういえば、川井教授殿の最新刊も拝読しましたよ」
 安藤の声に男たちは笑いをとめた。いちばん年長のオールバックの男が、面差しを引き締めた。
「『学生の生活』でしたか。ファシズムが進行する世界情勢や、右傾化する現代社会を批判されるのかと期待したのですが、学生向けの生活指南書でしたね。社会主義とかマルクスといった言葉も見あたらなかった」
 年長の男――川井教授の面差しがひきつった。安藤は立ち上がり、挑発するように顎をあげ、川井教授に歩み寄った。
「最近は検閲が厳しい。さすがの川井先生も、保身を考えておられるわけですか」
「君、失敬じゃないか!」
 取り巻きの一人が叫んだ。
「だいたい君、ここは学士会館だ。帝国大学卒業生以外は出入り禁止のはず。なぜ、こんな娘を連れてきている。いったい何者なんだ?」
「この娘は、元アカのハウスキーパーです。たった今、私が監獄から貰い下げてきました」
 川井と取り巻きたちは息を呑んだ。
「特高の拷問にも音(ね)をあげず、いっさい仲間のことを白状しなかったとか。私はアカは嫌いだが、立派なものだと感服した次第です。マルクス主義を唱えながら、当局の弾圧がはじまるとあっさり引き下がるお利口さんとは、まるで比較にならない」
 安藤は得意げに取り巻きたちを見回した。
「なんでも、この娘は身寄りがないらしい。どうです? どなたか、アカとして当局と戦った勇敢な娘を引き取って差し上げようという男気のある方はいないのですか?」
 川井も取り巻きたちも答えなかった。しばし沈黙した後、川井教授が、諸君、行こう、と踵を返して去っていった。取り巻きたちが慌てて後を追った。
「ふふん」
 安藤が鼻を鳴らして笑った。
「仕方ない。君の身は、私が引き取るしかなさそうだ」
 スプーンを握りしめたまま、身を強ばらせて安藤と川井教授らとのやりとりを見つめていた佳代に、安藤は言った。
「今、私は一人暮らしだ。通いでやってくるばあやがいるが、もう八十歳で耳も遠くなった。君、よかったらうちで女中をやってくれないか」
 助かるんだがねえ、と安藤は佳代の肩に手を置いた。

 安藤澄の家は、麻布笄(こうがい)町にある古い和風邸宅だった。奥の三畳間を与えられ、一息入れていると、腰の曲がった老婆が入ってきた。おまつと名乗る老女中は佳代に、応接間にお茶を運んでちょうだいな、と言いつけた。佳代は台所で茶を淹れ、菓子を用意してお盆に乗せ、応接間に向かった。
 広い畳敷きの応接間では、和服の着流しにきがえた安藤と、四十歳くらいの背広の男が座卓を挟んで向かい合って座っている。
「新しく雇った女中だよ」
 安藤は、茶を卓上に並べる佳代を顎でさして言った。
「アカのハウスキーパーをしていて、さっきまで東京監獄にいた」
 ほう、それは……。背広の男は目を丸くして佳代を見つめ、二の句がつげずに心なしか腰を引いた。安藤はかまわず、佳代に言った。
「この人は真村さん。出版社の人だ。ぼくが書いた原稿を受け取りに来たんだ」
 真村は、話題を変えようと作り笑顔を安藤に向けた。
「いやいや、今回の原稿も痛快ですなあ。政党人の腐敗をやっつけたかと思うと、返す刀でいまだに自由主義なんぞ唱える曲学阿世の徒を斬る。実に見事なものです」
「そうかね。売れそうかね」
「そりゃあ、売れますよ。先生の御本は、我が社の出版物のなかでも、いちばん読者からのはがきが多いんです。溜飲がさがると、みなさん書いてこられます」
「嬉しいこと言ってくれるね」
 真村はひとしきり喋った後、ゲラ(校正刷)が出ましたらお持ちします、と言って出て行った。佳代が卓上の茶を片づけていると、安藤が声をかけてきた。
「君は、プロレタリア作家のハウスキーパーなんかもやったことあるのかい?」
 佳代は手をとめた。大橋多喜蔵の青白い面差しが脳裏に浮かんだ。小さくうなずくと、ほう、と安藤は身を乗り出した。
「どんなだったね。その作家は?」
 どんなとは? 佳代が首を傾げると、安藤は言った。
「さっき食堂で見ただろう。あいつらは、帝大経済学部の川井栄三郎と弟子たちだ。川井の名前は知っているか?」
 かつて小沼のアジトで読んだマルクス経済学概論というようなタイトルの本に、そんな著者名があったような気がする。またうなずくと、安藤は、君は見かけによらず勉強家なんだなと感嘆した。
「川井は、マルクスボーイの間で人気があった。わけがわからずとも、ドイツ語なんかを交ぜたりした難解な文章をありがたがる軽薄な連中にね。だが、もはやマルクスは下火だ。特に共産党がギャング事件を起こしてからというもの、売れ行きはさっぱりらしい」
 だからあいつらは、三十前なのに助教授に昇進し、本が飛ぶように売れている私が、憎くて仕方ないのさ。
「本を売るのは簡単なことだ」
 安藤は不意に自虐的な口調になった。
「読者が言ってほしいことを書いてあげればいい。自分は学識があるのに出世しないと思ってる奴。偉い学者先生がねたましい奴。そういう奴らに本を売りつけるには、エリートをけちょんけちょんにけなして、溜飲を下げさせるのが手っ取り早い」
 それに、日本人であることくらいしか取り柄のない奴もいる。安藤は続けた。
「そういう連中を喜ばせる一番の材料は、支那の悪口だ。根拠なんか脆弱でかまわない。大陸でのわが軍の行動が如何に正当で、抗日一辺倒の支那は非文明的で野蛮だと書いてやると、多少理屈が通ってなくても連中は喜ぶ」
 本なんて、その程度のもんだ。ありがたがるもんじゃない……。そう言って不意に口をつぐみ、しばらく床を見つめて黙っていた安藤は、やがて顔をあげて佳代を見つめた。
「そんな俗悪な本をなぜ書くのか。理由の一つは親父が憎いからだ。私の母は、親父の浮気に苦しみ抜いて若死にした。それをいいことに、親父は今でも放蕩三昧だ。社会正義を掲げながら、裏では金にあかして酒食に耽る。そんないんちきな奴らを叩いてやりたい」
 でもそれだけじゃない。安藤は立ち上がり、部屋中をぐるぐる歩き回りながら続けた。
「私は金が要る。私は、ただの学者で終わるつもりはない。左翼の連中ができなかった大仕事をやるんだ。世の中を変えるんだ。そのためには金が要る。だから馬鹿な読者から金を巻き上げているのさ」
 今夜、世の中を変える同志がやってくる。佳代さん、仕出し屋に電話して、弁当を六人前取り寄せてくれ。あと、酒屋にビールを持ってこさせなさい。いいね。
 興奮した面差しの安藤を見つめながら、佳代はあっけにとられていた。
 大橋多喜蔵といい、この安藤といい、なぜ男たちは、会ったばかりの自分のような者に、身の上ばなしをしたがるのだろうか?

 その日の夕方。安藤家を訪れたのは、背広姿の四人の男たちだった。二十代半ばから三十歳くらいまでの年格好で、いずれも頭は丸刈りにし、背筋を伸ばして肩をいからせている。
 四人は無言で、応接間に入った。並べた座布団の上に正座し、佳代が茶を並べている間も、ひとことも口をきかない。やがて安藤が入ってきて、「ま、楽に」と声をかけられるまで、微動だにしなかった。
 佳代は応接間を辞し、隣接する茶の間で待機した。安藤から、これ読んでみたまえ、と渡された薄い冊子をちゃぶ台に広げ、頬杖をついて読み始めた。
『本朝烈婦伝』というタイトルで、どこかの女学校での講演をまとめた本のようだった。巻頭口絵にに皇后陛下の御製の和歌や、元総理大臣が揮毫(きごう)した題字が印刷されている。
 内容は、わかりやすいものだった。南北朝時代、後醍醐天皇率いる南朝に味方し、足利幕府に抵抗した武将たちの母親や妻たちが、夫や我が子を叱咤激励した故事が並べてある。末尾は「けだし、たとえ女子といえども一朝事あらば、夫を父を子を補(たす)けて、皇室のために命を捧げなくてはなりません。その覚悟こそが、万邦に無比たる、わが国体なのであります」と結ばれてあった。
 冊子を閉じたが、別段なんの感想も浮かばなかった。ぼんやりと天井を見上げていると、玄関で声がした。仕出し屋が注文の弁当を届けにきた。六つの重箱を受け取った。弁当が届いたら、一つは佳代が食べ、後は応接間に運ぶよう、安藤から指示されていた。重箱を縦に重ね、応接間に向かうと、途中の廊下で安藤と行き当たった。
「おや、弁当が届いたんだね」
 安藤はいちばん上の重箱の蓋を開け、中身を確かめ、私は煙草を買ってくるから皆さんに弁当をお配りしなさい、と命じて玄関へと去った。
 応接間の襖の前で重箱をおろし、なかに声をかけようとした時、「もはや、我慢なりません!」と怒声が響いた。佳代は身をすくませた。怒声はさらに続いた。
 いつまで待てばいいんですか、磯村中尉殿。今日、私は決起について具体的なお話があるのかと期待して、この会合に来ました。水戸学の議論なんぞをしにきたわけじゃない。
 別の声がした。林原少尉、落ち着け。
 香野中尉殿、私は落ち着いてなどいられません。声変わりしたばかりの少年のような声音で、林原と呼ばれた将校は続けた。私の郷里では、不作のため村には欠食児童があふれ、娘たちの身売りが相次いでいる。彼らを思えば、一刻もじっとしていられないんです。
 気持ちはわかるが、暴発はいかん。香野中尉と呼ばれた将校は静かになだめた。これまで多くの軍人や民間人が決起を試みたが、ことごとく失敗した。時宜を得なかったからだ。なあ磯村、そうは思わんか。
 そのとおりだ。磯村と呼ばれた将校が言った。さる五・一五の犬養総理暗殺は何をもたらした。浜口総理が暗殺され何が変わった。血盟団が井上元蔵相や三井の団琢磨を暗殺して、貧しい民は救われたか。感情的暴発は、敵を利するのみだ。実際、これらの事件が起こる度に、われわれ皇道派の勢いはかえってそがれ、統制派が幅を利かせるようになっておるのだよ。
 しかし……。なおも食い下がる林原少尉を、磯村と呼ばれた中尉が諭した。まあ、もうよせ。もうじき安藤先生がお戻りになる。貴様の言い分は後で存分に聞くから、今のところは穏やかにやろう。

 不意に、肩をたたかれて佳代が振り返ると、安藤が薄く笑って立っていた。
 だいぶご議論のようだな……。そう呟いて咳払いをし、「いや、失礼した。今、戻りました」と勢いよく襖を開けた。皆さん、いま弁当が届きました。たいしたものではございませんが、お召し上がりください。安藤の声に応じて、佳代は弁当を配り始めた。
 事情を知らぬ佳代にかわり、応接間での青年将校たちの会話について解説しよう。
 陸軍内部に皇道派と呼ばれるグループがあった。当時、左翼であれ右翼であれ、反体制的気分の持ち主たちは、日本社会を覆う貧富の格差を西洋近代文明にかぶれた特権階級が既得権益を手放さず、貧困対策が遅れているからだと捉えた。多くの若い将校たちは、特権階級を廃止し、天皇の下に万民が平等になる理想社会建設を唱えた。それが、天皇の大御心(おおみごころ)にかなう道であり、自ら「皇道」と呼んだ。
 彼らは、理想とする国家改造を理論的に支えてくれる学者を必要とした。安藤に白羽の矢が立てられたのは、彼が皇国史観と呼ばれる天皇を中心とした日本史研究の第一人者だったからだ。彼らは、足繁く安藤邸に通って教えを請うた。
 今、安藤の家にやってきた四人の将校のうち、磯村中尉、香野中尉、林原少尉の名前はすでに出した。三人とも麻布に駐屯する歩兵第三連隊に所属している。眼鏡をかけた磯村と、口髭をたくわえた香野は安藤と同年配、つるりとした童顔の林原は二十代半ばと見えた。
 もう一人、さきほどの議論に一切かかわらず、端然と座して語らない将校がいた。細い目に低い鼻、真一文字に結んだ薄い唇は頑固そうな性格を思わせた。佳代が、彼の目の前に弁当の重箱を置いても、背筋を伸ばして座ったまま微動だにしない。
 弁当を並べ終えた佳代は一度台所に戻り、酒屋から取り寄せたビールの木箱とコップを応接間に運んだ。将校たちの目の前にコップを並べ、ビールの栓を抜いて注いだ。林原少尉にビールを注いだとき、安藤が口を開いた。
「その女中は青森の生まれで、女衒に身売りされそうになったこともある娘さんなんだ」
 林原少尉は驚いた顔つきで、佳代を見つめた。安藤は続けた。
「その後、いろいろあってアカのハウスキーパーになって捕まったのを、私が貰い下げてきたんだが、口の堅いしっかりした娘さんでね」
 そうですか……。林原少尉は、感に堪えたような面差しでうなずき、自分は岩手の出だ、やはり故郷では娘さんの身売りが絶えぬ。君もさぞ、苦労したのだろうね、と言った。佳代は無言で頭を下げ、もう一人の少尉のコップにビールを注ごうとして、そのコップを掌でふさがれた。
「君は、ビールはたしなまないのか?」
 磯村中尉が問うた。少尉はうなずき、はじめて口を開いた。
「アカだった女の酒は、呑めません」
「何を言うか!」
 林原少尉が怒鳴った。
「君は、安藤先生がおっしゃったこの娘の身の上を、聞いていなかったのか? 貧しさゆえに、一度はアカのハウスキーパーになったからと言って、酌(しゃく)を受けぬというのはあんまりだろう」
 少尉は面差しひとつ変えず、口をつぐんだままだった。佳代は、ビール瓶を持ったまま、凍りついたように動けなかった。
 そのとき、玄関のベルが鳴った。
「佳代さん」
 安藤が声をかけた。
「玄関を見てらっしゃい」
 その声に救われ、佳代がビール瓶を置いて応接室を出た後、磯村中尉がいぶかしそうに訊ねた。
「来客ですか?」
「いや……」
 安藤も戸惑ったように言った。
「他の客の予定はないのですが」
「自分がお呼びしました」
 最前の少尉が口を開いた。他の将校たちが顔を見合わせるなか、少尉は再び言った。
「われわれの、頼もしい支援者になってくださるはずです」
 やがて、佳代を先頭に来客が入ってきた。黒っぽい洋装に、鍔(つば)の広い帽子をかぶった三人の女性だった。一番背の高い女性が帽子を取り、少尉に向かって微笑んだ。
「渋谷少尉殿」
 はい、とうなずく少尉に、女は続けた。
「皆様をご紹介してくださらない?」
 帽子をおいて座った背後で、佳代の面差しがこわばっていた。なぜこの人が……。
 女は、伊集院満枝だった。

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 この章の冒頭、弘前市を訪れた「宮様」と伊集院満枝が、市内の老舗旅館で「密会」したことを記した。そのとき、「宮様」が宿泊した離れの部屋を警護した御付(おつき)の将校の一人が、渋谷少尉だった。
「宮様」は、ふだんは東京の参謀本部に勤務している。渋谷少尉も、参謀本部に属して「宮様」の身の回りの世話をしていた。無口で志操堅固、というのが衆目の一致する渋谷少尉の人柄であり、篤い信頼を得ていた。
 その彼が、皇道派青年将校とともに安藤澄の家の応接間に坐し、さらに伊集院満枝が二人の女を連れて現れた。二人の女は――元パルチザンのイ・ヨヒ(李麗姫)、そして、かつての玉ノ井の私娼まち子ことハン・エジャ(韓愛子)である。
 佳代が伊集院満枝と接したのは四年前、左翼活動に従事していた小沼健吾のアジトでハウスキーパーをしていた頃だった。その都度違う装(よそお)いで頻繁にアジトを訪れていた満枝を忘れられようもない。昨年までハウスキーパーをしていた猪俣佐和子もまた、満枝が連れてきた女性だった。
 佳代ちゃん、久しぶり。さきほど玄関のドアを開けたとき、入ってくるなり満枝はそう言って微笑んだ。佳代がこの家にいることをとっくに承知しているような素振りだった。
 とっさに佳代は思った。自分を監獄から請け出してくれたのは、安藤浄海の意志ではなく、伊集院満枝が手を回したのではないのか、と。

 応接間に正座し、三人並んで帽子をとった女たちを、安藤も青年将校もあっけにとられた面差しで見つめた。渋谷少尉が「伊集院満枝さんです。川奈産業の大株主で、われわれを支援してくださるそうです」と紹介したが、青年たちはますます不審げな顔になるばかりだった。
「わたくしを信用なさらないのも、無理はございませんわ」
 満枝は微笑んだ。
「どこの馬の骨とも分からぬ若い娘が、皆様のように国事に奔走されている方を支援などと、おこがましいにもほどがございますものね」
 そう言いつつ、ハンドバッグから一通の封筒を取り出し、磯村中尉の前に置いた。磯村中尉は封筒を取り上げ、中の便箋を広げ、顔色を変えた。
「荒牧閣下の……?」
 その名前に、安藤も将校たちも腰を浮かせた。五十六歳の陸軍大将・荒牧貞夫は、皇道派の大立て者であった。ざっくばらんな性格で、若い将校たちを家に招いて酒を振る舞うので人気があった。これまで、軍人を中心としたクーデターが計画される度に、担ぐべき首班候補としてその名前が出ている。
 磯村中尉は、荒牧将軍の紹介状を廻した。うら若き婦人ながら、国体のあるべき姿を理解し、皇道の実現に尽力を惜しまぬ女傑である云々としたためられている。
「ここ一年、親しくおつきあいさせていただいてますの」
 涼しい顔で言う満枝に、男たちは顔を見合わせ、溜息をついた。
「殿下からも、お言葉添えがあります」
 渋谷少尉が口を開いた。「殿下」という言葉に、将校たちはいずまいを正した。
「信用して、おつきあいするように、と」
「わかりました」
 磯村中尉はうなずき、歩兵第四連隊の磯村です、と自己紹介した。香野中尉、林原少尉も続いた。
「東京帝国大学の安藤です」
 最後に頭をさげた安藤に、満枝はにっこりと言った。
「先生の御本はつねづね拝読いたしております。本日はお目にかかれて光栄ですわ」
「それで……」
 安藤は、満枝の背後に座る二人に目を遣って問うた。
「そのお二人は?」
 満枝はいたずらっぽく笑い、声をひそめた。
「これは内密にお願いしたいのですが……」
 思わず膝を進めた男たちを見回し、満枝は続けた。
「お二人はともに南朝の血を引く方々ですの」
 さらに満枝は付け加えた。
「そのうちお一人は、南朝と、李朝と、双方の血を引いてらっしゃいます」
 男たちの眼が一斉に見開かれた。

 十四世紀、皇室は足利幕府が擁立する北朝と、後醍醐天皇ら南朝とに分裂し、長い抗争を繰り広げた。いわゆる南北朝時代である。十四世紀末、南朝が事実上降伏する形で南北合一がなったが、明治以降、北朝と南朝のいずれが正統政権だったのか、議論が続いていた。実際に日本を支配していたのは幕府に担がれた北朝であったが、足利尊氏は後醍醐天皇に叛旗をひるがえした逆賊とされ、吉野の山奥で抵抗を続けた後醍醐天皇ら南朝こそが真の皇統であるという説が根強かった。
 安藤澄は、まさに南朝をこそ正統とする皇国史観の旗頭だったのだ。
 一方の李朝とは、十四世紀以降、日本に併合されるまで数百年にわたって朝鮮半島を支配した王朝である。併合後は「王公族」として皇室に準じる扱いを受けていた。
 その二つの王家の血筋を引くのが、いま、伊集院満枝の背後でうつむき加減に座っている二人だというのである。
「いや、しかし……」
 安藤はハンカチで額の汗をふきながら言った。
「どういうことですかな、その……日本の南朝と、朝鮮の李王家、両方の血を引く方がいらっしゃるとは、聞いたこともないのですが」
「安藤先生は……」
 満枝は笑みを浮かべて言った。
「吉野には南朝の血を引く一族が、世間から隠れて暮らしていることをご存知ですか?」
「ええ、しかしそれは……」
「もちろん、噂にすぎません。そうわたくしも思っておりました。でも……」
 満枝は、背後の二人を振り返ってうなずいた。二人は、ハンドバッグから袱紗(ふくさ)に包まれた小さな棒状のものを取り出し、満枝に渡した。満枝が袱紗を広げると、中に包まれていたのは、小さな刀子(とうす、短刀)だった。ひとつは糸巻柄(いとまきえ)で螺鈿(らでん)をあしらった鞘(さや)に収められた、和式の古刀である。もうひとつは、紋様の入った金色(こんじき)の鋳物(いもの)の柄のついた曲刀で、黒革の鞘に入っている。
 満枝はまず、和式の刀を抜いた。刀身に刻まれた菊の御紋に、男たちの眼が注がれた。もうひとつの刀を抜くと、李朝の象徴である李(すもも)の花の家紋が刻まれている。
「この刀子は……」
 満枝は、和式の刀子をかざしながら言った。
「南朝の血筋を引くしるしとして、吉野の山奥で密かに伝えられてきた刀。そしてこちらは、李王家の方から賜った宝物と聞いております」
 その由来をお聞きになりたいですか? 満枝は男たちを見回し、男たちは魅入られたようにうなずいた。

 今から二十年ほど前のことです、日本に併合され、皇室の一員となった李朝のさる王子様が、奈良の山奥に住む隈沢(くまざわ)家を密かに訪ねられました。南朝の血筋を引くと言われるその家に伝わる『古語実記(ふることじっき)』という不思議な文書(もんじょ)を見るためでした。
 その文書は、三千年前に朝鮮を建国した檀君(だんくん)が、わが皇室に寄贈された史書だそうで、そこに書かれている謎を解き明かせば、東亜はおろか世界をも征服できるという大層な秘密なのだそうです。その後、朝廷が南北に分かれて相争われた頃、逆賊足利幕府の圧迫を逃れて吉野に遷宮したもうた後醍醐の帝(みかど)が持ち出され、吉野に建てられた宮の奥深くに収められました。その後、南北合一が成り、南朝の帝は京に還御遊ばされましたが、帝の弟君は合一をよしとされず、吉野にとどまって抵抗を続けたため、ついに皇籍を剥奪され、臣下となって隈沢と名乗りました。隈沢家はその後も吉野に残り、この刀子と『古事実記』を代々秘蔵して今日に至ったわけです。
 李朝の王子様はなぜ、隈沢家を訪れ、その文書を閲覧遊ばされようとしたのか。それは後で述べるとしましょう。ただ、その折りに王子様は、隈沢家の令嬢と親しく睦まれ、そして生まれあそばしたのが、ここにいる愛子(あいこ)さまなのです。

 男たちの眼差しは、満枝が指さした女性――ハン・エジャ(韓愛子)に注がれた。満枝は続けた。
「愛子さまは、朝鮮ではエジャと発音します。すなわち、朝鮮でも日本でも通用するお名前とともに、この刀子を授かったのです。そして……」
 満枝は、イ・ヨヒを指さした。
「こちらは麗子さま。隈沢家の当主の血を引くお嬢様。すなわち南朝の末裔にあたる方。お二人は、お父上こそ違えど、仲むつまじく実の姉妹のようにお育ちになりました」
「なるほど……」
 安藤が口を開いた。
「あなた方の素性は、よく分かりました。それにしても、今夕、わざわざ拙宅まで足を運んでいただいたのは、どういう理由ですか」
「わたくしは……」
 満枝は答えた。
「さきほど申し上げたとおり、皆様の国家改造運動を支援いたしたく思っております。そして、皆様がたの志を実現させるためには、資金だけでは足りますまい。そして、このお二方は、皆様にとって必要な支援をしうる方々なのです」
 顔を見合わせる将校たちを一瞥し、満枝はハンドバッグから一枚の写真を撮りだし、安藤の前に置いた。
「これは、今申し上げた文書を写真に撮ったものです」
 安藤は写真を取り上げ、将校たちは腰を浮かして安藤の背後からのぞき込んだ。写真には、朝鮮のハングルにも似た、線と円形を幾何学的に組み合わせた文字がつづられている。安藤が問うた。
「これは、神代文字(かみよもじ)ですか?」
 神代文字とは、漢字が伝来する以前に古代日本で使われていたと称される文字で、いくつかの文献や石碑に使われて残っている。江戸時代以来、多くの国学者がその解読を試みたが、偽作説も根強い。満枝はうなずいた。
「そうです。古来、隈沢家に伝わる神代文字。もともとは、古代アッシリア王国の文字が支那を経て日本や朝鮮に伝わり、わが朝では平仮名、朝鮮ではハングルになったとも言われているものです。そして、このお二方は、この神代文字を訓むことができるのです」
「ほう……」
「皆様、とく安藤先生はご存じのとおり、我邦の国史、すなわち日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録のいわゆる六国史(りっこくし)は漢文で書かれました。江戸時代の国学者本居宣長が喝破したごとく、漢心(からごころ)に毒され、まことの大和心(やまとごころ)はその奥に隠されているのです。明治の御一新は、まさに神武大帝の古(いにしえ)の政事(まつりごと)に復せしめんとするものでしたが、悲しいかな、西洋文明の流入により、まことの皇道は行われること少なく、貧富の格差にあえぐ臣民の苦しみは増す一方」
 満枝は、神託を告げる巫女のような面持ちで、重々しく続けた。
「各地に伝わる神代文字を判読し、古の伝説を解読することができれば、まことの歴史を知ることができる。まことの大和心を知ることなしに、昭和維新の大業は成し遂げられず、国家の改造は、後醍醐帝の建武の中興が逆賊・足利尊氏によってくつがえされたごとく、奸佞邪智(かんねいじゃち)の重臣や統制派の軍人たちに牛耳られることになりますまいか」
 香野中尉と林原少尉が、びくりと眉を動かした。統制派とは、皇道派将校の言動を軍律を乱すふるまいとして対立しているグループで、軍中枢に多い。皇道派将校たちにとって不倶戴天の敵であり、その言葉を耳にするだけで頭に血が昇る者も少なくない。その一人である激情家の林原が何か叫ぼうとするのを察し、磯村中尉が急いで口を開いた。
「あなたは、我々が何を志としているか、ご存じなのですか?」
「具体的には存じませんわ」
 満枝は悲しげな面差しをつくって、林原少尉に顔を向けた。
「わたくしは資産家の娘です。しかし、不幸な娘さんたちのお話を聞いて何もせぬわけにはまいりません。寄付などではなく、この国を、ほんとうの意味での一君万民、すべての日本人が幸福に暮らせる国にしたいのです。ですから、皆様の国家改造運動を、支援いたしたいのです」
 将校たちは押し黙った。安藤が口を開いた。
「それで、この写真の文字は、なんと書いてあるのですか?」
 満枝が、エジャに眼差しを向けた。エジャはうなずき、懐から一枚の紙を取り出した。透かしの入った和紙に流麗な筆遣いで、このように書かれていた。
 ――菊花を一輪、李花を一輪、携えたる者、竜珠(りゅうじゅ)と出逢う時、その者、三国を統(す)べん。
「菊花は、すなわち皇室の御紋」
 満枝は、菊紋が刻まれた刀子を、続いて、李花の紋の刀子を取り上げた。
「李花は、すなわち朝鮮の御紋。そして竜珠とは、言うまでもなく支那の皇帝のしるし」
 菊花と李花は、ここに揃いました。残るは竜珠。
「隈沢家には、こういう言い伝えがあるのです。隈沢家には代々、この菊花の刀子とともに、竜の紋を刻んだ玉(ぎょく)がその蔵に収められていた、と。しかし、吉野にこもって抵抗する隈沢家を滅ぼすべく、京都の足利幕府から追討軍が派遣され、隈沢一族はさらに山奥に落ち延びざるを得ませんでした。その折り、竜珠が足利方の手に落ちるのを恐れ、いずこかの山に玉を埋めたのだそうです」
 このことを荒牧閣下にお話し申し上げたところ、閣下はひどく感激され、是非、その竜珠を手に入れよう、在郷軍人に協力を求め、吉野の山々を探索しよう、資金の一部は提供しようと申されました。とはいえ吉野の山は広く、探索は用意ではありますまい。
「そこで、安藤先生のお力を借りたいのです」
「私の力とは?」
「隈沢家には、他にも数多くの古文書が残っています。それらを解読し、竜珠の在処(ありか)を突き止めたいのです」
 いいですか、皆さん。満枝は改めて男たちを見廻した。
「この竜珠を手に入れた者こそが、真に東亜の三国、ひいては四海(しかい)あまねく皇威をもって統べられる方となるのです」
「それは、どういうことですか?」
 香野中尉が言った。
「我らは、あくまでも皇道に従い、国家の改造を行いたいと思っております。すなわち……」
 中尉は背筋を伸ばし、他の将校もそれに従った。
「今上(きんじょう)の陛下こそ、我らが戴く唯一人の方。竜珠を手に入れる者が三国を統べるとは、まるで他の誰かが竜珠を手に入れて、今上の陛下に取って代わろうというような……」
「香野中尉殿」
 満枝は、面差しを引き締め、静かに言った。
「中尉殿も皆様も、今上の陛下が、皆様の志に賛同していただけると、ほんとうにそうお思いなですか?」
 将校たちの顔色が変わった。満枝は続けた。
「ひとたび皇位に即かれた後、その政事が皇道に適わず臣下のすすめにより譲位された天皇は少なくありません。たとえその責は重臣たちにあるといえども、陛下ご自身の大御心は、真の皇道を望まれているのか、それとも西洋式の立憲君主であろうとなさっているのか、いずれとお考えですか?」
「あまりに不敬ではありませんか!」
 林原少尉が立ち上がった。
「陛下の大御心を、臣下の身分で推し量ろうなどと、不敬の極みです。承知できません!」
「では、陛下はなぜ、臣民が娘を売らねばならぬほどの窮状を放置なさるのでしょうか」
「それは陛下の大御心にあらず、君側(くんそく)の奸(かん)どもが……」
「なぜ陛下は、栄耀栄華をほしいままにする君側の奸、すなわち重臣や統制派の将官たちを親しく用いられているのです?」
 林原少尉は答えられなかった。満枝は続けた。
「わたくしは、真の皇道を実現させてくださるお方こそが、皇位に即かれるべきだと考えます」
 そうではありませんか、渋谷少尉殿。満枝の結びのひとことに、男たちはいっせいに渋谷少尉を見た。渋谷少尉は身じろぎもせず、かすかに顎を動かした。

「それにしても、あんたは希代のペテン師だねえ」
 イ・ヨヒがげらげら笑いながら言った。
「あんな与太話(よたばなし)、よくぞ思いついたものね。あきれたことに、帝大の先生も軍人さんたちもすっかり丸め込まれちゃってる」
「人間は、聞きたい事だけしか耳に入らないものよ」
 当時、最新式のデザインで評判となったクライスラー製の高級自動車プリムスのハンドルを握りながら、伊集院満枝が答えた。助手席にヨヒが、後部座席にエジャが座っている。
「あの将校さんたち、内心では今の天皇が自分たちの味方ではなく、特権階級の庇護者であり、欧米に協調して支那の横暴を座視し、国家改造など望んでいない、そう気づいているのよ。昭和維新は、別の天皇の下でしか実現できないのではないか、とね」
「別の天皇?」
「あの渋谷という少尉。彼は、わたくしが弘前でお会いした宮様のお付きなの」
 彼があの場にいて、わたくしを呼んだ理由は、おわかりよね? そう言う満枝に、ヨヒは肩をすくめた。
「彼らは、自分たちが天皇に取って代わろうとはしないのね」
「あなたたちパルチザンと違って、日本の軍人は、大元帥たる天皇に刃向かうことはおろか、批判することすらできやしない。だから、わたくしが代わりに彼らの本音を言ってあげただけ」
 満枝は答え、ヨヒを一瞥して薄く笑った。
「そもそも、この策は、あなたの考えだったのよ、ヨヒ」
「そうなの?」
「あなた、満州で言ったじゃないの」
 天皇の生母は、怪しい宗教を信じている。宗教を道具にして生母に取り入り、宮城に入り込む。そして、皇室の男たちをすべて去勢する……。
「万世一系が途絶えることこそ、革命への近道。そう話し合ったのよ。お忘れ?」
「忘れてた」
 ヨヒは苦笑した。
「日本の天皇の血を引くお姫様に化けろと言われた時はびっくりしたけれど、そういう意図があったわけね」
 ねえ、エジャ(愛子)。後部座席を振り返ってヨヒは言った。いつの間にか、とんだ大役を任されちゃったわね。エジャは黙ったまま軽く笑みを返した。
「さて、皆さん」
 満枝が車窓の外を見つめて言った。
「今夜の獲物は、どこで見つけましょうか」
「あいつらがいいんじゃないか?」
 ヨヒが車窓の外を指さした。白い麻のスーツにカンカン帽をかぶった男だち四人が、ほろ酔い加減で歩いていた。

 麻布の高級住宅街の一角にある伊集院満枝の洋館の一室。
 床には三人の男たちが悶絶していた。右腕がおかしな方向に曲げられた男は左手で、両手が無事な男は両手で、右手で砕かれた右膝を押さえている男は左手で、それぞれ蹴り上げられた股間を押さえ、苦悶のうめきを発しながらのたうちまわっている。
 そして部屋の隅では、三人の女に囲まれる形で、一人の男が壁を背に、怯えた表情で後ずさりしていた。
「ま、待て……」
 四人の男たちは、満州事変以来好景気が続く軍需産業の幹部であった。宴会の帰り道、美女三人に誘われるままついてきて洋館に入るなり、いきなり四人のうち三人が股間を蹴り上げられ、腕を折られ、膝を砕かれ、床に転がった。
「君たちは何者だ。なんの恨みがあってこんなことを……」
「そういう台詞も聞き飽きたわ。皆さん、同じことをおっしゃるんだもの」
 満枝があざけるように笑いながら言った。
「でもいいわ。答えてさしあげましょう。わたくしは、男性を去勢するのが好きなの」
「きょ、去勢……!」
「こちらのヨヒさんは、昔、朝鮮の抗日パルチザンだった方。日本人が大嫌いで、朝鮮でも大勢の日本兵や警官を去勢したわ。それに飽きたらず、日本の男はすべて去勢したいと願ってらっしゃるの」
「抗日パルチザンだと!」
 男は、甲高く悲鳴をあげるように問うた。
「そ、そんな恐ろしい女が、どうして日本に入って来ているんだ?」
「そして、こちらのエジャさん」
 男の問いを無視して満枝は続けた。
「関東大震災のとき、ご両親が日本の自警団に乱暴され命を落としたために、苦界に身を沈めたかわいそうな方。当然、日本の男を恨んでるわ」
「ま、待ってくれ!」
 男は両手で股間をかばいながら、泣かんばかりに叫んだ。
「わ、わしは朝鮮人をひどく扱った事なんかない。内鮮融和には大賛成だ。日本の男がみんな、朝鮮人を差別してるわけじゃないんだ」
 助けてくれ……。涙を流しながら哀願する男を鼻で笑い、エジャとヨヒを見やって満枝は言った。
「さて、この人、どなたがおやりになる?」
 すっとエジャが一歩前に足を踏み出した。男は悲鳴をあげ、お願いですお願いですと叫んで拝むように両手を合わせた。満枝は、ヨヒを向いて「いいの?」と問うた。ヨヒはうなずいて答えた。
 エジャはずいぶん上達したわ、どれだけの腕前になったか見てあげて。
 男は意を決したように、エジャに殴りかかった。エジャはさっと身をかわし、男の右手首を掴んで後ろ手にねじあげて背後に回り、右足のつま先を股間に打ち込んだ。男は絶叫した。エジャはすかさず男の頭髪をつかみ、頭頂を壁に打ち込んだ。男は失神し、床にくずおれた。
 エジャはすぐに男を仰向けにし、ナイフを抜いてズボンを切り裂いた。腫れ上がった陰嚢と皮をかぶった陽物があらわになった。エジャは男の陽物を根本から切り取ると、男の口に押し込んだ。失神していた男は、眼を見開き、両手で喉を押さえ、海老ぞりになって痙攣しはじめた。
「おみごとね」
 満枝が言った。
 前より手際が鮮やかになったわ。ヨヒの指導がよかったのね。
 断末魔の男を笑顔で見ていた女たちの背後で、三つの悲鳴があがった。自らの性器を喉に押し込まれ窒息死しつつある仲間の姿に、三人の男は涙を流し、思うように動かぬ体を必死に動かして、女たちの魔手から逃れようともがいていた。
「あとは……」
 満枝が冷たく笑った。
「公平に一人ずつ、分けあいましょうね」
 満枝は、さきほど右腕をへし折った男に歩み寄っていった。立ち上がることもできず尻を突き出す格好で腹這いに這って逃げようとする男をゆっくりと追いつめた。背後で絶叫があがった。振り向くと、ヨヒとエジャが、それぞれ犠牲者を押さえつけ、性器を切断しようとしていた。
 役者が揃ってきたわね。満枝は、呟いた。あとはあなただけ。
 佐和子さん……。(第八部・了)






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