金蹴り超訳・傾城水滸伝
十一編 大団円の巻



十一編之壱
龍子・力寿は伊吹山に赴き、
烏有仙女に助力を請う


 伊吹山(いぶきやま)は、標高一三三七メートル。山頂近くはいまだ雪が降り積もっています。
 険しい山道を、小柄でほっそりした雲間隠(くもまがくれ)の龍子(たつこ)と、大柄な旋風(つむじかぜ)の力寿(りきじゅ)は、獣皮にくるまり、ひたすら寒風に絶えながら登りました。
「ねえ、龍子さん」
 見晴らしの良い崖の上で一休みしながら、力寿は訊ねました。
「その、なんとか仙女って人は、すごい術を使うんですか?」
「そうよ」
 龍子は、竹筒の水で喉をしめしながら答えます。
「わたくしなんかじゃ、とても及ばない仙術と、学識の持ち主なの」
「それじゃあ、いっその事、梁山泊に来てもらえばいいんじゃないンすかね」
 力寿は言いました。
「呪術で相手を追い払えるんだったら、何も武術を磨く必要もないし、味方も傷つかずにすみますし」
「ねえ、力寿さん」
 龍子は微笑んで言いました。
「わたくしが一度、風雨を起こす術を使った後、回復するのに何日かかると思う?」
「え、回復?」
「だって、人には動かせない天文を動かすのよ。すごく体力を使うの」
「そうだったんですか?」
 目を丸くする力寿に、龍子は言いました。
「そうね。一回戦いの中で術を使うたびに、少なくとも三日は寝込むわ。あまり頻繁に術を使うと、寿命が縮むとさえ言われているの」
「ほ、ほんとですか……」
「そうよ。だからわたくしは、ここぞという窮地でしか出番が与えられないの」
「命がけだったンすね」
 力寿は神妙な面持ちで、肩を落として言いました。
「ごめんなさい。あたい、頭悪いから、術を使うことがそんなに大変だったなんて、気づきもしなかった。そういや、合戦で術を使った後、しばらく龍子さんの姿を見なかったかもしれない。実はその間、休んでらしたんですね」
「そのくらい、恐ろしいことなの。自然の摂理を人間の力で動かすことは」
 龍子は、真面目な面持ちで言いました。
「だから、師匠の烏有仙女(うゆうせんにょ)さまは、人間界に術を利用されることを嫌って、この伊吹山に籠もり、ひたすら学問に打ち込んでいるわけ。たとえいくら言葉を尽くしてお誘いしても、絶対に梁山泊には来ないわ。いえ、今回の事でも、力をお貸ししてくださるかどうか、わたくしにも分からない。でも、一つだけ確信した事があるわ」
「なンすか?」
「あの綾重(あやしげ)という術使い、絶対に許せないわ」
「え、許せない?」
 力寿は、珍しく激しい言葉をつかう龍子を、ぽかんとして見つめました。龍子は続けました。
「綾重は、普通だったら体力が持たないほど、長時間にわたって術を使っていた。おそらく、何か疲れを感じなくなるような薬物を呑んでいるに違いない。そうして、己の術で人が混乱に陥るのを楽しんでいるのよ。そういうの、わたくしは大嫌い。あんな女をのさばらせておいては、この国の行く末にろくな事はないわ。だからわたくしは決心したの。お師匠様を頼ろうと」
 龍子は、力寿の肩を叩いて言いました。
「たぶん、お師匠さんは、すごく辛辣な言葉で拒絶すると思う。お願いだから、短気は起こさないでね」

 二人が山頂に達した時、すでに日は暮れかかっておりました。
 雪をかきわけて進んだ先に、小屋が建てられており、煙突から煙がたちのぼっています。
「あれがそうよ」
 龍子は嬉しそうに言いました。すなわち、烏有仙女羅衣(うすぎぬ)の住処(すみか)です。
「うわあ、ありがたい」
 力寿は叫びました。
「骨まで凍ってかちんかちんです。早くあったまらせてもらいましょうよ」
「ええ、そうね……と言いたいところだけれど」
 龍子は、面差しを引き締めました。
「礼儀にはうるさい人ですからね。ちゃんと失礼のないようにしないと、一晩中、寒い中に放り出される羽目になりかねませんよ」
「わー、それきついっす!!」
 小屋の戸口にたどり着き、龍子は軽く叩いて、
「お師匠様、雲間隠の龍子にございます」
 と丁寧に挨拶しましたが、うんともすんとも返事がかえってきません。何度やっても同じです。
 ついに痺(しび)れを切らした力寿、乱暴に戸をがんがん殴り付け、
「やい、ばばあ! 開けろ! 寒いだろ! 凍え死ねってのか!」
 と罵倒しますと、
「誰がばばあじゃ!」
 いきなり扉が開き、顔を出した女が、力寿の股間を蹴り上げました。
「ぎゃっ!」
 恥骨を蹴り上げられ、涙目でうずくまった力寿、
「な……何しやがる……」
 見上げると、年は四十前でしょうか、白い綿入れにざんばら髪の女が、怒り顔で力寿を一喝しました。
「大事な研究の最中に声をかけちゃいけないのは常識でしょ!」
「研究の最中とか、そんなの外からはわかンねーよ!」
 と二人が言い合っていると、
「師匠!」
 龍子が、雪の上に土下座して叫びました。
「お懐かしゅうございます。つれの者がとんだご無礼をいたしました」
「なんだ、龍子じゃないか」
 師匠、すなわち烏有仙女の羅衣は、きょとんとした顔で龍子を見つめ、不意に、わっと叫んで外に飛び出し、龍子に抱き付きました。
「よく来たね! 寒かっただろ? さ、なかでお暖まりなさい!」
 と龍子を抱きかかえて室内に入り、戸を閉めようとするのを、
「あ、待って!」
 と力寿、痛む股間を抑えて立ち上がり、慌てて後に続きます。
 囲炉裏端に坐り、両手を炎に突き出して暖を取る龍子と力寿に、烏有仙女は囲炉裏にかけた鍋の雑炊をふるまい、しばらく子弟二人で積もる話を続けておりましたが、
「ところで師匠」
 龍子は居住まいをただし、
「伏して、お願いしたいことがあります」
 と、梁山泊軍が綾重の術の前に苦戦している経緯を伝え、策を授けてほしいと懇願しました。
「ふーん、そりゃ大変だねえ」
 と、烏有仙女は、鍋に残った雑炊を碗に入れてたいらげ、関心なさげに言いました。
「お願いです、師匠」
 龍子は土下座して頼みます。
「わたくしたちは、男たちに虐げられてきた女のための新天地建設を目差し、志を同じくする鎌倉幕府と同盟関係を結びました。ここで、亀菊に敗れることがあれば、せっかく全国で盛り上がりつつある男尊女卑撲滅の風潮は、消滅してしまうでしょう。ですから何とぞ、師匠のお力を借りたいのです」
 熱弁を振るう龍子を、烏有仙女は凝視していましたが、ふと溜息をつくと、
「あたしにゃ関係ないわ」
 と冷たく言い放ちました。驚いて顔をあげた龍子と、むっとした力寿が凝視するなか、仙女は続けました。
「確かにあたしは女だけれど、別に男に比べて貶(おとし)められてるなんて感じた事ないわ。こうやって独りで生きていけるだけの力を身に付けりゃ、男女どっちの地位が上か下かなんて、くよくよ悩まずにすむはずでしょ」
「師匠、それは師匠のように特別な方だけの話です」
 龍子は言いつのります。
「世間には、貧しく、学を身に付ける余裕もなく、ただひたすら男に殴られ、犯され、子を産まされ、労苦を一身に押しつけられる女のほうが、遥かに多いのです。そういう女たちを何とか救いたいのです」
「あんたたちが勝てば、そんな女たちを救えるって、そう言い切れる自信はあるのかい?」
 龍子が言葉に詰まっておりますと、仙女はさらにたたみかけました。
「人間の意志が、社会を変えられるなんて幻想だよ。無理に変えようとすると、かえって社会は地獄だ。腐った貴族社会が、武士の世に移り変わろうとしているのが今の世の中だけれど、平治・保元の乱、源平合戦でいったいどれだけの人が命を落としたか……」
 仙女は、両手を天上に向けて伸ばし、大あくびをしながら言いました。
「悪いけど、あたしは乗らないよ。戦は勝手にやっておくれ。あたしはこの小屋で、宇宙の真理を究めたいんだ。邪魔はしないでちょうだい」
 それから、掛け布団を二つ、龍子と力寿の前に置き、
「あんたたちはこの囲炉裏端で寝な。あたしは寝所で休ませて貰うよ」
 と告げて、襖(ふすま)を開けて奥の小部屋に入っていき、再び襖を閉じました。しばらくすると、寝息が聞こえてきます。
「予想はしていたけれど、明日また説得するしかないわね」
 そう溜息をついた龍子は、ふと、黙って坐っていた力寿が、膝をつかんで身を震わせ、怒りの形相凄まじいのに気づきました。
「ど、どうしたの?」
「おい、仙人、てめえ!!」
 力寿は突然立ち上がると、奥の寝所の襖をがらりと開けて、布団に入ろうとしていた仙女の胸ぐらを掴んで立たせました。龍子は愕然として悲鳴をあげました。
「力寿さん、何するの!」
「てめーみたいな冷血女、こうしてやる!」
 そう怒鳴ると、力寿、仙女の頬を左から右からぽかぽかと数発、殴りつけました。
「やめて、力寿さん!」
 龍子は、必死になって力寿にしがみつきました。
「あなたが叩いたら、師匠は死んじゃうわ! わたくしに免じて、やめて!」
 力寿は、はっとしたように仙女から手を離しました。仙女は仰向けに倒れました。顔じゅう真っ赤に腫れ上がり、鼻から唇から血が噴き出しております。
「大変、師匠! 大丈夫ですか!」
 龍子は、懐から手ぬぐいを取り出して、土間に置かれた瓶の水にひたし、倒れた仙女の傍らに坐って、顔の血を拭き始めました。それから茫然としている力寿を見上げ、唇を噛みしめて睨みつけ、
「もう知らない!」
 と叫んで、ぱたんと襖を閉めてしまいました。
「入ってきたら、絶交ですからね!」
 ふだんは冷静な龍子を怒らせたことに気づいた力寿は、力なく座り込み、しょぼんと肩を落としていましたが、頭から布団にくるまって横になりました。
「師匠、申し訳ありません」
 奥の寝所では、龍子が必死に仙女を介抱していました。
「後できつく叱っておきますから、どうか、許してやってください」
 涙ながらに訴えていると、不意に仙女が体を起こし、龍子に向かってにかっと笑いました。その笑みを見て、龍子は仰天しました。
 さきほどあんなに腫れ上がっていた仙女の顔は、何事もなかったのように、きれいでつやつやしているのです。声をあげようとした龍子を制するように、唇の前で人さし指をたて、いたずらっぽく微笑んで仙女は囁きました。
「ちょっとした術さ、知ってるでしょ?」
 体を瞬間移動させて幻影の体を作り、襲いかかってきた敵に相手させるという術なのです。力寿は、仙女の幻を殴っていたに過ぎなかったのです。
 龍子は、ほっとして全身の力が抜けたように座り込みました。なにせ力寿の腕力です。並の人間なら殴られただけで死んでしまいかねません。
「乱暴者だけれど、まっすぐないい娘だね」
 仙女は穏やかな面差しで眼を細め、襖の向こう、力寿がふて寝しているあたりを見やって呟きました。
「え?」
 訝しげに問う龍子の肩をたたき、仙女は布団に潜り込みました。
「なんだか、理由がありそうだね。それが何か、明日、確かめるよ」

 翌朝。
 大鼾(おおいびき)をかいて寝ていた力寿が目を覚ましますと、龍子が土間の竈(かまど)で忙しそうに台所仕事をしており、仙女は囲炉裏端に座って、火に手をかざしております。
「あ、ばばあ!」
 力寿は驚いて叫びました。
 昨夜、ぼこぼこにしたはずの顔に、殴られた痕跡が少しも残っていなかったからです。
「ちょっと、そこにお座り」
 涼しい顔で言う仙女に、度肝を抜かれた力寿は、おとなしく布かれた座布団の上に座りました。
「いいかい、あんたは昨夜、さんざんあたしを殴った。何に腹立てたのか、きちんと話してごらん。聞いてあげるから」
「わかんねぇのかよ」
 力寿は、顔を背けて吐き捨てるように言いました。
「龍子さんがあんなに頼んでるのに、あんたがあんまり人を馬鹿にしたような態度を取ったからさ。悪いけど、あたい短気なんでね」
「そうかい。ま、話したくないなら、それでいい。あたしが聞き出すだけの話さ」
 そう言った瞬間、力寿が坐った座布団が宙に浮き、天上近くまで上がったのです。
「あ……!」
 力寿が唖然としていますと、座布団は物凄い速さで移動し、戸口を突き破って外に飛び出しました。そのまま伊吹山の山頂をぐるぐる廻ってから上昇し、雲を突き破ったかと重うと、今度は凄まじい速さで落下し、どこかの池に突入したのです。
 どぼんと水中深く潜ってしまった力寿、必死で水をかいて浮き上がり、抜き手をきって岸辺に辿り着き、陸にあがって仰向けに倒れ、ぜいぜい、はあはあと喘いでおりますと、
「やぁい、やぁい!」
 と子ども達の声がします。身を起こした力寿は、
「あーーーーーっ!!!!」
 と叫びました。
 そこは、信濃の国の松枝村。即ち力寿の故郷です。村外れの池のほとりに、背の高い女の子を囲んで、十人ばかりの子どもがはやし立てています。
「女のくせに、おまえ、でかすぎなんだよ」
「女のくせに、男よりでかいと、お嫁にいけないぞー」
「やぁい、力寿の化け物。どっかにいっちまえ!」
 その時、数人の大人がやってきて、子どもたちの手をつかみました。
「だめ、あの子を相手しちゃだめでしょ」
「あんな化け物、触ったらうつりますよ」
「さぁ、おうちに帰りましょうね」
 子どもたちは親に連れられてどこかに去っていき、背の高い女の子はひとり、しゃがみこんで泣き出しました。するとそこに、小柄で太った女の子がやってきたのです。
「力寿、どうしたの?」
「豚代姉ちゃん」
 力寿と呼ばれた女の子は、太った女の子にしがみつき、号泣しました。それをあやしながら豚代という名の姉は、
「よしよし、あたい、力寿の大好きなおまんじゅう作っておいてあげたからね。さ、一緒に帰ろう」
 そうだった……。
 仲良く並んで去っていく姉妹の背中を見ながら、力寿は呟きました。
「あたいはあの頃、齢(とし)にしては大きすぎて、大人からも子どもからもいじめられてた。女のくせに、と言われて泣いてばかりだった。早く両親をなくしたあたいを、守ってくれる大人はいなかった。豚代姉ちゃんだけが、あたいを庇ってくれた。十二になった時、あたいはこの池に身を投げて死のうとした。死にきれなかったあたいは、決心した。男より強くなって、あたいをいじめた連中をやっつけてやるって。あたいは体を鍛え、あたいをいじめた男の子たちや、見て見ぬふりをしていた男たちのきんたまを蹴り上げて、村を飛び出したんだった……」
 そう呟いて力寿は、両手で顔をおおって涙を流しました。
「あたいを庇(かば)ってくれた豚代姉ちゃんは、もうこの世にいない。会いたいよう……」
「あんたの姉ちゃんは死んだけれど……」
 仙女の声が響きました。
「そのかわり、大勢、お姉さんができたじゃないか」
 はっとして力寿が顔をあげると、目の前に、龍子の肩に手をおいた烏有仙女が、並んで坐っていました。
 いつの間にか力寿は、仙女の小屋に戻っていたのです。
 仙女は言いました。
「龍子もそうだけれど、梁山泊にはあんたの姉もいれば、妹もいる。みんなで力を合わせて、世の中を変えようとしている。あんたを、女の癖に、といじめたような連中がいなくなるような世の中にしたい。あんた、そう思ってるからこそ、昨夜、あたしをぼこぼこに殴ったんだろ?」
 そう言われ、力寿は素直に頷きました。仙女は続けました。
「術を使って、あんたの記憶を溯(さかのぼ)らせてもらった。辛い思い出だったようで、申し訳なかったけれど、おかげで、あんたがただの乱暴者じゃないと分かったよ」
 それから龍子に顔を向けて言いました。
「あんたに策を、一つだけ授けてあげよう」
「ほんとうですか!」
 顔を輝かせる龍子を、たしなめるように面差しを引き締めて、力寿は言いました。
「ただ、これだけは約束しておくれ。その策を使うのは一度だけ。それから、敵軍以外の者は決して巻き込まぬようにすること。犠牲者は最小限度に抑えること。いいかい?」
「わかりました、師匠」
 龍子は、両手を床について頭を下げました。力寿も土下座し、言いました。
「ありがとうございます!」
 それからほどなく、龍子と力寿は、仙女に別れを告げ、伊吹山を下りて梁山泊へと向かったのでありました。

「これが……その薬ですか」
 梁山泊。奥まった一室には、大箱と節柴、呉竹ら幹部と、総大将の桜戸、そして伊吹山から帰ってきた龍子と力寿が集まりました。
 卓上に、龍子が烏有仙女から授かった小瓶が置かれています。こわごわと小瓶を見つめて、大箱はさらに問いました。
「使うのはたった一度だけ。そのくらいの劇薬だと言いましたね」
「そうです」
 龍子は、低い声で言いました。
「ある意味で、敵にとって、いちばん酷い死に方をさせる事になる。師匠はそう言いました。たとえ命が助かっても、その後の人生は地獄だと」
 一同は息を呑んで、小さな瓶を見つめました。
 龍子が、桜戸に訊ねました。
「戦況は、どんな具合ですか?」
「敵は菅の浦に終結し、総攻撃の準備をしているようです。昨日、援軍も駆けつけてきました」
「援軍?」
「ええ、お稚児さんらしい美少年ばかり、亀菊軍の女武者五百と同じ数だけ送り込まれてきました。偵察していた朱西さんによると、里の者がみな逃げてしまって、相手をさせる男の子がいなくなったので、亀菊に要請して、都の美少年を慰安夫として送ってもらったのではないか、と」
「では、亀菊軍の付近には、他には誰もいないのですね」
「はい」
「朱西さんは?」
「偵察を終えて、すでに砦に戻っています」
「わかりました」
 龍子は、呉竹に向かって言いました。
「軍師さま。明日は、わたくしだけで前線に参ります」
「え、お一人で?」
 驚く一同に、龍子は言いました。
「前も言いましたとおり、この策は危険です。味方を巻き込むわけには参りません。だから、わたくし一人で行きたいのです」
「そんなぁ!」
 力寿が叫びました。
「危なすぎますよ、だったらあたいが護衛について、一緒に前線に行きます。今、龍子姉さんを失うわけにはいきません!」
「そうなさい」
 大箱が言葉を添えました。
「策を用いる前に、敵の矢に狙われるかもしれません。それで龍子さんに何かあったら、わたくしたちはおしまいです。どうか、命を大事になさってください」
「わかりました」
 龍子は、力寿に頭を下げました。
「力寿さん、よろしくお願いします」

 翌朝。
 前夜、美少年慰安夫をたっぷりと楽しんだ亀菊軍は、総攻撃の準備を終え、梁山泊の向こう岸に船を並べ、総大将・綾重の命令を待つばかりでした。
 美々しい鎧に身をかため、白馬にまたがった綾重が、手にした金色の采配を大きく振り上げ、振り下ろそうとした時。
 一艘の小舟が梁山泊の方から近づいてきました。漕ぎ手のほかに、女が二人乗っています。一人は、白い巫女装束に身を包み、笹竹を手にした小柄な娘。もう一人は、鉄斧をさげた大女です。
「あれは、雲間隠の龍子じゃないか!」
 綾重は、叫びました。
「最近、噂を聞かないと思ったら、なんと梁山泊にいやがったとは。さてはあたしの術に対して、術で戦おうって腹なのね。よし、その勝負、受けてやるよ」
 馬から下りて湖岸へと歩き、龍子に向かって叫びました。
「おおい雲間隠、久しぶりだね! 元気にしてたかあ!」
「元気よ!」
 龍子が叫び返すと、綾重はあざ笑いました。
「術使いとしてはへたくそで認められなかったから、謀反を起こした犯罪者集団に入ってちやほやされ、羨ましい限りだねえ。どんな術が使えるようになったか見てやるよ。やってごらん!」
 そう言われて龍子、舟の上で印を結び、何やら唱えました。たちまち強風が起こって、湖岸の亀菊軍に吹き付けますが、相手を吹き飛ばすほどの威力はありません。
「なんだい、そのへろへろ風は!」
 綾重はげたげた笑って言いました。
「そんなもんで、あたしの術に勝てるわけないだろ、小娘が!」
 そう言って綾重が呪文を唱えると、今度は湖岸の方から強風が龍子の舟を襲いました。舟は、風に押されて木の葉のように舞い、力寿は船端にしがみつき、舟を操っていた水慣棹の二網は、必死に艪を操って流されまいとします。
 それでも龍子は、呪文を唱え続けました。そして湖岸では、余裕綽々の表情で術を使っていた綾重の面差しが引き締まり、やがて必死の形相に変わりました。
 龍子が起こした風が、次第に綾重の風を押し戻しはじめたのです。亀菊軍は強風に吹き付けられ、後ずさりせざるを得なくなってきました。
「そんな馬鹿な!」
 綾重は叫びました。
「あのへたれ女が、あたしの術を上回るなんて!」
「今よ!」
 小舟の上で龍子が叫びました。
「力寿さん、早く!」
「はい!」
 力寿は身を起こすと懐から例の小瓶を取り出し、その口を亀菊軍に向けて、栓を取りました。
 小瓶から、銀色の粉が飛び出して、亀菊軍に吹きつけられました。
「え……ええ……!」
 中央の綾重の左翼で、指揮をしていた雛形が、肩で息をしはじめました。
「なぜ……こんな時に……」
 言いながら両手で全身をかきむしり、甲冑を脱ぎ捨て、右手で剥き出しにした自分の胸乳をつかみ、左手を股間に差し入れ、刺激しはじめたのです。
「雛形、何をしているの!」
 驚いた綾重が見廻すと、今度は右翼で指揮をしていた下貝までが、同様に甲冑を脱いで自慰に耽っています。
 彼女らだけではありません。五百の女武芸者たちは、一斉に身悶えを始めたのです。
「ああ……もうだめ……」
「ほしい……誰か、抱いて!」
 綾重もまた、股間から吹き上がってくる性欲に耐えられず、
「男が……男がほしい!」
 と喚き、背後に控える、都から送られてきた美少年の慰安夫たちに向かって走り出しました。それを合図に、亀菊軍の女武芸者たちは一斉に美少年たちに襲いかかり、彼らを押し倒して犯しはじめました。
 烏有仙女が授けた小瓶の中身は、強力な媚薬だったのです。
「すげえ……」
 湖岸で五百人の女武芸者と五百人の美少年が繰り広げる痴態を見て、力寿は眼を丸くしました。
「あれが、これから何日も続くってわけ?」
 龍子は頷いて、呪文を唱え続けました。風の向きを調整し、ばらまかれた媚薬が、亀菊軍以外に吹きかからぬようにしているのです。
 ……この薬を吸った者は、男であれ女であれ、強力な性欲に襲われ、相手を犯し続ける事になる。やめたくてもやめられず、やがて体力がつき、困憊して死に至る。だから決して、敵以外の者に吸わせてはならないよ。
 烏有仙女はそう言いました。
 それから三日間、龍子は呑まず喰わずで呪文を唱え続けました。しまいには、とうとう力尽きて舟底に倒れ臥し、そのまま昏々と五日ばかりも眠り続けたのです。
 そしてその頃には、琵琶湖岸には、精を使い果たして窶れ、陰部でつながったまま死んだ男女合わせて千の屍が、無惨な姿をさらしていたのでした。もちろん、綾重や雛形、小貝も同じ運命を辿ったのです。
 やっと龍子が眼を覚ました時、枕元で力寿が看病していました。
「よかった!」
 力寿は、龍子の首に抱きつきました。
「敵は全滅した! 梁山泊は救われたんだ! 龍子姉さんのおかげだよ!」
「わたくしだけの手柄じゃないわ」
 龍子は微笑んで、力寿を抱き返しました。
「力寿さんも、がんばったわ。特に師匠の気持ちが変わったのは、力寿さんが一緒にいてくださったからよ」
「え、そうかなあ?」
「きっと、そうよ」
 龍子は床を出て、庭の縁側に立ち、ふと砦のなかにいる兵の数が少なく、静まりかえっている事に気づきました。
「何か、あったの?」
「みんな、出陣したんだ」
「出陣?」
「うん」
 力寿は言いました。
「今こそ、都に攻め上がり、亀菊の息の根を止めるべきときだって、軍議で決まったのさ。あたいは、龍子さんが回復し次第、参戦することになってるの」
「そうですか……」
 龍子は言いました。
「いよいよ、世の中を変える最終決戦ですね!」

十一編之弐
梁山泊軍は都へと迫り、
院の女武者たちは公卿たちの陰謀を知る


 龍子が目を覚ます四日前の事です。
 亀菊軍を媚薬攻撃によって全滅させた翌日、大箱は節柴、呉竹、桜戸とともに、龍子の室を訪ねました。術を使った疲労で寝込んでいた龍子には、ずっと力寿が付き添っていました。戦い終わった直後の龍子は、高熱を発してうなされており、ずっと力戸がその手を握り、冷たい水で額をさましたりと介抱していたのです。
 幸い、一夜明けて病状は峠を越したようでしたが、それでもやはり、三日寝ずに術を使い続けた負担は、大きかったようでした。
「ほんとうに龍子さんに助けていただきました」
 大箱は、安らかに寝息をたてる龍子を見やって、ほっとしたように言いました。
「力寿さんも、ありがとうございました。あなたたちが、烏有仙女さまを説得していただいたから、今回は勝つことができたのです」
 節柴も相づちを打ちました。
「戦というものは、評判が大事です。特にわたくしたちのような非合法組織は、一度でも敗北を喫すると、味方をする者も離れてしまい、弱体化しかねない。そういう意味でも助かりました」
「ところで……」
 力寿が訊ねました。
「これから、どうするンですか?」
「どうするって?」
「つまりその……都の亀菊です」
 亀菊……。
 確かに、亀菊軍は追い払いました。しかし、悪の根源である亀菊は健在なのです。
「そうですね……」
 呉竹が言いました。
「執念深い亀菊のこと、次なる攻撃を考えているはずです。今回よりも手強い部隊を温存していないとも限りません」
「では、さらに防備を固め、兵力や糧食も増強しましょう。さっそく取りかかります」
 そう言って桜戸が立ち上がろうとした時、大箱が手で彼女を制して言いました。
「力寿さん、何かご意見はありますか?」
 節柴、呉竹、桜戸は、一斉に力寿を見ました。確かに、何か言いたげな面差しです。
「え? いや、あたいは、皆さんの指示に従うだけで……」
「あなたのご意見を伺いたいのです」
 大箱は、やや口調を強めて促しました。
「遠慮なく言ってください」
「はあ……あたい、頭悪くてよくわかんないんだけど……」
 力寿は、身を縮めて言いました。
「あの……亀菊は、一日も早く、やっつけるべきだと、ええと、そう思います」
 一日も早く? 一同が息を呑むなか、桜戸が訊ねました。
「それは、こちらから都を攻めて、亀菊を討ち取れということ?」
「うん……。そういう事っす」
 上級幹部の四人は、顔を見合わせました。
 都を攻める。
 これまで、考えた事もありませんでした。都は日本の中心地であり、尊い皇室がおわすところです。そこに攻め込むのはまさに謀叛に他なりません。
「なぜ、そうすべきだと思ったの?」
 大箱が問いました。力寿は説明しました。
「なんていうか……仙女さまからいただいた劇薬をまいた時の、亀菊軍の女たちを見て、そう思ったんです。つまり……亀菊は、今の都を牛耳ってるけれど、それって、要するに上皇様をたぶらかしているだけで、一応、いちばん偉いのは上皇様であって、亀菊は、側室の一人に過ぎないわけでしょう。なんか、おかしくないすか?」
 最初は遠慮がちだった力寿の言葉が次第に熱を帯びてきました。
「そういうのって、結局男尊女卑じゃないですか。今はまだ、偉い人に寵愛されないと、どんなに賢い女でも権力を振るえない社会なんだって、そういう事でしょ。それに、亀菊軍がやった事って、里を略奪して美少年を誘拐して犯すとか、男の武者がやってる事の裏返しです。それじゃあ世の中変わらないっていうか、男尊女卑より悪いって言うか……だから……」
 力寿は、顔をあげて言い切りました。
「一日も早く都を占領して、亀菊をぶっ殺して、社会を作り替えなきゃ、あたいたちの目的は達成できないと思うんです!」
 そう叫んで、力寿は顔を真っ赤にして俯きました。
「そうですね……」
 節柴が言いました。
「力寿さんの言うとおりだわ。男に媚びて掴んだ権力なんて、男尊女卑を温存するだけ、百害あって一利なし。そのことを、天下に示さないといけませんね」
「桜戸さん」
 呉竹が問いました。
「いつ、都に向けて出陣できますか?」
 桜戸は答えました。
「都にいる友代さんに、現地の様子を知らせてもらうよう、手配してください。その情報さえあれば、早ければ明後日にも出陣可能です」
「わかりました」
 大箱は頷きました。
「そろそろ、決着をつけるべき時ですね」

 二日後。
 梁山泊軍は、虎尾の桜戸を総大将として八百の兵をもって都に突入しました。西国からかき集めた万余の兵が全滅したため、上皇方は抵抗らしい抵抗を見せられぬまま、梁山泊軍は院の御所に迫ったのです。
 院の御所には、三百ほどの女武者所の兵力が残っており、頑強な抵抗を見せましたが、次第に劣勢となり、糧食も尽き果てたところで、異変が起こりました。
 亀菊が、突然姿を消したのです。
 院の御所内は大騒ぎになりました。奮戦していた女武芸者たちは戦意を失い、公卿たちは後鳥羽上皇のもとに集まって指示を求めましたが、長きにわたって亀菊の操り人形にすぎなかった上皇は、どうしてよいか分からず、
「亀菊」
「亀菊はどこだ」
 と、御所のなかをうろうろするばかり。
 公卿たちは、額を集めて鳩首会議を開きました。
「これは、あくまで亀菊さまが起こしたいくさじゃ」
「われら公卿には、なんの関わりもないこと」
「では、亀菊さま配下の女武者所の者たちを戦争責任者として突き出し、梁山泊軍に和を請うというのはいかがであろう」
「それはよき案」
「よき案じゃ」
 その会議は、女武芸者たちに漏れ伝わる事になってしまいました。
 院の御所の女武者所教頭(おしえがしら)は、二藍(ふたあい)の紫苑(しおん)という女武芸者でした。
「わたくしたちを生け贄にして、延命を図ろうというの?」
 報せを聞いて歯がみした紫苑。向かった先は、後鳥羽上皇の異母姉の功子(ことこ)内親王でした。
 わずか二歳で伊勢の斎宮に選ばれ、伊勢神宮の神に仕えるという名目の下、恋愛も結婚も許されずに過ごし、齢四十近くになった今も、ひっそりと院の御所の片隅に部屋を与えられて過ごしている皇女です。
 綾重や玉桐といった、荒淫の女たちが幅をきかせていた女武者所にあって、優れた武芸の持ち主でありながら日陰の身であった紫苑は、同じような境遇の功子内親王と心を通わせあっていたのです。
 ちょうど、藤原定子や大江通子といった側近の女官たちも同席していました。
「紫苑、どうしたのです」
 訊ねる功子内親王に、紫苑は、公卿どもの企みをすべて打ち明けました。
「そうですか……」
 内親王は、溜息をついて言いました。
「何時の世にも、愚かな男どもの犠牲になるのは女でした。こんな風潮を断ち切る時が、いよいよやってきたのかもしれませんね」
「わたくしたちの敵は、梁山泊ではありません。腐りきった男どもです!」
 藤原定子は怒りを浮かべて言いました。大江通子も唱和します。
「立ち上がりましょう。これ以上、男どもに国をまかせてはおけません」
 しばし後、紫苑率いる女武芸者たちは、院の御所の奥にある岩戸壷(いわとのつぼ)と呼ばれる広間に突入しました。上皇様が諸卿を集めて政事(まつりごと)を聞こし召すための部屋で、「三編之壱」で桜戸が、亀菊の罠にはまって迷い込み罪を着せられた所です。
 折しも、公卿たちが勢揃いし、女武者所の者たちを戦犯として突き出す文書に、後鳥羽上皇が署名するよう迫っていました。
「何事か!」
 乱入してきた女武芸者たちに狼狽しつつ、居丈高な姿勢を崩さず怒鳴りつける公卿たちを、二藍の紫苑は「やかましい!」と威圧し、
「亀菊に骨抜きにされ、政事(まつりごと)をないがしろにしておきながら、いざとなると、女に責任を負わせて生き延びようとするなんて、なんて卑怯者な人たちなの! きんたま潰してあげるから、覚悟なさい!」
 と叫ぶと、女武芸者たちは一斉に公卿たちに襲いかかります。
「ぎゃあああ!!!!」
「ぐえっ!」
「ううう……」
 たちまち公卿たちの睾丸は、蹴り潰され、踏み潰され、握り潰されました。
「い、痛い……手を離してくれ……」
「悪かった、謝る、だから潰さないでくれ……」
「ど、どうか、きんたまだけは……」
 涙声で懇願する公卿たちを、女武芸者たちは情け容赦なく去勢したのです。
 それからほどなく、院の御所内から、降伏の意を告げる矢文が、包囲する梁山泊軍の陣地に打ち込まれ、正門の扉が重い音をたてて開きました。
 院の御所に入った桜戸たち梁山泊軍が見たのは、自ら甲冑を脱ぎ、武器を外して畏まる院の御所の女武者たちと、去勢され瀕死の状態で横たわる大勢の公卿たち、そして、青白い顔で震えながら、助けてくれ助けてくれ……と呟く後鳥羽上皇でした。
 遷都以来四百数十年にわたって日本を支配してきた京の都は、梁山泊軍の手に落ちたのです。
 早馬が梁山泊に飛ばされ、翌日、大箱や節柴も、院の御所に到着しました。
 そして数日後、後鳥羽上皇は隠岐島(おきのしま)へ配流となり、功子内親王が即位して天皇となる事が発表されました。続いて除目(公卿の人事異動)が公表され、殺害された高位高官にかわって、藤原定子や大江通子ら有能な女性たちが数多く登用されたのです。
 また、鎌倉幕府の第四代将軍となった三世姫は、正式な役職名として征東大将軍の地位を朝廷から与えられ、三世姫を擁する鎌倉幕府には、関東八カ国と奥州の治安が委ねられました。
 そして梁山泊首席幹部の大箱は、征中大将軍として、北陸、信濃、東海など現在の中部地方を統括する事となったのです。
 山陰、山陽は従来どおり都の朝廷に、四国と九州は父・小武信種(こたけののぶたね)の後を継いで太宰府探題となっていた十時御前(とときごぜん)が征西大将軍に任ぜられ、地域の治安維持を委ねられました。
 日本全国が女によって支配される体制が、ここに始まったのでありました。

 功子天皇によって新たに統率されることになった朝廷で、征東大将軍の宣治を受けるため上京した三世姫が、護衛をつとめる安蛇子とともに、梁山泊に立ち寄ったのは、都の戦乱が収まって一ヶ月後の事でした。
 歓迎の宴が五日間にわたって盛大に催されましたが、ひとり、その場に顔を見せない幹部がいました。
 虎尾の桜戸です。
 実は、安蛇子は梁山泊に着くと、出迎えた桜戸に耳打ちしました。
「菅(すげ)の浦にある、朱西さんのお店を訪ねてください」
「なぜです?」
 訝しげに問い返す桜戸に、安蛇子は微笑んで答えました。
「懐かしい方がお待ちですよ」
 もしやと思い、足早に砦を降りて湖をわたり、菅の浦に至った桜戸が、朱西の店の扉を開けたとたん、
「わが妻!」
 発せられたか細い声に、
「あなた!」
 桜戸が駆け足で飛びついた相手は、夫の軟清でした。
 かつて亀菊の陰謀によって桜戸が佐渡に配流になった折、三下り半を書かせて離縁した軟清が、梁山泊まで桜戸を訪ねてきたのです。
 桜戸と別れてからというもの、亀菊の誘惑は執拗さを増し、とうとう軟清は都を逃げ出して、鎌倉に辿り着きました。その地で偶然、安蛇子と知り合い、桜戸が梁山泊にいることを知ったのです。そこで安蛇子は、三世姫を護衛するかたわら軟清を伴って梁山泊に至りました。男である軟清は、梁山泊には入れないので、朱西の店で待機させられたのです。
 その夜、桜戸と軟清は、店の奥座敷を与えられました。洩れてくる喘ぎ声を聞いていられなくなった朱西は、店の外の床几に腰をおろして煙草をふかしつつ、
「お店番は、辛いね」
 と呟きながら、月を眺めて夜を過ごしたのです。
 一方、梁山泊の大箱の寝所でも、楽しげな喘ぎ声や、くすくす笑いが洩れておりました。
「こんな時がくるなんて、思ってもいなかったわ」
 寝台で一つの布団にくるまって、安蛇子に向き合いながら、大箱は言いました。
「よかった……。ずっと仲直りしたかったから」
「わたくしもよ」
 安蛇子は、大箱の額に唇を寄せ、それから真顔になって言いました。
「実は、知らせがあるの」
 安蛇子の面差しの変化に、大箱も眉根を引き締めて問いました。
「なに?」
「亀菊のこと」
「亀菊?」
「どうやら、熊野にいるらしいわ」

 翌日、大箱、節柴、呉竹、桜戸、そして安蛇子の五人は、砦の奥まった一室に集まりました。
「ほんとうなのですか?」
 驚いた幹部たちは口々に問いました。
「ほんとうのようです」
 安蛇子は答えました。
「熊野別当の行快(ぎょうかい)から、六波羅決断所に報告があがったのです」
 熊野別当とは、熊野三山と呼ばれる三つの神社(本宮、速玉大社、那智大社)とその社領地を管轄する僧です。膨大な数の僧兵集団を抱え、朝廷や幕府も手出しできない独立した勢力を誇っていました。
 安蛇子は続けました。
「熊野の那智(なち)に、室長寺(むろおさでら)という、寂れた廃寺があります。かつては、無漏海(むろかい)の尼聖(あまひじり)という貴い法力の持ち主が開いた尼寺で、隆盛を極めた事もございましたが、この頃は荒れ果てて人も近寄らぬとか。その寺に、二十人ほどの怪しい一団が入り込み、夜な夜な、麓の里を荒らしており、熊野別当が僧兵五十を差し向けたところ、返り討ちにあって全滅したのです」
「熊野の僧兵が!」
 呉竹が驚いて叫びました。熊野別当配下の僧兵といえば、かつて源平合戦の折、源氏方について活躍した勇猛な集団なのです。
「それを全滅させるとは、よほど手強い相手と見えます。いったい何者なのですか?」
「それが、戦った相手はたったの一人。しかも若い女だというのです」
「一人で五十人を?」
「はい。女は、五十人のうち四十九人を殺害した後、たった一人残った僧兵の男根を切り落とし、残った陰嚢に紙を結びつけて追い返しました。麓の里にたどり着いた僧兵は、苦しい息の下で、一人の女のため全滅したと言い残し、息絶えたのですが、彼の股間に結びつけられた紙というのが、これなのです」
 安蛇子が懐から取り出したのは、血痕が無惨に染みついた半紙でした。白地の部分には、ただ一行、こう書かれていました。
「おおばこ あだこ ふたりでこい かめ」
 一同が息を詰めるなか、大箱が説明しました。
「亀菊は、わたくしと安蛇子さんと二人で来るように、伝えているわけです」
「いけません!」
 真っ先に桜戸が反対しました。
「もし行かれるのなら、わたくしも行きます。亀菊には深い恨みがあるんです!」
 夫との仲を引き裂いた憎い仇なのです。節柴も言葉を添えました。
「勇猛な熊野の僧兵五十をたった一人で倒したほどの相手です。安蛇子さんが一緒とはいえ、危険すぎます」
「むしろ、大軍をもって室長寺を攻めましょう」
 と提案したのは呉竹でした。
「都から逃亡して一月たらずなのに、熊野の奥地で二十人の味方をつけたのが亀菊です。放置しておけば、いずれ見過ごせない勢力になるでしょう。今のうちに、徹底的に叩きつぶし、息の根を止めておくべきです」
「大軍を送っては、相手に気づかれます。また逃げられるかもしれません」
 安蛇子はそう言いました。
「わたくし、六波羅で熊野別当の使者と話し合いました。熊野三山としては、領地内で亀菊が勢力を増すのは見過ごせない。しかし、女武芸者を大勢、領地内に入れる事はできない、というのです」
 節柴、呉竹、桜戸は顔をしかめました。当時の大きな寺や神社は、政府から半独立した勢力を持っており、そういう地域では女人禁制の場所が多いのです。
「ただ、数人の女武芸者が亀菊を討つのは、黙認するということです。ですから、少人数で行くしかないのです」
「分かりました」
 節柴は、大箱に向かって言いました。
「では、こうしたらいかがですか? 大箱さんと安蛇子さんのお二人で行くことにして、その従者として桜戸さんともう一人が、付き従うという形にするのです」
「たった四人ですか……」
 そう問う呉竹に、節柴は言いました。
「五十余の僧兵に対して、戦ったのは亀菊一人とのこと。あとの連中は雑魚でしょう。桜戸さんと安蛇子さん、それにもう一人の方がいれば、なんとかなるかもしれません」
 もう一人には、亀菊の不興を買って院の御所の女武者所を追放された青嵐の青柳が選ばれました。
 亀菊の顔を見知っている四人の編成となったのです。
 翌日、四人は熊野に向けて梁山泊を発ちました。

 お気づきの方もいらっしゃる事と思いますが、熊野の室長寺とは「初編之壱」で語りました、鳥羽上皇様の御代、朝廷から派遣された立木(たつき)の局(つぼね)が、無漏海(むろかい)の尼聖(あまひじり)招聘のために立ち寄った際、苦海に沈んだまま果てた数多の遊女の魂を封じ込めた「傾城塚」をあばいた場所でした。
 それから百年が経っていたのです。
 大箱、安蛇子、桜戸、青柳の一行が、室長寺のあった場所に行ってみますと、周囲は柵に囲まれ、櫓や苫屋が建ち並び、ちょっとした砦のようになっておりました。
「あそこに、亀菊が籠もっているわけね」
 四人は、やや離れた丘に登り、相手から見えぬよう木の間に身を隠して、砦の様子を探りました。
 二十人余の美少年たちが、柵の中を動いているのが窺えました。時折、数人組の美少年が、里で奪ってきたらしい俵や壺を載せた大八車を退いて柵の中に入っていきます。大八車が夥しい返り血に染まっているところを見ると、彼らが里でどんな事をしていたのか、知れるというものです。
「あの連中、許せないわ」
 桜戸が歯がみして言いました。青柳も頷きました。
「罪もない里人たちを殺戮するなんて……一人残らずきんたま潰してやる」
「とはいえ、亀菊の息の根を確実に止めるためには、ただ、力押しに攻めるというわけにはいかないわね」
 安蛇子が言いました。
「相手は少なくとも二十人以上、恐らく三十人を越えている。わたくしたち三人が、一人十人ずつ相手している間に、また、亀菊に逃げられるかもしれない」
「では、どうするの?」
 大箱が問いました。安蛇子は答えました。
「亀菊の言うとおり、まずはわたくしと大箱さんだけで柵の中に入りましょう」
「なんですって!」
「だめですよ、そんな、危ない!」
 驚く桜戸と青柳に、安蛇子は説明しました。
「まず、わたくしと大箱さんで、亀菊に面会するのです。面会したら、わたくしは何とかして、その場所に火を付け、居場所を知らせます。あなた方二人は、その煙を目印に突入してください。そうして、確実に亀菊を仕留めるのです」
 安蛇子は、大箱を見やって問いました。
「それで、いい?」
 大箱は、無言で息を呑み、しばし眼をしばたたかせました。
 無意識のうちにこぶしを握っていました。
 かつて六波羅決断所に務めていた頃、幾度か亀菊を見かけたことがあります。きれいなひと。そんな印象でした。やがて、どこか幼さを残した美貌の裏にある、恐ろしい本性を知るにつれ、最初は憎しみと嫌悪感を覚えました。
 今は違います。
 怖いのです。
 人間、あんなに残酷になれるものかしら……。
 かつて自分を逆恨みした安蛇子がぶつけてきた憎しみとは違うものを、亀菊には感じるのです。なぜなら、亀菊は、己の裡にある恨みや憎しみから、ああいう行動に出たのではないからです。
 亀菊は楽しんでいるのです。人の命を弄ぶことを。都を追われ、この熊野の山奥に来てまでも、その楽しみを繰り返している。
「そうしましょう」
 大箱は答えました。総身が細かく震えていました。両手が、いつの間にか膝を掴んでいました。怖い……。会いたくない……。
 ふと顔をあげると、桜戸と青柳が、心配そうに大箱を見つめていました。
「大丈夫ですか?」
 桜戸が問いました。
「相手は大箱さんの顔は知らないのでしょう。だったら、わたくしか青柳さんが、大箱さんになりすますことにしましょうか」
「それはだめです」
 大箱が首を横に振りました。
「それだと、火をつけてから突入する役がお一人だけということになります。わたくし、武芸はさっぱりですから」
 それから、安蛇子を見やって言いました。
「安蛇子さん、守ってくださるわよね?」
 安蛇子は微笑んで頷き、言いました。
「命にかけて」
「では、決まりですね」
 そう言ったとき、大箱のふるえは止まっていたのです。
 大丈夫。
 わたくしは、一人じゃないのだから。

十一編之参
大箱、安蛇子は亀菊と再会し、
物語はいよいよクライマックスを迎える


 この人が……。
 亀菊。
 大箱は、目の前にある光景を、信じられない思いで凝視していました。
 安蛇子と二人、柵門を守っていた美少年たちに「亀菊さんに伝えてください。大箱と安蛇子が来た、と」と告げ、やがて案内されたのは、奥にある小さなお堂でした。
 その扉が開いた時、大箱たちの目に飛び込んできたのは、白いふくよかな四肢を、薄く透き通る絹で覆っただけの、小柄で、妖艶な美少女でした。
 そして、亀菊が坐っているのは、お堂の木の床に仰向けに並んで寝ている、三人の美少年たちでした。亀菊は、中央に寝ている美少年の男根を右手でつかみ、己の陰部にあてがって刺激しながら、左手で長い煙管をくわえ、煙を吹き上げているのです。
 よく見れば、中央で寝ている美少年の胸には、火のついた炭を乗せた鉄皿が置かれ、じりじりと彼の肌を焼いています。美少年は歯を食い縛ってその痛みに耐え、亀菊は知らぬげに、少年の男根を使って、快楽を得ているわけです。
「久しぶりね、安蛇子」
 十八歳になったばかりとは思えぬほどの色香を発しつつ、とろんと溶けるような眼差しを向けて、亀菊は言いました。
「お前も、一緒に楽しまない? 幸い、あと二本残っている」
 と、左右の少年たちの男根を指さして、けらけらと笑い、腰を浮かして中央の少年の男根を陰部に深く沈め、ゆっくりと腰を動かしはじめました。
「亀菊さま」
 安蛇子は、眼をそらしながら言いました。
「お呼びになられたので、参りました。まずは、その理由をお聞かせください」
「そうだった。お前は、男には関心がなかったのだったね」
 そう言うと亀菊は、少年の男根から我が身を引き抜いて立ち上がり、手を振って合図をしました。少年たちは畏まって平伏し、並んで四つんばいになり、その背中に亀菊は腰をおろしたのです。
 安蛇子は嫌悪感を面差しに浮かべ、大箱はあまりの光景に度肝を抜かれて茫然の態でありました。
「理由は、簡単よ」
 亀菊は、すっと立ち上がると安蛇子に近寄り、その胸元に手を差し入れました。あまりの早業に動けないでいた安蛇子は、乳首を撫でられ、思わず喘ぎ声をあげてしまいました。
「鎌倉と手を組みたいの」
「え……?」
 驚く安蛇子を尻目に、亀菊は大箱を見やり、
「梁山泊ともね」
 と言ったので、大箱は眼を丸くしました。
 手を組む……?
 わずか三十人の美少年を従えているだけの亀菊が、いまや東西の一大勢力となった鎌倉幕府や梁山泊と、「手を組む」などという事はありえません。
「驚かないで、これは決まった事なの。運命なの」
 亀菊は安蛇子の胸元から手を引き抜くと、背後の壁一面を覆っている白絹を、さっとおろしました。
 現れたのは、人の背丈ほどもある石碑です。亀菊は言いました。
「わたくしは十一歳のとき、遊女に売られた。辛い日々に耐えかねて逃げ出し、この山奥の廃寺にたどり着いた。そこで見たのが、この石碑」
 上の方に、長い文章が彫られいるのを指でなぞりながら、亀菊は続けました。
「こう書かれているの。かつて無漏海(むろかい)の尼聖(あまひじり)が、苦海に沈んだまま果てた数多の遊女のさまよう魂百八つを、室長寺の傾城塚に封じ込めたが、百年前、都よりの勅使立木の局なるものが塚をあばき、その魂を解き放った。そしてその魂はいずれ転生し、社会を転覆させるだろう、と」
 それから亀菊は、文章の下に並んだ人の名前をさして言いました。
「そして、転覆した世を治める事になる百八の名前が、ここに彫られているの。ごらんなさい」
 そう言われて大箱と安蛇子は、石碑に近づいて、彫られた名前を読み始め、驚きの声をあげました。
 そこには、こう彫られていたのです。
「梁山泊
  首 席  春雨の大箱
  次 席  折滝の節柴
  三 席  智慧海の呉竹
  四 席  雲間隠の龍子
  五 席  虎尾の桜戸
  六 席  二鞭の芍薬
  七 席  花殻の妙達
  八 席  青嵐の青柳
  九 席  赤頭の味鴨
  十 席  旋風の力寿
  十一席  浮潜龍の衣手
  十二席  水慣棹の二網
  十三席  気違水の五井
  十四席  鬼子母神の七曲
  十五席  野干玉の黒姫
  十六席  天津火の韓藍
  十七席  夕轟の打出
  十八席  戸隠の女鬼
  十九席  越路の今板額
  二十席  女仁王の杣木
  二十一席 天津雁の真弓
  二十二席 人寄せの友代
  二十三席 億乾通のお犬
  二十四席 荒磯神の朱西」
 まさに自分たち梁山泊の幹部の名前でした。さらに、
「鎌倉幕府
首 席  征夷大将軍 三世姫
  次 席  尼将軍 北条政子
  三 席  御台所 坊門信子
  四 席  女武者所別当 阿波局
  五 席  決断所別当 伊賀尼
  六 席  女武者所教頭 安蛇子」(以下略)
 と幕府の要職を占める女性数十人の名前が並び、これに続いて、
「太宰府探題
  首 席  征西大将軍 十時御前
  次 席  向不看の索城」(以下略)
「宮 中
  首 席 功子天皇
  次 席 太政大臣 藤原定子
  三 席 左大臣 大江通子
  四 席 右大臣 徳大寺明子
  五 席 大納言 清原少子
  六 席 女武者所教頭 二藍の紫苑」(以下略)
 そして末尾には驚くべきことに、
「日本国総覧
首 席  亀菊」
 とあるのです。
 彫られた女たちの名前の数は、まさに百八人でした。
「わかった?」
 茫然とする大箱と安蛇子に、亀菊は得意満面で言いました。
「予言は的中したわ。今やこの国は、女が中心となった宮中、幕府、梁山泊、太宰府探題によって支配されている。でも、ただ一つ欠けているものがある。それは、日本全体を総覧する者の存在よ。そして、その座に納まるべきは……」
 亀菊は、息を吸い込み、大きな乳房を誇示するようにして、言い放ちました。
「この亀菊なの」
 言葉を失って石碑を凝視する大箱と安蛇子を見やりながら、亀菊は再び美少年たちの背中に腰を下ろして続けました。
「だから、あなたがたは、わたくしと手を組むしかないわけ。わたくしがこの国を総覧することで、予言は完成し、この国の新しい歴史が始まるの。さからってはいけないのよ、運命には」
「間違ってます」
 不意の小声に話の腰を折られ、亀菊は眉をひそめました。
 声の主は大箱でした。俯き加減に唇を震わせながら、大箱は言いました。
「すべては予言どおりになるなんて、間違ってます。わたくしは、今まで自分の意志でここまできました。梁山泊の仲間もそうです。安蛇子さんたち鎌倉幕府もそう。あなたが邪(よこしま)な目的でつくった院の御所の女武者所は、今は功子陛下の下で、男尊女卑撲滅のために日々がんばっています。それらはみな、わたくしたち女が一人でも多く幸せになれるようにとの、大勢の人の意志と願いによって達成されたものなんです」
 いつしか、大箱の眼から涙が溢れ出していました。
「安蛇子さんは、最初はわたくしへの恨みから、亀菊さまに接近し、わたくしを罠にはめて破滅させようとしました。でも安蛇子さんは、今ではわたくしたちの同志です。自分だけの恨みにこだわるよりも、多くの人々のために働く方が、より尊いことに気づかれたからです」
 そこで一息深呼吸して、大箱は言いました。
「でも亀菊さま、あなたは、何よりも個人の欲望だけで動いている」
 いつしか涙は止まっていました。大箱は、瞬きもせず亀菊を見据え、立ち上がりました。
「あなたは、自分の楽しみのためには、人の命をも省みない冷酷な方。誰がどんな予言をしようと、そんな人にこの国を奪われてたまるもんですか!」
 言うなり大箱は、懐から取り出した瓶を、亀菊の顔にぶちまけました。
 油でした。
 亀菊が怯んだところを、安蛇子は、焼けた炭を鉄皿から取り上げ、亀菊の顔に投げつけました。炭の熱が油に引火し、たちまち炎となって亀菊の美貌を包みました。
 亀菊は絶叫しました。両手で顔を覆って地面に伏し、火を消そうと転げまわりました。
「亀菊さま!」
 美少年たちは立ち上がり、一人は亀菊を介抱し、残る二人は、壁にかけてあった太刀を引き抜いて、大箱と安蛇子に襲いかかってきました。
「大箱、さがって!」
 安蛇子は大箱を庇うように立ちふさがると、一人の美少年の股間を蹴り上げ、もう一人の美少年の陰部に太刀を打ち込みました。
 一人は睾丸を蹴り潰され、もう一人は男根と陰嚢を切り落とされ、二人とも血を噴く股間を両手で抑えて悶絶します。
 さらに安蛇子は、自分の懐から瓶を取り出して床に油をまき、炭火を投げつけました。たちまちお堂の中は炎に包まれました。
「亀菊さま!」
 亀菊を介抱していた美少年が、
「早くお逃げを、火が放たれました!」
 とゆすぶったのを、亀菊は顔をあげて立ち上がり、
「邪魔だ!」
 と、美少年の股間を膝で蹴り上げたのです。睾丸を蹴り潰され悶絶する美少年を突き飛ばすと、亀菊は壁にかけていた太刀を手にとって抜き放ち、
「安蛇子……よくもやったわね!」
 と切りかかってきました。あの膨大な数の男たちを惑わせた美貌は、半ばまでもが無惨に焼けただれ、髪の毛はちりちりと焦げ、凄まじい形相です。
 たちまち、炎を背景に剣戟が始まりました。
「安蛇子さん……逃げなきゃ……」
 燃え上がる炎と、激しく戦う二人を見くらべながら、大箱はおろおろするしかありませんでした。

「煙が見えたわ!」
 柵の近くの岩陰で見守っていた桜戸は、里の奥の方で吹き上がった黒煙を指さして叫びました。
「行きましょ!」
 青柳はそう応じ、抜刀して駆け出し、柵門を守っていた三人の美少年のうち、一人の首を跳ね上げました。続いて駆けた桜戸は、もう一人の睾丸を蹴り潰して倒し、群がってきた数人の美少年たちを斬り散らし、たちまち屍の山が築かれました。
 不意の火事に右往左往していた美少年たちは、さらに現れた二人の女武芸者を前に、ますます混乱に陥りました。そこかしこで、絶叫や悲鳴、助命を請うて泣き叫ぶ声が響きました。

 一方、奥のお堂では、亀菊と安蛇子の戦いが続いておりました。安蛇子は、衣手ら四人を相手に互角に戦ったほどの腕ですが、亀菊の剣技は安蛇子よりも上回っていました。安蛇子は次第に劣勢になり、追いつめられていったのです。
 追いつめられた安蛇子が必死に繰り出した一撃を、亀菊はさがってかわすのではなく、逆に間合いを詰め、安蛇子の右腕を小脇に抱えると、ぐいと力を込めました。
 安蛇子は悲鳴をあげました。亀菊は、安蛇子の右腕をへし折ったのです。刀を取り落とし、苦痛に顔を歪めてしゃがみこんだ安蛇子の喉元に、亀菊は切っ先を突きつけました。
「ただじゃ殺さないよ」
 亀菊は、肩で息をして喘ぐ安蛇子を冷たく見下ろして言いながら、すっと切っ先を移動させ、安蛇子の右の頬にあてがい、傍らで震えている大箱を見やって言いました。
「この女、お前の彼女なんでしょ? 好きな女が見ている前で、死ぬよりむごい目にあわせてあげるわ」
 言うなり、さっと刀を動かし、大箱は悲鳴をあげました。
 亀菊は、安蛇子の右頬を切り裂いたのです。安蛇子は、手首のない左腕の袖で顔を覆い、俯せに倒れました。
「まだよ!」
 安蛇子の頭髪を掴んで顔をあげさせ、今度は額を切り裂きました。
 ……桜戸さん、青柳さん。
 大箱は涙をぼろぼろ零しながら、胸の裡で呟きました。
 ……早く来て。わたくしだけじゃ、どうにもできない。
 安蛇子の美しい顔が無惨に切り刻まれ、鮮血を吹き上げているのに、何もできない。どうしたらいいのだろう?
「どうした、安蛇子!」
 血が滴り落ちる顔を伏せて喘ぐ安蛇子を嘲笑いながら、亀菊は叫びました。
「そのきれいな顔を傷つけられて、生きる望みもないだろ。殺してなんかやらないよ。恥を晒して生きるんだ!」
「何、言ってるの?」
 その冷静な声音に、亀菊も大箱も、息を呑みました。
 血まみれの顔をあげた安蛇子は、笑っていたのです。彼女は、静かに続けました。
「顔を切られたくらいで、わたくしが絶望するとでも? 残念でした。わたくしは、お前と違って、きれいな顔と、男を喜ばせる技だけでのしあがってきたわけじゃないの」
 亀菊の面差しが歪みました。安蛇子は続けます。
「わたくしも、あなたと同様、遊女だったことがあった。ひたすら生きるため、男を喜ばせようとした。この大箱さんのおかげで、苦海を抜け出せたにもかかわらず、逆恨みして彼女を罠にはめた。危うく死刑になるところだったのに、大箱さんは最後まで、わたくしに会いたいと言っていた。その言葉が、わたくしを生まれ変わらせたの」
 唇の端を曲げて見つめる亀菊の眼差しから、眼を逸らすことなく、安蛇子はさらに言いました。
「わたくしは、大箱さんを愛している。その心映えの美しさを尊敬してる。たとえ、この顔を醜く切り刻まれ、それで大箱さんがわたくしを嫌いになったとしても、わたくしは大箱さんを愛しつづけるし、愛する人がいるかぎり、わたくしは絶望なんかしない。これまでとおり、男尊女卑撲滅のために働くだけよ」
「黙れ!」
 亀菊は、うわずった声音で叫びました。
「殺してやる!」
 叫んで太刀を振り上げた亀菊の身体が硬直しました。
 彼女の腹部、へそから下あたりに、深々と太刀が突き刺さり、陰部にかけて抉(えぐ)っているのです。
 安蛇子が振り向いてみると、大箱が、右腕を前に伸ばしたまま、眼を見開いて亀菊の陰部に刺さった太刀を凝視していました。
 大箱は咄嗟に、安蛇子に斬られた美少年が床に落とした太刀を、亀菊に向けて投げつけていたのです。
「お前は……」
 亀菊の眼差しが、大箱に向けられました。陰部に突き刺さった太刀を引き抜くと、股間から血を迸らせながら、己が太刀を構えたまま、よろよろと大箱に歩み寄ったのです。大箱は悲鳴をあげて尻餅をつき、恐怖のあまり動けなくなってしまいました。
「危ない!」
 安蛇子が立ち上がり、背後から亀菊の股間を蹴り上げました。亀菊は絶叫し、両手で股間を押さえてしゃがみこみます。しかし、すぐに顔をあげて立ち上がり、手を伸ばして安蛇子の喉をつかんで締め上げました。安蛇子は苦しげに喘ぎ、相手を突き飛ばそうともがきましたが、亀菊は怯まず、安蛇子を壁に押しつけて叫びました。
「死ね! 裏切り者!」
 亀菊は激しく罵りました。
「何が遊女だった事がある、だ! しょせんお姫様として生まれたお前に、わたくしの恨みの深さが分かるか!」
「分かんない!」
 安蛇子は、渾身の力を振り絞り、亀菊の股間を膝で蹴り上げました。亀菊の陰部からさらに血が迸り、床を赤く染めていきます。
 安蛇子は叫びました。
「分かってほしかったら、人間らしくしろ!」
 そう言ってやっと亀菊を突き飛ばしたその時、
「亀菊、覚悟!」
 飛び込んできたのは、抜刀した桜戸と青柳でした。桜戸の太刀が、振り向いた亀菊の左の乳房の真下に深々と突き刺さり、続いて一閃させた青柳の太刀は、亀菊の首を切断し、宙を舞ったその生首は天井にぶつかり、床に落下しました。
「早く、外へ!」
 すでに火は、お堂を嘗め尽くすばかりの勢いでした。桜戸と青柳に手をひかれ、大箱と安蛇子が外に飛び出し、熱の届かぬ所まで走った直後、お堂は焼け崩れ落ちたのでした。
 そしてお堂の外には、亀菊が集めた美少年たちの死体が、そこかしこに散乱していたのです。
 やがてお堂の焔は、隣接する櫓や苫屋にも燃え移り、亀菊がその人生の最後に築いた村は、夜まで燃え続け、焼け滅びたのでありました。

 翌朝。
 ようやく火が収まった焼け跡に入った大箱、安蛇子、桜戸、青柳は、お堂のあったあたりに聳え立つ、例の石碑の前に集まっていました。
「わたくしたちの名前が?」
 驚く桜戸と青柳に、大箱は、彼女らの名前が彫られた箇所を指し示した。
「名誉なことだわ」
 青柳は、「八席 青嵐の青柳」と刻まれた箇所を指でなぞって嬉しげでした。
「世の中を変えた百八人のなかに、わたくしが入っているなんて」
「みなさんの名前がありますね」
 大箱もにこにこして言いました。
「ぜひ梁山泊に持ち帰り、皆さんに見ていただきたいわ。近くの里の人たちに協力していただきましょう」
「できれば、百八人の方々を集めて、大宴会を開きたいわね」
 桜戸が言いました。
「まさか、天皇陛下を梁山泊にお迎えするというわけにもいきませんから、朝廷に掛け合って、一般の方々も参加できるお祭りにしたいわ」
「いい案です。でも……」
 顔じゅうに包帯を巻いた安蛇子は、俯いて言いました。
「問題は、百八人目の名前なんです」
 石碑に彫られた人名の末尾には、こう彫られているからです。
「日本国総覧
首 席  亀菊」
 それもそうだわ……。そう思いながら、石碑を改めてみやった大箱が、「あ!」と叫びました。
「見て! 彫られた文字が変わってるわ!」
 四人が顔を集めて、石碑の人名の末尾をみると、そこにはこう彫られていたのです。
「日本国総覧
   女」
 そこにあった亀菊の名は、ただ「女」とだけなっていました。
「そうなんだ、そういうことなんだ」
 大箱は、驚く三人を見回して言いました。
「予言どおりに、世の中は動くわけじゃないわ。わたくしたちの意志が、予言の方を書き換えていくものなのよ」

 それから、八百年以上の歳月が流れました。
 女たちが要職を占める鎌倉幕府、梁山泊、宮中、大宰府探題の四つの機関が協力しあいながら全国を統治していく体制は、その後も長く続き、その間、日本は平和を享受し続けました。十六世紀に来日したキリスト教の宣教師たちの報告によりますと、日本は世界で唯一男女平等であり、戦争のない理想郷であると描かれています。
 十九世紀後半、西洋列強の軍事力がアジアを蚕食しはじめた時、多少の内紛はありましたが、比較的少ない犠牲で、天皇を頂点とする統一国家に生まれかわることができました。
 むろん、後に明治天皇と呼ばれた睦子陛下は、女性天皇でした。新政府は皇室典範によって天皇制を明文化し、女系の女性天皇が即位すると規定されたのです。
 二十世紀に入り、欧米世界では二度にわたる世界大戦が勃発し、多大な犠牲者を出しましたが、日本は近隣諸国と友好関係を保ち、局外中立を貫きました。第二次大戦後、世界平和を目指して国際連合が設立されたとき、事務総長に選ばれたのは、日本女性でした。
 初代国連事務総長・大庭安子の提案で、京都に置かれた国連本部の正門には、世界で始めて男女平等社会を樹立するのに大きな役割を果たした百七人の名前を刻んだ石碑が飾られました。
 言うまでもなく、熊野の室長寺のお堂から大箱たちが持ち出した、あの石碑です。
「やりましたよ、わたくし」
 国連発足式の日、正門の石碑を見上げながら、事務総長の大庭安子は呟きました。
「ご先祖様の夢は、全世界で実現したのです」
 そう、大庭安子総長は、傾城塚から飛び出した遊女の魂の、転生した姿だったのです。
                                                 (金蹴り超訳「傾城水滸伝」完)


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