傾城水滸伝
三編 虎尾の桜戸の巻



三編之壱
亀菊、桜戸の夫・軟清に懸想し、
桜戸を罠にかけようと画策する


 さて、二編の末尾に登場した虎尾(とらのお)の桜戸(さくらど)は、有名な古刹である為楽院(いらくいん)の別当の娘でありました。
 桜戸は、幼い頃から武芸をたしなみ、十三四になる頃には都でもかなう相手もいない武芸者に成長しました。その噂が後鳥羽院の寵愛を受ける亀菊(かめぎく)の耳に入り、設置したばかりの女武者所に召集され、しばらくその教頭を務めておりましたが、昨年、父が亡くなり、跡継ぎの男子がいなかったので、桜戸は女武者所を辞して為楽院に戻り、高弟の軟清(なんせい)を婿養子として別当職を継がせたのでありました。
 この軟清、世にも稀な美貌の持ち主、内気で優しい性格で、なにごとも妻の桜戸を立て、姉のように慕っておりました。桜戸も、この夫を侮ることなく、都でも評判のおしどり夫婦と言われていたのであります。
 ある日、桜戸が花殻(はながら)の妙達(みょうたつ)の番小屋で、いつものように酒を酌み交わしておりますと、
「奥様、奥様!」
 一人の男が走ってまいりました。為楽院の小奴(こやっこ)である錦二(きんじ)という者です。
「大変です。軟清の旦那さまが深草稲荷を参詣するお供をしていたのですが、鳥居先で大勢のお女中に囲まれ、えらい難儀しております。何卒、助けにいってあげてください」
「そりゃ大変だ」
 妙達は鉄杖を持って立ち上がりました。
「よし、あたしも加勢する。その女ども、この鉄棒で蹴散らしてくれる」
「いえ、よいのです」
 桜戸は静かに立ち上がりました。
「わたくしが言うのもなんですが、夫はかなりの美少年の上、内気でおとなしい人。おそらく酒に酔った女たちにからかわれているだけでしょう。わたくし一人で参ります」
 そう言って、番小屋を辞し、錦二を伴って稲荷山へと向かったのでありました。

 その少し前。
 その日、後鳥羽上皇様の寵姫・亀菊は、数多の女房や雑色・下部など数十を引き連れ、牛車を連ねて深草稲荷にお参りしておりました。
 稲荷山に着くと、亀菊は牛車を降り、腹心の女房や女童(めのわらわ)のみ従え、社(やしろ)への参道を進みましたところ、登り終えた鳥居のほとりにただ一人、絶世の美少年が佇んでいるのに出会いました。
 桜戸の夫の軟清です。傍らに小奴が二人、従っております。
「なんてきれいなお坊さんだろう」
 十六歳の亀菊は感嘆の溜息を漏らし、
「小柄で可愛らしいのも気に入ったわ。心ゆくまであのからだ、弄んでみたいもの。そして……」
 亀菊は扇で口元を覆って卑猥な笑みを浮かべました。彼女は時々、都の美少年をさらってきては、色ごとに耽り、挙げ句の果てに睾丸を潰して殺すという、恐ろしい趣味の持ち主でもあったのです。
「あの坊さんを、ここに連れて来て」
 そう言いつけますと、伴の女房どもが数名走り出して、軟清を取り囲み、
「われらが主がそなたをお呼びだ。すぐに参れ」
 と権高に命じました。突然のことにて狼狽した軟清、
「主どのとは、どなたでございますか?」
 と蚊の鳴くような声で訊ねます。
「どなたでもよい! 言うことを聞かぬと、後々災いがあるぞ。お前のような坊主の一人や二人、どうにでもできる権勢をお持ちのお方なのだ」
 そう言われてますます怯える軟清、首を振って動こうとしないでいると、
「おとなしく従え!」
「さもないとお咎めがあるぞ!」
 女房たちは軟清につかみかかり、連れ去ろうとします。軟清は近くの木にしがみつき、
「いやです。許してください」
 と涙目で抵抗します。見かねた小奴が、
「ご無体はおやめください」
 と、軟清と女房どもの間に割って入ろうとして、一人の女官に扇でしたたかに股間を打たれ、うずくまってしまいました。
 もう一人の小奴が、先に登場した錦二です。
「大変だ。桜戸さまを探し出して、助けてもらおう」
 と走り去っていきました。そして軟清は、抵抗あえなく亀菊の前に引きずり出されてしまったのです。
「まあ、近くで観れば観るほど、美少年だこと」
 亀菊は、怯える美少年を前におほほほと笑い、
「今からわたくしの屋敷に同道しなさい。悪いようにはしないわ」
「お待ち下さい」
 軟清は必死に訴えました。
「やんごとなき御方の忍び詣でと拝察します。なぜ青天白日の下、出家人たるわたくしを捕らえ、お屋敷に連れ去ろうとなさるのですか。お願いです。帰らせてください」
「口答えは許しませんよ」
 亀菊、笑って扇で軟清の方を叩き、すっと右手をその股間へと伸ばします。僧衣の上から亀頭に触れ、さらに陰嚢へと指を走らせて撫でまわせば、その巧みさに軟清、思わず性器を強ばらせ、陶然として眼を閉じる。さらに愛撫を続ければ、軟清うっとりと溜息をもらし、ついつい「参ります」と答えてしまいそうになったその時、
「お待ち下さい!」
 高らかに叫びながら走って来た者がおりました。軟清は眼を見開き満面の笑みを浮かべて叫びました。
「ああ、わが妻が助けにきてくれた!」
「わが妻?」
 亀菊は軟清が見つめる方に視線を走らせ、愕然となりました。
「あの者が、お前の妻なのか?」
 走ってきたのはむろん、虎尾の桜戸でした。
 女武者所の別当として、短期間ではありますが桜戸と親しく接し、その腕を見込んで教頭に取り立てたのは、亀菊であります。
 豪傑ぞろいの女武者所にあっても抜きんでた腕前の持ち主の桜戸です。さすがの亀菊もこれ以上、無理無体をするわけにもゆかず、
「あら桜戸、久しぶりね」
 と親しげな笑みを作って桜戸に声をかけます。
「亀菊さま、ご無沙汰いたしております。わが夫が何か……?」
「たいした事じゃないわ。この稲荷を参詣していて、右手に痺れを覚えたので、加持祈祷をしてもらおうとお坊様にお願いしただけよ」
「それは困りましたね」
 桜戸は困惑した面差しを作ってみせました。
「わたくしの夫は為楽院の別当です。たとえ関白様太政大臣様といえども、御上(天皇)の勅許なしに、加持祈祷など行ってはならぬ身の上なのです。何とぞお許しください」
「それは知らなかったわ」
 亀菊は頬を真っ赤にして
「帰るわよ」
 と伴の女房たちに言い、急ぎ足に参道をくだっていきました。
「あなた、大丈夫?」
 へなへなと腰を抜かした夫に駆け寄り、肩を抱いて慰める桜戸に、軟清はわっと泣き出してしがみつき、
「恐かったよぉ」
 と桜戸の胸に顔を埋めて甘えました。その頭部をいとおしげに撫でてやりながら、桜戸は言いました。
「大丈夫、わたくしが助けてあげる。あなたに指一本触れさせないわ」

 さて、思わぬ恥をかかされ、憤りを胸にため込んで院に戻った亀菊。憤懣やる方ないまま、その夜はお忍びで都大路へと繰り出し、出会った者を片っ端から睾丸を潰して去勢し、憂さを晴らしたのでありました。
 それでもなお、気が収まらず、病と称して引きこもった亀菊の局(つぼね)を訊ねてきたのは、陸船(くがふね)という四十がらみの女鍼医(はりい)。
「なんだか顔色がよろしくありませんねえ」
 白拍子だった頃からの懇意で、後鳥羽上皇様に召し出されて出世する亀菊にひたすら諂って信用を得た陸船は、鍼治療のみならず、無頼の浪人だった夫の富安舳太夫(とみやすへだゆう)とともに、院における亀菊の内向きの差配を任されるまでになっていたのでありました。
「ねえ聞いてよ、陸船のおばちゃん」
 亀菊は、白拍子だった頃の口調に戻って言いました。
「あたいは何者?」
「そりゃあ、上皇様のご寵愛を受け、今や権勢並ぶものなき亀菊さまでございますよ」
「このあたいに逆らえる者は、日本にいる?」
「いるわけないじゃありませんか。上皇様だって亀菊さまの言いなりですもの」
「ところが、いたんだよ!」
 亀菊は深草稲荷での一部始終を告げ、
「ああ胸くそ悪い。あんな女に何もできなかったのが情けないんだ。女武者所でかなう者のなかった武芸者でなきゃ、あの場で叩きのめしていたんだけどなぁ!」
「それはさぞ、悔しいでしょうねぇ」
 と陸船は膝を進めます。
「わかりました。ここはあたしが、一肌脱ぎましょう」
「何か、いい知恵があるの?」
「実は、その桜戸が女武者所にいた時、鍼治療を施してやった事がございまして、その縁でもちょくちょく、為楽院にも出入りしているのでございますよ」
「そうなの?」
「はい。亀菊さまの御胸の鬱憤を晴らす手立てはきっと見つかります。ここは夫の舳太夫を交えて、相談することにしませんか?」
 亀菊は頷き、舳太夫を局に呼び寄せ、いかがわしき三人は額を寄せ合って、密談したのでありました。

 それから十日ほどたったある日。
 桜戸は、あの深草稲荷での一件から、何やら気が塞いで鬱々としておりました。
 夫を救うため、亀菊の鼻をあかしたのはいいけれど、誇り高く、逆らう者は絶対に許さない亀菊が、このまま引き下がるだろうか。
 夫を見る亀菊の眼は尋常ではなかった。恐ろしいばかりに、愛欲の炎が燃えさかっていたような。
 果たして、あれでよかったのだろうか。かえって災いを引き起こすのではないか。
 そう思い悩んでいるところに、訊ねてきたのは陸船でした。
「あら、お久しぶり」
 書院に迎え入れて四方山話をかわした後、ふと声をひそめて桜戸は訊ねました。
「最近、亀菊様のご様子はどう?」
「どう、と申しますと?」
「なんというか……変わったご様子はない?」
「いえ何も」
 陸船は即座に答えました。
「最近はご機嫌もうるわしく、屈託なくお過ごしのご様子ですよ」
「そう。ならいいんだけど……」
 溜息をつく桜戸に、陸船は問いました。
「何やら、ご心配なことでもあるのですか?」
「ううん、なんでもないのだけれど、なんとなく気が塞いで仕方ないの。陸船さんの鍼で、気散じさせてくれないかしら」
「ようござんす」
 陸船は頷き、半時ばかり鍼治療を施した後、こう言いました。
「お体が悪いわけではなさそうですね。気の病(やまい)のように思われます」
「そうなの?」
「はい。奥様に必要なのは、鍼よりも気晴らし。ああ、そうだ。最近、五条の功徳庵にて、千体仏の曼荼羅が織られたというお話、お聞きになりまして?」
「初耳だわ。どういうもの?」
「なんでも、大きな布に千体の仏様が織り込まれていて、それはそれは壮観だそうです。見物客がひっきりなしだとか。いかがです、これから見物に参りませんか? いちばんの気散じになるかもしれませんよ」
「そうね。行きましょうか」
 夫の軟清にその意を告げ、桜戸は陸船と二人、五条へと向かいました。途中、軒を連ねる商店でお買い物などをしているうち、いつの間にか夕方近く、やっと功徳庵に入ってみれば、千体の仏様の曼荼羅は見あたらず、当然、見物客など誰一人おらず、境内は閑散としています。
「どういうこと?」
 訝しく思った桜戸、一緒にいるはずの陸船に訊ねようとしましたが、彼女の姿が見あたりません。
「厠(かわや)にでもいったのかしら」
 しばらく待っておりましたが、一向に現れる気配もないので、仕方なく、一人家路について五条大橋に至った時、対岸より、提灯をかざして歩いてきた人影をみれば、小奴の錦二でした。
「ああ、奥様! ご無事でございましたか?」
 走り寄って安堵したように胸をさする錦二に、桜戸、小首を傾げて
「何かあったの?」
 と問うに、錦二はこう説明しました。
「さきほど、陸船さんから使いが来て、奥様は五条の功徳院に向かう途中、急に発作を起こして倒れたので、陸船さんのお屋敷に運び込んだとのことでした。びっくりなさった軟清さまは、わたしどもを連れてすぐに陸船さんのお屋敷に向かったのです。お屋敷で、陸船さんのご主人の舳太夫さんがお迎えくださったのですが、どこにも奥様のお姿が見あたりません。不審に思っていると、舳太夫さんの手の者が、わたしどもに襲いかかってきたんです」
「なんですって!」
 桜戸は、錦二の胸ぐらをつかんで叫びました。
「それで、どうなったの?」
「わたしは無我夢中で暴れてここまで逃げてきたんですが……」
「では……」
「申し訳ございません!」
 錦二は地面に這いつくばって謝りました。
「わたしの力では、軟清さまをお守りすることができませんでした。仕方なく奥様を捜してここまでやってきた次第。どうぞお許し下さい!」
「弁解は後で聞くわ!」
 桜戸は、錦二が持っていた提灯を手にして走り出しました。
 陸船の屋敷近くまで至った時、大きな葛籠(つづら)を背負い、頭巾をかぶった武士がやってくるのが見えました。提灯を向けると、顔を背け避けようという風情。しかも葛籠からは、夫・軟清が普段しめているのと同じ柄の帯がはみだしています。
「待て!」
 桜戸は、武士の前に立ちはだかって言いました。
「その葛籠、なかを改めたい。おろせ!」
 武士は、狼狽した体で、いきなり太刀に手をかけました。すかさず桜戸は、相手が太刀を抜くより早く、すっと走りより、股間を膝で蹴り上げました。
「ぐっ!」
 武士は呻き、へなへなと地面にくずおれ、葛籠はどさりと投げ出されました。桜戸が葛籠に駆け寄り、その蓋を開けようとした時、
「死ねぇ!」
 背後より斬りかかった者がいました。桜戸あやうく身をかわして避けましたが、さらに二の太刀、三の太刀が襲いかかってきます。さらにかわして距離を置いて身構えれば、新たな相手は頭巾をかぶった女でした。油断なく太刀を構え、じりじりと迫ってきます。
 桜戸は、物見遊山のつもりで出かけたため、武器を帯びていません。相手が斬りかかってきた隙に、懐に飛び込んで眼か喉か、急所に拳を打ち込むしかない……。そう思案しつつ相手を凝視していると、ふと、傍らから、さきほど股間を膝蹴りにして倒した武士の、呻き声が聞こえてきました。
「痛い……きんたまが痛い……助けてくれ……」
 相手の女が、うろたえたように「あんた、大丈夫?」と気遣わしげな眼差しを、地面に転がって悶える武士に向けました。
 あの声は……。
 まさか!
 桜戸が驚いて眼を見開いた時、頭巾の女の右手が水平にさっと振られました。同時に、桜戸は右の腿(もも)に激痛を覚え、思わず膝をつきました。
 腿に、鋭い金属が突き刺さっていました。引き抜いてみると、治療用の鍼です。
 顔をあげて見ると、頭巾の女は、股間を抑えて呻く武士を抱きかかえ、必死で逃げていきます。
 追い掛けようと立ち上がったものの、腿の痛みに再び膝をついた桜戸の背後から、
「助けて……」
 とかぼそい声が響いてきました。
 振り向くと、夫の軟清が、地面に転がった葛籠の蓋を開けて、這い出そうとしています。
「あなた!」
 桜戸は、夫を葛籠から引っ張り出して、ひしと抱擁したのでありました。

「やはり、陸船夫婦の仕業だったのね……」
 錦二に命じて陸船が住む屋敷を偵察に行かせたところ、
「あそこの使用人にも聞いたんですが、夫婦揃って、あれからずっと姿を見せていないそうです」
 そう報告を受け、桜戸は思いました。
「わたしに正体を見破られたと知って、亀菊さまの所にでも潜んでいるのね。あの夫婦が、わが夫を誘拐して、亀菊さまに献上しようとしたのは間違いない。なんとか捕まえて白状させ、連中の悪事を暴いてやらなきゃ気が済まないわ」
 いつまでも院の御所に居続けるわけにもいかないはず。帰ってきたところを捕まえるしかない、と毎日、屋敷の前で見張っていましたが、一向に姿を現しません。
 そんな桜戸に、夫の軟清がすがるように懇願します。
「日頃、物見遊山に行くのも好まないお前が、そうやって出歩くのは、私を誘拐した陸船夫婦を捕まえて、恨みを晴らそうというのだろう。でもあの二人は亀菊さまの腹心、もし亀菊さまに憎まれれば、どんな仕打ちを受けるか分からない。ここは私が我慢するから、どうか危ないことはやめておくれ」
 愛しい夫にそう言われては探索を断念するしかありません。桜戸は気が晴れぬまま、花殻の妙達の番小屋に遊びにゆき、お酒を呑んで気焔をあげるしかありませんでした。
 ある日、竜女寺の番小屋で痛飲した帰り道、そこまで見送りますよ、と言う妙達と肩を並べて歩いておりますと、三十歳余りと見える旅姿の女人が、
「今日のみと、見るに涙の増鏡、馴れにし影を、人に語るな」
 という古歌を繰り返し唄いつつやってきます。
「あれは、今昔物語に載っていた大江定基の詠んだ歌ね」
 桜戸がそう呟くと、妙達は感心して
「さすが桜戸さん、学があるねえ」
「恋人を病でなくした大江定基が嘆き悲しんでいると、お金に困ったある女性が、これを売りたいと送ってきた鏡に添えられた歌なの」
「へーえ」
「これまで慣れ親しんで使ってきたこの鏡とも、今日でお別れかと思うと涙があふれて増すばかり。今まで私の顔を写してきた鏡さん、私のことを人に見せたりしないで……というくらいの意味よ」
「へええ、そんな歌をうたいながら旅をするなんて、なんだかわけありだね」
 桜戸は頷いて旅の女を呼び止めました。
「ねえあなた、その歌を吟じながら旅をしているのは、長年秘蔵していた鏡を売ろうとしているんじゃないの?」
「お察しのとおりです」
 旅の女は驚いて答えました。
「私は鎌倉に住む者。病で夫と子をなくして独り身となり、縁者を頼って都に来たのですが、その方もすでに亡くなっておりました。寄る辺もなく、路銀も使い果たし、仕方なく、親の形見の鏡と一振りの短剣を手放す決意をしたのです」
「それはお気の毒に」
「とはいえ、私もそれなりの家の者、代々伝わる品を賤しい者の手に渡したくなく、この歌を口ずさんで、その意を汲んで下さる方を探していたのです」
 理由を聞いて桜戸、
「まずは、その鏡と短剣を見せてください」
 と言うと、女は背負っていた荷箱をおろし、蓋を開けて、錦の袋に入った鏡を取り出しました。直径七寸ばかり、裏は波に兎の紋様を鋳て、表は氷のように一点の曇りもなく光っております。つづいて短剣を見ると、九寸余の長さで、実に見事な造りです。
「これはいずれも得難い珍品。ぜひ、買いましょう」
「ありがとうございます」
 女は幾度も頭をさげ、その後、二十両で購入するとの交渉がまとまりました。持ち合わせがなかったので、桜戸はその場で妙達と別れ、旅の女をともなって為楽院に帰り、お金を支払いました。

 その翌朝のことです。
 院の御所から、亀菊の使者が為楽院に遣わされてきました。桜戸は、夫の軟清とともに出迎えて使者の口上を聞くと、
「桜戸、お前は近頃、素晴らしい鏡と短剣とを入手したと聞いた。わたくしが上皇様より賜った宝剣と、いずれが優れた品か比べてみたい。すぐ、鏡と短剣とを持参して院の御所に参上するように」
 との事でした。使者が帰った後、桜戸は訝しく思いました。
「鏡と短剣を買ったのは、つい昨日のことなのに、なぜ亀菊さまはご存じなのかしら」
 とはいえ、断るわけにはいきません。ついでに陸船夫婦が潜んでいないかどうか探ってみようと、衣服を整えて院の御所へと向かいました。
 御所の門をくぐって亀菊が住まう椋橋(むくはし)の局(つぼね)に至ると、老いた女房が出迎えて、
「どうぞ、こちらへ」
 と案内されるまま、奥まった三十畳敷きの広間に通され、
「しばらくお待ちを」
 と女房が去った後、桜戸は、鏡と短剣を膝元に置いて、広大な座敷でひとりぽつんと待っておりましたが、いつまでたっても、誰も姿を見せません。
 仕方なく室内を見廻したところ、南に向いた奥に雛壇が置かれ、御簾が垂れております。左の柱には鏡が掛けられていますが、右の柱には鏡掛けの釘が打たれただけで、その上の方に「岩戸壷(いわとのつぼ)」と書かれた額が張ってありました。
「ええー!」
 桜戸は仰天しました。岩戸壷は、上皇が諸卿を集めて、政事(まつりごと)を行う部屋です。無位無冠の女である桜戸が入るのを許される場所ではありません。
「これは大変、すぐに退出しなきゃ」
 なぜさっきの女房は、こんな畏れ多い部屋に自分を案内したのだろうと呟きながら、短剣と鏡を手にして廊下に出ると、そこに大勢の女房どもを引き連れて歩いてきたのは、亀菊です。
「おや。桜戸、こんなところで何をしているの?」
「あ、いえ……その……」
 膝をついて畏(かしこ)まる桜戸を見下ろし、亀菊は不審げに、
「御所のなかで剣など携えて。それにその鏡は……?」
 言いつつ、御簾の方を見やり、あっと叫びました。
「大変、月形の鏡がないわ! 高御座(たかみくら)に日形と月形の二つの鏡が掛けられているはずなのに、さては桜戸……」
 亀菊は、桜戸を睨みつけて言いました。
「お前が手にした鏡、それは月形の鏡。さては、その鏡を盗んで逃げるつもり?」
「違います!」
 桜戸は必死で訴えました。
「この鏡と短剣は、昨日、ある女より買い取ったもの。この鏡と短剣をご覧になりたいと、亀菊さまの御使者に所望されたので参上したところ、出迎えた女房殿に、ここで待つように指示されたのです。ですから……」
「この嘘つき!」
 亀菊は柳眉を逆立て、
「わたくし、お前に使者などやった覚えはないわ。お前が来るなんて知らなかったから、女房に出迎えさせてもいない。盗人たけだけしいにも程があるわ」
 と怒鳴り、
「誰か、この泥棒女を捕まえて」
 と叫ぶと、女武者所から十人ばかりの武装した女たちが駆けつけてきました。かつての朋輩たちに取り囲まれ、抵抗するのも憚られ、桜戸はおとなしく縛についたのです。
 亀菊は、桜戸が持参した鏡と剣を改め、
「これは確かに高御座の月形の鏡。これは、わたくしが上皇様より賜った浮根鳥(うきねとり)の御剣(みつるぎ)。泥棒女め、厳罰に処してやるわ!」
 と、桜戸を検非違使(けびいし)に突き出すよう、女たちに命じました。

 検非違使は、京の朝廷の直属機関です。尋問された桜戸は、不当な罪を着せられたのだと縷々述べたてましたが、耳を貸してくれません。亀菊の息のかかった者が検非違使の長官に任命されていたのです。このままでは打ち首は必死と覚悟した桜戸ですが、さいわい、検非違使には判決を下す権限はありません。
 桜戸は、鎌倉幕府の意向で設置された六波羅決断所に回されました。決断所の別当を務めるのは、鎌倉の御家人の未亡人で、尼僧形ながら決断所の別当をつとめる伊賀尼(いがのあま)でした。
「どうも、おかしいわね」
 検非違使から回されてきた関係文書を検見(けみ)しつつ、伊賀尼は呟きました。それを耳にして、
「いかがしました?」
 と問うたのは、年の頃二十二、三の賢そうな面差しの娘。手に筆を持ち、伊賀尼の側近く仕えて書類を作る女右筆です。
「大箱(おおばこ)か」
 伊賀尼は娘に笑顔を向けました。
「今、新しく検非違使から回されてきた罪人の書類を見ていたのだが、どう考えても腑に落ちないの。話ができすぎてる。これが本当だとしたら、よほど桜戸という女、愚かというしかないわ」
「桜戸というのが、その罪人の名ですか?」
「そうよ」
「その書類、わたくしが見てもよろしいですか?」
「是非、お願いするわ」
 伊賀尼は、大箱という女右筆に書類を渡しました。大箱は、伊勢の国(三重県)宋公明(そこめ)村の役所に仕える押司(書記)の娘。幼い頃から聡明で神童と呼ばれました。いずれ家業を継ぐべく、父の旧知である伊賀尼のもとで学んでいる最中でした。
 大箱は、しばらく書類を見つめておりましたが、やがて笑い出しました。
「別当さま、これは明らかに冤罪ですよ」
「理由は?」
「検非違使の所見では、桜戸は密かに院の御所に潜入し、岩戸壺で短剣と鏡を盗んだことになっていますが、なぜ、日形月形と二振(ふたふり)の剣があるのに、月形のみを持ち出そうとしたのでしょうか。また、院の御所にも許可なしに入れない桜戸が、誰にも咎められることもなく奥の奥まで入れたとしたら、院の御所の警備態勢は大問題、責任者の処罰は免れませんが、そんな気配もありません」
「やはり」
 伊賀尼は深く頷きました。
「そなたもそう思うか」
「はい、それに比べると、この桜戸の供述のほうがはるかに筋が通っています」
「己に諂(へつら)う者は取り立て、逆らう者に罪咎を着せるのは、亀菊さまの常套手段。悪女の策にうかうか載せられるのは、本意ではないわね」
 そう呟く伊賀尼に、居住まいを正した大箱、両手をついて言うには、
「別当さま、わたくしに、その桜戸を尋問させていただけませんか?」
「お前がか?」
「はい。桜戸の武名は、わたくしの郷里にまで鳴りひびいておりました。是非いちど、じかに会ってお話ししてみたいのです」
 伊賀尼は許し、大箱は、桜戸が収監された獄舎へと赴いたのでありました。
「やあ、はじめまして」
 獄舎に入ってきた若い娘の声に、端座していた桜戸は顔をあげました。屈託のない笑顔で向かい合って座った大箱、じっと桜戸の眼を見つめ、こう言いました。
「検非違使が作った関係書類はぜんぶ目を通しました。それで桜戸さん、ひとつだけ疑問があるのですが……」
 桜戸は訝しげな面差しになりました。
 ……誰、この娘?
 大箱は構わず続けます。
「あなたの供述によれば、大事な夫君を怪しい男女に拉致されかかったのでしょう? 為楽院といえば都でも有名な名刹、その別当がさらわれそうになったのだから、検非違使なり、この決断所へなりと訴え出るのが筋だと思うのだけれど、あなたはなぜ、そうなさらなかったの?」
「そのことですか」
 桜戸は答えました。
「検非違使の長官は、亀菊さまの息のかかったお方。こちらの決断所は、幕府の直属機関ですから、亀菊さまの影響力は免れておりますが、新しく別当になった方が、果たしてどこまで理非曲直をただされる方か分からず、動かぬ証拠を押さえてから訴え出ようと思っていたのです」
「ふうん、決断所を信用していなかったわけというですか」
「そうです」
 即答する桜戸に、大箱は噴き出しました。怪訝な面差しの桜戸に、大箱は、
「ごめんなさいね」
 と謝り、
「あなたはいい方ですねえ。御高名は存じておりましたが、こんな澄んだ瞳をした、まっすぐな方だと分かって、とてもいい気分です。この事は、別当さまにも申し上げます。悪いようにはならぬと思いますよ」
 と言って、すたすたと獄舎を出てしまいました。
 取り残された桜戸、呆然と、
「で、彼女は何者だったの?」
 と呟きました。
 翌日、桜戸は、別当である伊賀尼の前に引き出され、簡単な尋問を受けた後、こう言い渡されました。
「法を犯して岩戸壷に入った罪は免れがたい。しかしながら、月形の鏡と浮根鳥の短剣を盗んだ罪は、本来なら極刑だが、本件については証拠不十分というしかない。従って短剣と鏡については不問とし、佐渡の国への流罪とする」
 かくして桜戸は、命は取り留めたものの都を追放されることになったのでありました。
 武芸の評判高い桜戸が、首に枷(かせ)をはめられ、二人の役人に付き添われ、佐渡へと歩かされる様を一目見ようと、大勢の弥次馬が大路に集まってまいりました。
 そのなかに混じっていた小奴の錦二、走り寄って護送の役人に賄賂を渡しました。役人たちが見て見ぬふりするなか、桜戸は錦二に伴われ、一軒の茶店に入ると、そこに待っていたのは夫の軟清。妻が検非違使に引っ立てられてより、食事も喉を通らず、げっそりと痩せてやつれた夫の姿に桜戸、思わず涙を流して抱擁し、
「大丈夫よ。わたくしは必ず帰ってくるから、ちゃんとご飯を食べて、元気になってね」
 そう慰めると、軟清はさめざめと泣いて、言葉になりません。ふと桜戸、
「紙と矢立はあるかしら」
 と錦二を見やると、へい、ここに、と差し出します。桜戸は軟清にこう告げました。
「今すぐ、三下り半を書いてください。ここで、離縁しましょう」
「何を言うの!」
 軟清は叫びました。いやだ、絶対に別れないと駄々をこねる軟清を宥め、桜戸は説きました。
「あの執念深い亀菊のこと、わたくしたちが夫婦のままでは、いずれあなたにも累が及びかねません。別れた事にしていただければ、わたくしも安心して佐渡へ行けます。時勢が変わったら何としても帰ってきますから、それまではあなた、ご無事でいてください。お願いします」
 頭を下げる妻に、軟清は是非もなく涙ながらに三下り半を書くしかありませんでした。
 かくして桜戸は、無実の罪を着せられ、愛しい夫と別れて、流刑への道を歩みはじめたのでした。
 京の都と、近江(滋賀県)との境である瀬田川にかかる唐橋にさしかかった時、
「桜戸」
 と声がしました。振り向くと、六波羅決断所の別当である伊賀尼と、獄舎で出会った若い娘がお忍びの体で立っております。
 伊賀尼は、護送役の二人に何か言い含めた後、桜戸を近くの茶屋に招き入れました。
「わたくしのことを覚えていますか?」
 そう問う伊賀尼に、桜戸は頷きました。
「はい。決断所の別当さまですね」
「こんな判決になってしまったが、法律上これが精一杯なの。納得してね」
「わかっております」
 素直に頷く桜戸に、伊賀尼は続けました。
「実は決断所内でも、上皇様との友好関係のため、お前を断罪せよとの声もあったわ。揺れるわたくしの心を、きっぱり法に基づいて裁こうと決めてくれたのが、この娘なのよ」
 傍らに座る大箱を指して言いました。
「あ……あの時の……」
 眼を丸くした桜戸に、大箱は頭をかきながら言いました。
「そういえば、獄舎でお会いした時、名乗っていませんでしたね。わたくしは、伊勢の国宋公明(そこめ)村の大箱。人呼んで春雨(はるさめ)の大箱と申します」
「そうだったのですか……」
 桜戸は潤んだ眼差しでしばし大箱を見つめ、やがて、
「ありがとうございました」
 と一礼し、涙をひとしずくこぼしました。大箱は、
「元気でいてください。また、お会いしましょうね」
 と笑顔で言います。桜戸も久しぶりに笑顔を取り戻し、
「ええ、ぜひ」
 と答えました。
 この春雨の大箱、後に虎尾の桜戸と再会を果たすのですが、それはまだ先のことであります。

三編之弐
富安舳太夫、木っ端役人を買収し、
桜戸を謀殺せんとするが、妙達これを止める


 さて、桜戸を護送する二人の木っ端役人、足高(あしだか)の蜘蛛平(くもへい)、戸蔭(とかげ)の土九郎(しくろう)は、都を出たその日の夕暮れ、とある宿場町に至りました。
 宿を定め、桜戸を部屋の柱に縛り付けておいて、さて一杯やるかと街に繰り出そうとしたところに、一人の男がやってきて、金乃蔓屋(かねのつるや)という料理酒屋の下男と名乗り、
「あなた方にお目にかかりたいというお侍さんがお待ちです。ぜひ、御馳走させてほしいとのこと。すぐに来て下さい」
 と言います。
「誰だ、そいつは」
 そう問うと、
「さあ名前までは教えてくださいませんでした」
 と言う下男に案内されるまま、金乃蔓屋の座敷にあがると、五十がらみの見知らぬ武士が待っておりました。
 二人が入り口で躊躇していると、武士は
「足高どのに、戸蔭どのだな。さあ、こちらへ」
 と手招きし、上座に座らせます。やがて酒肴が運ばれてきたので、
「まずは一献」
 と、酒杯を勧めました。
「ええと、どこのどなかた存じ上げませんが、おいらたちみたいな木っ端役人に、なぜ、こんな御馳走を?」
 二人は口々にそう言いますと、武士はにっこり笑って言いました。
「わしは、上皇様のご寵愛を受ける亀菊さまにお仕えする富安舳太夫(とみやすへだゆう)である」
 その名に二人の木っ端役人はびっくり仰天、
「か……亀菊さま!!!」
「そうだ」
 舳太夫は、懐から紙に包んだ金を取り出し、両人の前に並べて続けました。
「実は、あんた方が護送している桜戸のことだが、かの女はこの件について亀菊さまを深く逆恨みし、そのため亀菊さまは不安を覚えられ、夜も寝られぬとのこと。もしあんた方が道中で桜戸を打ち殺し、その首を亀菊さまの御実見に入れれば、さぞ、ご安心なさるであろう。あんた方も、出世への道が開けるというもの。何時までも木っ端役人で終わりたくはあるまい。ここは思案のしどころだぞ」
「いや、しかし……」
 戸蔭の士九郎は頭を掻いて言います。
「おいらたちゃ、六波羅殿より、あの女を佐渡に送り届けるよう命令されているんです。それを道中で殺して、後で露見したら、どんな罰を受けるやら」
「いや、そうでもねえぞ」
 足高の蜘蛛平が口を挟みました。
「あの女をさんざん苛めて痛めつけて弱らせ、その姿を見せておいて、人けのないところで殺して、病死したことにすりゃあ、いいんだ」
「ほう、あんたはなかなかの知恵者だな」
 舳太夫、蜘蛛平の杯に酒を注ぎ、それから士九郎を向いて言いました。
「あんたも、それで納得しただろう。なにぶん、よろしく頼むぞ」
 まだ躊躇っていた士九郎でしたが、目の前に置かれた金包みを開き、出て来た小判の額に仰天し、やりますやりますやらせてください! と両手をついて頭を下げました。
 かくして、しばし酒をのみつつ歓談し、蜘蛛平、士九郎は桜戸を閉じこめておいた宿所へ帰っていきました。その姿を見送りながら舳太夫、
「桜戸め、大の男が女にきんたまを蹴られた恨み、ぜひにもはらしてくれる」
 そう呟いて、いずこともなく姿を消したのでありました。

 さて、その日より、蜘蛛平、士九郎らは、食事はおろか、ろくに水も飲ませず桜戸を手酷く引っ立てました。
 流人を護送する際、街中など人目につくところでは首枷を付けたままですが、人けのないところでは外してやるのが慣わしでした。しかし、蜘蛛平、士九郎は、桜戸の肩に重く食い込む首枷を一日中つけたまま、外してやろうとはしなかったのです。
 宿に入れば、部屋の隅に坐らせて、横になって眠ることも許しません。ある宿場町では、宿所に入ることも許さず、雨降る外の林に縛り付けて一晩放置し、翌朝、高熱を発した桜戸を容赦なく歩かせたのです。
 桜戸は見る見る憔悴し、歩くこともままなりません。ふらついて歩く姿を見た人々は、「あの女流人、重い病気のようだが気の毒に」と口々に言い合いました。
 こうして数日をかけてさんざん痛めつけ、もはや歩くこともできない状態にしておいて、ある人けのない松林に連れていき、木の根に縛り付けました。
「あんたには何の恨みもないが」
 蜘蛛平と士九郎は、おのおの刺又(さすまた)を手に桜戸を挟むようにして立ちました。
「実は、上皇様のご寵愛めでたい亀菊さまから、あんたを密かに始末するよう命令を受けた。気の毒だが、今日があんたの命日だ。覚悟しな」
 そう言われて桜戸、無実の罪を被せられ、賤しい木っ端役人どもになぶられた挙げ句、こんなところで命を落とそうとは、情けないやら、悔しいやら、抗おうにも衰えきった身体ではどうすることもできず、両目を閉じて、涙をこぼすしかありませんでした。
「死ねえ!」
 二人が刺又を振り上げ、桜戸の眉間めがけて振り下ろそうとしたその時、
「待ったぁ!」
 何者かが駆けてきて、桜戸の前に立ちはだかり、振り下ろされた刺又を手にした杖で払うと、二本の刺又は宙にはねあげられ、遠くに飛ばされてしまいました。
 見れば、大柄な尼僧です。
「誰だ、お前は!」
 役人たちが問うより早く、尼僧は足を跳ね上げ、蜘蛛平の股間に爪先を打ち込みます。
「ぐえっ!」
 蜘蛛平の体は宙に浮き、どさりと地面にくずおれました。仰天した士九郎、腰の刀を抜いて斬りかかりますが、尼僧はその手を掴んでねじあげ、背後に回って股間に右手を差し込み睾丸をわしづかみ。
「うぎゃぁぁぁ!!!」
 絶叫する士九郎に、僧侶は怒鳴りつけました。
「この木っ端役人め、金に目が眩(くら)んで、妹分の桜戸さんを撲殺しようとは、お天道さまが許しても、この花殻の妙達さまが許さないよ! 睾丸を握り潰して殺してやるから、覚悟しな!」
「ま、待って……」
 桜戸が、妙達を押し止めました。
「殺してはいけません」
「え、なんでだよ!」
 訝る妙達に、苦しい息の下から桜戸は言いました。
「この者たちは、最初からわたくしを殺そうとしたわけじゃない……亀菊に命じられ、これを拒否できる者はいません……拒否したら、この者たちは殺されていたはず、どうか、許してやって……」
「ほんとうに、許してやっていいの?」
「憎むべきは亀菊。この者たちじゃないわ」
 そう言われて妙達は、
「命拾いしたな」
 と士九郎の股間から手を離すと、地面にくずおれ、同輩の蜘蛛平と二人並んで悶絶し、歯を食いしばって激痛と屈辱をこらえるのが精一杯でした。
 妙達は、桜戸の首枷を外し、縄をほどき、水を飲ませました。それから桜戸の傷をあらため、持参した薬を塗りながら、
「ごめんよぉ、あたしが追いつくのが遅れたばっかりに、こんな姿に。情けない姉貴だ」
 ハラハラと落涙します。
「いえ、よく追いついてくれたました……」
 桜戸は必死で微笑みをつくり、
「姉さんが来てくれなかったら、わたくしは今頃……」
 と妙達の頭を両手で抱きかかえたのです。

 しばし後、妙達は近くの農家から荷車を調達しました。本当は蜘蛛平、士九郎に車を引かせて近くの里まで桜戸を運ぶつもりでしたが、睾丸の痛みがさらぬまま立つこともできないので、仕方なく二人を縛り上げ、桜戸と並べて車に乗せ、妙達自ら引くしかありませんでした。
 庄屋の家にわけを話して運び込み、医者を呼ばせて治療を受けさせました。
「あの人たちは診なくてもいいんですか?」
 荷車の上で呻く蜘蛛平、士九郎を見やって医者は言いましたが、妙達は、
「あの木っ端役人ども、あたしの大事な妹分をさんざん苦しめた連中だ。妹が頼むから生かしておいてはやったが、しばらくきんたまの痛みに苦しむべきなんだ。ほっといて」
 と冷たく言い放ちます。
 二日ほど療養して、やっと桜戸は床を離れられるようになりましたが、
「傷が癒えるまでは、ここで養生しましょ」
 と妙達、庄屋にお金を払って滋養のあるものを用意させ、桜戸に食べさせました。
 しばし話は遡ります。
 桜戸が佐渡へ流罪ときまった時、仰天した妙達は、都の検非違使や決断所に押しかけ、
「桜戸さんが有罪なはずがありません。あの短剣と鏡を旅の女から買っているのをあたしも見たんです!」
 と言い募りました。いきりたつ妙達でしたが、決断所の別当である伊賀尼から、
「短剣と鏡の件については証拠不十分と思う。しかし、岩戸壺に入ったのは事実である以上、流罪にするのが精一杯なのだ」
 と説得され、さらに、
「どうも、この件は亀菊さまの差し金ではないかという気がする。もしそうだとすれば、あの亀菊さまが黙って桜戸を放っておくとも思えないの。佐渡までの道中、桜戸が無事でいられるかどうか不安だわ。路銀を用立てるから、桜戸がぶじ佐渡に着けるよう、守ってやってくれないだろうか」
 と頼まれたので、夜に日を継いで、後を追い、やっと今日、追いついたのでした。
 さらに数日、桜戸はすっかり元気になり、怠っていた武術の鍛錬などもできるようになりました。
「ねえ、桜戸さん」
 妙達はある夜、夕餉(ゆうげ)の席で訊ねました。
「どうしても、佐渡に行くの?」
「ええ」
 桜戸は頷きました。
「たとえ亀菊に謀られたとはいえ、岩戸壺に入ったわたくしの罪は罪。悪法も法なれば、わたくしはこれに従います」
「身を隠す場所はあるんだけどな」
 姉妹のちぎりをかわした安計呂山の人寄せの友代、億乾通(おけんつう)のお犬を思い浮かべながら言いましたが、桜戸は首を縦に振りません。
「真面目だなあ。そこが桜戸さんのいいところだけどさ」
「性分だから仕方ないんです。妙達の姉さん、どうか許して」
 翌朝。
 桜戸と妙達は、ようやく睾丸の痛みもおさまった蜘蛛平、士九郎に引かせた荷車に乗り、仲良く肩を並べて越後へと旅立ちました。山城国、越前(福井県)若狭を経て越後国(新潟県)に入り、寺泊(てらどまり)の港へと至った時、桜戸は、
「妙達姉さん、もうここでいいわ。ここから先は船の旅、向かい岸に至れば佐渡の国。もうこの者たちも危害を加えることはないでしょう」
 そう言って、うっすら涙目の妙達を抱擁しました。
「また、会いましょうね」
「うん」
 妙達は涙をぬぐって、
「必ず帰ってきてね」
 それから蜘蛛平、士九郎に向かい、
「お前ら、絶対に桜戸さんにおかしな真似するんじゃねえぞ。この桜戸さんは、京の都で知らぬ者なき女武芸者、院の御所の女武者所で教頭をつとめたほどの腕前だ。あたしみたいに、かっとなってきんたま蹴り上げるような下品な真似はしないけれど、いざとなったら、お前らごときがかなう相手じゃないんだ。わかったか?」
「へい」
「二度と、変な真似はいたしやせん」
「それから、妹分のケガの治療やら何やらで、持ち合わせはすっかり使い果たした。お前らが舳太夫から貰った褒美銭、全部あたしに寄越せ。ここから都への路銀にする」
「そんな、殺生な……」
「うるさい、お前ら必要経費はあらかじめ貰ってるだろ? その上、悪党からもらった銭まで懐に入れようだなんて、今度こそ、きんたま潰されたいの!」
 妙達に一喝され、蜘蛛平に士九郎、思わず股間を両手で覆ってから、そればかりはご勘弁を、と舳太夫にもらった金を妙達に差し出すのでありました。

 さて、船に乗って対岸の佐渡に渡り、港で船を下りると、役人の一行が出迎えに来ておりました。
「桜戸か」
 そう問われ頷くと役人は手続きを終えた後、蜘蛛平、士九郎を越後へと返し、
「折滝(おりたき)の節柴(ふししば)さまがお待ちです。案内します」
 と告げました。
「節柴さま? どなたですか」
 と桜戸が問うと、役人は説明しました。
「節柴さまは、かの平家の一門、平頼盛卿の御孫娘です。源平の戦いで平家の公達の多くは壇ノ浦に沈み、頭領の宗盛卿は斬首となりましたが、頼盛は母の池禅尼が平治の乱の折りに幼き源頼朝卿の命を助けまいらせた恩により、ひとり罪を赦されました。ところがそのご子息の中将宰相頼貞卿は、時の上皇様の御勘気に触れ、佐渡へと流罪になりました。鎌倉幕府のおとりなしにより、大赦に預かってもなお、都にお戻りなされず、昨年、この地にて死去されました。その忘れ形見たる姫が、いま、この佐渡に滞在しているのです」
「その方が、節柴さまなのですね」
「そうです。節柴さまは、鎌倉幕府から一万町の荘園を授かり、折滝の地に屋敷を構え、多くの家来を抱えていらっしゃいますが、我が身もかつては流人なれば、と、この地に流されてくる者を招き、酒肴をふるまわれるのがしきたりなのです」
「それは、情けあつき方ですね。わたくしもぜひ、お目にかかりたいわ」
 役人に案内され、十町先の折柴の里に至れば、広壮な棟木造りの屋敷が建っております。その門をくぐってなかに入ると、ひろびろとした庭があり、芝生に強いた紅毛氈にはご馳走の膳が並べられ、その近くの池に浮かべた舟で楽人が楽器を奏で、築山にはさまざまな花が咲き誇り、まるで極楽浄土のような風景。かつて女武者所に勤めている時に見た、院の御所の庭にも負けぬ、豪勢な造りです。
 感嘆しておりますと、庭の向こうの寝殿から、多くの供人を従えて現れたのは、年の頃は三十路近くか、豪奢な十二単(じゅうにひとえ)に身を包んだ美女が笑みを湛えて桜戸に近づき、
「あなたが、虎尾の桜戸さんですね。わたくしが節柴です」
 と頭を下げました。桜戸は慌てて膝をつき、
「今は流人の身。どうか流人として扱ってください」
 そう言いますと、節柴は笑って曰く、
「これが、わたくしの流人に対する扱い方です。こちらにどうぞ」
 と自ら桜戸の手をとって立たせ、寝殿へと案内しました。奥の広間には、大勢の腰元たちや、地元の名士が、酒肴を用意して待っていました。節柴は桜戸を上座に座らせ、自ら酒を勧めてもてなします。桜戸、恐縮して杯を重ね、都の四方山話などをしている時、一人の腰元が入ってきて、
「お師匠さまが参られました」
 と告げました。続いて、ずかずかと足音も荒らかに入ってきたのは、年の頃は四十過ぎか、肥え太った大女。
「また、流人を招いての宴会ですか」
 お師匠さまと呼ばれた大女は、礼をわきまえぬふうに、節柴の前であぐらをかき、
「あたしにお呼びがかからなかったのは、どういうわけでしょうかねえ」
 となじります。
「それは失礼しました」
 節柴は頭を下げ、桜戸を指さしながらこう言いました。
「ちょうどよかった。あなたと同じく、院の御所の女武者所に勤めていたという女人が、今日の主賓なのです。こちらは虎尾の桜戸さん。都で知らぬ者なき武芸者」
 女武者所に勤めていた、と耳にして、大女の顔がなぜか強ばりました。それに気づかぬげに節柴は、桜戸に顔を向け、大女をさして言いました。
「桜戸さん、こちらは、かつて女武者所で勇名を轟かせた、かの綾梭(あやおさ)さんです。わけあって都を出奔し、今、わたくしどもの屋敷に身を寄せているのです。桜戸さんも、お見知りのはずですよね?」
 その言葉に、桜戸の顔も強ばりました。桜戸は、女武者所に勤めていた時、幾度か綾梭を見かけた事がありました。目の前にいるだらしなく太った大女は、あの美しく凛々しかった綾梭とはまるで別人なのです。
「どうしました?」
 互いに顔を強ばらせる桜戸と大女に、節柴は笑みを保ちつつ問いました。
「お二人は、同じ時期に女武者所にいた顔見知りなのでございましょう? なぜ、そんなふうに、恐い顔をなさっているのです?」
「節柴さま!」
 大女は叫びました。
「この女がほんとうに虎尾の桜戸であれば、わたしが知らぬはずがありません。こいつは偽者です!」
「え? 偽者なのですか?」
 そう問う節柴に、大女は、
「そうですとも。こんな偽者と同席したくありません。帰らせていただきます!」
 と言い放ち、座敷を出ようとしたとき、
「お待ちなさい!」
 と叫んだのは桜戸でした。
「わたくしが偽者とおっしゃいますが、あなたこそ、本物の綾梭さまとは似ても似つかぬ偽者です」
「なんだってぇ!」
 大女は、踵を返して座敷に戻ってきて、桜戸のすぐそばに立ちはだかり、
「流人の分際で生意気な、成敗してくれる!」
 いきなり腰の刀を抜いて斬りかかります。腰元たちが一斉に悲鳴をあげるなか、桜戸はさっと身をかわし、座ったまま右足を伸ばして、大女の足を払うと、大女は仰向けに倒れました。さっと立ち上がった桜戸、右足をあげ、大女の乳房をひどく踏みつけました。
 大女は悲鳴をあげ、踏まれた乳房を両手で押さえて悶絶。つづけざまに桜戸は、その股間を蹴りつけました。恥骨が砕け、大女は泣き叫びながら激しく暴れました。桜戸は容赦なく、大女の鼻柱を踏みつけました。鼻柱が折れ、鼻血が噴き出し、大女はもはや抗うこともできず、俯せになって呻くばかりです。
「やはり、そうでしたか……」
 節柴は、驚いたふうもなく、悲しげに首を振りました。
「この女、二月ほど前にわが屋敷にたどり着き、自ら、かつて女武者所にいた綾梭と名乗りましたので、しばし剣の師匠として遇しておりましたが、一向に武芸を披露する様子もなく、鍛錬もせず、日夜酒食に耽っていたので、ほんとうに綾梭さんかどうか、怪しんでいたのです。桜戸さん、あなたのおかげで、やはり偽者と判明いたしました」
 それから腰元に命じて、適当に路銀を与えて放逐しなさい、と命じると、腰元たちは悶え苦しむ大女に駆け寄り、よっこらしょと抱えて座敷から運び出します。
「桜戸さん、申し訳ありませんでした」
 節柴は、桜戸の前に手をついて謝りました。桜戸は慌てて、何を謝るのです、やめてください、と申しますと、節柴は
「あなたを利用して、無頼の者に騙されているのかどうか、試した形になってしまいました。さぞ御不興だったでしょう、謝ります」
「いえ、いいんです」
 桜戸は言いました。
「わたくしは流人の身です。もてなしていただいただけでも、身に余る光栄です」
「桜戸さん」
 節柴は言いました。
「今日は一日、楽しんでください」
「はい」
「明日からは、辛いことも多くなるでしょうけれど……」
「覚悟はできております」
 きっぱりと言った桜戸は、その日遅くまで、節柴と歓談したのでありました。

三編之参
陸船夫婦、桜戸を陥れるべく佐渡に現れ、
雪山で奸計を巡らす


 翌日、節柴の屋敷を出た桜戸は、佐渡に流された男女が収容される流人置場に連れてこられました。町外れの、柵に囲まれた荒れ地に立ち並んだ粗末な小屋が、今後の住まいになるわけです。
「お前が、都から流されてきた桜戸か」
 流人小屋を管轄する剣山四伝次(つるぎさんしでんじ)という役人が、柵の入り口に膝をつく桜戸を見下ろして権高に言いました。
「昨日は、節柴殿の接待を受けて、佐渡は流人の極楽と勘違いしたかもしれぬが、これからは罪人にふわさしく、びしばし辛い目に遭わせるから、そう思え」
 それから、流人置場を仕切る奈落婆(ならくばば)という皺だらけの五十女を呼び寄せ、
「こいつが新米の流人だ」
 と告げると、奈落婆はひひひと笑い、桜戸をなめまわすように見て、
「こりゃ、なかなか美形だね。都育ちときくが、こういう女が、この流人置場で、潮風にさらされ、だんだん醜くなっていくさまを見るのは何よりの楽しみだ。死ぬまでこきつかうから、覚悟しな」
 それからというもの、桜戸は粗末な着物を着せられ、山に入って柴を刈り、薪を取り、炭を焼くなど、重労働にこきつかわれましたが、従来頑健な生まれつきで、体の弱い者や、老いた者を助けて人一倍働いたので、たちまち流人仲間の人気者になり、過酷ななかでも、それなりに楽しい日々を送っておりました。
 流人置場には月に一度、面会日が設けられております。桜戸を訊ねて来た者があるというので、柵の門近くに立てられた面会小屋に参りますと、
「お嬢様!」
 と両手をついた若者は、かつて桜戸の亡父が使っていた若党の真介(ますけ)なる者。その傍らに、同じ年頃の若い娘がにこにこ笑っております。
「真介じゃないの、久しぶりね!」
 思わず桜戸は歓声をあげました。
「ほんとうに、嬉しゅうございます」
 と落涙する真介。かつて、都の遊び女に魂を抜かれ、為楽院の公金に手をつけて追放されましたが、普段の実直な働きぶりを哀れんだ桜戸は、父に黙って路銀を渡して見送ったのでありました。
「お嬢様のご厚情に胸打たれ、この地にたどり着いてから、真琴屋(まことや)という料理屋に奉公し、一心に働くうち、ご主人の一人娘さんの小実(こじつ)さんの婿に迎え入れられました」
 と、真介は傍らに立つ小実を指しました。
「小実と申します。桜戸さんのお噂はかねがね、真介よりうかがっておりました。お目にかかれて光栄です」
 と頭を下げる小実に、桜戸は目を細め、
「なかなか可愛い娘さん、こんないい人と結婚できてよかったわね。真介、今は流人の身で、ご祝儀も差し上げられなくて申し訳ないけれど、我が事のように嬉しいわ」
 涙を流して喜ぶ桜戸に、真介と小実の夫婦も貰い泣き。
 以後、真介と小実は、しばしば流人置場を訪れ、食べ物や衣服などを差し入れ、その差し入れを桜戸は気前よく流人仲間に配ったので、桜戸の人気はますますあがったのでした。
 やがて月日は流れ、木枯らしが冬の訪れを告げる頃、真介の料理屋に、一人の武士と、その妻らしき女が暖簾をくぐって現れました。
「いらっしゃい」
 出迎えると、武士は神経質に店のなかに視線を走らせ、
「奥座敷はあるか」
 と問うので、はいございます、と案内すると、座敷に座るや否や、
「流人置場を差配する剣山四伝次と、奈落婆を呼んできてくれ」
 と言い出しました。唐突な頼みに困惑しつつ、
「お知り合いですか?」
 と訊ねると、五十がらみの武士は不機嫌げに言いました。
「貴様の知った事ではない。早く呼んでこい」
「はあ、では、あなた様のお名前は?」
「うるさい、とにかく呼んでこい。その間に、この店でいちばんいい酒と肴を四人前、揃えておけ」
 居丈高に言うので、真介は仕方なく座敷を辞し、妻の小実に、
「これから剣山さまと奈落婆を呼んでくる。その間に料理と酒を用意してくれ、いちばん高いのを御所望だ」
 と言うと、小実は訝しげに、
「なんだか変ねえ」
 と言うので、真介も頷き、
「あのお侍、かすかに京訛りがある。ひょっとしたら、桜戸さまに恨みを抱く亀菊さまの手の者かもしれない。注意してくれ」
「わかった」
 それから真介は流人置場へと走り、剣山四伝次と奈落婆に、うちの店であなたさま方を待っている方がいらっしゃるので、と告げると、二人は、
「はて誰だろう」
 と首をひねります。ともかく二人を店まで連れて来て奥座敷に案内すると、
「呼ぶまで、ここには誰も入れるな」
 と言われ、ますます怪しんだ真介、小実に、
「やっぱり、あの二人連れは怪しいぞ」
「あんたもそう思った? なんか目つきが悪くていやな感じよね」
「桜戸さんを陥れた陸船(くがふね)夫婦の話を聞いただろ? 年格好がぴったりだ。こっそり立ち聞きしてくれないか」
「了解!」
 と気はしの利く小実、そっと座敷に近寄って障子越しに聞き耳をたて、やがて夫のいる台所に戻ってきて告げました。
「よく聞こえなかったけれど、奈落婆が一言、亀菊さまが……と驚いたように言ってた」
「亀菊さま?」
「うん、確かにそう言ってた。それから、あの夫婦が剣山さまや奈落婆に何やら渡して、二人は大喜びしながら、お任せください、とか、うまくやってみせます、なぁんてはしゃいでたよ」
「そうか、やはりあの二人、亀菊さまの命令でやってきたんだ。流人置場を仕切る四伝次や奈落婆に金を与えて何かやらせる気だ」
「どうする?」
「明日になったらさっそく、桜戸さんに知らせよう」
 翌朝、真介は流人置場に走り、役人に袖の下を送って桜戸に面会しました。
「それで、その旅人夫婦は、どんな風貌なの?」
 一通り聞いた桜戸は、面差しを強張らせて問いました。
「夫のほうは五十がらみ、妻は四十くらいでしょうか」
 真介が、夫婦の特徴を述べますと、桜戸、幾度も頷き、
「間違いないわ。陸船と舳太夫よ。」
 ここまでやってくるとは、なんて執念深い連中だろう……。
 桜戸は歯がみしますが、どうにもできません。やがて面会時間も終わり、真介は、
「どうか、お気を付けて」
 と言い残して去っていきました。

 それから二日、何事もなく過ぎました。
 三日目の朝、桜戸は奈落婆に呼ばれました。
「いい知らせだよ」
 奈落婆はにたにた笑いながら告げました。
「剣山さまがね、あんたはなかなかの模範囚だから、楽な仕事に回してやれ、とこうおっしゃった。そこであんたを、山苧倉(やまそくら)の番人にすることにしたんだ」
 山苧とは別名カラムシ。イラクサ科の多年草で、薬用に用いたり、布の材料にされます。流人たちは夏になると山に入って山苧を刈り集めて倉に貯蔵するのですが、桜戸は、その倉の番をすることになったわけです。楽な仕事なので、流人たちがもっとも希望する配置場所でもありました。
 翌日、桜戸は、剣山四伝次と奈落婆に伴われ、流人小屋から二十町(二〇〇〇メートル)ばかり離れた山苧倉に向かいました。
 すでに霜月(十一月)下旬、空は曇り、日本海から吹き付ける風は寒く、雪もちらつきはじめ、遠くの野山は真っ白になっております。
 山苧倉は校倉造りで三棟あり、そのほとりに草で編んだ小屋が建っています。その草小屋に、これから桜戸は一人で住むことになりました。四伝次は、桜戸に山苧の数を記した目録と、倉の鍵を渡し、奈落婆を伴って引き上げていきました。
 さて、新たな住み処に入ってみると、今にも崩れそうなくらい荒れ果てて、囲炉裏で火を焚いて暖を取ろうとしても、隙間風が入ってきて身を凍えさせるばかり。
「これはたまらない」
 桜戸はふと、ここに来る途中の道に酒屋があったことを思い出しました。小屋のなかを見廻すと、ちょうど大きな瓢箪がつるしてあります。
「お酒でも呑んで暖まらなきゃ、凍え死んでしまうわ」
 簑笠を着て外に出て、十町ほど歩いて酒屋に辿り着き、二合ばかり買い求めて小屋に戻りました。あと一町ほどで小屋につこうかという寸前、急に吹雪が吹き始め、目をあけることもできません。見廻すと小さな観音堂があったので、逃げ込むように入って風を避けました。ごうごうと音をたてて吹きすさぶ風を聞きながら、
「楽な仕事といっても、ここは佐渡。冬の寒さが大敵ね」
 と呟き、買ってきたばかりの酒をあおっておりますと、やがてうとうとと睡魔が訪れ、桜戸はそのまま、観音堂の床に伏して眠ってしまったのでありました。
 ふと、外で何やら騒がしい音が響きました。人の笑い声や、ぱちぱちと木のはぜる音。扉を少し開けると、夜闇を真っ赤に照らし、大きな炎が渦巻いております。
 どういうこと!
 驚いた桜戸が、さらに扉を開けて見れば、三棟の山苧倉や、さきほどまでいた草小屋が猛火に包まれております。そして、やや離れて四人の男女――陸船と夫の舳太夫、剣山四伝次、そして奈落婆が炎を指さして笑いあっていたのです。
「ひひひ、どうです。われらの首尾は」
 下卑た笑いをあげたのは奈落婆。
「さすがの桜戸も、こうなっては焼け死ぬしかありませんよ」
 剣山四伝次も言葉を添えます。
「万が一、桜戸があの炎をくぐって命が助かったとしても、山苧倉を焼いた咎は免れません。打ち首です。どっちにしても死ぬしかありません」
「でかしたぞ」
 舳太夫が満足げに頷きます。
「この始末は、必ず都の亀菊さまに申し上げる。お前らにもたんまり褒美が出るだろう」
「あの軟清も、これで桜戸のことを諦めるわね」
 と言ったのは陸船。
「さぞ落ち込むでしょうけれど、うまく説得して、亀菊さまに献上するとしましょ。そうすればあたしたちも、ますます出世の道が開けるというものだわ」
 桜戸は、背後を振り向き、安置してある小さな観音さまに手を合わせました。
 彼らの罠にはまらず、こうして命を保ち、さらには仇四人を我が前に揃えていただいたのは、観音様のお導きでしょう。今から殺生に及びますが、これも悪を亡ぼし正義をなすため。どうかお許しを……。
 扉を押し上け、桜戸は駆け出しました。武器は持っておりませんが、躊躇している場合ではありません。
 雪を踏んで走り、やがて四人の仇の背中が迫ってきたとき、
「誰だ?」
 まっさきに振り向いたのは、剣山四伝次、
「あ、桜戸!」
 叫んで腰の刀に手をかけ引き抜くより早く、桜戸は四伝次の股間を蹴り上げました。
「うっ!」
 四伝次は呻き、一撃で破裂した睾丸を両手で覆い、雪にまみれて七転八倒。その刀を奪い取った桜戸、一目散に逃げようとした奈落婆の背中に刀を投げつけます。きっさきが奈落婆の胴を貫き、地面に突き刺さって体を縫いつけました。死にきれぬまま奈落婆、痛い痛いと泣き叫ぶばかり。
「貴様!」
 舳太夫が抜刀して迫ってきました。同時に、これに呼吸を合わせて陸船の右手が一閃、治療鍼が桜戸の左の肘に突き刺さり、一瞬怯むところを、舳太夫、太刀を振り下ろしてきました。
 地面を転がってあやうく切っ先を避けた桜戸、起き上がりざまに右手を伸ばし、舳太夫の睾丸をわしづかみにします。
「ぎゃぁぁぁ!!!!」
 舳太夫が体を硬直させて絶叫します。
「今度は、二つとも潰してあげる!」
 桜戸はそう叫び、右の拳をぎゅっとひねると、睾丸を覆っていた薄膜が裂け、中身が陰嚢のなかに充満し、さらにひねると陰嚢も避け、舳太夫は股間から大量の血を噴き出して雪のなかに倒れ、激痛に苛まれながら断末魔の痙攣。
「おまえさん!」
 陸船が、悲痛な面差しで叫びました。それから桜戸をにらみつけ、
「よくもあたしの夫を……」
 小太刀を引き抜いて、斬りかかってきます。桜戸はさっと飛び退いてかわしましたが、刃はわずかに首筋を皮一枚傷つける。さらに二の太刀、四伝次や舳太夫とは比べものにならぬ鋭い動きに、桜戸も思わず焦ります。
 しまった、これほどの使い手とは……。
「死ね!」
 さらに迫り来る小太刀。かわすのがやっとの桜戸、武器さえあれば……と目を走らせますが、睾丸を潰されて悶絶する四伝次の太刀は奈落婆の体にささったまま。舳太夫の太刀が雪の地面に転がっていますが、陸船が巧みに位置取りしているため、近づくことができません。
 ……ここは相手の懐に飛び込んで、小太刀を奪うか、せめて叩き落とす。これしか手段はない。
 桜戸は、地面に手を伸ばし、雪をつかんで陸船に投げつけました。雪は陸船の顔に命中、怯むすきに懐に飛び込み、その股ぐらを蹴り上げました。
 男の睾丸ほどではないけれど、恥骨に受けた痛撃に、陸船は動きを止め、眼を見開いて呻きをもらします。桜戸はすかさず、陸船の右腕を拳で打ち、小太刀は地面に落ちて雪に埋もれました。
「やったわね!」
 陸船も逆襲します。足をあげて今度は桜戸の股間を蹴り上げました。尾てい骨に鋭い痛みを覚え、思わず桜戸は両膝をつきました。さらに陸船は巧みに動き、両足のふとももで桜戸を挟み、地面に倒して締め上げたのです。
 しまった……!
 陸船のふとももが喉に食い込み、息ができません。両手で足をつかんでひきはがそうとしますが、ますます強く締められるばかり。
「あたしを舐めるんじゃないよ!」
 陸船は叫びました。
「お前みたいな小娘に、やられてたまるもンか! お前を殺して首を持ち帰り、亀菊さまに褒めていただくんだ! 早く死にやがれ!」
 次第に意識が薄れていくなか、苦痛が消え、睡魔にも似た感覚が桜戸を襲いました。
 このまま、死ぬのかな……。
 暗くなっていく視界に、ふと、僧形の美少年の顔が浮かびました。
 夫の軟清です。
 だめ!
 桜戸は閉じかけた瞼をかっと見開きました。
 生きて帰ると約束した、死んでたまるものですか!
 桜戸はなんとか、右腕をまわし、陸船の尻越しに、股間の敏感な部分をつかんでひねりあげました。
「痛い!」
 陸船が叫び、ふとももの力が一瞬、ゆるみました。桜戸はすかさず頭を後ろにまわし、陸船の陰部に噛みつきました。
「ぎゃぁぁぁぁ!!!!」
 陸船、絶叫。桜戸は容赦なく、陸船の陰部に歯を食い込ませ、肉を食いちぎってぺっと捨てました。陸船は、噛み破られて血を噴く股間を両手で押さえ、苦痛に呻きながら雪の上を転げまわりました。
 桜戸は、陸船が落とした小太刀を拾い上げ、陸船の上に覆いかぶさり、さらに血まみれの股間に膝蹴り。悲鳴をあげて苦痛に顔を歪めながらも陸船は戦意を失わず、桜戸をにらみつけ、ぺっと唾を吐きかけました。
「小娘が!」
 陸船は叫びました。
「あたしを殺しても、亀菊さまがお前を逃がすものか。いずれ殺されるんだ!」
「黙れ、ばばあ!」
 思わず桜戸の口から、罵り言葉が飛び出します。
「この恨み、思い知れ!」
 小太刀で陸船を胸に突き刺し、ぐいぐいと抉(えぐ)りました。胸乳のあたりから噴水のように血が迸ります。
 陸船は大きくのけぞり、そのまま息絶えました。
 やっと強敵を倒してよろよろと立ち上がり、見れば、舳太夫、四伝次、奈落婆は、断末魔の呻きをあげながらも、まだ息がありました。
「お前たちは、簡単には死なせてあげない」
 桜戸は肩で息をしながら、歩き出しました。
「夜明けまでは持たないはずよ。それまで、苦しみ抜いて、死ぬがいいわ」
 そう言い放ち、観音堂に向かって歩き出しました。

 観音堂で一夜を過ごした桜戸、夜明けとともにお堂を出て、人目を避けて向かったのは、真介の料理屋でした。
 裏口に現れた桜戸に驚いた真介と小実は、奥座敷に招き入れ、囲炉裏の火に冷え切った体をあたらせ、暖かな食事と酒でもてなしました。腹が満ちた桜戸は、
「ありがとう……」
 と呟いて、ばたりと横倒しに倒れ、そのまま昏々と眠ってしまったのです。
 目を覚ましたのは翌日でした。供された粥をすすりながら桜戸は、真介夫婦から、山苧倉が全焼し陸船ら四人の屍が発見された事、行方不明になった桜戸を役人たちが捜査していることを教えられました。
「そう……」
 桜戸は俯いて呟きました。
「わたくしは、ここに島流しになったけれど無実の罪だった。今回は、たとえ相手の罠にはめられたとはいえ、四人も殺してしまった。文字通り、お尋ね者の凶悪犯になってしまったのね」
 名門の娘に生まれ、真面目に武芸に励み、主婦の鑑(かがみ)として生きてきた自分だったのに、と桜戸は、己が運命の転変を嘆くしかありません。
 すると表玄関に客が現れた気配がしました。
「まだ開店前なのに誰だろ?」
 と首を傾げて出て行った小実、やがて戻ってきて、慌てたように言いました。
「折滝(おりたき)の節柴(ふししば)さまですよ!」
「え、節柴さんが?」
「そうです。お通ししますか?」
 桜戸はしばし考え、
「節柴さんに身を委ねましょう。もし、節柴さんがわたくしを役人に渡して断罪すべきと判断されたのならば、おとなしく刑に服します」
 やがて節柴が現れました。お忍びらしく供も連れず、地味な装いに身を包んでおります。
「お話は、真介たちからも聞きました」
 対座した節柴は、静かに口を開きました。
「そもそもこの一件は、あなたの夫君に懸想した亀菊さまが引き起こしたもの。桜戸さんは、降りかかる火の粉を払ったにすぎません。あなたを役人に引き渡すのは、正義にもとることと存じます。法には適っても、天意に背く行為です」
「しかし……」
 桜戸は言いました。
「今のわたくしは四人を殺めたお尋ね者です。もし、わたくしを助ければ、節柴さまにも累が及びかねません。それを避けるための知恵が、今のわたくしには浮かばないのです」
「わたくしに一案があります」
 節柴は言いました。
「近江の伊香郡(いかのこおり)に、琵琶湖に面して山砦を構える者どもがおります。山の名を梁山(はりやま)、山を下ればすぐ泊(とまり、港)がありますので、梁山泊(りょうざんぱく)と呼ばれております」
「梁山泊……?」
 小さく呟く桜戸に、節柴は重ねて言いました。
「これを宰領するのは三人の女武者、第一の大将は大歳麻巨綸(おおとしまおおいと)、第二の大将は女仁王杣木(おんなにおうそまき)、第三の大将は天津雁真弓(あまつかりまゆみ)。この女どもは一年前、旅の途次にてわが屋敷に立ち寄り、さまざまにもてなした後、多額の路銀を渡して旅立たせました。その後、琵琶湖と余呉湖に挟まれた要害の地に、かつて近江で名を轟かせた佐々木義経が築いた砦に入り、公権力もこれに手を出せないほどの勢いです。紹介状を書きますので、梁山泊をおたずねなさい。わたくしの口添えとあれば、悪いようにはしないはずですから」
「わかりました」
 桜戸は深々と頭を下げました。
「すべて、節柴さまにお任せいたします」
 翌日、節柴は船遊びをすると称し、大勢の腰元を引き連れて海に船を浮かべ、楽の音を鳴らしてお祭り騒ぎ。佐渡の民びとも大勢集まり、浜はたちまちごった返しました。この騒ぎに紛れ、桜戸は小舟に乗せられて佐渡を出で、越後に辿り着き、近江なる梁山泊を目指して旅立ったのでありました。(三編・了)

back to index

inserted by FC2 system