金蹴り超訳・傾城水滸伝
六編 旋風の力寿の巻



六編之壱
梁山泊から大箱に送られた誘いの扇子を、
安蛇子が手に入れ奸計を巡らす


 さて、梁山泊が新たな首領である小蝶(こちょう)を迎え、変化への第一歩を踏み出した頃、春雨(はるさめ)の大箱(おおばこ)は、相変わらず六波羅決断所の別当、伊賀尼のもとで右筆として活躍しておりました。
 ある日、勤めを終えて家に戻ろうと大路を歩いていますと、
「大箱さんですね?」
 と呼び止める者がおります。市女笠を深くかぶった女行商の装いですが、笠からのぞく髪の毛の赤さが目に止まりました。大箱は答えました。
「そうですけど?」
「小蝶さんの使いとして参りました」
「え、小蝶さん?」
 大箱は声をひそめ、赤毛の女を、人けのない路地に連れ出しました。
「小蝶さん、ご無事なんですか?」
 と問うと、赤毛の女は頷き、
「はい。わたくしは、味鴨(あじかも)と申す者。今は、小蝶さんとともに、梁山泊におります」
「梁山泊……?」
「ええ、大箱さんが捕り手がやってくる事を知らせていただいたおかげで、無事逃げおおせて梁山泊に入ることができました。それで、わたくしを御礼に遣わしたのです」
 大箱は嬉しそうな面差しになって言いました。
「近江の唐崎で討っ手百名を全滅させた件は知っております。その後どうなったか案じていましたが、梁山泊ならば安心です。ぜひ、うちに寄ってくわしく話を聞かせてください」
 と味鴨を伴って家に帰りますと、
「おかえりなさい……あ、お客様ですか?」
 と、大箱と同じ年頃の小女(こおんな、お手伝いさん)が出迎えました。
 小女と言いましても、背が高く、色白く、目鼻立ちがくっきりして、誰もが思わず振り返られずにはいられない絶世の美女。味鴨も思わず息を呑むくらいでした。
「安蛇子(あだこ)さん」
 と大箱は小女に命じました。
「急なお客様で申し訳ないけれど、夕食のお膳を二つご用意して。あと、布団をもうひと組お願いします。わたくしの部屋で泊まっていただきますから」
 安蛇子と呼ばれた小女は、分かりました、と頭を下げながら、客の味鴨を一瞥し、奥へと下がっていきました。
 ぽーっとして安蛇子を見送る味鴨を、
「さ、こちらへ」
 と促して自室に案内した大箱、
「それで、小蝶さんたちのご様子はいかがですか?」
 と息せききって問いますと、味鴨は、梁山泊でクーデターが起こり、小蝶が幹部の首席となったこと、これまでの盗賊稼業をやめ、三世姫を奉じて「女だけの新天地」の建設と防衛を目標とする団体となったことなどを語りました。
「女だけの新天地ですか。すごいなあ。さすが小蝶さんだ」
 大箱は、素直に感心しました。やがて運ばれてきた箱膳の料理やお酒を、味鴨とともに賞味しながら、
「梁山泊では、どんな点が変わったのですか?」
 と問うと、味鴨はこう答えます。
「これまで、梁山泊に入るときは、家族とはきっぱり絶縁しなければなりませんでした。そして前の首領は、無理難題を言いつける際、拒絶すると刺客を送って家族を殺すと脅していたのです。それを小蝶さんは、家族を呼び寄せてもいいことにしてくれたんです」
 それから味鴨は、朱西という幹部が、悪辣な前首領の巨綸から母親を人質に小蝶らの暗殺を強要された事、それに気づいた桜戸によって暗殺は阻止されたものの、朱西は罪の意識に自害する事まで考えた事を語りました。
「その朱西さんは、久しぶりに母さんと会うことができて、泣いて喜んでいました。これまでは嫌々首領に従っていた者たちも、小蝶さんの寛大なご処置に、心から梁山泊のために働こうという意識が高まっているんです」
「よかったですね」
 感激してそっと涙を拭う大箱に、味鴨は続けました。
「それから、里に出て略奪強姦をすることが禁止されました」
「強姦?」
 大箱は眼を丸くしました。
「その……女が、男のひとを襲うんですか?」
「ええ、そうですよ」
 味鴨は平然と言いました。
「武芸に優れた女が男を強姦するなんて、珍しくはありません。でも小蝶さんが首席幹部になってからは、固く禁じられました。ここに来る前に、二人の女兵が里に出て男を襲ったのですが、それがばれて打ち首になり、その後、風紀はかなり改善されています」
「でも、急に厳しくすると、不満が募ったりはしないの?」
「大丈夫です。色子(男娼)を集めて慰安所を開設しました。女同士の自由恋愛は認められています。ただし、恋情のもつれからの刃傷沙汰は、厳しく罰せられます」
「なるほどねえ」
「これらの改革は、呉竹さんが中心に行っているのですが、毎日、てんてこ舞いの忙しさ、協力してくれる人材がほしいと毎日こぼしてます」
 夕食を終えた後、布団が二つ敷かれました。提供された寝間着に着替えた味鴨は、ふと、一本の扇子を差し出しました。
「これを、お持ち下さい」
「なんです?」
 開いてみると、和歌が書き付けられています。
  来ぬ人を下にまちつつ 久方の月をあはれといはぬ夜ぞなき
「拾遺和歌集」の紀貫之の歌で、「来ぬ人を待ちつつ、月を眺めて夜を過ごしております」という恋の歌ですが、大箱が目をとめたのは、署名でした。
 紀貫之ではなく、「夜叉天王小蝶」となっていたのです。
「小蝶さんは、ぜひ、あなたに梁山泊に来てほしいと願っているのです」
 味鴨は解説しました。
「さきほども申しましたとおり、梁山泊の改革を進めるには、大箱さんのような学(がく)のある人材が必要です。大箱さんならば、首席としてお迎えしてもいいとまで、小蝶さんはおっしゃっています」
「味鴨さん」
 大箱は、扇子を閉じて、静かに言いました。
「わたくしは今、決断所別当伊賀尼さまの右筆として、少しでも公平な政治が行われるよう微力を尽くしております。わたくしは、小蝶さんの理想には共感しますが、むしろ、都にあって幕府の一員として、梁山泊と気脈を通じながら政治をただしていきたいのです」
「そうですか」
 味鴨は頷きました。
「そのお言葉、小蝶さんにお伝えします。ただもし、梁山泊に参加したくなったならば、この扇子をご持参ください。梁山泊に入る際には検問を通過しなければなりません。その時、警備の者に見せていただければ、すぐに入れるようにしておきますから」
「わかりました。こんなご時勢です。いつわたくしも、罪人の身に陥らないとも限りません。そのときにはよろしくお願いします」
 そう言って大箱は頭を下げ、それから二人は布団に入り、ほどなく眠りにつきました。
 二人は気づいていなかったのです。すぐ外の廊下で、聞き耳をたてている者がいたのを。
「梁山泊……」
 呟いたのは、安蛇子という美しい小女です。
「これって……絶好の機会かもしれないわ」

 安蛇子は、十三歳の大箱が初めて都に遊学した際に知り合った仲でした。内裏に設けられた女大学寮での同窓生で、成績も一位二位を争った間柄です。
 伊勢の国(三重県)宋公明(そこめ)村の役所に仕える右筆の家に生まれた素朴な田舎娘の大箱を、女大学寮に通う貴族の姫様方のいじめから守ってくれたのが、安蛇子でした。
 高位高官の家に生まれ、ずば抜けた美貌の持ち主だった安蛇子は、性的にも早熟な少女でした。ある夜、大箱は安蛇子の屋敷に招かれ、お泊まりしたのですが、そこで情交の歓びを教わったのです。
 安蛇子と寝屋で二人きりになり、その美しい瞳で見つめられながら、巧みな愛撫を受け、一枚一枚、着衣を脱がされていった時の思いを、大箱は忘れられていません。やがて全裸になった彼女は、安蛇子の舌と指で敏感な部分をまさぐられ、いつしか声をあげて喘ぎ、安蛇子にしがみついていたのでした。
 その後、大箱は、安蛇子が他にも大勢の少女を寵愛している事を知りました。傷心を抱えて大箱はいったん伊勢に戻りましたが、三年前、新しく決断所の別当になった伊賀尼の招きで都に上がった時、変わり果てた安蛇子と再会したのです。
 安蛇子の一族は謀反に加わって没落し、彼女自身は遊郭に売り飛ばされていました。それを知った大箱が、彼女を身請けしようと大金を携えて店に赴いたとき、白粉や紅を塗りたくり毒々しく着飾った安蛇子は、現れた旧友に驚愕して道に飛び出し、一散に走って川に飛び込み、自殺をはかったのです。
 幸い、安蛇子は死なずに助けられました。大箱は宿所に彼女を引き取り、熱心に介抱しました。やっと回復した安蛇子は、
「なぜ、わたくしを助けたりなんかするの?」
 と大箱をなじりました。
「わたくしはもう、行き場がないの! 一家離散して、友だちのはずだった子たちも何もしてくれやしない。こんな世の中に一瞬だって生きていたくないわ」
 と号泣する安蛇子を、大箱は抱きしめました。身を固くして拒む安蛇子でしたが、やがて大箱を受け入れました。それから安蛇子は、小女というかたちで、家事を手伝うことになったのです。
「今はこんなことしかできないけれど……」
 時折、大箱は安蛇子と交わった後、申し訳なさそうに言いました。
「いずれわたくしが出世したら、必ず安蛇子さんにも何か御役についていただくわ。もうしばらく、待っていてね」
 安蛇子は、そんな大箱に感謝しつつも、心のどこかで、以前とはひっくりかえってしまった立場の違いを、暗い思いで抱いていたのです。
 そんな安蛇子にとって、大箱が、十七八の美少女と一緒に帰ってきたことは、大きな衝撃でした。その頃、伊賀尼の信頼を得た大箱は、単なる右筆ではなく捜査の手伝いなどもやって忙しくなり、どうしても帰宅が遅くなるので、夜の営みも途絶えがちだったのです。
 まさか、わたくしからこの若い娘に乗り換えようとしているのでは……。
 大箱の部屋に布団を敷いた後、抱いた疑心のままに、聞き耳をたてていたのです。そして、大箱が梁山泊の幹部と内通しており、参加を要請されていると知ったのでした。
 安蛇子は、根は高飛車なお嬢様です。かつて大箱と睦み合ったときも、田舎娘を愛玩具として賞味したくらいのつもりでした。それが今や、大箱に頼らなければ、寄る辺もない身になってしまったのです。
 大箱がこれから出世して、自分を引き立ててくれたとしても、結局また恩を着せられるだけ。一生、大箱の風下にいなきゃならない。
 そんなの御免だわ。
 押さえつけてきた感情が、一気に噴き出したのです。
 そっと自室に戻り、安蛇子は考え込みました。
 訴え出る先は、院の御所の亀菊さましかない。亀菊さまが、虎尾の桜戸という女武芸者を罪に陥れて死刑にしようとした時、六波羅決断所の別当に減刑を提言したのは、右筆の大箱だった。亀菊さまは大箱を怨んでいるに違いない。ここで恩を売って、亀菊さまのお気に入りになれば、別の道が開けてくる……。

 翌朝。梁山泊へ帰る味鴨を見送ったあと、大箱は決断所に出勤しました。そして、大箱が家を出るやいなや、安蛇子は行動を開始したのです。
 亀菊に訴え出るといっても、無位無官の安蛇子の身分では、御所に近づくこともできません。まずは、つてを探さねばなりません。
 安蛇子が向かったのは、鴨川べりでした。都を流れる鴨川のほとりは「河原」と称され、いわゆる賤民と言われる人々が住んでいました。牛や鶏をさばいて肉と皮とに切り分ける者、春を売る芸能民、行き倒れの屍を片付け街を清める者。
 彼らの多くは、与えられた仕事をまっとうにこなして生活している人々でしたが、なかには、罪をおかして賤民階級に落とされ、自暴自棄に生きている連中もいました。そういう連中を束ねているのが、義太吉(ぎだきち)という男です。
 義太吉の家は、河原に面した藁葺きの苫屋(とまや)。安蛇子が、苫屋の戸を叩いてなかに入ったとき、義太吉は、数人の男たちと、賽子(さいころ)を転がして博奕(ばくち)に耽っておりました。
「こりゃ、お姫(ひい)さま」
 義太吉は、正座して畏まり、おいお前ら、お辞儀しろ、と一緒に賽子を振っていた男たちを促します。安蛇子は黙って顎を外に向けてしゃくりました。男たちを追い出せといの意です。
「お前ら、ちょっと出てろ!」
 義太吉はきつい口調で男たちを外に追いやってから、卑屈な笑みを浮かべて問いました。
「あっしを、賤民身分に追い落とした挙げ句、お屋敷を追い出したお姫さまが、今頃、どういう風の吹き回しです?」
 安蛇子は顎をあげ、問いには答えず権高な調子で言いました。
「久しぶりね」
 この義太吉、元は安蛇子が公卿のお姫様だった頃に屋敷に仕えていた下人でした。当時、高貴な身分のお姫様が外出するときは牛車(ぎっしゃ)に乗り、その周囲を腕っ節の強い少年が固める事が多かったのですが、義太吉はそんな少年の一人でした。
 安蛇子のお供をしているうち、その美貌に惹かれた義太吉は、あるとき、無理矢理に安蛇子を犯そうとしたのです。安蛇子は必死に抵抗し、義太吉の股間を蹴り上げて難を逃れました。安蛇子の父は激怒し、義太吉を賤民身分に落としたのです。
 それから十年以上たっての再会でした。卑屈な笑みの下に、憎悪の炎を隠さない義太吉に安蛇子は、
「ねえ、義太吉」
 そう言いながら、彼の隣にからだを寄せて座り、いきなり股間に手を回したのです。
「あのときは、わるい事をしたわね」
 言いながら、義太吉の下腹部に手を滑り込ませ、陰茎を握って、軽くしごきました。
 うっ。義太吉は思わず呻きました。安蛇子は、かまわず男の敏感な部分を指で刺激しながら、耳元で囁きました。
「助けてほしいの」

「河原」には、都の栄華の底辺に生きる者が多いだけに、多くの情報が入ってきます。
「そう、亀菊さまが、そんなことを……」
 かつて仕えたお屋敷のお姫さまの掌に刺激された挙げ句に射精し、虚脱した面差しの義太吉の傍らで、安蛇子は呟きました。
「ああ、ここらじゃ有名な話でさ」
 義太吉は答えました。
 前に申しましたとおり、亀菊には、時おり都大路をお忍びで徘徊し、美少年を物色して、御所の椋橋(むくはし)の局(つぼね)に連れ帰り、そのからだを貪った挙げ句、睾丸を潰して殺害し、河原に放置するという性癖がありました。
「上皇様が地方に行幸して都を留守にされている時なんかに、そういうことをされるんです。昨日、上皇様は奈良へ行かれて一ヶ月ほどお帰りになりません。するとさっそく昨夜、六条河原で、きんたまを潰された美少年の屍が発見されました。しばらくは毎晩美少年が殺されることになるぞってもっぱらの噂ですぜ」
「そうなの」
 安蛇子はそう言い、再び義太吉の陰茎を握りしめ、愛撫しはじめました。
「お前も、いつまでも河原で生きていたくはないだろう?」
 あまりの心地よさにのけぞってうめく義太吉に、安蛇子は囁きました。
「わたくしの話に乗ってくれて、うまくいったら、お前も引き立ててあげるわ」
 その日から、安蛇子は男装して都大路を歩き回りました。二十三になる安蛇子ですが、背が高く、くっきりした面差しの彼女は、男装すると十五六の美少年に見えます。
 最初の日から、数人の男色家らしい公卿や武士が声をかけてきましたが、安蛇子は無視しました。二日目も同じでした。
 そして三日目。
「そこの少年」
 と声をかけてきたのはひげ面の武士でした。
「ちと、相手してくれぬか」
 いきなり手を握ってきて、にたにたしながら話しかけてきます。
「少し急ぎますので」
 と去ろうとしましたが、武士は離しません。なおも抗う安蛇子を、強引に引っ張って物陰に連れ込み、地面に押し倒して手で口を塞ぎ、
「静かにいたせ。しばらく我慢すれば、やがて極楽浄土に連れていってやるから」
 と、からだをまさぐろうとします。
 安蛇子は、抵抗をやめました。もの凄い力で押さえつけられ、とうてい逃げることはできそうにありません。こういう時は……。
「あの……」
 安蛇子は、武士の股間に手を差し入れ、愛撫しはじめました。突然態度を変えた相手に愕いた武士ですが、やがてあまりの心地よさに恍惚となり、
「お前、衆道(しゅどう)には慣れていると見えるな」
 と言いました。安蛇子は恥ずかしそうな笑みを浮かべつつ、さらに愛撫を続けます。やがて武士は大きく喘ぎ、
「いかん、出そうだ……」
 と身を起こしました。それから、大急ぎで袴を脱ぎ、下半身をさらけ出し、下腹部を安蛇子の顔に突きつけるように仁王立ちになって言いました。
「口でしてくれ。お前の口に精を放ちたい」
 はい……。そう静かに答えて、安蛇子はゆっくりと、左手で怒張した武士の陽物の付け根を優しくにぎり、唇を寄せ始めたとたん、
「ぎゃ!」
 武士はのけぞって呻きました。安蛇子は右手で陰嚢を掴み、ぎゅっとひねったのです。全身を硬直させて叫ぶこともできない武士の睾丸を、そのまま強く握りしめつづけると、てのひらのなかで、ぱんと肉が弾けました。睾丸が破裂したのです。
 武士の陽物の先端から、血の混じった精が迸り、そのまま仰向けに倒れました。
 まだ息はありましたが、口からも血反吐をはき、瀕死の態で痙攣しています。
「こんなことを……」
 面差しを紅潮させ、激しく肩で息をしながら、安蛇子は、陶然として呟きました。
「亀菊さまは、これを、よくなさっているのね……」
 男を己が手で去勢するのは初めてでした。
 わたくしでも、大の男を倒せる……。
 全能感とともに、下腹部から快感がこみ上げてきました。
「やみつきになりそう……」
 安蛇子は、地面に座ったまま、己が指で陰部をなぞりはじめていました。
 その日の夜。
「ただいま」
 と帰ってきた大箱は、出迎えて玄関に膝をついた安蛇子の姿に愕きました。常になく、美しく化粧した安蛇子は、この世のものとは思われぬ艶っぽさだったのです。潤んだ眼で見上げる安蛇子に、大箱は胸がときめきました。
 その夜、二人は激しく抱き合いました。
 切ない面差しで激しく喘ぐ大箱を見下ろしながら、安蛇子は思います。この房術(性技)こそ、天がわたくしに与えた才。この才で、のしあがってみせる。院の御所に入り込み、亀菊さまに女同士の睦み合いの歓びを教えて籠絡し、やがてわたくしが、この国の政事(まつりごと)を動かしてみせる……。
 翌日。大箱が出勤した後、安蛇子は男装して出かけました。亀菊から声をかけられることはありませんでしたが、昨日と同様、強引に誘おうとする男を、人けのないところで去勢し、悶絶する相手の傍らで自慰に耽ったのでした。
 それから三日して、やっと安蛇子は目的を果たしました。
「そこの少年」
 と呼ぶ声に振り向くと、一人の女房が安蛇子を見つめております。手にした扇子で背後を指し示し、
「あれに乗れ」
 見ると、少し離れた場所に、華やかに飾った牛車が停まっておりました。
「どなたでしょう?」
 そう問うと女房は、
「知らぬほうがよい。黙って乗れ。姫さまには何も問うな」
 姫さま、ということは牛車の主は女。
 亀菊さまかしら……?
 安蛇子は、胸を弾ませて牛車に入りますと、果たして十六歳の美少女が、膝を崩して座り、こちらを見つめております。
 ぞっとするほど美しく、冷たい炎が燃えさかっているような瞳でした。
「座れ」
 半身になって体をずらし、安蛇子のための隙間を空けて、美少女は命じました。安蛇子が畏まって座ると、美少女はぴたりを身を寄せてきます。
「側で見ると、さらに美しいな……」
 美少女が溜息とともに声をもらすと、牛がゆっくりと歩みはじめました。ゆれる牛車のなかで、美少女は安蛇子のからだをまさぐりました。ひとさし指で安蛇子のあかい唇を撫で、さらに頬を、肩を、腕を愛撫し、さらに股間へと伸びたとき、
「お前は……!」
 美少女は驚いて眼を見張りました。
 股間にあるはずのものがない。美少女は体を離し、さらに安蛇子の胸に手をあてました。掌にはっきりと、乳房のふくらみが感ぜられ、美少女は険しい面差しとなって問いました。
「何者だ? なぜ女のくせに男装している」
「わたくしは……」
 安蛇子は、目差しを潤ませながら告げました。
「女と女との睦み合いの喜びを、教えてさしあげたかったのです」
「女と女?」
「はい、亀菊さま」
 美少女はしばし安蛇子を凝視し、やがて口を開きました。
「なぜ、わたくしの名を知っている」
「勘でございます」
「勘?」
「亀菊さまは、上皇様ご不在の折りなど、都大路にでかけられ、美しい少年を見つけてお愛(め)でになると、風の噂に聞きました。男の装いでいれば、いずれ声をかけていただけるかと期待して、幾日も待っていたのでございます」
「それほどまでして、わたくしに会いたかったの?」
「はい」
「抜け抜けと言うわね」
 亀菊は面差しをやわらげてくすくす笑い、
「いいわ。女と女との睦み合いの歓びとやら、ぜひ教えて」
 かくして牛車は、二人の女を乗せて、院の御所へと戻っていきました。

六編之弐
大箱、安蛇子の奸計で危地に陥り、
旋風の力寿が登場す


 ああ、なんてことだろう……。
 次々と押し寄せる歓喜の波に、安蛇子は喘ぎ、のたうちまわりました。
 亀菊の舌が、指が、安蛇子のからだの敏感な場所をたくみに刺激します。そして、激しく身悶える二十三歳の安蛇子を、十六歳の美少女は、唇の端をかすかに歪めて笑みを浮かべながら見下ろしているのです。その蠱惑的な瞳に、安蛇子はさらに圧倒されました。
 こんなのはじめて……。
 化け物だわ……。
 幼い頃から早熟で経験豊富、房術(性技)には自信のあった安蛇子ですが、亀菊はそれ以上でした。最初は安蛇子が導きつつはじまった女同士のまぐわいを、亀菊はやすやすと習い覚え、やがて主導権を握り、安蛇子はなされるがままに、愉悦の洪水を浴びているのです。
「なるほど、女と女の交わりごとも、おもしろいものね」
 事が果てた後、しばし喘いで余韻に耽っていた二人ですが、最初に身を起こしたのは亀菊でした。
「それで……」
 亀菊は、息を整えながら、いまだうつろな面差しの安蛇子を見下ろしていたが、いきなり右手で彼女の頭髪を掴み、ぐいと引き上げました。悲鳴をあげる安蛇子の耳元に口を寄せ、亀菊は言いました。
「お前の狙いはなんなの? まさか、女同士の交わりを教えたかったなんて、本気で言っているわけじゃないわよね。他に意図があるんでしょう。それを話して。もし、嘘なんかついたりしたら……」
 亀菊は、左手で安蛇子の乳房をつかみ、強く圧迫しました。苦しげに悲鳴をあげる安蛇子を楽しげに見やりながら、亀菊は続けます。
「お前の胸乳を引き裂き、膣から子宮まで串刺しにし、苦しみ悶えながらあの世に送ってあげるわ! それがいやなら、包み隠さず言うのよ!」
「言います……言いますから……」
 滝のように涙を流しながら、安蛇子は叫びました。
「もうおやめください、お願いです!」
 亀菊は、突き飛ばすようにして、安蛇子の頭髪と胸乳から手を離しました。床に俯せになり、大きく肩を上下させて呻くばかりの安蛇子の脇腹を蹴りつけ、
「殺されたいの!」
 と一喝する亀菊に、安蛇子はやっと顔をあげ、
「亀菊さまが、お恨みになっている者を、陥れる材料をお持ちしたのです」
 と喘ぎながら言いました。
「わたくしが恨んでいる者?」
「はい……」
 安蛇子は、苦しげに続けます。
「六波羅決断所別当の右筆、大箱という女です」
「大箱……か」
 亀菊は、唇を歪めて笑いました。
「確かに、あいつのせいで、虎尾の桜戸の命を奪うことができなかった」
「その大箱のもとに、送られてきたのが、これでございます」
 安蛇子は、例の扇子を亀菊に渡しました。亀菊は扇子を開いてしばし、そこに書かれた和歌と、「夜叉天王小蝶」の名を見つめていましたが、やがて口を開きました。
「この小蝶は、三世姫と天国の宝剣強奪の容疑者として手配され、近江で百名の捕り手を全滅させた挙げ句、梁山泊に籠もったと言われる者ね」
「そうです。いま、梁山泊を乗っ取って、その首領になったとか」
「なぜ、お前はそれを知っているの?」
「梁山泊から、わたくしの主(あるじ)の大箱に使者が送られてきました。二人の密談を、たまたま立ち聞きしたのです」
「では、お前は……」
 亀菊は、安蛇子に顔を寄せて問いました。
「お前の主を裏切るというわけ?」
「はい……」
 深く頷く安蛇子に、亀菊は高らかに笑い、脱いだ着衣を引き寄せて、身に纏いはじめました。
「もっとくわしく話して」

 その日の夜、決断所から屋敷に帰ってきた大箱は、
「大変です!」
 と奥から飛び出してきてしがみついた安蛇子に驚き、
「どうしたの?」
 と問いました。安蛇子は言いました。
「逃げましょう。院の御所から捕り手がやってきます」
「捕り手?」
「そうです。ぐずぐずしてはいられません!」
「え、どういうこと?」
 愕然となった大箱に、安蛇子は、眼から涙を溢れさせながら言いました。
「今日のお昼、お買い物にいって帰ってくると、屋敷から怪しい男が二人、出て来ました。何事だろうと思って、こっそり後を尾けてみたんです。すると彼らは、これで大箱はおしまいだ、梁山泊と連絡を取り合っている証拠が手に入った、と言い合っていました」
「なんですって!」
 大箱は眼を見開き、走って自室に入り、味鴨から預かった扇子をしまっておいた箪笥を調べました。箪笥はきれいに空になっています。
「大変!」
 両手で己が頭髪を掴み、茫然となった大箱に、追いかけてきた安蛇子は言いました。
「男たちは、院の御所に入りました。亀菊さまもお喜びだろう、と申しておりましたから、恐らく、亀菊さまの手の者かと……」
 大箱は、俯いて唇を噛みしめました。
 桜戸の件で亀菊が大箱を恨んでいるらしいという噂は、大箱の耳にも入っています。鎌倉幕府直轄機関である決断所別当の伊賀尼の後ろ盾があるからと警戒もしていませんでしたが、確かに梁山泊と通じている証拠を押さえられたら、伊賀尼も庇いきれません。
「早く逃げましょう!」
 安蛇子は、大箱の袖にすがって訴えました。
「女武者所の者たちが、そこらじゅうを固めています。もうすぐ、この屋敷に踏み込んでくるでしょう」
「でも……」
 大箱は泣きそうな面差しで問いました。
「どこへ逃げれば……」
「大丈夫です」
 すがるような大箱の眼差しに、安蛇子は面差しを穏やかにして言いました。
「わたくしの知り合いが浄目(きよめ)に変装して、屍を運ぶ樽を載せた車を、屋敷の近くに待機させてあります」
 浄目とは、都で行き倒れになった屍を拾って、河原の死体捨て場に運ぶ賤民のことです。
「その樽に乗って安全な場所まで逃げましょう」
 安蛇子に促され、大箱は覚悟を決めました。
「そうね……」
 大箱は、頭を下げて言いました。
「安蛇子さん、恩に着ます」
 裏口から忍び出ると、大樽を積んだ車が置いてあり、かたわらに一人の男が立っていました。安蛇子が耳打ちすると、男は樽を車からおろし、蓋を開けました。
「それに入ってください。すこし我慢してくださいね」
 安蛇子にそう言われ、大箱は頷きました。男に支えられながら大樽に入りました。
 その男が、河原者の義太吉だということを、大箱が知る由もありません。
 やがて樽を乗せた車はゆっくりと走り出しました。しばし、揺れる樽のなかで息を潜めていますと、やがて車が止まりました。
「もう安心ですよ、出て来てください」
 安蛇子の声とともに、樽の蓋が開きました。出てみると、川のせせらぎが聞こえます。
「ここはどこ?」
 揺れる樽のなかで酔ってしまった大箱は、視界が定まらぬまま問うと、安蛇子は言いました。
「六条河原よ」
「六条河原?」
「そう」
 安蛇子は、がらりと変わった口調で言いました。
「あんたに、女と男のまじわりの歓びを、知ってもらいたくてね」
 その声を合図に、どこからともなく、十人ばかりの薄汚れたなりの男たちが、せせら笑いとともに現れ、大箱を囲みました。そのなかに、さきほどまで車を引いていた義太吉もいます。
「安蛇子さん、どういうことなの?」
 大箱は愕然として叫びました。安蛇子は高笑いをした後、
「大学寮でわたくしと成績を争っていたわりに、頭の回転が鈍いのね。わたくしが、一芝居打ってあんたを騙したに決まってるじゃないの」
「騙した?」
「そうよ。屋敷に盗賊が入って扇子を盗んでいったなんて嘘。あれはわたくしが、亀菊さまのところに持っていったの。でも、ただあんたを捕まえさせただけじゃ、わたくしの恨みは晴れないわ。だから、この河原者たちにあんたを強姦させようと、ここまでおびき出したわけよ」
「恨み……?」
 大箱は、涙目になって言いました。
「なぜ、わたくしを恨んでいたの? わたくしは、精一杯あなたのために……」
「うるさい!」
 安蛇子は、大箱に平手打ちを喰わせました。棒立ちになった大箱の胸ぐらをつかみ、
「だいたい、なんであんたが、わたくしの主(あるじ)なわけ? 世が世なら、わたくしは高貴な姫君として、あんたなんか鼻もひっかけなかったご身分だったのよ!」
 言うなり、大箱の股間に膝を打ち込みました。大箱は悲鳴をあげ、右手で股間を押さえてうずくまります。
「義太吉、やっちまいな!」
 安蛇子の声に義太吉、
「へへへ、じゃあ一番槍を勤めさせていただきますぜ」
 と、大箱を仰向けに組み敷き、着物の袖の合わせ目に手をかけた時、
「ぐっ!」
 白眼を向いて、義太吉はのけぞりました。
 大箱は、組み敷かれながら、義太吉の股間を蹴り上げていたのです。両手で股間を押さえて悶絶する義太吉の体の下から必死で這いだした大箱でしたが、特に武芸の心得があるわけではありません。
 たちまち
「兄ィになにをする!」
「男の大事なところを……許せねえ!」
 と河原者たちに囲まれ、大箱がへなへなと尻餅をついたその時、
「あんたら、何してんだい?」
 と呑気な声が響いてきました。
 見ると、女が一人、河原にあぐらをかいて坐っています。今まで寝ていたとみえ、ざんばら髪に、着衣は乱れ、豊かな乳房が谷間をのぞかせています。色黒の肌に眠たげな眼。年の頃は二十歳半ばでしょうか。
「気持ちよく寝てたってのに、なに騒いでるんだよう」
 と立ち上がると、身の丈六尺もあるでしょうか、広い肩幅にたくましい足腰。見るからに強そうな女です。
「向こうの方で寝ていてくれないかな」
 安蛇子が、顎を突き出して威嚇しながら、女に歩み寄りました。
「悪い事は言わない。あんたも河原者に強姦されたくはないでしょ?」
 言うなり、安蛇子の体が吹っ飛びました。女の張り手をくらい、鼻から血を噴き出しながら、河原に叩きつけられ、そのままぐったりと動かなくなったのです。
「何しやがる」
 一人の河原者が刀を抜いて女に飛びかかりましたが、その塗炭、彼の体は宙に浮きました。女が、股間を蹴り上げた爪先に持ち上げられ、そのまま地面にどさりと落ちた男の睾丸が、二つとも破裂していた事は言うまでもありません。
「強姦するだなんて、そういうお痛(いた)は、この旋風(つむじかぜ)の力寿(りきじゅ)ねえさんが許しちゃおかないよ!」
 大きな体に似合わず、それこそ旋風のように河原者たちの間を凄まじい勢いで駆け抜け終わった時、そこには十人の睾丸を潰された男たちが、激痛に悶絶しながら転がっておりました。大箱に蹴られた義太吉は、痛む股間を抑えて逃げだそうと必死に這いましたが、大女は、
「おっと、見逃すわけにはいかないね」
 と義太吉の襟首を掴んで持ち上げ、宙に浮いた男のからだを、持ち上げた己が膝に叩きつけました。
 義太吉の睾丸は瞬く間に破裂し、さらに股関節がばらばらに砕け、無惨な姿となって、地に転がったのです。
「きゃあああ!!!!!!」
 叫んだのは、いつしか意識を取り戻した安蛇子でした。恐怖に眼を見開き、棒立ちになっています。
「お前が、こいつらの頭目か?」
 旋風の力寿と名乗った大女は、震えおののく安蛇子に、ゆっくりと歩み寄りました。
「こいつらのきんたま潰させておいて、お前だけが無事ですむなんて思うなよ」
 力寿は、安蛇子の胸ぐらをつかんで立たせ、恐怖に眼を見開いたその顔に、再び張り手をかまそうとしたそのとき、
「やめてください!」
 と叫んだのは大箱です。力寿はきょとんとした面差しで問いました。
「なんで? この女は、こいつらにあんたを強姦させようとしたんじゃないの?」
「そ、そうですけど……」
 大箱は、涙を流しながら言いました。
「その人とは、長年の友だちだったんです」
「友だち? 友だちがなんで、そんなひどいことをさせようとしたわけ?」
「いろいろあるんです。今はわけあって、わたくしの事を恨んでるけれど、きっと反省して、いい人になってくれると思うんです。お願いですから、助けてあげてください」
「おい、聞いたか?」
 力寿は、安蛇子の胸ぐらを掴んでゆすぶり、それから突き飛ばしました。安蛇子は力なく、河原にへたりこみ、俯いたまま微動だにしません。
「ありがたく思って、心を入れ替えろよ」
 そう一喝して力寿は大箱を促しました。
「いつまでも、こいつらの潰れたきんたまの匂い嗅いでいても仕方ないよ。行こ」
 大箱は、安蛇子を気遣わしげに見つめながら、力寿とともに、その場を立ち去ったのでありました。

「なるほどねえ」
 人けのない観音堂に入った大箱は、おおよそのあらましを説明すると、力寿は深く頷きました。
「あたいは頭が悪いからよくわかんねえけど、要するに大箱さん、あんた追われてるわけだ。だったら、その梁山泊に行けばいいんじゃないの?」
「それも考えたけれど、無理だわ」
 大箱は首を振りました。
「官憲は、わたくしが近江へ向かうと分かっていて、罠を張っているはずですから」
「だったら、あたい近江まで送ってあげるよ。官憲なんて、あたいが蹴散らしてあげる」
「ありがとうございます。でも、ご迷惑じゃありません?」
「あたいは、これから故郷(くに)の信濃に戻る途中だけれど、別にいいよ、そのくらい遠回りしても」
「でも、それではまた、わたくしのために怪我をする人が出て来るでしょう。幕府の役人として、それは忍びないんです」
「ふーん、そっか。あんた、真面目なんだねえ」
 力寿は目を細め、好意的な笑みで大箱を見つめておりましたが、やがて、
「じゃあ、あたいの故郷においでよ」
「あなたの故郷に?」
「ああ、信濃だったら近江とは別の街道だ。警戒も薄いはずだよ」
「でも……」
「実は、あたいの姉が結婚したんだ」
「あら、そうなんですか。おめでとうございます」
「あたいと違って、弱虫のいじめられっ子だったから心配してたんだけど、すごい美男子を婿に迎えたっていうから、久しぶりに帰省してる途中なのさ」
「すごいわね!」
「姉は餅屋さんを経営しているから、お店の手伝いをしてもらってもいいし、しばらく、あたしの故郷でほとぼりを覚ませばいいじゃんか」
「でも、それじゃやっぱりご迷惑だわ」
「いいんだよ」
 力寿は、大箱の肩を叩き、
「あたい、あんたが気に入ったんだ。さっきの女にひどい目にあわされながら、命ごいをするなんて、すっごく優しい人なんだと思う。でも、人がよすぎるのが危なっかしくて、守ってあげたくなった。だから一緒に行こうよ」
 と説いたので、大箱も、
「では、よろしくお願いします」
 と頭を下げたのでありました。

六編之参
大箱、力寿の故郷に赴き、
西門屋の阿慶に出会う


 さて、信濃(長野県)の国に向かった大箱と力寿、無事、官憲の網をくぐりぬけ、数日の旅の後に、力寿の故郷である松枝村に入ったのであります。
 街道の商家が軒を連ねるなかに、「豚もち」と大きく看板を掲げた餅屋がありました。店先でさかんにせいろから湯気があがり、お客さんが長い行列を作っております。奥では数人の職人が忙しく働いており、なかなか繁盛しているようです。
「あ、力寿さんだ!」
 売り子のひとりが力寿に気づき、奥に向かって「奥さまー、力寿さんがお帰りですよー」と叫ぶと、職人たちもお客も、「え、力寿?」と振り向き、たちまち力寿を囲む人垣ができました。
「な、なんだよ」
 力寿が戸惑っておりますと、
「あー、力寿ちゃーん!」
 と店の奥から走り出て、力寿に抱きついた小太りの女がいました。力寿は、
「あーーーー! 姉ちゃん、元気だった?」
 と叫び、かるがると小太り女を抱き上げ、ぎゅっと抱きしめました。
 あれが……力寿さんのお姉さん?
 大箱は眼を丸くしました。大柄でたくましい力寿とは、似ても似つかなかったからです。
「あんた、すごいじゃん!」
 抱き上げられながら、力寿の姉は昂奮したように言いました。
「なんでも、碓氷峠で人食い虎を素手で殴り殺したそうじゃないか。虎殺しの力寿って、このへんまで噂が聞こえてきてるよ」
 それで人垣ができたのね。そりゃそうよね、虎を素手で……。と、傍らで納得した大箱ですが、
「えーーーーーー!!!??? 虎を素手で!」
 と眼を丸くしました。力寿は高笑いし
「幸い雄虎だったから、きんたまを蹴り潰してやったら、一発で伸びちゃった。人も虎も同じだね」
 と姉を地面にそっと下ろし、大箱に向かって、
「姉です」
 と紹介し、今度は姉に向かって、
「姉さん、こちらは大箱さん。都で知り合って、おともだちになったんだ」
「そうなんですか。力寿がお世話になってます」
 と姉は頭をさげ、
「あたしは、豚代(ぶたよ)。ここで餅屋をやっております。もし、お宿が決まっていないなら、今日はうちで泊まってください」
 と家のなかに案内しました。
 まだ日が高いので、店の名物「豚もち」とお茶を喫しながら、女三人で笑いさざめいておりますと、
「ただいま」
 と帰ってきた者がいます。年の頃は二十歳半ばか、色白の二枚目。まだ日も高いというのに、真っ赤な顔で酒臭い息をしております。
「あら、おまえさん、おかえり」
 と豚代が出迎えました。この男がお婿さんでなのしょうか。
「お客さんか?」
 と問う二枚目に、豚代は、
「こちらは、あたしの妹の力寿、それと妹のおともだちの大箱さん」
 と紹介しました。二枚目は正座し、
「どうも、金蓮助(きれすけ)と申します。以後、お見知りおきを」
 と頭をさげ、再び立ち上がります。
「どこに行くの?」
 と問う豚代に、
「今日は、積もる話もあるだろ。おれはちょっと、ダチ公らと呑んでくる。今夜はきょうだい水入らずで過ごしな。明日は、盛大に宴を開くとしようぜ」
 と、豚代の頬を撫でつつ、甘い声で言いますと、豚代はうっとりして、
「わかったよ、おまえさん」
 と、もうめろめろです。「ごゆっくり」と二人の客に告げて金蓮助が出て行ったのを確かめて、力寿は眉根をひそめて
「旦那さん、昼間っから呑んでるの?」
 と心配顔をすると、豚代は笑って、
「うちの人は、つきあいが広いから仕方ないのよ。明日、ぱーっと宴をやるそうだから、ちゃんとしたご挨拶はそのときにね」
 と言うので、大箱も、
「では、わたくしも別に宿を取ります。今夜はぜひ、水入らずで過ごしてください」
 と立ち上がりました。力寿も豚代も引き留めましたが、大箱が譲らないので、豚代は、
「いい宿をご紹介しましょう。お代はあたしが出しますから」
 と、一軒の旅館を教えてくれました。
「明日の朝、あらためて窺います」
 と告げて店を出ると、ちょうど店じまいの時間で、二人の売り子が「お先に」と帰りぎわだでした。
 大箱、ふと思うところあって「あのう」と売り子たちを呼び止めました。立ち止まって「なんでしょう」と問う売り子たちに、大箱は
「ちょっとお話を聞きたいのだけれど、いいかしら」
 と売り子を、近くの茶店に誘いました。
 どうも、おかしい。決断所別当の右筆を長年つとめた勘でしょうか、豚代と金蓮助の様子に、何やらおかしな雰囲気を感じたのです。その雰囲気とは具体的に何なのか、確かめたくなったのでした。
 お汁粉をおごりながら、大箱は売り子たちに訊ねました。
「あのお婿さん、よく昼間から呑んでるんですか?」
「ええ、そうなんです……」
 一人の売り子が汁粉をすすりながら言いました。
「仕事もせずに遊んでばかりで、甘やかしすぎじゃないかって、あたしたち、よく言ってるんです」
「そうそう」
 もう一人も唱和します。
「おかみさん、朝から晩まで働いて、お店のこと全部やってるというのに、そのお金で飲み歩いて、ほんと、ろくでもない男ですよ」
「お金めあてで一緒になったんだろうって、もっぱらの評判なんです」
 なるほど……。
 大箱は、かすかに胸の痛みを覚えながら思いました。
 あれだけ二枚目の金蓮助が、失礼ながらお世辞にも美人といえない豚代と結婚したのは、やはり純粋な愛情ではなかったのか……。
 なんだか豚代も、姉の結婚を大喜びしている力寿も、どちらも気の毒になってしまいました。
「金蓮助さん、お酒を呑みに出かけたみたいだけれど……」
 そう問いかけると、一人の売り子が、
「違いますよ。お酒じゃありません。どうせ、西門屋(にしかどや)の阿慶(おけい)のところに決まってます」
 と吐き捨てるように言いました。
「西門屋の阿慶……?」
「この先の小間物屋の後家さんなんですけどね」
 もう一人が声を潜めて説明しました。
「もともとは常磐津のお師匠さんだったけれど、弟子として通っていたやもめの西門屋のご主人がぞっこん惚れ込んで、後妻(のちぞえ)に迎えられたんです」
「ところが、祝言の翌日に、そのご主人が亡くなったのよね」
「そうそう、その阿慶が金目当てでご主人を惑わして後添えになった挙げ句、あっさり殺したんじゃないかと疑われたのだけれど、証拠がなくって」
「で、今や西門屋の女主人の座に納まったってわけです。でも、商売はいい加減だし、男出入りは激しいしで、古くから仕えてきた使用人もいなくなって、行き詰まってるって噂ですよ」
「その阿慶さんのところに……」
 大箱は口を挟みました。
「金蓮助さんが足繁く通っているわけ?」
「そうなんですよ!」
 売り子たちは腹立たしげに言いました。
「力寿さんのお友だちだから、お店の恥を言いましたけれど、豚代さんは金蓮助さんに惚れ込んでいて、悪い噂が聞こえてきても信じようとしないし、このままじゃお店の先行きも心配です。なんとか、豚代さんを諫めていただけませんか?」
「そうねえ……」
 大箱は考え込み、
「なんとかしてみるわ」
 と、売り子二人に追加のお汁粉を注文してあげて、「ゆっくりしていてね」と支払いを済ませて茶店を出て、西門屋に行ってみました。
 二つ通りを隔てたところに、「西門屋」の看板が見つかりました。
 店の構えは大きいけれど、前の通りは散らかり放題、除いてみると、棚にはろくな品揃えもなく、掃除も行き届いていない様子。
 何より、まだお店を開いているはずなのに、誰一人出ていないのです。
 これは、思った以上に自堕落な女のようね……。
 大箱は、そう思いつつ、豚代に教えられた旅館へと向かいました。
 今日はそのくらいにして、明日から、じっくりと金蓮助と阿慶のことを調べてみよう。そして、動かぬ証拠を手に入れて、豚代さんの目が覚めるよう、計らってみなければ。

 その頃。
 さきほど大箱が除いた西門屋の奥座敷で、二人の男女が絡み合っておりました。
 脇息(きょうそく)にもたれ、着物の裾をまくって脚を広げている三十路近くの美女の股間に、土下座するように男が頭を突っ込んでおります。
 この美女こそが西門屋の阿慶。その陰部を舌で慰めているのは、金蓮助でありました。
 白い胸元をちらつかせ、男の頭を両手で押さえ、のけぞって喘ぐ阿慶は、やがて小さく叫び、男の顔をあげさせ、にっこり笑って、脚を閉じました。
「お前、ずいぶんうまくなったね」
 そう言って頬を撫で、着物の裾を直す阿慶に、金蓮助は物足りなさそうに正座し、恨めしそうな面差しです。
「なんだい、何か不満でもあるのかい?」
 婉然とした笑みを作ってそう問う阿慶に、金蓮助、
「だって……女将……」
 膨れあがった股間を手で蔽って隠しながらもじもじしております。阿慶は笑って、
「だめだよ。あんた、約束したじゃないか。あの豚もちの店をあたしにくれたら、させてあげるって」
「そりゃ、そうですけど……」
「だったら、さっさとあの不細工な女、始末しちまいなよ。それでいったん店を継いでから、あたしを後添えに迎えてくれりゃ、それで終わりだろ?」
「そうもいかねえんですよ」
 金蓮助は、肩を落として俯きます。
「いま、豚代の妹の力寿が帰省してきていて、当分うちでのんびりするんだそうです。あの大女、かっとなると手の着けられない暴れ者で、碓氷峠で虎を素手で撃ち殺したほどの大力です。姉貴が死んで、おいらの仕業かと疑われたら最後、絶対にぶち殺されます」
「じゃあ、当分お預けだね」
「そんな殺生な……」
「お楽しみはとっとくもんだよ」
 阿慶は、ぴしゃりと言いました。
「前みたいに、きんたま蹴り上げられたいのかい?」
「い、いや、そいつは勘弁を……」
 金蓮助、股間を両手で庇うようにして腰を浮かしました。一度、彼女を無理やり犯そうと押し倒して、股間を蹴り上げられた時の、想像を絶する苦痛を思い出したのです。
 そんな金蓮助に、阿慶は笑みを浮かべて近寄り、ぴったりからだをくっつけて、そっと顎を撫でながら言いました。
「我慢してくれたら、いずれ、極楽浄土を味わわせてあげるからさ」
 やがて金蓮助が店を出て行った後、阿慶はふんと鼻を鳴らし、
「馬鹿な奴……」
 それから、部屋の奥の仏壇に目をやりました。彼女を後添えに迎えたその日のうちに世を去った、小間物屋の主人の位牌が置いてあります。
「させてなんかやるもんか。あいつと同じく祝言の夜にあの世行きさ」
 と呟きました。そこに、
「おるか?」
 と店先で声がしました。出てみると、頭巾で顔を被った大身の武士が立っております。
「あら、脇本さま」
 と阿慶はお辞儀しました。頭巾を捕ると四十半ばの陰険そうな男です。
「近くに寄ったので、顔を出した」
 ずかずかと上がって、奥座敷に向かいました。阿慶は愛想笑いを浮かべて続きます。
 男は、このあたりの治安を預かる目代(もくだい)の脇本治部太夫(わきもとじぶだゆう)。阿慶に懸想し迫っている男の一人です。
 無口な脇本は、無言で奥座敷に入ると、脇息にもたれ、脚を投げ出すように坐りました。その傍らに膝を崩して座った阿慶は、彼の袴を脱がせて、下半身を剥き出しにしました。固く勃起した男根を優しく握り、上下に動かしはじめますと、脇本は眼を閉じ、心地よさそうに喘いでおります。
 阿慶は、金蓮助と同様、脇本にもまぐわいは拒んでいました。ただ、手で慰めるだけです。それでもこの四十男は満足してくれるのです。
 ……いやな男だけれど、使い勝手は悪くないわ。
 小間物屋の主人が急死したのは、むろん、阿慶が手にかけたのです。初夜の布団のなかで、睾丸を捻り潰して殺した翌朝、遺体を検死した脇本は、病死として片付けてくれたのは、普段こうやって慰めてあげていたからです。
 豚もちの乗っ取りに際しても、役だってくれるはず……。

 翌日。
 豚もちの店では、朝早くから豚代が店に出て先頭切って働き、力寿は、山で何か獲物を捕ってきて今夜の宴の料理にするんだと出かけていきました。
 大箱は、する事もないまま、阿慶の小間物屋を覗いてみる事にしました。今日は、店先に女が一人、しょざいなげに座っています。
 あれが……阿慶?
 大箱は、胸が高鳴るのを覚えました。抜けるように色が白く、切れ長の眼、ふっくらした頬、分厚い唇。
 誰かに似ている……ああ、そうだ。
 安蛇子だ。
 艶めいた気の強そうな美女という点で、似ているのです。そして大箱は、そういう女性に弱いのでした。
「いらっしゃい」
 阿慶は、棒立ちになった大箱に眼をやり、にっこりと笑いました。
「あ……はい……」
「なにか、お探しですか?」
「え……あ、あのう……そのう……あの、簪(かんざし)を……」
 真っ赤になって俯いた大箱に、阿慶は歩み寄ってきて、
「これなんか如何ですか? 銀細工の上物ですよ」
 と一本渡して、大箱の髪に挿しました。阿慶のあかい唇から漏れた息が、大箱の耳たぶにかかり、またも胸が高鳴ります。
「あ、いただきます。買います」
 大箱は、懐から紙入れを取り出し、お金を渡しました。お金を受け取ったしなやかな白い指までが、大箱にはまぶしく見えてしまいます。
「ありがとうございます」
 阿慶はお辞儀し、それから言った。
「よかったら、茶など喫していかれませんか?」
「え?」
「この時間、お客もたいして来ないのです。よろしかったら、奥でお茶など飲みながら、お話ししません?」
「あ、そうですか……それじゃ、お言葉に甘えて」
 奥座敷に案内され、向かい合って座り、お茶と甘いお菓子を提供されました。
「こちらには、最近いらしたのですか?」
 とにこにこ顔で問う阿慶に、大箱は、身分は伏せながら答えました。
「ええ、あるおうちでお世話いただいてます」
「ずっとご逗留なさるの?」
「いえ、まだ決まってないんですけど……」
「では、ご滞在中は時々、お顔を見せてくださいな」
 阿慶はそう言いながら、箪笥から扇子を一本取り出しました。絹張りで赤い房のついた、かわいらしい扇です。
「これは、簪のおまけに差し上げます」
 と差し出しました。大箱はどぎまぎして、
「え、え、え……いいんですか?」
「いいんですよ」
 と言いつつ、阿慶はすっと膝を進めて大箱に近寄り、袴の帯に、扇子を挿しました。
「ね、こうすると、衣装の色が引き立っていいでしょう?」
「そ、そうですか? おしゃれにはあんまり興味がなくて……」
「では、あたしが色々、お教えしてさしあげます。せっかく可愛らしい方なのにもったいない。衣装や装身具に工夫するだけで、ずいぶん、見た目は変わるんですよ」
 と言いながら、いきなり阿慶は、大箱の唇に自分の唇を重ねました。
 嘘……。
 とまどう大箱の口のなかに、阿慶の柔らかな舌が入ってきました。同時に、阿慶の掌が、大箱の胸乳のあたりを撫でたのです。
 全身に、心地よい稲妻が走ったようでした。このまま抱きしめられたい。つい、大箱は眼を閉じてしまったのです。
 その時。
 大箱の脳裡に、豚代と力寿姉妹の面差しがひらめきました。
 そうだった! こんなこと、してる場合じゃない!
「あの……」
 大箱は、阿慶の胸を押して、唇を引きはがしました。阿慶が眼を見開いて、大箱を凝視しています。大箱は、顔を真っ赤にして言いました。
「いけませんよ……」
「いけないの?」
 阿慶は、切なそうに面差しを歪めました。悲しげな瞳に、大箱は罪悪感に苛まれました。
「だって……、その、会ったばかりで、こんな……早すぎます」
「あたしのこと、嫌いなの?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」
「女同士だから?」
「え? あ、いや、そういうことじゃなくて、ですね……」
「では、女同士でもいいのね?」
「え、あ、まあ、そうですね……ええ、いいです」
 阿慶は、けらけらと笑い出しました。両手で大箱の頬を挟んで、
「ほんっとに、かわいいのね!」
 と額に唇を押し当て、
「わかったわ。でも、きっとまた来てね」
「あ……はい」
「約束よ」
 指切りして、大箱は店を辞しました。
「ああ……わたくし、何をしてんだろ!」
 通りに出るなり、大箱は両手で頭をかきむしりました。相手は、力寿の姉豚代の夫と密通しているけしからん女です。浮気の証拠を見付けて、豚代の目を覚まさせるのが目的だったはずです。
 ところが、なんのことはない、大箱自身、阿慶の魅力にめろめろにされてしまったではありませんわ。
「これじゃ、まずいわ。あの女に惑わされて、命の恩人の力寿さんとお姉さんを裏切ることになっては、わたくしの義が立たない。当分、あの女には会うのはよしにしなきゃ」
 そう言いながら、扇子をぱたぱたあおいで、流れ落ちる汗を吹き飛ばそうとしましたが、その扇子が、さきほど阿慶からもらったものと気づいて、またも赤面する大箱でした。
 その頃。
 西門屋では、阿慶が縁側でぼんやりと、庭を見つめていました。死んだ前の主人は庭造りが趣味で、築山や池をつくり、さまざまな花を植えて手入れを怠りませんでしたが、阿慶がこの家に入ってからというもの、雑草が伸び放題と荒れていたのです。
 そのなかに、茎に白い小さな花弁がついている、名もなき雑草が生えていました。
 あれは確か、大葉子(おおばこ)という草。
「そういえば……」
 庭に降り立ちながら、阿慶は、その大葉子という草を摘み、そっと赤い唇に押し当てて呟きました。
「あの女も、名前は大箱だったわね」
 垢抜けず、地味だけれど愛嬌のある可愛い娘。阿慶のそういう好みに、大箱はぴったりだったのです。

 それから三日が過ぎました。
 大箱は、阿慶と顔を合わせたくなかったので、力寿と一緒に近くの野山に遊び、絶景を眺めながらお弁当を食べたりして過ごしました。
 その日も、山の洞窟を探検して帰ってくると、豚代がいつになく真面目な顔で待っていました。
「ちょっとお話があります」
 と奥座敷に大箱と力寿を通し、使用人も遠ざけ、かしこまって言いました。
「今日、命令により目代屋敷に赴いたところ、この村の主立った人たちが呼ばれていて、都よりの廻文(めぐらしぶみ)を見せられました」
 廻文とは、中央から地方の官憲に送られる、一種の指名手配書です。
「来ましたか……」
 意味が分からずとまどう力寿の傍らで、大箱は俯きました。
「はい」
 豚代は沈痛な面差しで頷きます。
「六波羅決断所の右筆・大箱なる者が、梁山泊と内通し、暴露されそうになったので、逃亡した、とありました。人相書きもついていました」
「では……」
 大箱は呟くように言いました。
「これ以上、ここにご厄介になっていては、ご迷惑ですよね」
「ちょっと待って!」
 力寿が大声で口を挟みました。豚代に眼で制され、声を低めてつづけます。
「それじゃ、大箱さん、ここを出て行くっていうの? 姉さんは、大箱さんを追い出すつもりなのかい?」
「だって、仕方ないですよ」
 大箱は言いました。
「わたくし、親しい方が罪に問われそうになったので、密かに逃亡を助けました。その方は今、梁山泊にいます。人を介して連絡したこともあります。罪を犯したのは、まぎれもない事実なんです」
「大丈夫だよ!」
 力寿は言いました。
「誰か訴え出て捕り手が来たとしても、あたいが全部蹴散らしてやるから!」
「駄目です。それじゃ、わたくしは助かっても、豚代さんはここでご商売をつづけられなくなってしまいます」
「だって……」
 力寿が言葉に詰まるのを待っていたように、豚代が言いました。
「大箱さん。佐渡の折滝(おりたき)の節柴(ふししば)さんをご存じですか?」
「節柴さんですか?」
「滅んだ平家一門の末裔ですが、佐渡にあって人望あつく、土地を開墾して所有地を拡げ、いま、女だけの別天地を作ってらっしゃるそうです」
「女だけの別天地……ですか?」
 大箱は眼を丸くしました。
 そういえば、梁山泊で小蝶さんたちが「女だけの新天地」を建設していると、味鴨さんが言っていたな。そんな事を思い出した。
「なんでも、新たに山を開墾した際、黄金の鉱脈を掘り当てたのだそうです。節柴さんは、その黄金を元手に、一大産業を興し、夫や父親の暴力にさらされた者、貧しくて苦海に身を堕とすしかなかった者など、不幸な境遇にある女たちを引き取って保護しているのだとか。節柴さんの威風はたいしたもので、地元の官憲も迂闊に手を出せないのだそうです。どうです、大箱さん。そこに身を寄せられては?」
「そうですね……」
 大箱は頷きました。
「不幸な女たちを守るための別天地建設とは、尊い事業です。わたくしもぜひ、力を貸したく思います」
「では、力寿ちゃん」
 豚代は妹を見やって言いました。
「無事、大箱さんを佐渡まで送り届けてあげて。お願いよ」
 同じ頃。
 小間物の西門屋の奥座敷では、阿慶が配られた廻文の写しを手に、呆然と庭を眺めておりました。
 三日前、この奥座敷で唇をかわした相手が……。
「おたずね者だったとはね」
 なんであたしは、好きなひととは一緒になれず、ろくでもない男をたぶらかしてばかりいるのだろう。こんな人生を送りたくはないのに……。
 阿慶の目尻から、ひとしずく、涙がこぼれました。
 そこに、玄関で物音がしました。
「おいらです」
 声は、金蓮助です。
「お入り」
 そう声をかけると、金蓮助は息せき切って奥座敷までどたどたと走るようにやって来ました。
「力寿が、旅立ちました!」
 金蓮助は興奮して言いました。
「友だちをどこかに送っていくとかで、当分帰ってきません」
「そうかい」
 阿慶の眼に、冷ややかな炎が燃えていました。唇の端を歪めて笑いながら言いました。
「いよいよ、だね」 (六編・了)

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