金蹴り超訳・傾城水滸伝
七編 春雨の大箱の巻



七編之壱
大箱は佐渡へと向かい、
力寿は姉の豚代を案じて松枝村で騒ぎを起こす


 豚代(ぶたよ)から、大箱(おおばこ)の手配書が回っていることを知らされたその日のうちに、大箱は力寿(りきじゅ)とともに松枝村を出て佐渡へと向かいました。
 信濃から越後に抜けるには、高い山を越えねばなりません。力寿はともかく、大箱には辛い道行きでした。
 三日三晩歩きつづけて、やっと越後に至り、泊崎という村の宿に落ち着いたとき、大箱は力寿に言いました。
「もう大丈夫です。後は、一人でも行けると思うので、力寿さんは、松枝村に帰ってくださいな」
「なんで?」
 力寿は不審そうに問いました。
「駄目だよ。佐渡まで無事送り届けると、姉さんと約束したんだもの」
「その姉さんのことなんですが……」
 大箱は、言葉を選びながら、豚代の夫の金蓮助の態度が怪しいことを告げました。すると、力寿も内心では思うところがあったようで、
「大箱さんも、そう思う?」
「ええ……残念ですけど、なんだか裏がありそうで」
 大箱が気になったのは、西門屋(にしかどや)の阿慶(おけい)を後添えに迎えた小間物屋が、祝言をあげたその日のうちに急死したことです。そして、阿慶が後を嗣いだ小間物屋は商売がうまくいっているとは、とても思えません。
 ひょっとしたら、阿慶は、金蓮助(きれすけ)を通じて、「豚もち」の店を狙っているのではないか。そう思えてならないのです。
 ただ、その疑念は口にしませんでした。力寿が早合点し、怒りにまかせて二人に危害を加えることを恐れたのです。
「わかった」
 力寿は頷きました。
「あたいがいれば、金蓮助の野郎もおかしな真似はできないはず。大箱さんも気をつけて行ってね」
 そう言って力寿は、すぐさま宿を走り出し、松枝村へと向かったのです。
 三日目の夕方、松枝村に戻った力寿が眼にしたのは、人だかりに囲まれた「豚もち」の店先で、すすり泣く売り子や職人の姿でした。
「あ、力寿さん!」
 売り子たちが現れた力寿を取り囲み、
「大変です……奥様が……!」
 と口々に嗚咽しながら訴えます。力寿が驚いて店のなかに駆け込みますと、奥座敷にしかれた布団に、豚代は両手を胸のあたりで組んで仰向けに寝ていました。
 その顔には白い布がかけられています。
「姉さん!」
 力寿が駆け寄り、白布をめくると、豚代はすでに事切れていました。ひとしきり号泣してから、力寿は改めて姉の死に顔を見つめました。安らかそうでしたが、ところどころに斑点が見えます。
「なぜ、急に……こんな……?」
 売り子の一人が言いました。
「昨夜、久念(きゅうねん)が来たんです」
「久念ってあの藪医者?」
「そうです」
 久念は四十過ぎの破戒坊主で、医者もやっていましたが、かかれば治る見込みはないということで有名な男でした。若い金蓮助の懐(すなわち、豚代があげているお小遣い)を目当てに子分格になり、一緒につるんで呑み歩いているろくでなしです。
「実はいま、金蓮助さんは久念さんと二泊三日の物見遊山の旅に出ているんですが、新鮮な川魚が手に入ったと久念さんが届けにきました。それを召し上がった後、急に眠気を催して床に入られて、朝になってこんな姿で……」
「それじゃ、久念が怪しいじゃないか!」
 力寿は立ち上がりました。
「絶対そうだよ! その川魚になんか盛りやがったんだ!」
「それが、目代の脇本さまじきじきにお調べになったのですが、怪しい節はないと言われて無罪放免に……」
「脇本ってあの評判の悪い袖(そで)の下(した)野郎か。わかった。もう官憲には頼れない。あたいがじきじきに調べてやる!」
 そのまま店を飛び出し、久念の住んでいる荒れ寺に駆けつけました。
「おい、久念!」
 お堂の扉をがらりと開けると、罰当たり坊主の久念、仏様の前で酒を呑んでおります。
「あ!」
 久念は仰天して立ち上がりました。
「あ、あんた、佐渡に向かったんじゃ……?」
「なんだよ、あたいが戻ってきたら、不都合なことでもあるのかい?」
 胸ぐらを掴んで揺すぶると、久念は首を振って「なんでもねえよ」と言い募ります。
「嘘つけ!」
 力寿は、左手で胸ぐらつかんだまま、右手で久念の睾丸を掴んで、ぎゅっとひねりました。久念は絶叫してのけぞります。
「た、たすけて……いたい……くるしい……」
「正直に言え!」
 力寿は悶える久念を怒鳴りつけました。
「昨夜、あたいの姉さんに届けた川魚に何を入れた? 誰に頼まれた?」
「やめて……潰れる……」
「言わねえと潰すぞ!」
「お、俺は何もしらねえ。ただ、金蓮助に頼まれて、魚を姉さんに届けただけで……」
「じゃあ、お前が届けた魚を食べた姉さんが死んだというのに、平気で酒を呑んでいたわけか?」
「……それは……とむらい酒で……」
「ざけンな!」
 力寿が右手に力をこめると、ぶちっという音がして、右の睾丸が破裂しました。久念は絶叫し、意識を失ってくずおれます。
 その頬をはたいて起こすと、久念はわずかに瞼をあげ、うつろな眼差しで
「ゆ、許して……」
 と呻くばかり。
「許してって何をだよ!」
「ど、毒を……」
「毒?」
「西門屋の阿慶にもらった毒……それで……」
「姉さんを殺したわけか」
 久念は頷き、力寿はますます怒りで顔を赤くしましたが、必死に激情を抑えました。まだ聞くことがあったからです。
「それで、金蓮助は今どこにいる?」
「わ、脇本さまの……」
「脇本? 目代か?」
「目代屋敷に……」
「なんで目代屋敷なんかに……?」
「豚もちの経営権を……金蓮助に……」
「そっか……」
 力寿は呻くように言いました。
「要するに脇本も一味か。金蓮助と阿慶が姉さんの店を乗っ取る手助けを……」
「……その通りです」
「よーし、よく喋ったから助けてやる……」
 その言葉に、久念の苦しげな面差しにやや安堵が浮かんだ瞬間、
「なんて言うか、馬鹿!」
 と力寿は、久念が両手で覆った股間に、拳を打ち込みました。
 久念の両手の指がことごとく砕け、さらに残った左の睾丸も破裂させたのです。ぶちっと音がして陰嚢が割け、血と白濁した液体が、久念の袴の股間を汚しました。
 もはや絶叫する力は、久念には残っていませんでした。無言で海老ぞりになり、そのまま硬直して絶命した久念の首をねじきり、ぽたぽた血が垂れるまま手にぶらさげて、力寿は目代屋敷に向かって走ったたのです。

 目代屋敷の座敷では、襖の前で文机に向かって筆を走らせる脇本治部大夫の向かいに、金蓮助が土下座しておりました。その傍らに、西門屋の阿慶が座っています。
「では、これを」
 脇本は、書き上げた書類を、金蓮助の前に投げ出しました。
 それは、「豚もち」の経営権を、金蓮助に与えるという免状だったのです。
「へへー、ありがたき幸せ」
 金蓮助は、免状を頭の上に差し上げ、さらに畳に額をこすりつけました。
「これで、豚もちはおまえのものだ。誰のおかげか、分かっておるな?」
「へへえ」
 金蓮助は顔をあげて、卑屈に笑います。
「目代さまには、いろいろと便宜をはからせていただきますので、今後ともよしなに、お願いいたします」
 そう言って、小判の包みをすっと差し出すと、阿慶を促して座敷を出ようとした時、
「待て」
 と目代。
「阿慶はしばし、ここにいろ。金蓮助、おまえは先に帰っておれ」
 訝しがる金蓮助でしたが、阿慶はかすかな笑みを浮かべ、目代の言うことを聞くようにと目配せするばかり。
 仕方なく立ち上がった金蓮助。ぶつぶつ文句をこぼしながら、目代屋敷の門をくぐりました。
「まさか目代の野郎、阿慶とできてるんじゃ……」
 いったん通りに出てからはっとその事に思い至り、踵を返して再び目代屋敷に入ろうとした時、
「どこに行くのさ!」
 と背中から怒鳴りつけられ、振り向いた金蓮助は腰を抜かしました。
 力寿が、生首を手に仁王立ちしていたからです。
「お友達だ、受け取れ!」
 力寿は、生首を投げつけました。生首は、腰を抜かした金蓮助の胸に当たって、地に転がります。その生首が、豚代殺害の手助けをした呑み仲間の久念だと気付き、金蓮助は叫びました。
「お助けを! 人殺しです! お役人さま!」
「何事だ?」
 目代屋敷から、木っ端役人たちがばらばらと飛び出しました。金蓮助は必死に言い募りました。
「この女が、おいらの友だちを殺して首をちぎったんです。こいつを捕まえてください!」
 役人たちも転がった生首や、血まみれの力寿の着衣を見て、抜刀して取り囲み、「神妙にお縄につけ!」と口々に叫びました。
「どけ、木っ端ども。こいつは、あたいの姉さんを殺した極悪人なんだ!」
 力寿は、眼に怒りの炎を湛えながら、静かに言いました。
「いま、あたいは怒ってるんだ。邪魔するならお役人といえども容赦はしねえぞ」
 二人の木っ端が斬りかかってきました。力寿は、両手の小手で刃を受け止めると、一人の役人の股間を蹴り上げ、もう一人の襟首をつかんで塀にたたきつけました。一人は睾丸を蹴り潰され、もう一人は首の骨を折り、即死です。
 力寿は吼えるように叫びました。
「分かったか、命が惜しければ、どけ!」
 木っ端たちは一瞬怯みましたが、
「何をしておる!」
 いつしか、目代の脇本治部大夫が現れ、役人たちを叱咤しました。
「相手は女だ。取り押さえろ!」
「はっ!」と言って立ち向かってきた役人たちに力寿、
「そんなに死にたいか!」
 たちまち、目代屋敷の庭には屍の山が築かれました。恐れをなした目代と金蓮助は、屋敷のなかに逃げ込みました。力寿は後を追い、木っ端どもを片っ端から殴り殺し、蹴り殺しながら突進します。
 そしてとうとう、脇本と金蓮助を奥座敷に追い詰めました。
「待て、誤解だ!」
 脇本は青ざめて叫びました。
「わしは何も知らん。すべて、この金蓮助がやったことなんだ。助けてくれ!」
「な、何を言ってるんですか? 俺は何も知りませんよ。あんたが、阿慶と仕組んだんじゃないですか!」
「阿慶だと? そんな女、知らん!」
「嘘だ! さっきまで、あの女とこの奥座敷で一緒だったじゃないですか?」
「ごちゃごちゃうるせえ!」
 力寿は、脇本と金蓮助の襟首を掴み、互いの額をぶつけました。二人は「ぎゃん」と叫んで失神します。
「お前らは、楽に死なせてなんかやらねえからな!」
 そう言うと力寿は、二人の下半身を剥き出しにし、陰嚢の根本を紐で縛って天井に吊しました。そして、あまりの激痛に意識を取り戻し、泣きわめく二人の陰嚢に、竹串を突き刺したのです。
「あが……あがが……」
 睾丸を竹串に貫通され、陰嚢を縛った紐に圧迫され、想像を絶する激痛のなかで、二人はもはや叫ぶこともできず、痙攣して悶えるばかりです。
「後は、阿慶か……どこにいきやがった」

 同じ時。
 こわごわと門から中をのぞき込む野次馬に囲まれた目代屋敷に、大箱が現れました。
「なんてこと!」
 木っ端どもの死屍累々たる庭を目にして、大箱は叫び、夢中でなかに駆け入りました。
「力寿さん!」
 一度、力寿を松枝村に帰したものの、やはり不安になって自分も戻ってきたのです。そして、豚代の死や、激高した力寿が目代屋敷に向かったことを聞きました。
 そして、不安が的中した事を知ったのです。
 木っ端たちの屍を避けながら屋内に入ろうとした時、
「あっ!」
 玄関で鉢合わせしたのは、西門屋の阿慶でした。なんとか力寿を避けてここまで逃げ出してきたのです。
 阿慶は大箱の前に両手を合わせました。
「助けておくれ。このままじゃ殺されちまう」
 そう言って傍らをすり抜けようとするのを、大箱は袖を掴んで止めました。
「何するの!」
 必死に振りほどこうとする阿慶に、大箱は動揺しました。
 恐怖に歪んだ美しい面差しに、力寿に殺されそうになった時の、安蛇子の形相を思い浮かべたからです。
「お願い、助けて……」
 今度は、泣き出しそうな顔で、阿慶は懇願しました。
「あたしと、唇をかわした仲じゃないか」
 そう言われて赤面した大箱は、かける言葉もありません。そこに、
「いやがったな!」
 大音声が響き、阿慶は恐怖に絶叫しました。
 返り血を浴びて真っ赤になった力寿が、背後から現れたのです。
「許せねえ……ぶち殺してやる……」
 そう呟きながら歩いてくる力寿を、大箱は止めました。
「だめよ!」
 そう叫ぶと、力寿は驚いて歩みを止めました。
「大箱さん、なんでここに?」
「殺しちゃだめです!」
 大箱はなおも叫びます。
「ちゃんと法律にのっとった罰を受けさせましょう」
「何言ってんだよ」
 力寿は呆れたように言いました。
「こいつ、目代とつるんで姉さんを殺し、店を乗っ取ろうとしたんだ。法律が正しい者を守ってくれない事くらい、大箱さんだってよく知ってるじゃないか。だから、あたいは脇本と金蓮助を成敗した。なのに、いちばん悪いこいつを見逃せるはずないじゃないか!」
「でも……」
「大箱さん、あなたいつまで役人のつもりなの? あなたはもうお訊ね者なんだよ? ここはあたいに任せて、すぐに佐渡に行きなさいよ!」
「だからって……」
 大箱は、庭に眼をやりました。
「あんなに大勢の人を殺すなんて、乱暴すぎるわ!」
 力寿も庭を見やり、さすがに自分がやらかした大量殺人に一瞬怯みを見せた時、ぱっと阿慶が身を翻して駆け出しました。いつしか、大箱は阿慶の袖を離していたのです。
「あ、待て!」
 力寿も我に帰って走り出しました。力寿の声に、さらに恐怖にかられた阿慶、庭に出たとたん、一人の役人の屍に足をとられて転びました。その時、
「うっ!」
 阿慶は呻きました。転んだ瞬間、その役人が手にしていた刀の切っ先が、阿慶の喉に突き刺さったのです。
 阿慶の喉から鮮血が噴き出しました。
「しまった!」
 俯せになってのたうつ阿慶に駆け寄った大箱、彼女を抱き起こそうとして仰向けにしたとたん、喉から噴き出す鮮血が、大箱の顔や着衣を濡らしました。
 その時、阿慶の唇に笑みが浮かびました。小さく唇を動かして、阿慶は大箱の腕のなかでぐったりとなったのです。
 好き。
 最期にそう言って事切れたたように、大箱には映りました。
 大箱は、しばし阿慶の屍を抱えて凝然としていました。その傍らに歩み寄った力寿、
「大箱さん」
 と声をかけました。大箱は顔をあげ、悲しげに力寿を見つめました。力寿は肩を落として言いました。
「あの……確かにあたい……やっちまったけど……でも、悪いのはそいつらで、法律なんて強い者を助けるばかりだから……」
「ごめんなさい」
 大箱は立ち上がりました。
「しばらく、一人にさせて……あなたを責めてはいないから……」
 そのまま、目代屋敷の門をくぐりました。現れた血まみれの大箱を取り囲もうとした群衆は、その背後からついてくる力寿の姿に、さっと後ずさりしました。
 二人は、松枝村を出ました。村を出て、大箱は佐渡へ、力寿は梁山泊へと、それぞれの道を歩み始めました。この間、二人が口を利くことはなかったのです。

七編之弐
大箱、佐渡にて節柴と出逢い、
安蛇子は佐渡目代を誑かす


「なんで、あんなこと言っちゃったんだろ……」
 独り山道をとぼとぼと歩きながら、大箱は、俯いて涙をこぼしていました。
「確かに、力寿さんの言うとおり、悪いのは豚代さんを殺した悪人たちなのに、わたくしはかえって、力寿さんを咎めてしまった」
 命の恩人なのに……。
 お尋ね者のくせして、役人根性が抜けないわたくしがいけないのかな。
 それとも、たんにわたくしが、阿慶のことを好きになっちゃっていたのかな。だからつい、味方のはずの力寿さんにあんな仕打ちをしちゃたのかな。
 いつしか大箱は路傍の石に腰をおろし、両手で顔を覆って啜(すす)りないていました。
「どうしたの?」
 不意に声がしました。顔をあげると、年のころは十八九か、背に剣をしょった若い女武芸者が大箱を見下ろしています。
「もうすぐ日が暮れるし、こんな山のなかで泣いてちゃ危ないよ」
 そう言って立ち去ろうとして、ふと、
「ちょっとあんた、血だらけじゃない。どうしたの?」
 目代屋敷で阿慶から浴びた返り血に染まったままの大箱に、女武芸者は叫びました。
「何があったか知らないけど、そんな恰好で村に出たら、通報されちゃうよ。着替えはないの?」
「あります」
 大箱は、虚ろな眼差しで、傍らに置いた荷物袋に眼をやりました。
「じゃあ、すぐに着替えなさい」
 そう言われても身動きもしない大箱に、女武芸者は苛立ったように近寄り、着衣を脱がせはじめました。
「きゃあ!」
 大箱は叫んで立ち上がり、はだけそうになった胸元をかき合わせました。
「いやらしい、やめてください!」
「ちょっと、ちょっと!」
 女武芸者はうんざり顔で言いました。
「あたし、そっちの気(け)はないから。ただ、あんたが血だらけの衣で泣いてるのを見て、危ないから着替えさせようとしただけよ。誤解しないで」
「え、そうなんですか?」
 大箱は、はっとした面差しで、頭をかいて謝ります。
「ごめんなさい、わたくし、ぼーっとしちゃってて……なんだか、気を悪くするようなことしちゃいました?」
 女武芸者は思わず吹き出し、
「頼りないおねえさんだなあ。あっち向いてるから早く着替えてよ。後で宿があるところまで送ってあげるから」
 その日の夕方。
 山道を抜けて里に着いた時は、女武芸者が急がせたせいもあり、日は落ちかかっていましたが、まだまだ明るさが保たれた時間帯でした。
 村の辻に高札がかかり、人が集まっています。見ると人相書きでした。
 大箱は思わず足を止め、高札を見上げました。まさか、もうこんな村にまで手配書が出回っているのかも……。
 幸い、人相書きは別人のものでしたので、ほっと胸をなで下ろしていると、
「あんたも、お尋ね者なの?」
 女武芸者が耳元で囁き、大箱は飛び上がらんばかりに驚きました。女武芸者はくすくす笑って言いました。
「やっぱりだ。安心して。あたしもお尋ね者なんだ。名前は、浮潜龍(ふせんりゅう)の衣手(ころもで)。知ってる?」
 そう。この若い女武芸者は、信濃国女郎花村の庄屋の娘で、戸隠山の女山賊たちと親交を結んだため目代に捕まりそうになり返り討ちにして逃亡した衣手だったのです。
 この物語では初編に登場して以来、姿をくらましていた衣手ですが、この間、武芸の師である綾梭(あやさお)を探して全国を流浪していました。そして、綾梭がさらに武芸を高めようと大宋国に渡ったと聞いて、さすがに外国に出かけるだけのお金もなく、どうしようかと迷っているうちに、節柴が佐渡に「不幸な女たちを守るための別天地」を建設しているという噂を耳にして、そこに赴く途次でした。
 同じ宿に落ち着いて、そこまで身の上話を終えた衣手は、ふと何か思い出したように笑い出しました。大箱がきょとんとしていますと、衣手いわく、
「ねえさんって不思議よね」
「ねえさん?」
「年上なんでしょ。初めて会ったのに、なんだかねえさんって呼びたくなるし、自分のこと聞いてほしくなるし、助けてあげたくなっちゃうし……」
 口で手を押さえて笑いながら、衣手はつづけました。
「たぶん、ねえさんって真面目で賢そうなのに、どこか抜けているから、放っておけないのね」
「そう……?」
 大箱は首を傾げ、その仕草がかわいいと、またも衣手は笑い転げました。考えてみれば、ここのところ何度も困ったことが起こりましたが、力寿にせよ、この衣手にせよ、常に助けてくれる人が現れました。安蛇子だって、幼い頃はずいぶん自分を助けてくれていたのです。
 大箱も、素直に身の上を告げました。
「ふうん、ねえさんは、あたしと違って、何もしていないのに巻き込まれてしまったってわけなのね」
 衣手は気の毒そうな面差しで言いました。
「じゃあ、あたしが守ってあげるから、一緒に佐渡に行こ。そこに行けばきっと、新しい人生が始まるはずだから」

 翌朝から、衣手と大箱は旅を重ねて、越後の国、寺泊(てらどまり)の港に着き、船に乗って佐渡へと渡りました。
 さて、どうやって節柴に渡りをつけるべきか。お尋ね者がいきなり訪問しても、取り次いでくれるかどうかも分かりません。
「とりあえず何か食べて、宿を探しましょう。お腹すいたわ」
 そう言って入ったのは、真琴屋(まことや)という小料理屋です。佐渡の名物であるサザエやブリの焼き物に舌鼓を打ちつつ、ふと大箱が、
「そういえば、虎尾の桜戸さんが流された先が、この佐渡だったわ。節柴さんは流人のお世話をするのがお好きだそうだから、ひょっとしたらご存じかもしれない」
 そう言ったとき、料理屋の若女将が近寄ってきて、
「あのう、ひょっとして桜戸さんとお知り合いですか?」
 と訊ねます。
「お知り合いというほどではないけれど、一度お目にかかったことがあって」
 と説明しますと、彼女は、
「実は、あたしの夫は、桜戸さんの家にいた若党だったんです」
 偶然ですが、真琴屋は、この物語の「三編之参」で、虎尾の桜戸が佐渡に流されたときに世話になった、かつての若党真介(ますけ)が働いている店です。その日、真介が仕入れにいっていておらず、妻の小実(こじつ)が留守番をしておりました。そして、大箱の言葉を耳にしたのです。
「そうなんですか? 奇遇ですね!」
「はい、桜戸さんが、無実の罪で佐渡に流されたとき、あたしは初めてお目にかかりました。すてきな方ですよね」
 と目を細める小実に、
「桜戸といえば……」
 衣手が口を挟みました。
「佐渡で牢役人を殺して逃げたって噂のひと?」
「違いますよ!」
 小実は憤然として言いました。
「それも無実の罪です。あたし、そう信じてます」
「ごめん、ごめん」
 衣手は謝りました。小実も「あたしも言い過ぎました」と謝り、それから三人はうち解けて、死刑になるはずだった桜戸の減刑を提言したのが大箱だと知った小実は、
「えー! 桜戸さんの命の恩人なんですか!」
 と驚き、
「あなたのような、いいお役人がもっといれば、まともな世の中になるのに……」
 と涙ぐみました。
「ところで……」
 大箱は言いました。
「あなたは、節柴さんとはお知り合い?」
「ええ、幾度かお目にかかりましたし、このお店にいらした事もあります」
 これは奇遇と喜んだ大箱は、続けました。
「わけあって都を離れ、同じく節柴さんの別天地建設に協力したいという衣手さんと出逢い、二人でここまでやってきたの。ぜひ、節柴さんに取り次いでいただきたいんだけど、よろしいかしら」
 と頼みますと、小実は
「そりゃあもちろん。桜戸さんの命の恩人の頼みとあれば、たとえ火の中、水の中です。明日にでもお屋敷に伺って参ります。今日はこちらにお泊まりください」
 と満面の笑みで答えました。

 翌日、真琴屋の奥座敷で一泊した大箱と衣手が、朝食を終えて身支度をしておりますと、折滝の節柴屋敷に出かけていた小実が帰ってきて、
「ぜひ、いらしてほしいそうです」
 と節柴の言葉を伝えました。二人は小実に案内され、折柴へと赴きました。港町から十町先の折柴の里に至った二人は、広壮な棟木造りの屋敷に、
「わあ、すごい!」
 と感嘆の声をあげました。広々とした芝生の庭を、小舟を浮かべた池を眺めつつ、築山に咲いた花の舞い散るなかを通り抜け、寝殿に至ると、そこに三十路近く、豪奢な十二単(じゅうにひとえ)をまとった美女が座っております。
「ようこそ、いらっしゃいました」
 十二単の美女、すなわち節柴はにこやかに挨拶すると、小実はお辞儀をして、お店がありますので、と帰っていきました。
 節柴は、大箱と衣手を座敷に上げて言いました。
「桜戸さんから、お名前は伺っておりました。減刑処分を正式決定したのは伊賀尼さまですが、提言したのは大箱というお名前の右筆だということは桜戸さんも、耳になさっていたようです」
「そうだったんですか」
「やむを得ぬ事情によって、桜戸さんは自分の命を狙った刺客や牢役人を殺めてしまったため、佐渡を出奔せざるを得なくなりましたが、今は梁山泊に入られて、幹部としてご活躍のご様子です」
「梁山泊ですか!」
 大箱は手を打って喜びました。
「それは、よかったわ。梁山泊で小蝶さんの下にいらっしゃるのなら安心です」
 大箱は、決断所で桜戸と面会したときの、凛として美しい面立ちを思い浮かべて、とても嬉しくなりました。
「あなたは浮潜龍の衣手さんですね」
 と節柴は、衣手のほうを向いて言いました。
「戸隠山の盗賊を討った時のお働き、悪辣な目代の軍勢を蹴散らしたこと、この佐渡にもお噂は届いております。そんな豪勇の武芸者をお迎えできて、光栄でございます」
「あ、いや……そんな」
 若い衣手は頬を赤くして照れます。
「田舎者で、ぶしつけでしょうがないあたしですが……その、よろしくお願いします」
「これからご案内しますが、女だけの別天地と聞いて、なんて言うのかしら、俗に言うちょっかいを出してくる男の方が絶えないんです。なかには、女たちに触れようとしたり、口説こうとする者もいます。あなたのような武芸者がいてくだされば、ずいぶん、そういう被害は減ると思います」
「承知しました!」
 衣手は胸を叩いて頷きました。
「そんな不心得者がいたら、きんたま蹴り上げて、二度と悪いことができないようにしてやります!」
 場違いな大声に、節柴と大箱は手で口をおおって笑い、またも衣手は照れまくりでした。
 その後、節柴に導かれ、二人は「別天地」を案内されました。屋敷から少し離れた山の麓、川に囲まれたなかに建物や田畑、柵に囲まれた牧場などが見え、大勢の女たちが働いております。
 家族に暴力を受けたり、苦海に身を沈めて逃げ出してきたり、いずれも心に傷を負った女たちですが、ここではみな、生き生きと笑顔で働いているのです。
 今は、節柴が私財をなげうって援助しているけれど、いずれ、田畑でとれた作物や肉、織物などを売って自給自足できるよう、態勢を整えつつあるのだ、と節柴は説明しました。
「決断所に務めた経験のある大箱さんには、別天地の運営・管理などいろいろな面で、お手伝いしていただけるものと期待しております」
「微力ながら、わたくしにできることは、なんでもいたします」
 そう言って頭を下げる大箱の背後で、手ぬぐいをほっかむりして黙々と畑仕事に精を出していた女が、ちらりと鋭い視線を投げかけました。
「やっぱり、来た……」
 そう呟いた女は、安蛇子(あだこ)でした。

 都の六条河原で、義太吉らに大箱を強姦させようとしたものの、不意に現れた力寿によって男たちは全員去勢され、企ては頓挫。自身も危うく殺されるところを、大箱の嘆願という形で助命され、すごすごと院の御所の椋橋の局に報告にあがった安蛇姫は、亀菊から手ひどく折檻されました。
 女房たちが笑いながら見ている前で、裸に剥かれ、髪の毛を掴んで引きずり廻され、さんざん胸乳や陰部を蹴られた挙げ句、庭に突き落とされたのです。
「大箱の首をここに持ってきなさい!」
 亀菊は、庭に突っ伏した安蛇子に冷たく言いはなちました。
「一年以内に大箱の首を持ってきたら、お前を取り立ててあげる。もし、一年たっても持ってこなかったら、刺客を送ってお前を殺す。わかったわね!」
 大箱の屋敷は没収され、帰るところもなくなった安蛇子は、数日、河原の小屋に籠もって泣き暮らしました。数日泣き明かした安蛇子の胸のうちに、大箱への憎しみがいよいよ燃えさかったのです。
 絶対に見つけて、殺してやる……。
 安蛇子は、都大路に出て強そうな武芸者を見つけ、武芸を習いたいとねだりました。手で武芸者の陰茎を慰めてやり、自分が強くなったら情交させてあげる、という条件でした。
 武芸などお姫様のやることではないと軽蔑していた安蛇子でしたが、いざやって見ると瞬く間に上達し、自分を教えてくれた武芸者をも上回る武術を身につけました。
 こうなれば、もはや師匠は必要ありません。安蛇子は、武芸者と情交すると見せかけ、布団のなかで睾丸を握り潰して殺害し、都を飛び出したのです。
 大箱を追って旅をつづけながら、安蛇子は幾人もの武芸者に勝負を挑み、ことごとく勝ちを収めました。そんななか、大箱が佐渡に向かったらしい事を知りました。
 佐渡で安蛇子は、足抜け(逃亡)した女郎と偽って、節柴の「別天地」に潜り込み、辛抱強く待ちました。そして今日、ついに大箱と再会したのです。
 問題は、あの衣手という女武芸者ね……。
 前からいて警備に当たっていた女武芸者たちとは、格段に筋が違うのは安蛇子にも分かりました。動きに隙がなく、いつ不意に飛びかかられても対応できるような身のこなしを身に付けています。
 ここは、わたくしが動くのではなく、誰か、他の者を巻き込むべきだわ……。
 幸い、安蛇子には切り札がありました。
 梁山泊の小蝶から大箱に送られた扇子を、彼女は肌身離さず持っていたのです。

 さて、大箱たちが佐渡にやってきて、「女だけの別天地」で働き始めてから十日が過ぎた朝のことです。
 警備の仕事に当たっていた衣手は、「別天地」の入り口である柵門あたりで、何やら騒ぎが起こっているのに気づきました。急いで駆けつけてみると、外とを隔てる川の向こう岸で、三十人ばかりの男たちが何やら叫んでいます。
「女たちの別天地など、俺たちは認めねえ!」
「さっさとここを出て行け! 家に帰れ!」
「不幸を売り物にして、得するんじゃねえ!」
「女は、男に従うものだ!」
「出て行かないと、ひどい目にあわせてやるぞ!」
 男たちは看板を手にしています。そこには「女の特権を許さない男たちの会」と墨で黒々と描かれていました。
 怯える女たちに、「安心なさい」と目配せしながら、衣手は、醜悪な男たちの集団を見廻しました。その中心になっているのは、小太りで丸顔の三十男です。
「あいつが一犬(いっけん)か……」
 衣手は眉をしかめて呟きました。坂根一犬(さかねいっけん)。佐渡の目代の息子で、放蕩者として鼻つまみ扱いされている男です。
 節柴の「女だけの別天地」に不快感を持つ差別主義者たちが、目代の馬鹿息子を中心に、時折押し寄せてきて、女たちに聞くに堪えない罵声を浴びせている事は聞いていました。何しろ息子が首魁ですから、父親である目代の坂根久影(ひさかげ)も取り締まることなく、放ったらかしなのです。
 衣手は、「女だけの特権を許さない男たちの会」略称「女特会」について、「危害を加えない形で、彼らがやって来なくなる方法はないでしょうか」と節柴から相談を受けたことがあります。節柴も、法律上は流罪の身です。幕府の手先である目代の息子に逆らったら、どんなひどい目にあうか分かりません。たちまち「別天地」は官憲によって解散させられてしまうでしょう。
 自分の武芸をもってすれば、あんな連中たちまち蹴散らすのは簡単なのに……。衣手が歯ぎしりしつつ、どうしたものかと思案していると、女特会の男たちの背後から、
「ちょっとお前ら、どけ!」
「邪魔なんだよう!」
 と女たちの声が響きました。
 見ると、三人の女たちが、「女特会」の連中を押しのけて、門に向かって進んできます。
「あ、あれは!」
 衣手は思わず、叫びそうになりました。
 やってきたのは、信濃の戸隠山に籠もっていた女賊の三人組、すなわち、野干玉(ぬばたま)の黒姫(くろひめ)、戸隠の女鬼(しこめ)、そして越路(こしじ)の今板額(いまはんがく)だったのです。
「なんだ、お前ら!」
 男たちの首魁である坂根一犬が、黒姫の前に立ちはだかりました。
「とっとと失せろ!」
 と言うなり、顔をしかめて、両手で股間を抑え、うずくまりました。
 黒姫が、一犬の股間を蹴り上げたのです。
 男たちはどよめき、一犬に駆け寄りました。
「先生、大丈夫ですか!」
「なんて女だ。よくも先生を……」
「男の急所を蹴るとは……許せん」
 憎悪の面差しを浮かべた男たちは、三人の女を睨み付けました。今にも飛びかかろうという勢いです。
「ちょっと、待った!」
 あわやという所に飛び込んできたのは、衣手でした。その顔を見るなり、黒姫、女鬼、今板額は、
「あーーーーー!!!!」
「姉さーーーーーん!!!!」
「会いたかったよーーーー!!!!!!!」
 と衣手に抱きつき、ほおずりしたり、わんわん泣いたり、大騒ぎです。「女特会」の面々も度肝を抜かれ、呆然として四人の再会を見つめておりました。
「やい、お前ら!」
 ふと、「女特会」の存在に改めて気付き、大声で怒鳴ったのは、今板額です。
「このお方をどなたと心得る! かつて戸隠山の盗賊五十人を去勢した事がある浮潜龍の衣手さまだ。百人の軍勢を全滅させたこともあるんだ! 知らなかったのか!」
 いや、それちょっと大袈裟だから……、と訂正しようとした衣手を目配せで制し、男たちをにらみつけてくる三人の元女賊に、さしもの「女特会」の面々も怯んで動けません。
「とりあえず……」
 衣手は、「女特会」の面々に、うずくまって悶絶する一犬を指さして言いました。
「その人を早くお医者に診せないと、潰れてるかもしれないよ」
 それは大変と「女特会」の面々、一犬を運んで逃げ去ってしまいました。
 衣手の後ろで、「別天地」の女たちの歓声が爆発しました。
「やったぁ!!!!」
「胸がすっきりしたー!!!!」
「かっこよかったー!!!!!!!!」
 女たちは、衣手や三人の元女賊にかけより、抱擁したり、おいおい泣いてすがりついたり、大変な騒ぎです。
 ただ一人、離れたところで冷ややかに見ていたのは、安蛇子でした。
「あいつが、例の目代の馬鹿息子ね」
 安蛇子は、にやりとほくそ笑みました。
「きっと、使えるわ」

 その日の夜。
 衣手は、「別天地」内の自分の宿所に黒姫、女鬼、今板額を招き、酒と肴でもてなし、久闊を叙しました。
 彼女たちは、衣手と別れた後、いろいろな事があった挙げ句に梁山泊に身を寄せたのでした。小蝶によって参加を認められ、幹部の席についた彼女らは、ぜひ、衣手を梁山泊に招きたいと思い、小蝶の許可を得て探し回り、やっと佐渡にいることを突き止めたのです。
「でも、衣手の姉さん」
 黒姫は、まぶしそうな面差しで言いました。
「さっき、あの嫌な男たちを追い返した姉さん、かっこよかった。不幸な女たちを懸命に守ってる節柴さんも素敵だと思う。だからもう、梁山泊に帰ってなんて言わない。むしろ、あたしたちが、ここに残ろうかなって、さっき話し合ったの」
「え、あなたたちが?」
 驚く衣手に、女鬼や今板額も頷きました。
「梁山泊には大勢の女武芸者がいるし、呉竹さんのような軍師もいれば、龍子さんのように天文を使う呪術者もいる。あたいたち三人がいなくても大丈夫だと思う」
 と今板額が言えば、女鬼も唱和します。
「見たところ、ここはやっぱり警備の手が足りなさそうだし、梁山泊みたいな天然の要害でもない。だから、あたいたちが力になりたいんだ」
「わかった。みんな、ありがとう」
 衣手は俯いて涙をこぼし、頭を下げました。三人の女たちが、
「よしてよ」
「泣くなんて、姉さんらしくない」
「泣くと、せっかくの美人が台無しだよ」
 と年下の姉貴を慰めたり、からかったりしていますと、そこに節柴と大箱が、お土産に新鮮な海産物とお酒を持ってやってきました。
 三人の、「別天地」に加わりたいという申し出に節柴は、
「それは嬉しいわ。ぜひ、お願いいたします」
 と、一も二もなく大喜びでした。
 同じ刻(とき)。
 佐渡の街はずれにある大きなお屋敷は、佐渡目代である坂根久影の別荘ですが、ふだんは息子の一犬が寝泊まりしております。
 黒姫に蹴られた睾丸は、さいわい潰れずにすみましたが、内出血したらしくひどく腫れ上がり、熱を帯びて痛みが去らず、布団のなかでうんうん唸っておりますと、下人が来客を告げました。
 安蛇子でした。
「別天地」でまとっている農衣ではなく、花模様をあしらった衣装を身につけ、華やかに化粧した絶世の美女に一犬が驚いていると、安蛇子は、すっと傍らに座り、いきなり、股間に手を差し込みました。
 一犬は反射的に腰を引きました。安蛇子は巧みに、腫れ上がった陰嚢を手で優しく包み込んだのです。
「そ、そこは……」
「大丈夫。心得てますわ」
 安蛇子は、一犬の耳に息を吹きかけるように顔を寄せて囁きました。やがて、冷えた安蛇子の掌によって、睾丸の痛みが若干和らぎました。
「お気の毒に……」
 安蛇子は、潤んだ目差しで一犬を見つめて言いました。 
「殿方の大事なところを蹴り上げるなんて、けしからん女がいたものですわね」
「お前は、誰だ……?」
 一犬は瞬きせず、じっと安蛇子を凝視しました。安蛇子は艶然と微笑んで答えます。
「仇をとって差し上げるわ」
 そう言うなり、一犬の男根をそっと握りしめ、上下にしごきました。激痛に萎えていた一犬の男根は急速に硬さを帯び始め、一犬は快楽に眼を閉じ、息荒く喘ぎはじめました。
「あ……」
 一犬は呻くように言いました。
「よかった……まだ使える……」
 そして、涙を流して喜んでいるのです。安蛇子は、噴き出しそうになるのをこらえながら、手での奉仕を続けました。
 翌朝。
 佐渡に滞在する許可を得るべく、一番年下の今板額が船に乗って梁山泊へと向かい、黒姫と女鬼は、新たに加わった警備係として、節柴から「別天地」の女たちに紹介されました。二人が「女特会」の連中を追い払っているのを知っている女たちが大歓迎の拍手を送る中、安蛇子だけは密かに舌打ちしました。
 厄介な連中が増えた……。
 水内目代の軍勢を四人で討ち滅ぼした女たちなのだ。百やそこらの兵力ではどうにもならない。佐渡目代の兵だけでなく、その上にいる越後守護代を動かし、もっと多くの軍兵を動員しなければ……。
 安蛇子は、そっと「別天地」を抜けだし、坂根一犬の屋敷へと走りました。安蛇子は誰にも気づかれぬように裏口から屋敷に忍び込み、一犬の寝所に向かいました。
「また、来てくれたのか?」
 まだ寝所に伏せっていた一犬は、現れた安蛇子に狂喜しましたが、やがて喜びは恐怖へと変わりました。安蛇子は、いきなり一犬の睾丸を掴んで強く圧したのです。
「あ……やめて……!」
 顔を歪めて懇願する一犬に微笑を与え、安蛇子は睾丸をひねり上げました。腫れ上がっていた睾丸はあっという間に破裂し、あわれ一犬は、叫ぶいとまもなく絶命したのです。
 息が止まったのを確かめ、安蛇子は、静かに立ち上がり、周囲を確認して寝所を忍び出ました。
 翌日。
 一犬の屋敷の門前は、人がごった返していました。佐渡目代の息子が、無惨な死体となって使用人に発見されたのです。父親の目内、坂根久影をはじめ、親族や縁者がひっきりなしに弔問に訪れました。屋敷内を忙しく行き来する人に混じって、安蛇子の姿があった事は言うまでもありません。
 葬式が終わった後、精進落としの宴会となりました。広間や庭で人々に酒がふるまわれるなか、目代の久影が厠(かわや)に立った時のことです。
 用を足し終えて、手水鉢で手を洗っていた久影の背後に、人影が立ちました。気づいて振り向くと、そこにいたのは安蛇子でした。
「何か用か?」
 息子に劣らぬ、下劣な面立ちだわ……。
 そう思いつつ、安蛇子は、久影の耳に口を寄せて囁(ささや)きました。
「一犬さまは、なぜ亡くなったかご存じですか?」
「ふぐりの病と聞いた」
 久影は答えました。一犬は、女に睾丸を蹴られて伏せっていた事を恥じ、「女特会」の連中にも堅く口止めしていたのです。
「いいえ」
 安蛇子は首を振りました。
「一犬さまは、殺されたのです」
「なんだと!」
「女に、急所を蹴られ、それがもとで亡くなられたのです」
「何を言うか!」
「本当です。一犬さまの急所を蹴ったのは……」
 安蛇子は、静かに告げました。
「折滝の節柴の手の者。かの別天地を警護する女武芸者です」

七編之参
一犬の死に目代は激怒し、
大箱と節柴は刑場に送られる


 それからしばし後。
「えー、あの男、死んだの?」
 一日の警備を終えて宿所に戻ってきた衣手は、酒を提げて現れた黒姫と女鬼の知らせに仰天しました。
「そうなのよ、姉さん」
 黒姫が、しおらしい面差しで呟くように告げました。
「どうも、あたいが蹴り上げたきんたまの傷がもとで、死んじゃったらしいのね」
「気にすること、ないよ」
 女鬼が、黒姫の肩を抱いて慰めます。
「女性差別主義者なんか、きんたま蹴られて死ねばいいんだよ」
「でも、相手は目代の息子なんだろ? 今、節柴さんと大箱さんが、謝罪をかねて、お弔いに伺ったそうなの。とんだご迷惑かけたんじゃないかと、心配で心配で……」
 落ち込む黒姫を衣手は抱きしめ、
「大丈夫だよ。節柴さんのことだから、きっと悪いようにはしないよ。あたしも女鬼さんとおんなじで、あんな嫌な奴、きんたま潰されて死ぬのは当然だと思うし」
 そこに、息せききって入ってきたのは大箱でした。
「皆さん!」
 大箱は、汗を拭いながら言いました。
「すぐに、ここを出てください。じきに越後守護代の兵が、あなたがたを捕らえにやってきます」
「なんだって!」
 愕然と立ち上がる衣手、黒姫、女鬼に、大箱は訴えるように続けました。
「いま、亡くなった一犬の屋敷に弔問に行っていたのですが、節柴さんが、どうも様子がおかしい、とおっしゃるので、密かに探ってみたんです。そうしたら、どうやら目代は、一犬が命を落としたのは、別天地の警護にあたる者たちのせいだと思いこみ、越後に人を走らせ守護代の軍を呼び、ここに押し寄せようとしているのです」
「そんなばかな!」
 衣手は叫びました。
「一犬なんて、ここに住んでいる不幸な女の人たちをさんざん罵倒した、最悪の穀潰しじゃないか。そんな奴のために、守護代が軍勢を動かすなんて、あっていいの?」
「そうだよ、そうだよ!」
 女鬼も続きます。
「来るなら来いだよ! あたいら、四人で百余の水内目代の軍を全滅させたんだ。この別天地、見事守ってやるよ!」
「いけません!」
 大箱は、必死で衣手と女鬼をなだめました。
「あなた方が、そうおっしゃるだろうことは、節柴さんも予想されていました。でも、一度は敵を撃退したとしても、そうなれば、節柴さんは逆賊です。目代の軍を追い払えば守護代の軍が、守護代の軍を追い払えば幕府軍が押し寄せるだけ。その結果、ここに守られている女たちが不幸になるだけだと」
 そう言ったとき、号泣が響きました。黒姫が、うずくまって泣いているのです。
「やっぱり、あたいのせいなんだ! あたいがあんな事さえしなければ……」
「それは違います!」
 大箱はきっぱり言いはなちました。
「女だけの別天地。それはやはり、この佐渡では無理だったのだと節柴さんはおっしゃいました。いずれ女を差別したがる男たちの標的になっただろう、と。それで、お願いがあります」
「お願い?」
 衣手は訊ねました。
「なあに?」
「この別天地に住んでいる女たちを、梁山泊まで運んでほしいのです」
「梁山泊?」
 衣手、黒姫、女鬼は顔を見合わせました。
「そうです、梁山泊へ、です」
 大箱は続けました。
「梁山泊では、新しい首領の小蝶さんの下、女だけの新天地建設を進めているとか。梁山泊は天下の要害、迂闊に官憲も手は出せません。とりあえず、ここの女たちを船に乗せ、近江へと運んでください。こういう場合を見越して、一隻の大船を常に港に待機させているそうですから」
「わかった」
 衣手は頷き、黒姫と女鬼を見やって、言いきかせました。
「そうしようよ。残念だけど、あたしもそれが一番の策だと思う。可哀想な女たちを、ぶじ、あんたらの梁山泊に運んでやろうぜ」
「それはいいけれど」
 女鬼が気遣わしげに大箱を見て言いました。
「大箱さんは、どうするの?」
「わたくしは、ここに残ります」
「なんだって!」
 黒姫が、大箱の袖を掴みました。
「駄目だよ、一緒に逃げようよ!」
「大丈夫ですよ」
 大箱は微笑みました。
「もう少ししたら、節柴さんが戻ってきます。そこで色々打ち合わせなきゃならないことがあるから残るだけです。すぐに節柴さんとともに梁山泊に参りますから」
 それからほどなく、衣手ら三人の女たちは、別天地に住まう三十人余の女たちを守って、港の方へと去りました。
 がらんとなった別天地に、大箱は独りぽつねんと月夜の下、牛を飼っている牧場の柵に腰をおろしました。
 まさか……。
 夜空を見上げて、大箱は呟きました。
 こんなところで、安蛇子さんと再会するなんてね。
 節柴に従って一犬の屋敷を弔問に訪れたとき、大箱は見たのです。人目を避けるようにしながら、屋敷のなかに安蛇子がいるのを。
 その後、節柴が屋敷内の異変に気付いて様子を探り、目代が軍を動かそうとしている事を突き止めた後、大箱は思ったのです。
 これは、安蛇子さんが書いた筋書きじゃないかしら、と……。
 直感に過ぎません。でも大箱は、その直感を確かめたかったのです。
 実は、節柴からは「後はわたくしがなんとかするから、あなたも衣手さんたちと一緒にお逃げなさい」と言われていたのです。大箱は、いったん頷いて、別天地に駆け戻りました。そして、衣手たちと行動をともにしない事を心に決めたのは、黒姫が「あたいのせいだ!」と号泣した時でした。
 そうじゃない。
 大箱は思いました。
 わたくしが、安蛇子さんの恨みを買わなければ、こんな事にはならなかった。
 都の六条河原では、力寿さんがわたくしを守って十人の河原者を去勢した。逆恨みかもしれないし、自分が望んだことではないけれど、結果的になんの関係もない男たちが犠牲になった。
 松枝村で力寿さんが、目代をはじめ大勢の役人を殺害した事と、わたくしが西門屋の阿慶の誘惑を拒絶したことの因果関係はよく分からない。でも、大勢の人が亡くなったのは事実。
 そして今、もし安蛇子さんが、わたくしへの恨みを晴らそうとしているのならば……。
 いずれ、ここには安蛇子さんがやってくる。そうなったら、ぜひ、彼女に問いたい。
 なぜ、自分を恨んでいるのか、と。
 それを問わないまま、ここを逃げたくはない。
 大箱は待ちました。待ちくたびれて、いつしか、うとうとと寝入っていました。夢のなかに、安蛇子が現れました。夢のなかの彼女は、大箱に女同士の愉悦を教えた淫蕩な安蛇子ではなく、貝合わせや双六が好きで、大箱と一緒に笑いさざめきながらそれらの遊技を楽しんだ、無邪気な少女でした。
 わたくしね……。
 そういえば、こんなことを安蛇子さんに言われたことがあったな……。
 大箱ちゃんのこと、大好きだけど、たまに嫌いになるの。
 なぜ?
 だって大箱ちゃん、いい子すぎるんだもの。
 嘘よ……。大箱はそう言おうとして、思うように口が動かきません。
 みんな、安蛇子ちゃんはいい子だ、かわいい子だって、大人気だよ。わたくしみたいな田舎娘とは違うわ。
 必死に舌を動かしましたが、それは声にはならず、ただ胸の裡の呟きになるだけ。
 そして安蛇子は、大箱に背を向けて歩き始めたのです。
 待って!
 大箱は叫びました。
 どうして。なぜそんなに、わたくしを嫌うの? 寂しいよう……。
「貴様!」
 不意に、大箱を夢から現実に戻したのは、彼女の頭髪を掴んで引き起こした、甲冑に身を固めた五十男でした。
 弔問の席で目にした、佐渡目代の坂根久影です。
「貴様一人なのか! 他の女どもはどうした!」
 大箱を乱暴にゆすぶって怒鳴る久影の背後に、夥しい軍勢が見えました。軍兵に混じって安蛇子の姿が、大箱の眼に映りました。

「なぜ、逃げなかったの?」
 目代屋敷の牢内で、節柴が訊ねました。
「わたくしにまかせるように、言ったはずでしょ?」
「ええと……」
 大箱は頭をかいて、うなだれました。
「話すと長いのですが……」
 その日の早朝、目代の久影が別天地に偵察隊を送って探らせたところ、女が一人居眠りしているだけで、もぬけのからと報告が帰ってきました。まさかと思って目代屋敷の百余の兵を率いて押し寄せてみたら、そのとおりだったので、とりあえず大箱を捕虜にして、屋敷に引っ立てました。
 その後、折滝の節柴屋敷に兵を送り、節柴を逮捕、大箱と同じ牢獄に入れたのです。
「そうなの……」
 大箱の述懐を聞き終えて、節柴は頷きました。
「大箱さん。あなたはまだ、安蛇子というひとのことが好きなのではないですか?」
 そう問われて大箱は戸惑いました。
 好きなのかなあ……?
 正直、大箱にもよく分かりません。でもひょっとしたら……。
 松枝村で、阿慶が死んだとき以来、力寿さんと会話をかわせなくなったのは、阿慶と安蛇子さんが、どこか似ていたからかもしれない。
 そもそも、阿慶から愛撫され、つい惹きこまれそうになったのは、安蛇子を失った寂しさからじゃなかったのかな……?
「ごめんなさいね」
 節柴の声がしました。
「あなたを傷つけるつもりはなかったのに……」
 いつしか大箱は、ひっくひっくと肩を揺らして泣いていました。自分が泣いている事に気づいて狼狽した大箱は、
「あれ、変だな」
 と言いながら笑みを作ろうとして、結局、こらえきれずに号泣してしまうのでした。
 翌日、目代屋敷で形式的な裁判が行われ、節柴と大箱は、公開処刑となりました。十字架にかけられて、磔(はりつけ)の刑です。
「最期に何か望みがあるか?」
 目代の久影にそう問われ、節柴は「ありません」と答えましたが、大箱は、
「安蛇子さんにひとめお会いしたいんです。お願いです!」
 と答えました。久影は狼狽し、
「誰じゃそれは。わしは知らぬぞ」
 と吐き捨てるように言い、会わせてください一目でいいんです、と号泣しつつ懇願する大箱を尻目に、
「裁判はこれまで。こいつらは牢に入れておけ」
 と、奥座敷に引っ込むと、そこには安蛇子が待っていました。
 久影は安蛇子を見るなり、
「大箱は、最期にお前に会いたいそうだ」
 と向かい合ってあぐらをかき、安蛇子の手を取って己が股間に近づけ、探るような目つきで言いました。
「会わせてやってもよいぞ。この度は、お前のおかげで、息子の仇を打つことができるのだからな」
「話すことはありません」
 久影の股間を袴の上から愛撫しつつ、安蛇子はそっけなく答えました。
「わたくしが望むのは、大箱が、なるべくむごたらしく死ぬことです」
「牛裂き、車裂きも考えたが、今回の件では磔が精一杯だ」
「それは、分かっております。むごたらしいとは、どうやって殺すかではありません。どんな状況で死を迎えるか、です」
「というと?」
「節柴や大箱は、女だけの別天地という妄想に取り憑かれ、本来、男と女が役割分担をして動かしていくべき世界を、変えてしまおうとしました。彼女らの最大の罪は、それです」
「確かに、そうだ」
 久影は苦々しげに言いました。
「不届き極まる。女にある程度の役目を与えることはともかく、女が中心の社会など、あってはならんこと。梁山泊とて同じだ」
「そう。あの節柴が作ろうとした別天地を、土足で踏みにじり、叩き潰さねばなりません。あの女たちは、自分の理想が崩壊していくのを目の当たりにして、惨めな思いで死んでいくべきなんです」
「確かに、それは息子にとっても本望だろう。頭の高い女どもを抑えるべく、あやつが結成したのが女特会だ。越後にとどまらず、全国組織に成長しそうな時だっただけに、残念でならん」
 落涙する久影の陰茎を手で慰めつつ、安蛇子は続けました。
「その女特会にも、一役買って貰いましょう」

 死刑執行は、十日後に行われることになりました。執行場所に選ばれたのは、節柴が築いた「女だけの別天地」です。
 当日、「別天地」の広場に、十字架が二本並べて立てられ、節柴と大箱がそれぞれ、両手を丁字に広げた形で縛り付けられました。
 十字架の周囲では、百数十人の男たちが集まっていました。越後のみならず、越前や信濃、甲斐、山城(京都府)、上野(こうずけ、群馬県)、近江など、近隣からも集まってきた「女の特権を許さない男たちの会」の会員たちです。
「それ見たことか!」
「女は、男に従うもんだ!」
「男をないがしろにしようとする女は、こういう末路を迎えるんだ!」
「こいつらの屍を市(いち)にさらせ! 女たちに、男女のあり方の真理を教えてやるんだ!」
 思い思いに罵声を浴びせながら、男たちは、手にした木槌(きづち)や棒で、別天地に住んでいた女たちの宿所や仕事場、牧場の柵などを片っ端から打ち壊していました。貧しい農民もいれば、遊び人ふうの者もおり、高価そうな衣装に身を包んだ地方公家や武士もいます。
 執行場所の外は、数百の軍兵で囲まれていました。衣手たちが死刑囚を奪い返しに来た時に備えて、安蛇子の勧めを聞き入れた久影が、越後守護代の応援を頼んだのです。
 物々しい警備に囲まれたなか、節柴が営々として築いてきた「別天地」は、見る影もなく破壊され、聞くに堪えない罵倒で満ちあふれました。群衆からやや離れて演檀が汲まれ、目代の坂根久影が左右に側近を従え中央にどっかと坐って、にやにやと眺めています。
 大箱はうつろな眼で、広場を見廻していました。
 いないかな、安蛇子さん……。
 あなただって女でしょ。いくらわたくしが憎いからって、こんな下劣な連中を許せるの?
 ふと、大箱の眼に、演壇の久影の斜め後ろに立つ一人の女が映りました。
「安蛇子さんだ!」
 大箱の眼が大きく見開かれ、涙が溢れ出しました。大箱は大声で叫びました。
「お願いします! 演壇にいらっしゃる女のひとと、最期にお話ししたいんです! ここに連れてきてください!」
 男たちはどっと笑いました。
「お前にそんな権利はない!」
「女に遺言なんぞ、贅沢だ!」
「黙って、死ね!」
 安蛇子を凝視する大箱の眼差しに、演壇上の安蛇子は気づきました。その唇が歪み、やがて嘲るような笑みになり、そして声が発せられました。
「ざまあみろ!」
 その叫びは、男達の罵声に阻まれて、大箱までは聞こえませんでしたが、それでも、大箱は理解したのです。
 今の安蛇子には、憎しみしかない。わたくしの惨めな死を見ることしか望んでいない。
 それで、いいの?
 わたくしが死んだ後、あなたはどうやって生きていくの?
 憎しみだけを抱えて……。
「大箱さん」
 隣の十字架で、節柴が声を発しました。首を曲げて、隣の十字架を見やった大箱に節柴は、男たちが「別天地」に乱暴狼藉を加えているにもかかわらず、不思議と落ち着いた面差しで言いました。
「わたくしは、絶望していません。ここが潰されても梁山泊があります。衣手さんや、黒姫さん、女鬼さん、今板額さん、この別天地に触れた方々が、わたくしの遺志を継いでくださるものと信じていますからね」
「わたくしも、それは疑いません。ただ……」
 顔じゅうを涙で濡らしながら、大箱はしゃくりあげました。
「なんだか、安蛇子さんが……」
「安蛇子さんが?」
「かわいそうで……」
 節柴は目を丸くして大箱を凝視していましたが、やがて微笑みとともに呟きました。
 あなたを巻き込んでしまった事を、今ほど後悔してることはないわ……。
「そろそろ、はじめるぞ!」
 ホラ貝が鳴らされ、群衆が口を閉ざした時、演壇では目代の坂根久影が立ち上がりました。手に薙刀を二本、持っております。
「誰か! この薙刀でこの女どもを突き殺したい者はいるか? いれば名乗り出よ!」
 群衆はわっと手をあげ、わしがやります、俺がやります、と口々に喚きました。久影は、薙刀を群衆に投げ入れました。群衆は争うように薙刀を奪い合い、怪我人まで出るしまつ。すったもんだの末に、二人の男が薙刀を奪い、十字架に向かって走り出しました。
「殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
 罵声は合唱のようにうねりを持って拡がるなか、男たちは薙刀の鞘(さや)を払い、それぞれ刃を節柴と大箱に向けて構えたその時。
「ぎゃっ!」
「ぐえっ!」
 二人の男は棒立ちになりました。二人の股間には、それぞれ、小太刀(こだち)が突き刺さっていたのです。小太刀は、一人の男根を切り落とし、一人の陰嚢を切り裂きました。
「ぎゃああああああ!!!!!」
 己が股間の状態を見た二人は、絶望的な悲鳴をあげ、血を噴く股間を押さえて七転八倒しはじめました。
「誰だ!」
「誰の仕業だ!」
 演壇の目代や女特会の男たちが、きょろきょろと周囲を見回しましていると、
「あたいは、ここだよ!」
 との叫けび声がしました。
 見ると、広場の背後の山から、身の丈六尺の大女が駆け下りています。その左右の手には、巨大な鉄斧が握られていました。
「力寿さん!」
 大箱は、眼を見開いて叫びました。
 力寿は大箱に向かって大きく手を振り、走りながら叫びました。
「大箱さぁん、あたい、こいつら皆殺しにしたいんだけど、いいかい?」
「いいわよ!」
 大箱も叫び返しました。
「絶対に許せないわ! 思う存分、叩きのめしてやって!」
「あいよーー!!!」
 力寿は、広場を囲む柵を手斧の一撃で粉砕し、「女特会」の男たちのなかに斬り込みました。出会い頭に一人の男の睾丸を蹴り上げ、その左右の男の股間に手斧を打ち込んだ力寿は、群衆の間を縦横に駆け回り、その都度、多くの睾丸が破壊され、男たちは次々と苦悶の呻きや絶叫、悲鳴をあげて倒れました。
 恐れおののいた男たちが、逃げようと柵門に殺到すると、
「おっと、そうはいかないよ!」
 門を破って乱入したのは、黒姫、女鬼、今板額の三人。あっという間に、三人の男が股間を蹴り上げられて倒れました。たちまち広場は阿鼻叫喚と、睾丸を潰された男たちの悲鳴や呻き、嗚咽で満たされました。
「わ、わわわ……!」
 目代の久影が、演壇を駆け下りて逃げ出そうとすると、その前に立ちはだかったのは、衣手でした。
「逃がさないわ!」
 剣を一閃させると、久影を守っていた側近たちが、血を噴いて倒れました。恐怖のあまり尻餅をついた久影の股間に、衣手は足を打ち込み、踵で睾丸を踏み潰しました。
「ぐわぁぁぁぁ!!!!」
 ぶちっと音が響いて睾丸が一つ潰れ、久影は口から泡を吹いて仰向けに倒れました。白眼を剥いて痙攣する久影に唾をはきかけ、衣手は言い放ちました。
「まだ息の根は止めないわ。こんなひどい事をやる男は、ゆっくり嬲り殺しにするから、待ってなさい!」
 そう言い放って、ふと顔をあげた衣手の眼に、演壇の上にただ一人、広場の惨状を凝視している美女の姿が映りました。
 安蛇子です。
「お前が、例の女か!」
 衣手は剣を抜いて、演壇を駆けあがりました。
「悪女め! 成敗してあげる!」
 と斬りかかると、安蛇子はさっと身をかわし、腰に帯びた自らの剣を抜いて、逆襲してきました。衣手、それを剣で受け止め、さらに打ち込みますが、安蛇子もひけを取りません。まったく対等に切り結びます。
「やるわね!」
 衣手は、笑みを浮かべて言いました。安蛇子は無言で攻撃を続け、次第に衣手は劣勢になっていきました。
「姉さん、危ない!」
 気づいた黒姫、女鬼、今板額が、演壇を駆け上がりました。四対一になったわけです。
 驚いたことに、安蛇子は四人を相手に、互角に切り結んで、まったく退きません。
「安蛇子さん、何時の間に……」
 十字架上にかけられた大箱は、演壇を見つめて呟きました。
「あんなに、強かったなんて、知らなかったわ」
 その頃、別天地の柵の外で警備していた守護代の軍勢が、内部の異変に気づき、「それ、助けよ!」とばかり、柵の内に突入しようとしました。そこに一人、立ちはだかった女がいました。
 雲間隠(くもまがくれ)の龍子(たつこ)です。
 龍子が呪文を唱えると、たちまち砂塵が舞い上がり、突風が軍兵たちに吹きつけました。軍兵たちは目を開けていることもできず、風に押され、とうとう遠くに追いやられてしまいました。
 そして龍子の背後では、百数十人の「女特会」の男たちが、ことごとく睾丸を破壊され、断末魔の激痛のなかでのたうちまわり、あるいはすでに絶命していたのです。
 ただ、演壇の上でだけ、安蛇子と、衣手ら四人の太刀合いが、延々と繰り広げられていたのでした。
「大箱さん!」
 力寿は「女特会」を全滅させたことを確かめ、節柴と大箱を十字架から下ろしました。
「力寿さん、ありがとう!」
 大箱は、力寿に抱きつきました。
「ごめんね! わたくしあなたに、ひどい事しちゃった……なのに……」
「気にしてないから」
 力寿は、にこにこして言いました。それから節柴の前に膝をつき、
「梁山泊から参りました。ここの女のひとたちは、みな無事に梁山泊に迎え入れました。急いで救援に駆けつけたつもりですが、ぎりぎりになっちまって申し訳ありません」
「ありがとうございます」
 節柴は頭を下げました。力寿は続けました。
「節柴さんも、大箱さんも、梁山泊に来てくださいますよね?」
「そうね……」
 節柴は周囲を見廻し、男たちによって破壊しつくされた「別天地」と、その男たちが断末魔の苦悶のなかで七転八倒しているさまを見やり、淋しげに呟きました。
「もうここには、いられませんね……」
 ひとしずくこぼれた涙に、大箱は胸がしめつけられるようでした。力寿もまた、一瞬、切ない面差しになりましたが、すぐに気を取り直し、安蛇子と衣手ら四人の女たちが延々と戦いを繰り広げつづけている演壇に向かって、
「おおい!」
 と呼びかけました。
「後は、あんたたちだけなんだけど、まだ終わらないのかい?」
「だめ!」
 衣手が、息を切らせながら言いました。
「この女、強すぎるわ!」
「安蛇子さん!」
 大箱が演壇に駆け上り、叫びました。
「もう、やめて!」
 安蛇子は、現れた大箱を見ました。必死で何かを訴えようとする大箱の面差しに、安蛇子の剣先が、わずかに乱れたのです。
「くらえ!」
 その隙を衣手は見逃しませんでした。渾身の力で斬り込むと、その刃は安蛇子の左の手首を切断、切断された掌は宙を舞い、どさりと演壇に落ちました。
 安蛇子は絶叫し、右手で血を噴く左手首を抑え、演壇から飛び降りました。
「安蛇子さん!」
 演壇から見下ろして叫ぶ大箱に、腕を切られながらも見事に着地した安蛇子は、ぞっとするほど冷たい眼差しを投げかけ、くるりと背を向けて走り出しました。
 演壇にいた、衣手はじめ、四人の女武芸者たちですら、追うことを忘れてしまうほど、見事な身のこなしで、安蛇子は柵門を走り抜け、あっという間に姿を消したのでありました。(七編・了)


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